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大丈夫か、ジャストシステム!? 農水省が「一太郎やめてWordを使うんじゃ」と決定。

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今年も、「一太郎」の季節がやってきた。

バージョンアップのお知らせが届いたのである。毎年毎年、この時期になるとカタログが送られてくる。

一太郎と言っても、ほとんどの方は知らないだろうが、ジャストシステムという会社が出しているパソコン用のワープロソフトだ。日本語変換のATOKの方が有名かもしれない。

私はパソコン黎明期からパソコンをいじっている初期型のオタクなのだが、そういう人間からすると、実に付き合いが長い会社である。もう、30年ほどになる。最近のジャストシステムは、マイクロソフト帝国のWordに蹴散らされて、ワープロソフトのシェア的には、もう虫の息だ。

日本語を書く上では、Wordの百倍はいいのだが、まあ、いいものが売れるとは限らない。パソコンの世界では、例えばWindowsなどという厚化粧の婆さんが、すっぴんで美しいMacよりもシェアが高いわけで、時々、そういう不条理が起こる。

さて、一太郎は長い間ワープロのスタンダードであり続け、特に役所や学校などではシェアが高かった。細かいところに手が届く機能や仕様により、入力から印刷まで非常に快適に行うことができたのである。

ああそれなのに。

農林水産省が一太郎からWordへの切り替えをはじめることとなった。

「Wordに統一することで効率化でき、働き方改革につながる」と言っているらしいのだが、いやいやいや、それはない。いくらなんでも盛り過ぎである。AIが搭載されたワープロでもあるまいに。

「これまで一太郎の方が使用頻度が高かったが、省外で文書を確認しづらく残業が増えがちだった」と農林水産省の幹部は言う。「若手からWordに統一してほしいという強い要望があった。また、取引のある民間企業の中には、一太郎の文書の閲覧・編集のためだけに使用契約をしているケースもある。Wordに統一することで企業側の負担も軽減するのではないか」

役所の文書なら一太郎の方が効率的であることは間違いないのだが、「何、これ? こんなの使えねえよ」と若い人たちがブツブツ言ったのだろう。私のようなワープロ&エディターフェチからすると、「もっと好奇心を持っていじってみろよ」と思うのだが、普通の人には単なる仕事の道具に過ぎないのだ。まあ、仕方がないね。

一太郎は、痒いところに手が届くというか、届きすぎて痒くないところまでかいてしまうというのが特徴で、もうちょっとシンプルで汎用性を重視した設計でも良かったように思う。

ただ、例えば括弧の入力などは非常に快適なのだ。「 や ( を入力すると、自動的に 」や ) が入力され、カーソルが「」の間に移動する。後は、そのままセリフを入力すればいいだけだ。また、a) と行頭に打って改行すると、次の行頭に b) が自動的に入力されるようにもできる。細かなことだが、効率は上がるのである。

また、文書作成だけではなく、書類のレイアウト、目次や索引の作成から、折りの入った製本用の印刷まで、一太郎ならWordよりも簡単に美しくできる。資料や企画書作りの効率アップになると思うのだが……。

従って、農林水産省の「一太郎のせいで残業が増える」という発言には、納得がいかない。正確には「みんな一太郎に慣れていないし、今さら新しいアプリを使いこなすのは面倒なのでWordにします」というのが正しいのではないか。

などと一太郎をかばいながら、私自身一太郎から遠ざかり、Scrivener(スクリブナー)だMeryだATOMだと、別のソフトに目移りしている状態である。最近、一太郎を起動したのはいつだったか? もはや記憶にないのである。

私は、駄文しか書かないのだが、それでも売文業者であり、考えてみれば随分と一太郎で稼がせてもらった。字がヘタで漢字を知らない私が、ここまで来れたのは一太郎のおかげと言っても過言ではない。

久しぶりに一太郎をバージョンアップしてみるか、と思う。

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まさにSUPERMARKET FANTASY(ミスチルとは、ほぼ関係なし)

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まさにSUPERMARKET ...


