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  • ハッシュタグ「#ドロシー師」の検索結果43件

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車上荒らしの被害に遭って

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車上荒らしの被害に遭って

日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第15回目は、車上荒らしの試練に遭ったことについてです。






解雇、強奪、それでも継続した友情


私の弟はロサンゼルス郊外に住んでいました。

私が仕えていた開拓教会はレドンドビーチにありましたし、ロサンゼルス東側にあるチャーチオブゴッドの教会にも友人がいました。

弟の家に引っ越す前に、私は全ての荷物を自分の車に詰め込むと友人とかなりの時間をともに過ごすべく計画しました。それから毎月行われている貧困街での給食ミッションの働きにそのまま出かけたのでした。

そこでは東ロサンゼルスの教会とレドンドビーチ開拓教会もまた共に働きを担っていました。
その働きの最中に私の車は車上荒らしに合い、強盗らは一切合切、車内をきれいにしていったのです。警察署に行ってそのことをレポートしましたが、荷物が戻る可能性はほとんどないと言われました。なんといっても貧困街での事件ですから。

友人との一夜を過ごした後、必要なもののいくつかを借りる事が出来ました。
あのお金持ちのメイドの仕事を解雇されてすっからかんとなってから、私は神様の恵み深い備えを理解し始めました。

弟の家への途上、私がおさげの幼い時から私のために祈ってくれていた年配の友人を訪ねるため立ち寄りました。彼女の祈りは、神の御座にまで届く力強いものです。

彼女は主を褒めたたえ、盗まれた全てのものは戻ってくる、と私に確信を与えてくれました。
その後、弟の家に到着しました。

彼の奥さんと私は、私のための必要最小限のものや裁縫のための生地を求めて買い物に出かけたのです。私の自由時間を満たそうとする神さまの計画はすでに進行中だったのです。私はその弟の家を拠点にしてユースグループを手伝ったり、レドンドビーチ教会での夏期聖書学校やクインシー・イリノイ・キャンプミーティングに参加しました。

ミシンに向かって忙しくしていた頃でした。警察署から電話があって私の持ち物が見つかったことを知らせて来ました。そして彼らが調べ上げた結果、私が作成した所持品リストからは何も失われたものはなかったのです。

私はその時にハレルヤと叫んだかどうか、今もって思い出せないのですが、私の義理の妹はその時のことを全て覚えていらっしゃいます。すぐに警察署にまで出かけてみると、すべての荷物は、まだ誰も触れられていないことがわかりました。

強盗らがそれらの荷物を盗み出して直後、レストラン近くにあるゴミ集積所の後ろ側に隠したのです。おそらく後にやってきて回収しようと考えたのでしょう。しかしそこで働く従業員が先にそれを発見して警察に知らせました。私は今や必要以上の生活必需品を持つこととなったのでした。



自由に奉仕をして



クインシーキャンプに最初に参加して以降、私は毎年そのキャンプを欠かさないようになりました。やがてチャーチオブゴッド教会に深く関わるようになると「グッドウエイ」という教団機関紙の青年編集人を任せられる事になったのです。そこでは宣教師物語を書く大変良い機会に恵まれました。


#ドロシー師

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職場を転々として

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職場を転々として 職場を転々として


日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第14回目は、臨時雇いの仕事を転々とした場面です。





ユダヤ人の家族にイエス様を証して




あるユダヤ人家庭でイエス様のことをお証することがしばらくの間できたのは喜びでした。

父親は外科医で、子供たちは土曜日の安息日にはユダヤ教シナゴーグに通います。
家族で年取ったおばあさまだけがかなりの正統派でした。

彼女はほとんどの時間を部屋で過ごします。毎週金曜日の夜になるとろうそくに明かりが灯され、彼女がひとり儀式を守っていることがわかりました。

他の家族たちは彼らが好きなことを自由にしていました。二人のお嬢さんたちは両親とともに断食をする事にして、金曜の日没から土曜の日出までの安息日に断食をしていました。

彼らはその断食の前か後にはとても盛大なご馳走を楽しんでいましたが、コーシャや食物規定には何もとらわれてはいませんでした。

料理担当の私としてはそんな彼らの非正統的な食事作りにも関わっていたのです。
ひとりのお嬢さんは、イエス様に関するエッセイを書くのを手伝ってくれるようにと願ってきました。

私は彼らとともにシナゴーグにも通いました。



それからお金持ちの家で



次なる私の臨時仕事は、ある歳を召されたご夫妻の家で働くことでした。

ご主人はビバリーヒルズのサンセット通りにある高級レストランのオーナーでした。
彼女の奥さんは毎日介護が必要な人です。

彼はレストランから食事を運んでいました。私の仕事は簡単な家事一般で、住まいとしてはガレージに隣接した快適な家具付きの借家を充てがわれました。
教会にも自由に行くことが許されました。

