子供たちプラス、一人大人のアート。テーマは犬です。みんな上手ですし、みんな絵とともに、ストーリーを持っています。とてもクリエイティブ。また、どんな人も、インスピレーションを感じたときには、それにともなうストーリーを持っているんだと思い。。感動しました。
この犬は、おうちの中にいて、お客さんが来たので、うおーーんと言っているそうです。家は自宅で、犬は、お友達の犬らしいです。
2017年12月3日日曜日礼拝メッセージ音声は、
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★剪定のないぶどうの木、テストのない人生
ホセア10:1-1
イスラエルは多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。多く実を結ぶにしたがって、それだけ祭壇をふやし、その地が豊かになるにしたがって、それだけ多くの美しい石の柱を立てた。
良く茂った。。。。誰も剪定をすることのないぶどうの木。生い茂り、伸び広がり、実はもしかしたら短い間だけ、初めの年は、小さくてもたくさんつけれるのかもしれない。リサーチしてみたら、剪定してない木はろくなブドウができないと書いていました。また、伸びっぱなしのぶどうの木は病気にもなるそうで、どっちにしろ剪定なしでは木はだめになってしまうようです。
神は、愛しているものを懲らしめる。
へブル12:5-6
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
ダビデも、試練を通して学んだという。
詩篇119篇71節
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。It is good for me that I have been afflicted, That I may learn Your statutes.
イスラエルは、あまりのわがままさに、剪定されることもなくなり、ついに裁きがイスラエルに下っているということになります。。。。みなさん、神様の保護の中、剪定されるぐらい、なんですか。剪定の痛みは、裁きの痛みに比べたら小さなものです。
★二心
ホセア10:2-5
彼らの心は二心だ。今、彼らはその刑罰を受けなければならない。主は彼らの祭壇をこわし、彼らの石の柱を砕かれる。3 今、彼らは言う。「私たちには王がない。私たちが主を恐れなかったからだ。だが、王は私たちに何ができよう」と。4 彼らはむだ口をきき、むなしい誓いを立てて契約を結ぶ。だから、さばきは畑のうねの毒草のように生いでる。5 サマリヤの住民は、ベテ・アベンの子牛のためにおののく。その民はこのために喪に服し、偶像に仕える祭司たちもこのために喪に服する。彼らは、その栄光のために悲しもう。栄光が子牛から去ったからだ。
〇二心になってしまったイスラエル。。。
信仰は聞くことから始まる。。イスラエルは神の言葉を聞くことをやめてしまった。すなわち、他の神々のいうことを聞くようになってしまった。
最初の人、アダムとエバの堕落は、どこから入ったか。それは、神の声を聞くことよりも、サタンの声に聞いた、そしてその声に従った。=自分の人生を支配する権利はあなたにありますというもの。
人は、同時に二人の神に仕えられないとある。
マタイの福音書6章24節
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
両方の声を同時に聞いて従うということはあり得ない。
★王が取り去られ、偶像が取り去られる
王がいない…イスラエルの王は、次々に内部からの反抗で変わっていきます。人は、王がいないと嘆きますが、もともと心が分かれ悪魔に聞き従っている人には、恋焦がれている完璧に王に見えても、すぐにその王も取って変えられるようになります。私たちも、神にそぐわない、偶像化した自分の利益のための王を求めるなら、それは、やってきてはまた去り、落ち着くことがないでしょう。
子牛の栄光は消えてなくなる。…イスラエルは、ベン・エベン= 悪の家の子牛と書いてありますが、これは、有名なヤコブが天への架け橋を見た、べテル=神の家のことです。イスラエルが神に出会ったその場所を、彼らは、偶像の祭壇にしてしまっていたのです。なんということでしょうか。そして、その姦淫の罪のために、もう敵がやってきて、いくら子牛にすがっても、無駄である。栄光は取り去られた。裁きが来るということを、言っているのです。
偶像の栄光は、一時的なものであり、永遠ではありません。また、それが幻想であることを私たちは覚えておきましょう。
★今は、誠実を養う時
ホセア10:12-13
12 あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。13 あなたがたは悪を耕し、不正を刈り取り、偽りの実を食べていた。これはあなたが、自分の行いや、多くの勇士に拠り頼んだからだ。
神様は、真の天の父です。イスラエルのしてしまった罪と悔い改めない心の結果として裁きは来ますが、神様は、まだ、道を示していらっしゃいます。それは、人生心を入れ替えてやり直すことです。一つ一つ、神の前に正しいことをし、誠実に生きる。神の言葉を聞き、神の言葉に従って行動すること。これを勧めておられます。
一からこつこつ誠実の種を蒔いていくこと。これが、何よりの近道です。。毎日、神の言葉を頼りに生きること。神のみ言葉に従うことを私たちもしていきましょう。
Facebook AZAMI さんの写真をお借りしました。うちの近所からみえる風景です。シアトルは、寒いですーー
2017年11月12日日曜日礼拝メッセージ音声は、こちらから
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ホセア8:1-14 誰に信頼するのか?