スーパーには、時々行く。

割りと好きなのが果物売り場と野菜売り場である。特に果物売り場は、最近は食べたことがないような品種も多くて楽しい。「ほお、ドラゴンフルーツも安くなったものだな」などと感心しながら、見て回る。だが、買わないのだ。

珍しいだけで買ってしまうと、結局、後悔することになる。たいていそうだ。バナナやぶどう、いちごなどの果物がなぜポピュラーなのかが理解できる。うまいからだ。珍しい果物がなぜ珍しいかというと、うまくないから広まらなかったのだ。自明の理である。

ちなみに、サラックという果物は、茶色くてブツブツがあって見た目は不細工だ。

「ほお、えてしてこういう外見のほうがうまかったりするもののだ。人間と同じだな。薄っぺらなイケメンと深みのある不細工。チャールズ・ブロンソンの魅力に通じる」

などとウンチクを語りながら購入した。皮は硬いがむきやすい。「むかせてなるものか」と意地の悪いオレンジとは違って性格はいい。味は、たぶんライチ系だったと思う。飢えていたら食うが、金を出して食べたいとは思わない味だ。もう、一生食べることはないだろう。見た目通りの味だった。

鮮魚コーナーは、魚の死体が目をむいているので、あまり得意ではない。誰か目を閉じてやれよ、といつも思う。だから、たいてい素通りする。

そもそも骨から身を外すのが面倒なので、あまり魚は食べない。ブリの照焼だから骨はなかろうと身を口に入れた途端、端っこに隠れていたでかい骨が喉をつき、「おえっ」と嘔吐反射を起こすことがある。非常に危険な食べ物だ。

もっと怖いのが肉売り場である。これは、もう見た目に怖い。さらに生い立ちが怖い。

ズラ~ッとパックに入った肉が並んでいるのだ。こうした肉は、考えてみれば、ついこの間まで「モーモー」やら「ブーブー」やら「ニャーニャー」などと鳴いていた生き物だったのだ。 私のような想像力豊かな人間は、つい、そこまで考えてしまうのである。

これだけの肉、いったい何頭の牛や豚が犠牲になっているのか。すべての命が尊いとは考えていないが、人が食うために多くの動物の命が失われていると考えると少し怖くなるのである。

ブラジルの映画だったと思うが、首を切断されたニワトリが声も上げずに逃げ惑うシーンが蘇る。あれは怖かった。落ちた頭が悲鳴を上げていたのだろうか。カーネル・サンダースさんは、とてつもない虐殺者なのだ。何匹のニワトリの首を切り落としたのだろう。

見ている内に、ニワトリの肉がパックから躍り出て、声なき悲鳴を上げながら店の中を走り回るような気がしてくるのである。スーパーは、スリルとサスペンスに満ちた異空間なのだ。つまり、スーパーマーケットファンタジーだ。

ちなみに、ミスチルの「SUPERMARKET FANTASY」は持っている。ありふれた言葉であるスーパーマーケットとファンタジーの組み合わせは、なかなか秀逸だ。二つの言葉が合わさって、新しいイメージを生み出している。

例えば、うんことちんちんを組み合わせた「うんこちんちん」に通じるものがある。さすがはミスチル。桜井和寿、ただ者ではない。

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映画「夕日のギャングたち」の名セリフ。一度だけで充分なのは何だったのか?

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映画「夕日のギャングたち」の名...
女性のほうが好きである。私は男だから、まあ普通の話だ。

最近は性的マイノリティに配慮する必要があるらしいので、「それが当然だ」とか言ったりすると面倒なことになるので言わないが、あやふやにしておくと、「同性愛者かな」と勘違いされるかもしれない。それはそれで困るのであえて言うと、私は断然女性の方が好きである。徹底的に好きと言っても過言ではない。