夏が近づいた頃、私は再びイエローストーンのレイクホテルでのパストリー料理主任の仕事を申し込みました。その頃奥様の健康状態がかなり悪化していたため、彼は私にその申し込みをキャンセルして継続して滞在してくれるようにと求めてきました。

彼は、その快適な借家に続けて私が滞在できること、そしてかなりの自由時間が与えられ好きなことに使って良いことを約束してくれました。その病の奥様を気の毒に思うところから、私は滞在することにしたのでした。

やがて奥様は亡くなり彼がひとりとなったとき、私が到底同意できないことを彼は求めて来たのです。すると、私は直ちに解雇されることになったのです。

「もうあなたは去っていいよ」と彼は言ってきました。
「いつからでしょうか」と聞くと、「明日から」と答えてくれました。
#ドロシー師

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イエローストーン国立公園にて

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錦の隣の紀伊長島と言うところで... 錦の隣の紀伊長島と言うところで朝祷会に参加しました。 イエローストーン国立公園にて


日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第13回目は新たな職場としてイエローストーン国立公園に移ったことです。









イエローストーン国立公園にて



病院の菓子コックからホテルの菓子コックへ


町立病院にあっては多くの証する機会が与えられました。
職場の同僚たちは伝道集会にも喜んで私と一緒に参加してくれましたし、ある人々は心の問題も打ち明けてくれました。

かつて宣教師でもあった聖書学校の校長がよく言っていた言葉です。
「宣教師に召されているかどうかを判定するには、今あなたが置かれているところでそれを行っているかどうかで明確です」

町立病院で働くのは満足できるものでしたけれど、多分チャレンジできるものがなかったからでしょう。私は新たな働き場に転職したい思いに駆られ始めていました。

その思いに駆られるようにして私は有名なイエローストーン国立公園での職場に応募しました。
すべての病院職員は退職するにあたり、少なくても二週間前にはその要望書を提出せねばなりません。

要望書なしにクビにされる事はあり得ても、要望書を提出しないままで辞任することは許されなかったのです。私は早めに申請しました。その私の申請は思わぬ時間がかかったのです。時間はなくなり始めました。ついにある月曜日、辞任を告げるためにオフィスに行く日が来たのです。

日曜日は主と交わり、そして主から導きをいただく大切な日です。
私は王妃エステルに想いを重ねていました。

私は常日頃、王妃エステルとその勇気に感謝していました。
「私が死なねばならないなら死にます。生きねばならないなら生きます」

月曜日になってオフィスに行ってみると、私の上司が即、聞いてきました。
「もう次の仕事は見つけたのですか」
「いいえ、まだです」と私は正直に答えました。

ちょうど次の日になってイエローストーンに提出していた私の申請書が認められたのです。
私にあてがわれた部署は、レイクホテルのパーティスト料理の補助と言うものです。
そのホテルは700人ほどの人々を宿泊出来る巨大なものでした。

新しい仕事場に到着した時、拒絶に面食らうことになります。
パストリー料理のトップはドイツ人でしたが、彼は女性とは共に仕事をしないとシェフに告げていました。そこで私はサラダとサンドイッチの部署に廻されたのです。

やがてそのドイツ人パストリー料理長はシェフと揉め事を起こし、まもなく解雇されました。
次のパストリー料理長はロサンゼルスのオフィスから送られて来ましたが、どうもドヤ街出身のような方でした。

彼は最初の給料でとんだ所へ行ってしまい、そして仕事場には現れませんでした。
そのため私は休日にも関わらず朝方に呼び出されて、彼の代わりを務めねばなりませんでした。

私はシェフに言いました。
「自分に四人ほどの真面目な学生さんをヘルパーとして与えてくれたら仕事は完璧にやり遂げます」。そこで私はパストリー料理長に任命されたのです。

私には数人の男子学生があてがわれました。
私はボスになれるタイプではないと、学生たちに伝えておきました。

私たちは皆でパンやケーキやロールを一緒になって作り、また一緒になって皿洗いや掃除をしたのです。とっても良い夏を過ごすことができました。実に充実した時となったのです。


日曜日が私の休日として与えられたのは奇跡のようなものです。
礼拝のための場所は、神様が備えられた偉大な野外です。

そこにはクッション付きのベンチはなく、ただ粗末に斬られた丸太が転がっているだけでした。
それでも私にはイエス様がかつて野外で説教された時の状況と重なるように感じました。