引き続き、ホセア書を読んでいます。毎週毎週ここのところは、神の裁きの言葉と憂いの言葉ばかりで、なんだかうんざりしてきます。みなさんもそうでしょうか。そう思うときに、それでも、まだ神は、忍耐して、イスラエルの民が立ち帰ることを待っている。裁きはあるが、それは、立ち直るための懲らしめであることも見ることができます。私たちならば、すぐに立ち去る、あきらめるようなことでも、神様は忍耐強く待つて下さっているということが分かります。
1. 角笛を口に当てよ Trumpet; Calling for War
v1-6
1 角笛を口に当てよ。鷲のように敵は主の宮を襲う。彼らがわたしの契約を破り、わたしのおしえにそむいたからだ。2 彼らは、わたしに向かって、「私の神よ。私たちイスラエルは、あなたを知っている」と叫ぶが、3 イスラエルは善を拒んだ。敵は、彼らに追い迫っている。4 彼らは王を立てた。だが、わたしによってではない。彼らは首長を立てた。だが、わたしは知らなかった。彼らは銀と金で自分たちのために偶像を造った。彼らが断たれるために。5 サマリヤよ。わたしはあなたの子牛をはねつける。わたしはこれに向かって怒りを燃やす。彼らはいつになれば、罪のない者となれるのか。6 彼らはイスラエルの出。それは職人が造ったもの。それは神ではない。サマリヤの子牛は粉々に砕かれる。
〇角笛は、戦いのための Trumpet; Calling for War
神は、戦いのための招集を呼び掛けています。角笛は、戦いのために人々に喚起を呼び掛けるものです。とうとう、アッシリヤが鷹のように襲ってくるというのです。
主の宮というのは、イスラエルのことであり、今や金の子牛のヤロブアムの宗教の宮と化した宮です。
民は、勝手に王を自分たちのために立てていました。しかし、王も助けることはできず、敵が来るというので、民は、「私の主、私は主を知っている」というというのです。。。
しかし金の子牛、イスラエルが拝んでいるにせの神は、粉々に壊されるというのです。
〇ファンタシーと自分の思い Fantasy & Your desire
想像力はイマジネーションは神様からの賜物。人は、心に思うことを行動に移すものです。
人は、窮地に追い込まれると、必ずファンタシーを持ちます。辛さに直面し続けることが成因的に耐えられないからです。空想の世界に休みを見出すことは、自然なことです。しかし、本当の休みがファンタシーの中にはないのです。人は、自分の思いと願いと人間的な知恵によって実現しようと必死になります。イスラエルの民は、金の子牛にその思いを託したわけですが、人は、自分の神を作り出す。また、ここで神に指摘されているように、自分にとって神に導かれていない人間・リーダーについていく。神様に選ばれていない人についていく。神の導きでなく、自分が良かれと思う人についていく。。。ということが起きます。すべての根っこは、偶像礼拝です。
〇偶像礼拝は、恐れからくるマニピュレーションであります。恐れは信仰の反対。
偶像礼拝の反対は、信頼です。苦しみの中にあるとき、祈りの課題があるときに、何に信頼するのか、空想を持つとき、ビジョンを持つとき、願いを持つとき、計画を持つときに、その都度神を信頼しましょう。神に導かれていくことを選びましょう。前回話したように、神に導かれて行くことは、時には、全てを壊されることかもしれない。しかし、信頼しているならば、必ず勝利を見ることになるでしょう。
神は、本物ではないもの、神から来ていないもは、粉々にすると、ここでも語られていますね。
2. 裁きを受けるイスラエル Judgment on Israel
v7-10
7 彼らは風を蒔いて、つむじ風を刈り取る。麦には穂が出ない。麦粉も作れない。たといできても、他国人がこれを食い尽くす。8 イスラエルはのみこまれた。今、彼らは諸国の民の間にあって、だれにも喜ばれない器のようだ。9 彼らは、ひとりぼっちの野ろばで、アッシリヤへ上って行った。エフライムは愛の贈り物をした。10 彼らが諸国の民の間で物を贈っても、今、わたしは彼らを寄せ集める。しばらくすれば、彼らは王や首長たちの重荷を負わなくなるであろう。
〇風をまくようなもの、
すなわち、種をまいたら刈り取りができるが、彼らは、神にあって何も種をまかず、風を撒くようなものであった。すると、つむじ風が来て、全部滅ぼしてしまう。アッシリアのことを言っている。
〇誰にも喜ばれない器、ひとりぼっちの野ロバ。――
器もロバも、用いられるためにあります。誰にも喜ばれない器とは、何も入れることができない、使うことができない壊れた器のこと。器が伝えなければ、器の意味がない。ロバも、交通や労働の大切な人間のパートナー。一人ぼっちの野ロバとは、労働のための人の役に立つものではない。ということ。
本来イスラエルとは、神に選ばれた民であるから、世界中の国々、人々に神を指し示す、神を紹介する役目を持っていたはず。。。
