引退への階段を降りて
11月
13日
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
その第42回目は、ドロシー先生の健康管理をしてくださるドクターたちとの出会いです。そうは言っても誰も老いから逃れることはできません。病や怪我で倒れるに従い、引退へのステップを踏んで行かれます。
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治療しながらも継続していく働き
〜引退の第一段階〜
私の最初の骨折経験とは、手首に関わるものでした。
病院のテレビモニターで私は全ての手術過程を見ることができました。
四本の指にそれぞれワイヤーの繋げられたドリルで穴を開けていきます。
それからそのワイヤをグイと引っ張りながら、専門医は私の手首を元の位置に繋げ、それからギブスをはめてくれました。
アメリカの習慣に従うかのようにして、私の多くの友人たちはそのギブスの上に励ましのメッセージを書いてくれました。さらに日曜学校の生徒さんたちは、彼らの好きな漫画キャラクターを描いて楽しんでくれました。これらの特別な治療にもかかわらず、今日まで私の手首は元のようには完全に戻っていないのですが。
〜引退の第二段階〜
次にやってきたのは、左足の膝の皿のすぐ下の骨折でした。
錦教会に出席している“錦人”が働いている施設に入院できるとは、大変光栄なことでした。
「キングスガーデン」と言うところで病院では無いのですが、そこに私はしばらく住むことになり、それはそれはこれまでにない最良の環境でした。
そこに一週間も入居すればそれで退院出来るものと考えていました。
退院前にシェルホン先生夫妻がお出でくださり、美智子先生は親切にも私の荷造りまで手伝ってくださいました。松井ご夫妻が彼らのバンに乗せてくださることになり、お別れの挨拶を施設の方々にしてから私どもはピクニックに出かけ、それから接骨の専門医を尋ねました。
その後、私の家である錦教会にも立ち寄らないままキングスガーデンへ直行して、それから一週間をそこで過ごすこととなったのです。
私の引退後の歳月はここで過ごしても良いかな、と入居当初抱いていた微かな期待は徐々に、その後全て消え去っていきました。
ケアは素晴らしく充実しているし、食事もよく考えて作られています。そこの雰囲気のことなのです。もし周囲の事がわからないほどに認知症が進んだ方には、素晴らしい場所であるには違いありません。
ただ横になるだけで動くことのないこの環境にあっては、ほとんど食欲も出てきません。
それでもあのおいしくて、栄養バランスよく考えて準備された食事は無駄になる事はありませんでした。私の忠実な同労者である高橋京太牧師が夕食や昼食のときになると、いつも訪ねに来てくれました。彼は自分の弁当を持って来た上に、私の食べきれなかった分を全てきれいに召し上がってくれるのでした。
こうしてキリストの教えである「残り物を全て集めて、何も無駄にならないようにしなさいと」の教えが守られて行ったのでした。
〜引退の第三段階〜
次に起こった事は顎の骨折でしたが、それは夏の戸別トラクト配布の多忙な時に起こったことでした。コンクリート地面の傾斜のある場所で私は転倒し、激しく顎を地面に打ち付けてしまったのでした。大学病院にまで急送され、医学的見地の診断からすると私はその時、即死するか良くても障害者となっていたはずとのことでした。
しかし専門医は器用にも、私の粉砕された顎骨をワイヤーでつなげ固定してくれました。
一ヵ月ほど私は話ができなくなり、周囲の人々はその静けさを楽しめました。それでも私の唇では歌えない歌が、私の心の底から湧き上がって来るのです。
口の中に繋がれているワイヤーを通じてのハミングは、なんだかハープが奏でる音のようにも聞こえました。ほんとにハープの音であったかどうか、他者に聞いた事はなかったのでしたが。
ただ転んだだけなのにこんな重症を負うだなんてどうしたことか、と皆さんは不思議に思われるでしょうが、私もそうだったのです。私はあの時、木から落ちたわけではないし、階段を転げ落ちたわけでも、屋根から落ちたわけでもなかったのです。
小さな障害物につまずいたため私の身体は前に投げ出されたのでしたが、これは霊的に全く同様で、人は小さなことにつまずき倒れて時に重傷となる事もあるのを認めないわけには行きません。
〜引退の第四段階〜
次の事故は、自らの責任と認めざるを得ないたった一つのことです。
それは教会の玄関で起こりました。両手にスーパーの買物袋を下げたまま私は靴をキックしながらその靴を手に取ろうとした時にバランスを崩して転倒、右足を完全に骨折する結果となってしまったのでした。
専門医はその骨折は“良い方”であると診断してくれました。それでも手術が必要となり、セラミック製の人工関節が元の骨と交換されてなくてはならない、とのことです。
専門医は深くお辞儀をしながら、私に施術するのは光栄であると告げてくれました。
彼はまたノコギリとハンマーの使い方についての専門家のようにお見受けしました。
痛みは感じないものの、骨を切り裂くノコギリの音が聞こえて来ます。心電図や脈拍、血圧等の数値がコンピューター画面に見えて、私の体がそのノコギリの動きと否応なく反応しているのが分かりました。それでも私は生きています!素晴らしい手術でした!