私のルームメイトはミネソタから来られた素敵な女性でした。私たちは生涯の友となりました。彼女はやがてカルフォルニアにいる私をわざわざ訪ねてくれたし、彼女とは長い間文通を重ねました。彼女がやがて天に召されると、その娘さんと毎年クリスマスカードを交換しあっています。



人生に楽はなし



ホテル従業員にはあらゆるタイプの人々がいました。

私には全世界が提供できるすべてのタイプの人々と会えたように思えました。
私はその人たちをこんなふうに区分けしたのです。「とても良い人達」、「普通の人達」、「あまり良くない人達」そして残りが「それ以外の人達」という具合です。


クリスチャンホームと教会の守りから離れて、私はキリストとともに誘惑に直面することを学びました。このキリストこそ既に罪と地獄、そして死からも勝利されたお方です。

高給とまた気前良いボーナス故に、その頃の私は1年のうち3ヶ月だけ働けば十分に生活できるほどでした。そういう現実ではありますが、スキルを維持するためにはこの業種で少なくともパートタイムで働いた方が良いでしょう。

イエローストーン国立公園から兄の家族のいるワシントン州に行きました。
そこでは私に見合う仕事が見つからなかったので、南カルフォルニアの弟の家庭にその後移ったのです。そこでは少なくもメイドの仕事を見つけることができました。
#ドロシー師

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校長からの一撃

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錦教会では音楽の賜物の豊かな方... 錦教会では音楽の賜物の豊かな方が多く強力なコーラス隊が結成されました 毎年クリスマスコンサートには町... 毎年クリスマスコンサートには町内の大きな会場借りて開かれます



日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第10回目は、ドロシー先生の高校生時代の様子です。



Nutshell(凝縮された)説教

私にはある日、校長室にまで呼び出された鮮明な記憶があります。
南コロラドを訪問してきた一人のクラスメイトが、黒いマツのナッツを持ってきて私たちに食べさせてくれました。

私たち皆はホームルームの時間中、それをかじってはさやを床に落としたままにしておいたのです。私たちがなぜそんなことをしたのか覚えていません。

そんな楽しい妙技とも言えるような時間を過ごしていた時、校長先生が教室に入って来ました。教室のモニター係が彼に知らせたのではないかと私は考えているんですが。

彼はほんの短い時間見渡してから、これをしたの誰だ、と床に落ちているさやを指差して聞いて来ました。その場に居合わせた女生徒は私一人だけで、私がしたことを認めざるを得ませんでした。後でもう一人の女生徒も告白しました。

私は自分の誤った行為に加えてその過ちを否定すると言う罪まで犯したくなかったのです。
幾人かの男子生徒も正直に告白しました。そして彼らは散らかしたものを掃除するようにと言い付けられたのです。そして二人の女生徒に対しては放課後に校長室まで来るようにと言われました。

私としてはむしろ掃除する仕事の方を選びたかったのですが。
校長室に入って先生の最初の言葉は私たちの恐れを取り去るに十分過ぎるものでした。

「女子生徒で貴女方二人だけがあれをしたものでないことは分かっています。お二人の正直さに感謝しています」と言ってくださったのです。

ところが彼の第二言は矢のように私を貫きました。
「これは貴女方のお母様方にもお伝えしておきます」

この言葉はまるですべての説教を一粒のナッツに詰め込んだようなインパクトのあるものでした。
言わば、Nutshell(凝縮された)説教でした。
その後彼が何かを言っていたかもしれませんが、私はからっきし覚えていないのです。

さて私どもの家族についてです。

私ども家族は想定外の境遇によって二回も経済的にはゼロのところまで追いやられたのですが、働き者の父と優れた管理者である母によって助けられてきました。

子供たちを私立の教会附属学校に通わせるのは経済的負担が大きかったでしょうが、両親は私たちがクリスチャンの環境で教育されることを望んだのでした。

その後の大学進学や専門学校への進学は、子供らそれぞれ個人の決意に関わることです。
その時代は夢に溢れている若い子達のための働き場が多く残されていました。


宣教師の影響


学校を時に訪問してくる宣教師とその彼らの働きについては深い印象を受けました。
私どもの校長はかつて外国で宣教師として仕えたこともある人です。

私どもの学校は元々、主に仕えるために有益となる若い人達に訓練を施す目的で設立されたものでした。その召しに最高度に応えるために彼ら自身が献身する機会となる幾つものプロジェクトが生徒たちには与えられていました。

私の心はやがて開かれて、世界をめぐる広い必要に応えたいと言う気持ちでいっぱいと成って行きました。

「世界にはまだ一度も福音を聞いたことのない何百万人という人々がいる一方で、福音を二度も聞く権利は誰も持っていないはずです」
こんなスローガンが学内で何度か聞かれるようにもなりました。