私たちも「用いられる」とは、ということを考えてみると分かる。自己実現の道ではないのです。弘法筆を選ばず、という言葉がありますが、弘法さんはどんな筆を使っても素晴らしい作品を書かれる。あなたがどんな立派な筆か知らないが、書く人がへたっびなら、いい作品はできない。私たちを用いられるのは、神です。
神に用いていただかないのなら、いい実はならない、いい作品は出てこないのです。
自分という器を、神に差し出すことがなければ、いいものができないのです。
イスラエルは、自分のわがままと、繁栄を求め、偶像と人によりたのんだので、いいものができなかったのです。ここにも、誰に信頼するのか。。。と神さまに問われているようです。
3. 神はイスラエルの捧げものを受け取られない Unaccepted Sacrifice
v11-14
11 エフライムは罪のために多くの祭壇を造ったが、これがかえって罪を犯すための祭壇となった。12 わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののようにみなす。13 彼らがわたしにいけにえをささげ、肉を食べても、主はこれを喜ばない。今、主は彼らの不義を覚え、その罪を罰せられる。彼らはエジプトに帰るであろう。14 イスラエルは自分の造り主を忘れて、多くの神殿を建て、ユダは城壁のある町々を増し加えた。しかし、わたしはその町々に火を放ち、その宮殿を焼き尽くす。
〇祭壇は、神に捧げているようで、金の子牛に捧げていた。
多くの祭壇を作ったが。。。真の神へのものではなかった。。。
〇神の言葉をないがしろにしている。――神の教えを持っていることは、イスラエル人の誇りであり特権であったのに、自分の心の赴くままに行動し、神の言葉を無視することとなった。
〇いけにえ、宗教行事は、いけにえの肉を食べる会と変化し、いけにえの意味は踏みにじられてしまった。
〇神の存在を忘れているイスラエルに安息はない。
神の存在を全てにおいて認める。信頼する。
箴言Proverbs 3:5, 6
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。rust in the Lord with all your heart, And lean not on your own understanding; 6 In all your ways acknowledge Him, And He shall direct your paths.
ぼ
10月のお誕生日祝い、三人でふーー。みんな大人なので、すぐにろうそくは消えました。。。お誕生日おめでとうございますーーー
2017年10月22日日曜日礼拝メッセージ音声はこちらから、
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ホセア6:1-11
1 「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。2 主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。3 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」4 エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。5 それゆえ、わたしは預言者たちによって、彼らを切り離し、わたしの口のことばで彼らを殺す。わたしのさばきは光のように現れる。6 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。7 ところが、彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。8 ギルアデは不法を行う者の町、血の足跡に満ちている。9 盗賊が人を待ち伏せするように、祭司たちは仲間を組み、シェケムへの道で人を殺し、彼らは実にみだらなことをする。10 イスラエルの家にわたしは恐るべきことを見た。エフライムは姦淫をし、イスラエルは身を汚している。11 ユダよ。わたしが、わたしの民の繁栄を元どおりにするとき、あなたのためにも刈り入れが定まっている。
★民の悔い改めの呼びかけ v1-2
この箇所は、ついに民が、「神を知ることを求めよう」と、悔い改めを呼び掛ける声から始まります。状況は。。。。四章、五章であったとおりに、時は、アッシリヤ、エフライム戦争、神に頼ればいいのに、神の民は外国に頼った。前回五章で話しました通りです。そして、民は、「悔い改めよう。」を始めます。主は、私たちを打ったけど、立ち返ったら、きっと赦してくれる。。。と。
いよいよ、神様に心が向いたのだろうか。。。と、読み手の私たちの心は期待します。
★何事もイエスのよみがえりの力頼み? V2
主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。After two days He will revive us; On the third day He will raise us up, That we may live in His sight.