さて今日は、女性と3時間ほどブラブラしたのだが、仕事絡みとは言え楽しかった。ところが明日は、オッサン連中とブラブラしなければならない。

ああ、憂鬱だ。とてつもなく憂鬱だ。

何が悲しくて、オッサン連中とブラブラしなければならないのか。明日会うのはオッサン3人だから、ブラブラも3倍である。想像するだけでおぞましい。

ブラブラさせるのは、自分のキンタマだけで充分である。

それで思い出したのだが、「◯◯だけで充分だ」というセリフで素晴らしいのがあった。今日は女性が好きだという話を書こうと思っていたのだが、そちらのセリフの話にしよう。

キンタマをブラブラさせるより、はるかに美しい話なのでぜひお読みいただきたい。

「夕陽のギャングたち」という映画の話である。

監督は、セルジオ越後に似た名前のセルジオ・レオーネ。もちろん、セルジオ越後さんとは無関係である。

メキシコ革命の動乱の中、アイルランド人の革命家がメキシコにやってくる。爆破の名人だ。演じるのは、ルパン三世の次元大介にそっくりなジェームズ・コバーンである。足が長くて細い。カッコイイことこの上ない。

テーマは、友情である。

主に二つの友情が描かれる。現在の相棒との友情と、過去に過ぎ去ってしまった友情だ。主人公は、かつて親友に裏切られ、そのために親友を殺さねばならなかった過去を持つ。

そんな主人公が、一人の革命の同士と出会う。実は彼には、拷問にかけられたあげく裏切り者になってしまった経験がある。仲間は誰も知らない。だが、自分が隠れ家をしゃべったために、多くの人々が犠牲になったのだ。

「裏切ったのは、お前だろう」

そう言う主人公に、彼は胸の内の苦しみを主人公に吐き出す。

「おれを責めるのか。だったらおれを殺せ」

苦悩に顔をゆがめる裏切り者に主人公は言う。それが今回ご紹介する名セリフである。悲しみと諦観の混じった表情で主人公が言う。

「人を裁くのは、一度だけで充分だ」

主人公の脳裏に、かつて親友だった男の顔が浮かぶ。自分が撃った弾丸に倒れていく親友の苦痛に歪んだ顔がクローズアップされる。

過去のつらい記憶がスローモーションで蘇り、美しい音楽とともにそのシーンが再現される。親友の額から流れる血。崩れ落ち、画面から消えていく姿。重なる旋律。

その世界の美しいこと。

もちろん美的感覚は人それぞれである。金ピカのロレックスに美しさを感じる人を、私は否定しない。だが、このシーンの美しさがわからない人は、人間ではないと私は断言する。きっと地底人なのだ。早く地底に帰りたまえ。

セルジオ・レオーネの作品では「ウエスタン」も素晴らしいが、この「夕日のギャングたち」もそれに匹敵するくらい素晴らしい。

ちなみに、私が一度だけで充分だと思うのは、脱糞である。小学生のときに私は脱糞した。あの時の記憶は、今もくっきりと脳裏に刻まれている。開放感と絶望感が混じり合ったあの時の感情。おそらく死ぬまで忘れないはずである。

せっかくの美しい映画の話の冒頭がキンタマで、最後が脱糞である。汚い話で申し訳ないが、しかし、あなた、キンタマやウンコが汚いと思うのは、それは明らかに偏見でありヘイトであり(以下略)


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ハゲで不細工でコミュ障のオッサンが主人公の悲しいゾンビ映画「ベルリン・オブ・ザ・デッド」

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ハゲで不細工でコミュ障のオッサ...
上の写真のオッサンが主人公です。

いやあ、ハゲてますね。それほどの歳じゃないんだけど、ハゲてます。結構、額も広いんですよ。もう、復活する可能性はないですね。アデランス待ったなしです。

しかも、顔が不細工なんですよ。いや、それほど不細工じゃないな。目鼻立ちは見ようによってはいいんだけど、ちょっと精神が病んでるような、異様な雰囲気というか、オタクというか、パッと見てノーサンキューと言いたくなるような顔をしてます。まあ、ハゲの時点で終わってますがね。

