栄光は対面の中に Glory is in “face-to-face”
8月
14日
今週ある方と話していて、ディスカッションしたことを分かち合いたいと思います。みなさん、イエス様の変貌の箇所を読んだことがあるでしょうか。そこから、今日は学んで行きたいと思います。
マタイ17:1-8
1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。3 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。8 そこで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。
マタイ16章、17章にはいろいろとペテロの言動が取り上げられて出てきます。時期は、イエス様が十字架にかかる前に弟子たちに心備えを促していた時。十字架で死ぬんだよーと教え始めたころです。ペテロは、あなたは私を誰というか? と聞かれ、「あなたは神の子キリスト」と告白し、それは神様が言わせてくれているのだよと、ちょっとほめられた感じになり、その後、イエス様が殺されるんだよ、という話になると、「いやいや、そんなことないよ」とイエス様をいさめて、「下がれ、サタン」と怒られちゃったりしました。
私たちは、こんなペテロの姿を見て、自分を見るような気分になります。。。あるときは、霊的で、聖霊によって、バシッと話せたり、そうかと思えば、とても肉的になって、神様に叱られたり。。。私たちは、そんな危うい存在なのかもしれませんね。誰しも経験が。。。
その出来事の一週間後、イエス様は、特別に三人の弟子を連れて、山に登りました。そして、不思議な体験をしたのです。
★ 神は公平、不公平?
イエス様は、このペテロとヤコブとヨハネをいつもそばに置きました。ゲッセマネにだって連れて行きました。ここぞ、というときには必ず連れて行きました。イエス様にはほかにも弟子はたくさんいました。女の弟子たち、12弟子、七十人弟子。。。。どうして三人だけ。。。肉的な人は、三人を特別扱いされていると思うかも知れません。どうやったら、あの三人になれるのか。。。などと、実際に、他の箇所では、誰が天でイエス様の近くに座るかなどと議論されたり、誰が一番偉いかと議論される箇所がありますね。私たちは、肉の目で見ると、このような失敗をします。
ヨハネの16章でも、「あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選んだのです。」とあります。神様の世界は、教室的な学校ではないのです、一人ひとりにカスタマイズされた選びがあり、使命があります。誰が偉いとか、下だとかありません。ただ一つ、賞賛に値するのは、自分の置かれた場所で、導かれていることに、忠実であることです。小さいことに忠実である人は、多くをやがて任されるようになります。(ルカ16) 私たちが注目するべところは、いかに神に誠実に、忠実であるか。。。である部分です。
忠実であるときに、神の喜びとともに喜ぶというご褒美に預かることができるのです。(マタイ25)
★ 変貌への応答から学ぶこと
さて、この三人は、この光栄な出来事の中で忠実であることでできたのでしょうか。。。
2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。3 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。
① 栄光のとどめ方レシピ?
ペテロは、あまりにもすごい光景を見て、驚きました。モーセとエリヤは、モーセは神から律法をいただいた偉大な指導者、エリヤは預言者の代表、ユダヤ人にとっては二大英雄、律法と預言二つ合わせて聖書全体をあらわし、それを全うしたイエス様と出会っている様を見たのです。なんというすごい光景。しかも、光輝き、この世のものとは思えない光景です。いよいよ、十字架の話をみんなにしている時期に、旧約の二大英雄、そして神の教え全体を表す二人と「あなた方に新しい戒めを与えよう、互いに愛し合いなさい」と言われた、新しい生き方のイエス様が対面しているというこの意味深さ。。。弟子たちには理解できたのでしょうか。
その時、ペテロは、あまりの栄光に圧倒されて、これを保てればいい。。。ずっとここにいたい。。。とも思ったことでしょう。彼は、話しているイエス様に割って入って言いました。「おひとりおひとりのためにここに私が幕屋を作ります!」と。。。ここに、私たちへの警告が示されています。
私たちは、何かすごいムーブメントがあれば、それと同じことをフランチャイズしてそのムーブメントをとどめようとします。幕屋を立てて、そこにとどまってもらう。。。というのは、何か、クッキーカッターのように、これをすれば、この栄光がまた来るという期待からのもので、これが、宗教の霊の始まりです。クッキーカッターとムーブメントの約束があれば、神との関係なんていらないのです。また、信仰なんて必要ないのです。型、形、に神はいないことを私たちは知らなければなりません。
② 栄光はどこにあるか?
みなさん、この栄光は、どこから来ていたのでしょうか。。。それは、モーセとエリヤとイエス様がそれぞれ顔と顔とを合わせて語り合っているそのただ中にあったのです。やり方や、フランチャイズされたムーブメントではないのです。神との対峙の中に、栄光は宿るのです。
ブーバー。。。純粋な二人の人が対峙するところに神がいる。。。私の証し。
神との対峙、対面こそが一番のメッセージであって、現象ではないのです。現象は、とどめることができません。それは、無くなったり、行ったり来たりします。けれども、愛、神との出会いは無くなりません。
③ 彼の言うことを聞きなさい
ペテロが幕屋の一件を言うと。。。天からの声が、「これは、私の愛する子、私はこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がしました。
私たちの第一とするものは、ムーブメント、現象ではなく、イエス様の声に聞き従うことです。「見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(一サムエル記15)つまり、聞き従うことは、宗教に勝るのです。私たちは、イエス様との関係、出会い、対峙、愛の関係を宗教に成り下がらせてはいけないのです!
★ 変貌目撃の結果
マタイ16章の最後の方に、「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私についてきなさい。」V24 とありますが、この栄光を目撃した三人は、みな神様のために死にました。ヤコブは初めの殉教者となり、ペテロも十字架刑になりましたし、ヨハネは、パトモスで死にました。
現象をとどめようとしたペテロは、後の文書でこのように書いています。
Ⅱペテロ1:16-19
私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
彼は、試練の中で、あの体験で経験した、神との対話、顔と顔とを合わせる中にある栄光に思いをはせながら、耐えたのです。神との出会いが彼の生涯の力となったわけです。あの栄光のある天国を見据えながら耐え抜いたのです。それは、信仰によりました。
神との対面は、私たちを強める。私たちは、神と対面しながら、日々生活し、日々奉仕し、試練に耐え、等々。。。全て、神との関係、神と顔と顔とを合わせながら歩むのです。
私たちは、あの現象がこの現象がと現象を追いかけてはいないでしょうか。あれさえあったら。。。などと。。。しかし、あなたが愛の関係、日々のface to faceの時間が神とないならば、栄光などないのです。神を心から求めませんか? 神との愛の関係を築くことをもう一度考えてみませんか?
ぼ