仏教の中でも、日本に来て他力本願という考え方・言葉がありますが、これは、お経を唱えるだけで、とか、観音様によって。。。とかいうことですが、キリスト教で言えば、救いは他力本願以外の何物でもありません。しかし、一つ、日本仏教との違いがあります。それは、心根が変わることが要求されるところです。
〇心根が変わるのは、悔い改めから来るわけですが。悔い改めとは、180度生き方が変わること。
悔い改めは、真の神との個人的な出会いによってはじめて起こるものでもあります。頭で、いけないことだと認識して、悔い改めます。というのも、いいことですし、スタートラインとして素晴らしいことです。でも、遅かれ早かれ、もしその心が本気なら、神様とばちっと目が合う体験をするのです。もうそうなったら、古い生き方でいられないのです。自分が神に見られる=自分がどういう人間かはっきりわかる。神の瞳に映る自分を見る。自分を知って初めて神の偉大さが分かる。。。
〇この箇所は、諸説あります。キリストの十字架の死と葬りと復活の三日間のよみがえりを預言的に暗示していて、神の赦しを強調しているのではとも取れますし、また、民が、早く私たちの現状を変えてください。神様なら、一瞬で私たちを赦して何とかしてくれるはずだという何ともお気軽な、他力本願で言っているも取れるわけです。
私たち、クリスチャン生活もこの二つの狭間を行ったり来たりすることもあるのではないでしょうか。
神様の赦しとそこからくる回復を当たり前のように、くださいくださいと叫んでいる。神様には確かに、なんでもおできになります。祈りはどんな祈りでも必ず聞かれます。クリスチャンの祈りでなくても、神様に祈るなら、聞かれます。神様は、そのようにとっても忠実、誠実な方です。
その神様が求めているのは、私たちの心です。
★エフライムの朝もやのような誠実 v4-6
4 エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。5 それゆえ、わたしは預言者たちによって、彼らを切り離し、わたしの口のことばで彼らを殺す。わたしのさばきは光のように現れる。6 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。
神の誠実さにマッチする誠実さは、この民にはなかったようですね。朝もやのようだとあります。朝湧き上がるけど、すぐに消えてなくなってしまようなものだというのです。口先だけの悔い改めとはそのようなものです。
何か、かなえて欲しい願い事があるときに、妙に熱心に教会に足を運んだり断食祈祷院に行ったりすることがあります。私も、その経験はあります。道が閉ざされている時、道が見えない時、よく断食祈祷院に行きました。一週間、祈り詰めました。しかし、いつもいつも教えられることがありました。それは、形ではなく、心だということでした。そして、その心があるなら、何がなくても大丈夫だということでした。
〇神の誠実Mercy -- ヘブル語の「ヘセッド」checedの本来の用法は、「契約の両当事者が互いに他方に対して守るべき忠誠と誠実の態度をあらわすこと」にあります。
日本語では、憐れみとありますが、契約に基づく誠実さというのが、本当の意味でした。私たちも結婚の時に誓いの言葉を交わし、結婚関係に入ります、毎日、その時の言葉通りに行うことで、約束を互いに果たしています。ちょうどそのような誠実さを神様は、私たちに求めているのであって、宗教儀式を求めていないというのです。約束は、行動がなければ、意味がない。。。のです。
〇信仰のなさ…神は、契約を必ず守られる誠実な方であるということを信じること、ここに私たちの力があります。たとえ、道が見えなくても、例え、道が閉ざされていても、神は生きていて、神は信じる者には必ず答えてくださる方だと揺るがない信仰を持つこと、これが、いけにえにまさる、私たちの誠実なのです。わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。For I desire mercy and not sacrifice, And the knowledge of God more than burnt offerings.
宗教的になることでも、善行を積むことでも、なく、私たちの神の契約に基づく信仰が神を何よりも喜ばせるのです。
★悔い改めの実のない民 v7-11 忍耐のなさ
7 ところが、彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。8 ギルアデは不法を行う者の町、血の足跡に満ちている。9 盗賊が人を待ち伏せするように、祭司たちは仲間を組み、シェケムへの道で人を殺し、彼らは実にみだらなことをする。10 イスラエルの家にわたしは恐るべきことを見た。エフライムは姦淫をし、イスラエルは身を汚している。11 ユダよ。わたしが、わたしの民の繁栄を元どおりにするとき、あなたのためにも刈り入れが定まっている。
神ご自身を信じないで、「一瞬で神によって状況が変わることを信じて」いた民は、口の根の乾かないうちに、もう、契約をやぶり、うらぎり、人殺し、姦淫をし、身を汚しているというのです。
口先だけきれいなことを言って、行動が伴っていない民。みなさん、私たちの信仰には、必ず行動が伴います。信仰と誠実は行いに現れることを私たちは忘れてはいけない。私たちは、心で信じているとおりに行動をするのです。
〇忍耐のなさ
イエスラエルの民は、神の手の下でしつけられる忍耐がありませんでした。みなさん、人は変わるには、体に染みついた癖と自分が戦ってその都度、神を選んでいくというプロセスが必要ではありませんか。この民は、そのプロセスの元で、じっと自分の罪深い心根に忍耐することができなかったのです。自分の汚さとエンゲージして押し問答して、毎回神に勝利していただく、という忍耐がなかったのです。「一瞬で神によって楽な状態にしていただけることを信じていた」のですから。
本当に悔い改めた人には、行動が伴います。心根が変わるので行動が変わるのです。しかし、行動を通して周りに分かってもらえるには、時間がかかるものです。みなさん、このプロセスを大切にしましょう。家族や、友人、親しい人に神様のすばらしさが伝わるのは、悔い改めの実を通してです。時間がかかろうと、神様を信じて、実を結ぶことを目指しましょう。