母はまた私があまりに多くの宣教師の報告会や説教者の影響を強く受けただけなのだと思っていたようです。しかしそれでも彼女のこの考えが私の初心をくじけさせることはなかったのでした。

卒業後、私はメイドとしての働きを始めるとクリスチャンカレッジで学ぶための費用を蓄え始めたのです。

私のメイドとしての経験は有益なものとなりました。それは学び直すという体験を与えてくれたと言っていい価値高いものです。

私のやり方でもなく、母のやり方でもなく、雇用主が好むやり方に従わなくてはならないことを学んだのでした。

私の召しはアフリカにあると感じました。私の町には多くのアフリカ系アメリカ人が住んでいたのです。短く突っ立ったブライダルヘアーを色とりどりのリボンで結び合わせたとても可愛らしい子供たちを目にしました。

私はその人たちが集う小さな教会に足しげく出席しました。
彼らの賛美スタイルが大変気に入ったのです。

私どもの大きな街にあるメソジスト教会もまたアフリカ系の方々がお集いになっています。 そこには偉大なコワイヤーがありまして、彼らはまるで燃え立つかのような力ある賛美をするのです。


#ドロシー師

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「ガリラヤの漁師に」

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カペナウム... カペナウム イエス時代のカペナウム会堂の土... イエス時代のカペナウム会堂の土台
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージ・ノートです。



「ガリラヤの漁師に」


マタイの福音書 4章12~22節


"イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。
そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。
これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」
この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。
イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。
イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。
彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。"




⑴召命の漸進さ


①突然に思える召命の背後にも漸進性がある
初期ユダヤ伝道 ヨハネ1:40-42
初期ガリラヤ伝道 ヨハネ2:1-12
カペナウム伝道 ルカ4:31-39

②イエスと弟子との間のコミニケーション成立の上での転機となった出来事
その当日の大漁の奇蹟 ルカ5:1-11


⑵預言の確かさ


①イザヤ9:1-2の成就
700年以上も前に預言された「暗闇」「死と陰の地に座っていた」ガリラヤの民
「異邦人」〜アッシリア侵入

②「光が照った」
光とはイエスの宣教であり、イエスご自身
未来預言形の動詞時制に注目


⑶摂理の不思議さ


①「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
それは千年王国であり、結果としてカペナウムそしてユダヤ全体からは取り去られることになる。
イザヤ時代に「光」が到来しなかったことと同様

②その「ヨミにまで投げ落とされる」カペナウム(マタイ11:23)町からペテロやアンデレが弟子として召された。
「わたしについてきなさい。あなた方を人間をとる漁師にしてあげよう」
聖書学者や祭司などの特権階級ではなく一介の平民の漁師に白羽の矢が立てられている。


(結論)


摂理の生涯があり主の声を聞いた故に私たちはここにいる。そのことを自覚した上で主の招きの声を今一度聞いてみよう。
#ドロシー師

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隠し切る事は出来ない事

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隠し切る事は出来ない事 隠し切る事は出来ない事 隠し切る事は出来ない事





日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第九回目は、サイクロンで破壊された家を再建する過程。ついに彼らのドリームハウスが完成するのです。






ドリームハウス




その手紙を母が書いたのは1932年6月20日の事でしたが、それまでに彼女が庭園に植えていた多くの野菜はひどく被害を受けました。

多くの地元の大工さんや職人さん達はボランティアで働いてくれたのです。
そんなこともあってまもなくすると、家を再建しようとの気力も出て来ました。

皆はとても協力的でした。いや、ほとんどの人達は、と言っておくべきでしょう。
あるご近所の方は、その空き家を私どもに借家として貸し出そうとしたのです。

母は憤慨していました。彼女にとって借家のためにお金を捨てるような事はあり得ません。
そのかわりにすでに夏となっていましたから、外でキャンプ生活をするにはもってこいですよね。

その借家の家は数ヶ月間も住む人なく空き家のままでした。

黙示録の大患難時代の到来を固く信じている母にとって、この時は感動的な期間でもあったのです。母はその手紙を閉じるにあたり、こんな映えある言葉を選んだのです。

「すべての雲には銀の裏地がある」
(キリストの再臨時には栄光の銀色に光る雲に包まれてキリストが地上に来られることからの表現)