おまけにコミュ障です。

冒頭のシーンでも、男を相手に「なぜ僕を捨てて出ていったんだ!」などと言ってるんですが、振られた女に言うセリフの予行演習をやってるわけです。もう、そんなことをやる時点でアウト~!ですよ。間一髪アウトじゃなくて、ホームベースの5メートルくらい前でアウト~!です。救いようがない。

で、冒頭のシーンで出てくる相手の男も、不細工というか華のない頭の悪そうな人物で、なんか見ていてドヨ~ンとしてくるわけです。「えー、おれ、せっかくの休みをこんな映画見て過ごすの?」なんていう気持ちになっても無理はないでしょう。

いや、心配ご無用。

この映画、わずか62分の作品なんですよ。これが140分の映画ならおすすめなどしない。62分なら、多少できが悪くても我慢できる範疇です。あの伝説的駄作と名高い「ガッチャマン」や「デビルマン」だって、上映時間が62分なら、あれほどの低評価にはならなかった。「まあ、短いからね。ええんとちゃうの」と許してもらえたはずなんです。

いやいやいや、この映画は、あれほど酷いわけじゃないです。

それどころか、そこそこ面白い。ほとんどがアパートでのシーンだし、ゾンビ映画定番の「ヒャッハー、デパートで欲しいもの取り放題だぜ!」というのもないし、街並みは殺風景だし、スカッとするシーンもない。やっぱりハゲのオッサンが主人公なだけあって、展開も地味なんですよ。

しかし、あなた。

ハゲだからと言って、馬鹿にしてはいけない。ハゲだってオケラだって、みんなみんな生きているんだ友達なんだ。ハゲでもやる時はやるんだ。これがハゲの底力だ。最後は、侠気をしっかりと見せてくれるわけです。

いやあ、ちょっと感動しました。

ゾンビ映画ということで、「生と死」というテーマが流れているのは当然なんですが、もう一つ、この映画には「美しさと醜さ」というテーマも存在します。もう一人の主要な人物に若い男が出てくるんですが、これがイケメンでしてね。中年のハゲのオッサンとの対比が実に見事、というか切ない。

という訳で、ハゲの私としては悲しい悲しいゾンビ映画だったのです。


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あなたは、福島瑞穂さんの握ったおにぎりを食べられるか?

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あなたは、福島瑞穂さんの握った...
ネットで見たんだが、他人が握ったおにぎりを食べられる人は52.2%、食べられない人は47.8%なんだそうだ。

異議を唱えたい。

徹底的に異議を唱えたい。

例えば、私の知り合いに山田君というのがいる。いい男なのだが太っていてすぐに汗をかく。歩いていると手の甲が汗で光りだし、結構涼しくなっても、彼のシャツは脇の下や背中が変色している。この間は、打ち合わせの椅子に汗で尻の跡が残っていた。

そんな彼が素手でおにぎりを握り、それを「どうぞ」と出されて、あなたは「いただきます」と言えるか? 私は言えない。ノーサンキューである。食べるという人は、たぶん飢え死にしかけている人だけだ。0.3%もいないだろう。

もう一人、私の知り合いに女優に混じっても目立つような女性がいる。性格が地味なので表舞台に立とうとはしないのだが、一緒に歩いていると、いつも「あの隣のハゲはなんだ」という目で見られる。視線が痛いのだ。最近は、「ちょっと離れて歩いてくれたまえ」とお願いしている。

彼女の握ったおにぎりなら、おそらく99.98%の人が食べるだろう。例え彼女が汗まみれで、トイレに行ったあと手を洗ってなくて、ついでに鼻くそをほじくったあとであっても、96.99%の人が食べるに違いない。私も食べる。

つまり、「他人」が誰なのかが問題なのだ。

食にこだわりのありそうなタモリさんなら、うまいに決まっているから食べる。マツコ・デラックスさんなら、とりあえず食べる。広末涼子さんなら一万円出して買う。

政治家ならどうだろうか?