わが教会では、毎月その月ごとの誕生日を祝っています。
今月は、なつこさん、エリック、えまちゃん。。。
えまちゃんはお休みで祝えませんでしたが、
手作りケーキにキャンドルを立ててーーー
あれーー
いくらふいても火がもどってくるーー
あーー。これ、いたづらのやつやんーー!!! と、
なかなか消えず、結局、水の中にじゅっとしたのでした。。
ふーーー疲れた。
ケーキもいつもは、るりこさんの美しい、美味しいケーキですが、
今回は、お留守なので、私が久しぶりに。。。。
結構失敗して、ういろうみたいになってしまった。。。。すまん、みんな。。。
この日曜日は、ゲストスピーカー、ビルマ人のジョシュアが久々に来てくれてメッセージしてくれました。
また、新しい方も来られて、とっても良い日曜日でした。
ぼ
洗礼を受けられた方々と一緒に記念撮影。
みなさんとても 嬉しそうです。
礼拝中に、どのように神様を信じるようになったか、神様に出会ってどんなふうに変えられたか、などなど、体験談を一人ひとりお話ししてくださいました。
七月に一人、八月に三名方が洗礼 (バプテスマ)を受けられました。
とってもとっても喜びにあふれた素晴らしい礼拝となりました。
聖書の中に次のような言葉があります。
ヨハネ3:3-4
3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
生まれ変わって、人生をやり直せたら。。。と思う人は多い、いや、ほとんどの人がそうかも知れません。
イエス様にあっては生まれ変わることができるのです。
洗礼というのは、神の前にも人の前にも、これからは神とともに生きて行きますという信仰告白の日であり、入学式のような、またお葬式のような日でもあります。
洗礼というのは、水の中に完全に浸かり、水の中は死を表し、水から出る時には、新しい命、イエス様の復活のいのちで新しく生まれるということを象徴します。
クリスチャンとしてとても大切な日です。
牧師をしていて、喜びの大きな日の一つでもあります。
礼拝の中で、みなさん証し/ 体験談をシェアしてくれました。
それぞれの人生が変わり、その人の周りが変わり、喜びと感謝にあふれていました。
素晴らしいです。
あーーーー嬉しい嬉しい! 喜びでいっぱい!
ぼ
今日のメッセージは、ブーバーに出会ったからこそ、語られたことでした。。。。。
神様、感謝します。
教会は、成長しています。人々が解放され、生き生きとしています。それが、何よりの私の食べ物です。。。
ハレルヤ!
2017年8月13日日曜日礼拝メッセージ音声はこちらから、
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今週ある方と話していて、ディスカッションしたことを分かち合いたいと思います。みなさん、イエス様の変貌の箇所を読んだことがあるでしょうか。そこから、今日は学んで行きたいと思います。
マタイ17:1-8
1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。3 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。8 そこで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。
マタイ16章、17章にはいろいろとペテロの言動が取り上げられて出てきます。時期は、イエス様が十字架にかかる前に弟子たちに心備えを促していた時。十字架で死ぬんだよーと教え始めたころです。ペテロは、あなたは私を誰というか? と聞かれ、「あなたは神の子キリスト」と告白し、それは神様が言わせてくれているのだよと、ちょっとほめられた感じになり、その後、イエス様が殺されるんだよ、という話になると、「いやいや、そんなことないよ」とイエス様をいさめて、「下がれ、サタン」と怒られちゃったりしました。
私たちは、こんなペテロの姿を見て、自分を見るような気分になります。。。あるときは、霊的で、聖霊によって、バシッと話せたり、そうかと思えば、とても肉的になって、神様に叱られたり。。。私たちは、そんな危うい存在なのかもしれませんね。誰しも経験が。。。
その出来事の一週間後、イエス様は、特別に三人の弟子を連れて、山に登りました。そして、不思議な体験をしたのです。
★ 神は公平、不公平?
イエス様は、このペテロとヤコブとヨハネをいつもそばに置きました。ゲッセマネにだって連れて行きました。ここぞ、というときには必ず連れて行きました。イエス様にはほかにも弟子はたくさんいました。女の弟子たち、12弟子、七十人弟子。。。。どうして三人だけ。。。肉的な人は、三人を特別扱いされていると思うかも知れません。どうやったら、あの三人になれるのか。。。などと、実際に、他の箇所では、誰が天でイエス様の近くに座るかなどと議論されたり、誰が一番偉いかと議論される箇所がありますね。私たちは、肉の目で見ると、このような失敗をします。
ヨハネの16章でも、「あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選んだのです。」とあります。神様の世界は、教室的な学校ではないのです、一人ひとりにカスタマイズされた選びがあり、使命があります。誰が偉いとか、下だとかありません。ただ一つ、賞賛に値するのは、自分の置かれた場所で、導かれていることに、忠実であることです。小さいことに忠実である人は、多くをやがて任されるようになります。(ルカ16) 私たちが注目するべところは、いかに神に誠実に、忠実であるか。。。である部分です。
忠実であるときに、神の喜びとともに喜ぶというご褒美に預かることができるのです。(マタイ25)
★ 変貌への応答から学ぶこと
さて、この三人は、この光栄な出来事の中で忠実であることでできたのでしょうか。。。
2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。3 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。
① 栄光のとどめ方レシピ?