秋までには私どもの頭上になんとか屋根のある家屋に移りたかったのです。
家自体はまだ完成していなかったのですが、とにかく私どもは荷物を多く抱えてました。

母のドリームハウスは石作りか、または漆喰作りとなるはずです。

建築業者は屋根板を使うようにとアドバイスしてくれました。それが町には沢山在庫としてあったのです。

それらは断熱に優れた上に、あの嵐からわずかの被害しか受けてなくて再使用するのになんら問題はありませんでした。母はその提案を受けることにしました。

仮の宿程度でしたが、何とか住める体裁は整ったようです。
それから幾年かの後、私どもはリモデルを行いました。

バイクピーク山とその周囲の山々の山容が見事に見えた大きな窓は取り去られて、小さなエコノミーサイズのものに取って変えられたのでした。

"私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。
私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。"
(詩篇 121篇1~2節)

その家は漆喰作りのものとなりました。
こうして母のドリームハウスはついに現実となって行ったのでした。




本からは学び得ないレッスン





母の最も好きな歌の歌詞には次ようなものがありました。

「あなたは間違った方法でそれを得ることはできない。
あなたがどんなに一生懸命に努力しようとも。
すべてを隠し切る事は出来ない。
神様はすべての事をご覧になっておられる。
あなたは間違った方法でそれを得ることはできない。」

母は自分自身の直感に対しては、二倍の分け前(特別な能力の意味)を引き継いだように思える人でした。
教会付属の高校生だった兄はある時、友人と一緒に学校を抜け出しては映画館へ行ったのでした。

学校からの電話によって兄の欠席が伝えられました。
すると母は地元の映画館のチケット窓口まで行って館内に入る許可を求めたのです。

彼女は息子がそこにいるような気がしたので、ただチェックしたかったのです。
たちまち彼女は兄のいるところを見つけ出すと、彼のすぐそばまでやってきました。

が、掴み出す事はしなかったようです。どのようにして彼女がその場を解決へと至らせたのかは覚えていません。ただ私は自分では兄のようなことを決してしまい、と決意しました。

母を相手に隠れることは出来ないと思い知らされた事件でした。
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「主は与え、主は取られる」

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「人生は80歳から始まる」 「人生は80歳から始まる」 88年のクリスマス特別賛美集会... 88年のクリスマス特別賛美集会の音楽ゲストに山形県から大内秀子先生をお招きしました。 日曜礼拝後のポトラック愛餐会に... 日曜礼拝後のポトラック愛餐会にて。 敬愛する教会の方々 敬愛する教会の方々 「主は与え、主は取られる」 「主は与え、主は取られる」




日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第八回目は、サイクロンでドロシー先生のご家族の住む家が破壊された悲劇についてです。










サイクロンによって破壊された夢


広めの角の土地に建てられた小さいけれども私たちの白い家、父の奇跡的完全な健康の回復、大恐慌で最悪となった失業者数の時代にあって、私たち三人は教会付属学校で有意義な教育を受けることが出来たのです。

母とフォード車は再び忙しくミニストリーのために走り回るようになりました。
これ以上、私たちは何を望み得るでしょうか。

卒業間近となった時です。兄は卒業式用の真新しいスーツを素晴らしく仕上げてもらい、とても華やいで見えました。私どもは皆、期末試験のために忙しくしながらも目前となった夏休みを楽しみとしていたのです。

そんな時でした。突然の嵐が私どもの生活を一変させることとなったのです。

通常の西風にしてはだいぶ様子が違うようには感じました。
午後となって、私どもの小さな白い家が嵐によって完璧に破壊されたとの電話連絡を受けました。サイクロンよるものです。

私の母は無事でした。
私は学校からその壊滅的な現場に戻るまで、何が起こっているのかを全く把握できないままでした。

かつて私どもの家が立っていたその場所を見て、まるで悪夢を見ているのかと疑ったのです。

そして母は新聞記者たちやご近所さん、また多くの知り合いや見たこともない人々の中に囲まれて立っていました。彼女の目には涙が浮かんでいましたが、その声はハリのある勝利者のものであったと言って良いでしょう。

彼女は私の肩に腕をかけると言いました。
「シス(これは私のニックネーム)、今やこれが私たちの状態ですよ」

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」
(ヨブ1章21節)

すでにその時、彼女は新聞記者たちにこの聖書のお言葉を語っていました。
その彼女の証言は、翌日の新聞のヘッドラインを飾ったのでした。

彼女が後日、その嵐と被害について書き送った家族への手紙の中ではこのようにも言っていました。

「さらにひどい被害にあったかもしれないことを考えると、私には主を賛美するたくさんの理由があるように思えてなりません」

その嵐の時、父は職場にいました。私ども三人の子供たちは学校にいて、母は嵐が襲う15分前に主の働きのためにフォード車で出発していたのです。

私ども家族と車は助かったのです。

完璧に破壊されたのは私どもの家だけでした。
しかし母の手紙の中の言葉によると、他の人々の家は私どもよりかなり大きくて良いものなので、失ったものも同様により大きなものとなったはずなのです。
#ドロシー師