ある若い看護婦は以前の私の英語クラスの生徒さんであり、彼女はクリスチャンとなってからその外科部署で働いていらっしゃいました。彼女が手術の前の晩、その仕事を終えてから私の病室までやってこられ、共に祈りを捧げてくれました。キリストが送ってくださった慰めと愛の天使となってくれたのです。
他の看護師さんは、私がよくなるもそうならないのも、全て私次第であるとお話ししてくれました。心がけ次第であると。
多くの見舞い客のさまざまな花で私の病室は飾られて明るくなり、それが私の回復にとって大きく貢献したことは間違いありません。
そんな中でもある看護婦は常に私に小言を言って来ます。
「しっかりと食べていただかないと良くなりませんよ」
私は彼女に、ここにいる人々は寝ること以外に何もすることがないのに、一日に九杯ものご飯を本当に皆さんは食べているのですか、と聞いて見ました。彼女は、もちろんそうです、と言い張るのです。
後に私が歩けるようになった時、廊下にあった配膳カートの上には、たくさんの食物が残されたままになっているのを発見したのでしたが。
どうしたことか私の場合、決められている日数のセラピーよりも少なく済んだようです。
セラピー最初の日、私はウォーカーに体重を乗せながら自分だけで歩き回るようにと言われました。
長い廊下をゆっくりと歩いたのですが、終えてみるとすべてのエネルギーを使い果たした気分です。
ある日のこと担当の外科医は私を連れて杖や松葉杖、手押し車で一杯となっている部屋を見せてくれました。多くのお年寄りの女性は手押し車を使っているから私も使ったらどうだ、と勧めてくれたのです。
そこで私は答えて、「もしそこにお座りくださるなら、私は貴方をお乗せしたまま廊下を走ってみせますが?」と言って差し上げました。
それから遂には、私は彼に仕事を求めるようになりました。
「ここで私がお手伝いできる何かがあるでしょうか」
そんなこともあってか、彼は今や私を退院させる時期であると考えたようです。
そうでないなら、すべてのシステムを私が混乱させてしまうと恐れたのでしょう。
彼は「あのような強い決意ある年寄りにはこれまでお目にかかったことがない」と誰かにこぼしていたのを後日耳にしました。
日本の国民健康保険
私は実に幸運な外国人です。
今や国民健康保険は日本国籍を持たない者にも適用していただけるのです。
来日して初期の頃はそのようではなかったのです。
医療費をこうして援助していただくことについて、私は誰にお礼をしたら良いのか、今もって分かりません。すべて事故による怪我のための医療費は、病室代などを除いてこの国民健康保険でカバーされて来ました。
もちろん毎月の保険料支払いはありますが、それとて法外なほど高価なものではありません。この保険によって私は優れた医療の恩恵を与えられてきました。
〜引退の第五段階〜
近くには知り合いの眼科医は誰もいなかったのですが、確かに神様は私を角膜移植のできる最良の眼科医へと導いて下さいました。すべてが順調に進みました。
はっきりと見えるようになったのです!
高齢のため自分の顔がこんなにもしわくちゃになっているのをはっきりと見たときは、さすがにショックでなりませんでしたが。
またその医者は、私に素敵な大家族がいるのを見て驚いていました。
手術後の経緯チェックのため立ち会ってくださるとき、私の病室には多くのいとおしい家族で溢れているのをご覧になっていたのです。
数ヵ月後、その眼球は内出血を始めるようになり問題は深刻なものとなりました。
お医者さんはこの問題をどう扱って良いのか確信の持てないままだったのですが、とにかく私には信頼するように、と励ましてくださいました。
「私達は何も心配する事はないのですよ。神様は最期に至るまで貴方を支えてくだるのですから」と言ってくれました。
確かに今日に至るまで神様は私を支えて下さっています。
私どもの教会の家族の中には、点滴や注射を祈りとともに施術してくださるクリスチャン・ドクターがおられます。さらに不調を起こさせるどんな小さな歯の問題も見つけ出しては治してくださる歯科医もいらしゃって心強いばかりです。
こうした医療の専門家でも手に余るような場合は、「偉大な医者」であられる主イエス様がいらっしゃるのですから、心の問題も含めた適切なケアが完備されているのです。