ペテロは、あまりにもすごい光景を見て、驚きました。モーセとエリヤは、モーセは神から律法をいただいた偉大な指導者、エリヤは預言者の代表、ユダヤ人にとっては二大英雄、律法と預言二つ合わせて聖書全体をあらわし、それを全うしたイエス様と出会っている様を見たのです。なんというすごい光景。しかも、光輝き、この世のものとは思えない光景です。いよいよ、十字架の話をみんなにしている時期に、旧約の二大英雄、そして神の教え全体を表す二人と「あなた方に新しい戒めを与えよう、互いに愛し合いなさい」と言われた、新しい生き方のイエス様が対面しているというこの意味深さ。。。弟子たちには理解できたのでしょうか。
その時、ペテロは、あまりの栄光に圧倒されて、これを保てればいい。。。ずっとここにいたい。。。とも思ったことでしょう。彼は、話しているイエス様に割って入って言いました。「おひとりおひとりのためにここに私が幕屋を作ります!」と。。。ここに、私たちへの警告が示されています。
私たちは、何かすごいムーブメントがあれば、それと同じことをフランチャイズしてそのムーブメントをとどめようとします。幕屋を立てて、そこにとどまってもらう。。。というのは、何か、クッキーカッターのように、これをすれば、この栄光がまた来るという期待からのもので、これが、宗教の霊の始まりです。クッキーカッターとムーブメントの約束があれば、神との関係なんていらないのです。また、信仰なんて必要ないのです。型、形、に神はいないことを私たちは知らなければなりません。
② 栄光はどこにあるか?
みなさん、この栄光は、どこから来ていたのでしょうか。。。それは、モーセとエリヤとイエス様がそれぞれ顔と顔とを合わせて語り合っているそのただ中にあったのです。やり方や、フランチャイズされたムーブメントではないのです。神との対峙の中に、栄光は宿るのです。
ブーバー。。。純粋な二人の人が対峙するところに神がいる。。。私の証し。
神との対峙、対面こそが一番のメッセージであって、現象ではないのです。現象は、とどめることができません。それは、無くなったり、行ったり来たりします。けれども、愛、神との出会いは無くなりません。
③ 彼の言うことを聞きなさい
ペテロが幕屋の一件を言うと。。。天からの声が、「これは、私の愛する子、私はこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がしました。
私たちの第一とするものは、ムーブメント、現象ではなく、イエス様の声に聞き従うことです。「見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(一サムエル記15)つまり、聞き従うことは、宗教に勝るのです。私たちは、イエス様との関係、出会い、対峙、愛の関係を宗教に成り下がらせてはいけないのです!
★ 変貌目撃の結果
マタイ16章の最後の方に、「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私についてきなさい。」V24 とありますが、この栄光を目撃した三人は、みな神様のために死にました。ヤコブは初めの殉教者となり、ペテロも十字架刑になりましたし、ヨハネは、パトモスで死にました。
現象をとどめようとしたペテロは、後の文書でこのように書いています。
Ⅱペテロ1:16-19
私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
彼は、試練の中で、あの体験で経験した、神との対話、顔と顔とを合わせる中にある栄光に思いをはせながら、耐えたのです。神との出会いが彼の生涯の力となったわけです。あの栄光のある天国を見据えながら耐え抜いたのです。それは、信仰によりました。
神との対面は、私たちを強める。私たちは、神と対面しながら、日々生活し、日々奉仕し、試練に耐え、等々。。。全て、神との関係、神と顔と顔とを合わせながら歩むのです。
私たちは、あの現象がこの現象がと現象を追いかけてはいないでしょうか。あれさえあったら。。。などと。。。しかし、あなたが愛の関係、日々のface to faceの時間が神とないならば、栄光などないのです。神を心から求めませんか? 神との愛の関係を築くことをもう一度考えてみませんか?
ぼ
木曜日は、子供たちを連れてシアトルセンターにピクニック。
暑かったです。
私もすごく日焼けしました。
お弁当も食べて、楽しい一日でした!
子供たちは、いくら泳いでも元気いっぱい。
すごい体力です。
暑いのに。。。
2017年8月6日日曜日礼拝メッセージ音声と書いたものと、だいぶ違うことになっています。音声の方がおすすめです!
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今日は、先週の続きです。先週は全部カバーすることができませんでした。
ヨハネ1:1-2 “初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.”