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蛇の中身を洗濯機で絞り出すだなんて、ヒエッ〜

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「人生は80歳から始まる」 「人生は80歳から始まる」 開拓当初の旧会堂。川の対岸から... 開拓当初の旧会堂。川の対岸から。




日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第七回目は、かなりのおてんばだったドロシー先生の子供時代と新しい学校への入学の様子です。







救世軍の路傍伝道とアイススケート

毎週土曜夜は街へ繰り出して救世軍の路傍伝道に参加しました。彼らのユニホームやその帽子等はなかったのですが。

母は主のために公の場で証をするのを愛していました。
彼女はその路傍伝道を大変楽しんでいたし、私もまた同様に楽しみに待ち望んでいたのです。

ただ私にとり勇気を振り絞ってその務めを果たすのには大変長い時間がかかったし、その後は大変疲れもしました。タンバリンのあるブラスバンドは大変良いものとなりました。

冬になると兄弟たちと一緒に私は氷の上で良く遊びました。
シティーパークは広大なスケートリンクになったのです。

私を除いて兄弟たち二人は、とても達者なスケーターでした。

私はフィギアスケートはおろか後ろ向きに滑るなんてことはできなかったし、そんな私を見ていた兄弟たちは最終的に私を教えるの諦めたほどです。

前に進むことだって兄弟が私の手を取って一緒に滑ってくれなかったらおぼつかないものだったのですから。

それから幾日かが経ち、私が大学進学のために働いていたりして忙しかった時の事です。
弟が私を午後のスケートに誘ったのです。

それはお互いにとってまるで災難となりました。彼はそれ以後、二度と私を誘うことはありません。

翌日私は働くことがほとんどできなくなったのです。スケートからではなくて、氷の上にただ倒れ続けたことからくる筋肉痛によって。


完成しなかったプロジェクト


めったには無いことでしたが、短期間の母の留守の間は私たちにとり実験の機会となりました。
弟と私はいつもチームを組んだのですが、兄は関わろうとはしません。

ある時私たちは蛇の死骸を見つけたのです。ワニの革製のカバンや靴はあります。
では、蛇の皮のベルトってどうでしょう!

その作業工程は単純なものでした。
母の洗濯機についている手動式ハンドル絞り器にその蛇を通して中身を絞り出し、それから真っ二つに切り割いて皮の両面に塩を塗り込み、天日干しにするために切り裂いた側を表にして鋲で留めたのです。

それからどうなったのか?
実は、私は思い出せないのです。

私どものプロジェクトは完成しないままだったと、かすかに記憶していますが。

母のこれらの困った子供たちに対する対処方法は、時の問題が様々であるように様々に異なったものとなっていました。

その当時、児童心理学による硬直したルールなんていうものはなかったですしね。



無駄ではなかった聖書学校



母はやがて子供たちに充実した教育をしなければならないと感じるようになりました。

パイクス山の麓にある聖書学校では、小学校から高校までの教育を提供していると聞きつけたのです。

再び私たち皆は、それぞれのカバンをTモデルのフォード車に詰め込んで学校へ通うようになりました。しかし今回はそれまでの走行距離が大したものとなっていたので、だいぶくたびれたポンコツ車になっていたのですが。

そう言う訳で上り坂の途中では、降りて皆で押さねばならないことだってあったんです。

フォード車の最後の運命は、私たちを新しい天地であるコロラド・スプリングスに連れて行く事で終わったのです。

父は母が定住後、だいぶ落ち着いてから引っ越してきました。
母がほとんどのことを取り仕切ってくれました。

一体彼女はどうやってやりくりしたのか、からっきし覚えがないのですが、土地と小さな白い家を買うだけの蓄えをしていたのです。

その後の彼女の計画は次のようなものです。

新しく夢の家を建てることができた時に、それまで住んでいたその小さな白い家を二台収容可能のガレージに改造するというもの。

そのために借金することを彼女は考えなかったようです。

「借りるものは貸すもののしもべとなる」と信じ、
また借家住まいとは、お金を捨てるようなものだと考えていました。


彼女はテントのような家を設計し建て上げると、
私たちは小さな家が立ち上がるまでそこが仮住まいとなりました。

私どものその新しい家は街のはずれにあったにも関わらず、ご近所さんたちには恵まれました。

でもヤギは諦めねばなりませんでした。
現実のところ既にヤギは必要とはしなかったのです。

私たちの主は父に健康を与えてくださり、彼はリタイヤするまで食品販売の店で働くことができました。
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学芸会で汗したこと