イエス様のことを話している箇所ですが、私たちも、クリスチャンとして成熟すればするほどキリストに似たものとなります。私たちも神の言葉を体現するものとなります。そして、それが私たちの働きとなります。先週「神に造られた健全な私であることが私の召しである」という話しをしました。
よく聞かれる質問ですが、「自分が無くなることが、キリストのようになることですか」答えは、Yes and No です。神様と対話し、私が神様と一つになれば一つになるほど、ますますあなたらしくなるのです。本来は、神様に造られた通りで生きられていれば、何も問題がないのですが、生まれて来て私たちは、罪を犯し、罪にまみれた世の中で生きているので、いろいろな自己防衛システムができました。自分らしさ、自分の素晴らしさということに気付き、また、それを大いに発揮している人というのは少ないのです。
ですが、この罪の性質につられて生きてしまう自分を古い人といいますが、神の愛の中に歩む時に、この古い人を脱ぎ捨てながら、生きていったらいいのです。そうすれば、あなたらしく、イエス様の似姿に成熟していけるのです。
この「あなたらしく」の中には、過去の苦労や、悲しみ、そして罪も含まれています。これらを神にあって回復され癒されるときに、ますます、あなたの持ち味がでてくるのです。
★神の働きは、受肉の働き。
私たちの働きというのは、神の言葉の受肉の働きです。愛によって、私と神とが一つになっている時、真の意味で用いられる。古い自分の思うがまま、奔放に自分のしたいことをするのが神の働きではありません。Ego-centered vs God-centered service 神と心が一つになってれば、思いのままに動いても間違いはあまりせん。しかし、神と思いが一つになってないのに、思いのままにやると、それは、肉の働きになり、何の益ももたらされません。
ヨハネ15:5
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。“I am the vine, you are the branches. He who abides in Me, and I in him, bears much fruit; for without Me you can do nothing.
ブドウの木は、つるです。リンゴの木のように、どこからどこが幹でどこが枝がよくわかりません。つるなのです。キリスト者というのは、それほどキリストと一つになっているのです。キリストが私のうちにおられ、私はキリストのいのちのうちに隠されている存在です。ブドウの木のように、他から見れば、一つに見えるものであるはずです。しかし、必ずしも、私たちを見たらキリストを見る人はいないのかもしれません。。。。そのためには大切なことがあります。
ヨハネ15:1,2
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。“I am the true vine, and My Father is the vinedresser. 2 Every branch in Me that does not bear fruit He takes away; and every branch that bears fruit He prunes, that it may bear more fruit.
神様は、実を結ばない、枝は剪定してくれるのだそうです。私たちは、痛い思いをしたくないし、また、自分の自己中心的な思いで、ああしたい、こうしたいという枝を伸ばし放題にしていたいのですが、それでは、実がならないのだそうです。たとえ、それが、この世の目で見て、人間的に成功的に見えていても、神と一つになってないなら、きっと実ができていないはずです。
★実をみたら分かる
「愛があったら、わかります」の言葉。。。私の恩師が言いましたが。。。
神と一つであるかどうかというのは、自分の側では、ただ、神を純粋に愛する、人を純粋に愛することを求めて行ったらいいと思います。ただし、神との対話の中で。。。しかし、それが本当に神様から来ていたことかどうかという、吟味は、日がたってみないと分からないことが多々あります。ああ、あの人、活躍しているなー。すごいなーと思うかもしれません。しかし、実際、その人に会ってみたら、御霊の実を感じないとしたら、なんとがっかりでしょう。その人に、忍耐がなく、愛がなく、喜びが無ければ、がっかりするのです。
ガラテヤ5:22-23
122 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません
美味しい御霊の実は、どこから来るのでしょうか。
★死は、あなたが無くなることではない
受肉を考える時に。。。神と思いを一つにするためには、いつも心の一新(ロマ12)悔い改めしかありません。
常に、はじめの愛に帰ること、常にキリストの死と葬りと復活と一つであることを知ること。
ガラテヤ2:20
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
もはや私ではなく、キリストが生きているということ。神は、そういう私たちの中におられて一緒に事業をなされたい。預言、み言葉の奉仕、励まし、癒し、神と一つとなって働くこと。神の荷姿というのは、どこまでも、一つであることだ。
★愛の中にとどまること
ヨハネ14: 23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」Jesus answered and said to him, “If anyone loves Me, he will keep My word; and My Father will love him, and We will come to him and make Our home with him.
私の命令を守るなら、あなたは愛にとどまっている。
人は、人に愛された通りに、また人にするものです。これが、生きた命令です。神の言葉・愛があなたの中に生きるようにするには。愛にとどまること。多く愛され、おおく赦されることによります。
あなたは、神の言葉です。イエス様の美味しい実を周りの人に食べてもらいましょう。それが、あなたの働きであり、召しです。
ぼ
これは、先週の写真ですが、最近ギターの練習の成果が出てきて、Mさんが一人でも奏楽の奉仕ができるようになりました! すごい!! さすが、男性ですねーー。楽器を練習している方々もいらっしゃるので、これからも楽しみです。。。牧師としては、喜んで主に仕える姿を見ることが何より一番の喜びです。技術は二の次三の次です。。。。
2017年7月23日日曜日礼拝メッセージ音声は
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★人生とは、対話である。
前回のメッセージを覚えていますか。人とは、神と対峙し、神に応答するために造られているというお話しでしたね。マーチン・ブーバーという、有名なユダヤ人哲学者が言うには、「人生とは、対話である」。第一回でも話したように、私たちのアイデンティティは、人との関係性の中で見いだされる。三位一体の神の関係から学びましたね。また、感情についてのお話しでもいかに、自分にとって対峙する相手が必要か分かりましたよね。人は、他者と対話をするごとに、自分を見出していくのです。不思議なことですが、私たちの傷というものは、人から来ます。でも、癒しも人からくるのです。私たちの人生にとって他者は切り離せない存在です。人生は対話。対話の中で自分を見出し、癒され、そして成長していく。隣人は、対峙しコミュニケーションをとる相手である。すなわち愛の対象であり、共感の対象である。ブーバーは、真の私と、隣人が本当に出会うところに神が働かれる。と言います。少し、真の私とは何かということを探ってみたいと思います。
★私になるという召し。
私たち一人一人に名前がついているように、私たちには一人ひとりユニークなデステニーが神に用意されています。神の意図された私になるには、召しがいる。召しがある。召しというのは、すべての人に与えられている。神からの天職というか、神の目的ともいえましょうか。自分が自分になるために献身する必要ある。私たちは、自分が分かるまで、自分の人生の目的が分かるまで、すっきりしないのではないでしょうか。
私がよく聞かれる質問に、どうやったら自分の召しが分かるのですか? 私は、どうやって自分の召しを自分のものにしたらいいですか? 私は、宣教師になるという召しが与えられましたが、どうやったら宣教師になれますか? と聞かれます。実は、この質問は本末転倒なのです。
召しは、あなたであることが召しなのです。もし、健全な神に造られた通りのあなたであるなら、ほかの働きはすべてついてくるのです。頑張って達成するゴールではないのです。
ただ、そこには、コミットメントが必要。自分が健全な自分になるために献身しなければ到達できません。ふわっと、ただ生きているだけでは到達しません。ライザップも結果にコミットするというてます。。
1、 神との対話を大切に
2、 人との対話を大切に
3、 真剣に神の声に従う= 神を恐れる= 神の愛することを愛し、神の嫌うことを嫌う
4、 自我に死ぬことを知ること
5、 赦すことを学ぶ = いつも心の癒しを受け取っている
これらをまとめると、愛することと言い換えることができます。愛の中にとどまること。神を愛し、自分を愛するように隣人を愛すること。
召しは、賜物ではありません。神に造られたあなた自身になることです。私たちは、神のために生きる。または、自分の召しを全うするということに関して、たびたび賜物を用いることと混同して考えてしまいます。ですから、パウロは、他者の集まりのキリストの身体のことを説明し、そして、愛について説明し、それから聖霊の賜物について説明しているのです。一緒に、あなたがあなたとなるために必要なみ言葉、を読んでみましょう。
★最も優れているのは、愛。
Ⅰコリント13章
たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のしたあくを思わず、6 不正を喜ばずに真理を喜びます。7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔を顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知らされているのと同じように、私も完全に知ることになります。13 こういうわけで、いつまでものこるものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
賜物を追いかけるでもない、実際、聖霊様が働かれるのは、召されて、召しに応じているあなたが、神と対話し、対峙する中で、他者に出会うときに、流れるものがある。それが、神様のお働きであり、御業である。エリックの父の日のメッセージでも話されましたが、愛によって、父から子に渡る霊的財産があるのです。イエス様も、ヨハネ14: 15 「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」If you love Me, keep My commandments.と言われました。愛の関係のあった人の信念というのは、自然に受け継ぐものです。死んだおばあちゃんがよく、こんなことをしてくれた。私も知らず知らずのうちに、同じことをしているな、と、言うものです。
★神の働きは、受肉の働き。
私たちの働きというのは、神の言葉の受肉の働きです。愛によって、私と神とが一つになっている時、用いられる。一つになることも、愛。相手に向かう愛がなければ、働きもない、また働きの実も愛である。神と一つになることは、先週も感情というシグナルも大切だという話しをしましたが、「死」も大切な要素です。「死」とは、どういうことでしょうか。それは、古い肉の自分に死ぬことです。自己中心の肉が、愛の一番の邪魔者です。
受肉を考える時に。。。神と一つになるためには、いつも心の一新(ロマ12)悔い改めしかありません。
ガラテヤ2:20
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
もはや私ではなく、キリストが生きているということ。神は、そういう私たちの中におられて一緒に事業をなされたい。預言、み言葉の奉仕、励まし、癒し、神と一つとなって働くこと。神の荷姿というのは、どこまでも、一つであることだ。
★愛の中にとどまりなさい。
ヨハネ14: 23
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」
私の命令を守るなら、あなたは愛にとどまっている。
神を愛することは、神の愛していることを心から愛し、神の嫌うことを嫌うことです。今日、神に対峙し、神と対話し、また人との交わりの中で、自分を見出し、真の自分になることにコミットしませんか?
ぼ
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