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「人生は80歳から始まる」 「人生は80歳から始まる」 1988年、中部教区聖会。 講... 1988年、中部教区聖会。
講師は当時Immanuel名古屋教会牧師の竿代信和先生。

日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第六回目は、ドロシー先生のお母様がいかに伝道熱心であられたか、その当時の社会と学校生活の様子です。




母の伝道活動


母はフォード車でかなり広い地域にまで働き場を進めて行きました。
何人乗りの車であったのか覚えてないですが、彼女は多くの人々を教会に連れて来たのです。

多忙ながらも母は病人を助け、家庭訪問し、貧困者のための奉仕など多くの活動をしましたので牧師は彼女を伝道所の主事として任命したほどです。

しばらくしてその牧師は由々しい間違いを犯してしまったと言えるでしょう。
それは、彼女から働きの結果としての教勢報告を求めてしまった事でした。

「私は教会としての記録を高めるためにこれらの働きをしているのではありません」と母は応えていました。
彼女は、何よりも主ご自身に仕えているのですと、明白に語ったのです。

牧師はそれ以降彼女からレポートを求める事はありませんでした。
神様ご自身がレポートをお持ちです。

彼女とフォード車は協力しながら働きを進めていきました。

私は早い時期から固い床の上に寝る事を身に付けました。
と言うのは、母は私たちよりも貧しい人々を見つけてはよく家に招いたからです。

私たちの家はフォースター・ホームとなりました。
あるときはやせ細ったおじさんと彼の4人か5人ほどのこれまたやせ細ったお孫さん達が私どもの家族に加わりました。

彼らは誰もが皆、身なりを清潔にしてまた栄養も与えられる必要があったのです。
彼らは数週間の滞在で見違えるように変わりました。

あの時は家中が遊園地のような遊び場となって賑かとなったものです。

母のモットーは、「もし心の中に部屋があるなら、家の中にも部屋があるはず」と言うものです。

彼女が信じていたことは、制約されたチャリティー予算の中にあっても、神様が愛の方であると知るには充分であること、そして神様は人々が心と体とをきれいに保つ事を、向上心を持ち生産的であることを、自分たち自身の足で立つことを望んでおられる事などです。

彼女は、まさに人々が自立するのを助けたのです。

彼女にとって怠けるとは、実に犯罪のようなものです。
「怠け心は悪魔の作業所である」と彼女なら言ったことでしょう。

このモットーを幼い時から叩き込まれた私たち三人の子供らは、家事も分担させられました。
私は当時、じゃがいもの皮むきから決して卒業する時は来ないと悲観したものです。

母の教えは忘れることができません。

ポテトを剥くにも方法があると言うのです。
ポテトの中で最も栄養価の高い部分は皮のすぐ裏側にあります。

リンゴも皮をむいてはなりません。
神様が美しい赤色に仕上げてくださった部分だからです。

二人の兄弟は料理の腕をあげました。
特に弟はビスケット作りがとても上手で、学校ではAプラスの成績を取って来ました。

彼とその友人は勇敢にも高等学校時には料理教室に加入しました。
女生徒の中でのたった二人の男子生徒です。

ビスケット作りで弟が最優秀賞をとったときには、女生徒らは皆で彼を仲間外れにしたものです。兄もまた彼自身の子供たちにチョコレートワッフルを作って驚かせたりもしていました。

彼の奥さんが入院していた時が、彼の料理の腕前が最も発揮された唯一の時となりました。


田舎の小学校


たった二つの教室に八学年が詰め込まれた田舎の小さな小学校で、私たちは学んだり習ったりしたのです。

母は私たちの成績表をだいぶ長い期間、私たちが大人になってからも保管していました。

成績の程ですか?
私たちはそれによって平均よりは大して上ではなくときにはその下であったのを証拠付きで思い出せました。

その頃は人間は空を飛ぶことをようやく始めたばかりの時代です。
飛行機の音が聞こえると私たち生徒ばかりでなく先生たちさえも窓際に走りより、人間の科学発明に驚いたものです。

出し物と言ったら、、、私たちは何もかもを自分たちで用意しました。

学芸会でのことです。私は舞台の上ですっかり上がってしまい、あぶら汗で指がすべてのピアノの鍵盤から滑り落ちてしまったのでした。

恥ずかしさいっぱいのままでお辞儀すると、たくさんの拍手を受けました。
全ての生徒は何かをしなくてはなりません。

私は朗読する際、そばかすでギラギラした友人らに顔を向けるよりは背中を向けて恥ずかしさを耐えていました。

もちろんその他にもバレンタインパーティーやハロウィンパーティー、またクリスマスパーティーなども楽しみました。
#ドロシー師

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初期のフォード車で引っ越し

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初期のフォード車で引っ越し 1988年隣の南島町での夏季子... 1988年隣の南島町での夏季子供集会






日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第五回目は、ドロシー先生ご家族が母親の運転するフォード車に乗ってキャンプ生活を繰り返しながらコロラド州まで引っ越して行かれた様子です。





母親の決してたゆまない信仰



祖父母からのなんら経済や精神的な支えはありませんでした。

「旅の途中、彼が死んだらどうするのよ」とある祖母から言われた時は、母はその夜、人知れずに泣いたに違いありませんが、そのような落ち込みや不安を私たちには一切見せなかったのです。

それは馬と馬車の日々といったものでした。

当時はガレージセールなんてものはありませんでしたので、私たちはオークションを開いたのです。農具や家畜また家具など(ミシンと母の婚礼家具であったタンスは例外ですが)、とにかくあらゆるものを処分せねばなりません。

農場もうまく売ることができて全ての借金の支払いを終えました。

その時はモデルTのフォード車を買うだけの現金を手にしたのです。
新車購入の日、私たちはともに行くことが許されませんでした。

母は興奮した三人の子供たちを連れ出す必要は無かったのです。セールスマンは基本的な車の扱い方を教えただけで、彼女は信仰によってそれを運転して帰って来ました。まさに決意の固い母が勝利の凱旋を果たしたわけです。

病気の夫と三人の子供と必要最小限のものだけを乗せたモデルTのフォード車に乗った私たちはコロラドへと出発しました。

父の具合はおもわしくなかったので長距離の移動はできません。でもそれはその年の輝かしい時と言えたでしょう。私たちは新しい根拠地となるコロラド州のグリーレイまでずっと自炊しキャンプ生活でやって来ました。

その土地のナザレ教会の牧師が私たちの落ち着く先を世話して下さいました。

母は縫い物をしたり看護師として働き、音楽も教えまた清掃の仕事をしました。
すべての仕事は尊いものです。

私たち三人の子供らは路頭に迷うこともなかったのです。
父は自宅療養し、私たちで彼を助けながら少しずつ良くなって行きました。

彼には彼専用の食器を使ってもらいます。それは煮沸して消毒せねばなりません。感染力の強いその病に私たちは一人もかからなかったのでした。

父の必要としていたものは、どんな肉や栄養価のあるものよりも安いヤギのミルクでした。そこで私たちはヤギを飼ったのです。子供たちにとってそれは楽しいものでした。

私たちには自分たち専用の動物園やサーカスまでありました。
こうして私たちは生きたおもちゃやたくさんの楽しみを経験しながら成長しました。

父親の回復はめざましく彼はやがて働けるようにもなり、そこで私たちは再び田舎生活をすることに決めました。都会生活はどうも私たちには向かないようです。

都会での恐ろしいことから守られたのは、ただ母の愛によるものでした。
その町の学校での最初の日の事です。

私たちの家はその学校からランチのために帰ってくることができるほど近くにありました。その学校に私が慣れて以降、覚えられる以上に多くの出入り口がありました。

その日、間違った出口を出てしまうと何もかもが見慣れないものばかりです。
絶望して泣きだす前に私は勇敢にも玄関先に立ち、ドアのベルを鳴らしたのです。

優しそうなおばさんが出てきたので、私は「家に帰る道を教えてください」と聞いていました。

「お嬢ちゃん、あなたのおうちの住所はどこ」と彼女は聞いてきます。
「それがわからないんです」と答えたちょうどその時でした。

母は何か問題を察知して私を探しに来ていたのでした。
私はこの時、奇跡と言うものを信じました。

私はどうやら落し物が並べられているその場所に連れて行かれることから守られたようです。



モデルTフォード


長年にわたってあのモデルTフォード車は私どもの生活の一部となりました。

母はどんなに忙しくても私たちをキャンプや遠足にその車に乗せて連れて行ってくれました。
いつでも子供たちのために時間を割いてくれました。

また彼女は私たちをそれに乗せてリバイバル集会にも連れて行きました。

若い時から私の心が罪を認めること、地獄に関する説教、審判そして主の再臨に関する教えにとられたのです。他の兄弟たちがどのような信仰状態であったのか思い出せないのは、私自身が罪深さを深く自覚していたためでしょう。

もし普通の教会生活なら私もきっと静かな天使のような存在であったでしょう。
言うまでもなく私はそんなものでは無いのですが。

早い段階で兄弟たちと私とは教会の中でどう振る舞うべきかを学びました。
私たちの座席は前のほうにあり、両親たちの一つ前に座りました。

そのため両親たちはメッセージの全ての言葉を聞き漏らすこともなく、同時に彼らの目はいつも私たちを見張っていたのです。
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