蓮舫さんなら、私が食べる確率は27%。山尾志桜里さんなら5.2%。「このハゲーッ」の豊田真由子さんは、70%。ハゲの天敵だが、意外と普通に食べるような気がする。

辻元清美さんなら0.8%。福島瑞穂さんなら0.03%。ちなみに0.03%というのは、HEPAフィルターが通してしまう0.3 µmの粒子のパーセンテージであり、非常に小さな確率と言える。

ま、福島瑞穂さんが私におにぎりを握ってくれる確率は、限りなくゼロである。だが、完全にゼロではないところが、この世の面白いところでもあり、恐ろしいところでもある。

心の準備だけはしておきたいと思う。

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エルミナージュの探検隊(女性限定)

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はっきり言って女性が好きである。無類の女性好きと言っても過言ではない。

ただし、これはゲームの中のことであり、リアルな世界でのことではない。リアルな女性は、面倒くさいし金がかかるしよくしゃべる。静かなのは、寝ている時と死んだ時だけだ。

美容院に行ったことに気がつかなければ気がつかないとなじり、ジャムの蓋が開けられないと男のくせにとなじる。毎日なじられてばかりなのである。

さて、今日は「エルミナージュ」のことを書こう。

「エルミナージュ」は、ウィザードリィ系RPGの正当な後継者であり、オートマッピングなどの軟弱な機能は付いているものの、そのシステムや雰囲気は、古き良きウィザードリィによく似ている。

もう少しビジュアルが美しければ文句ないのだが、まあ、これはハードの制約もあるのだろう。「世界樹の迷宮」と比べると古くさい感じなのだが、そのあたりもウィザードリィに近いと言えば近い。

「世界樹の迷宮」のキャラクターがアニメ調に描かれているのに比べ、「エルミナージュ」はぱっと見下手くそな自画像といった感じである。まあ、それも愛嬌だ。

で、冒頭の話に戻るのだが、私は無類の女性好きだから、キャラクターを作成する時も女性しか作らない。

例えば、エルミナージュの場合は、戦士はエルフ族の花子さんとワービースト族の春子さん、狩人はワービースト族の菊子さん、僧侶はワービースト族の聖子さん、盗賊はホビット族の良子さんで魔術師はエルフ族の純子さんである。

ウィザードリィと同様、キャラクター作成時にボーナスポイントがランダムに決められるのだが、まず、それに時間をかける。基本的には、20ポイント以上を狙う。さらに名前を考え、手間を掛けて漢字に変換し、特に顔の選択には時間をかける。

うーん、この顔だと春子さんと菊子さんがかぶってしまうな。同じ種族だから仕方がないか。とは言え、かぶらないこちらの顔は好きじゃないしな、などと一つのキャラクターを選ぶのに30分ほど悩む。

6人のキャラクターを作り終えるのに、三日ほどかかってしまい、それだけでゲームを終えたような疲労感が漂うのだ。

今、「エルミナージュ2~双生の女神と運命の大地」を再開しているのだが、不満な点は、ただ一つ。ゲーム内で登場するNPC(ノンプレイヤーキャラクター)が、やたらギャグっぽく、まるで吉本新喜劇であることだ。へたれの坊ちゃんをからかうメイドやら認知症気味の爺さん婆さんやらが設定されていて、悪くはないのだが、ちょっと長いのである。

ちなみに最新の「エルミナージュ ゴシック」はまだやっていない。Amazonで確かめると、中古でも結構高い。定価とほぼ同じ価格なのだ。数が出ておらず、一定のファン層がいるからだろうか。

「カートに入れる」をクリックする手が、つい止まってしまうのだ。

エロ本なら河原に行けばいくらでも落ちているのだが、「エルミナージュ ゴシック」が落ちている場所は、どこかにないものだろうか。アキバの路地裏とかなら、結構落ちていそうな気もするが……。


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鈍感のゆくえ

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年を取って、「変わったな」と思うことがいくつかある。

午後二時をすぎると、目がかすんでくる。夜中の一時過ぎに尿意で目が覚める。足の小指を家具でぶつけても、若い頃なら「痛っ」と顔をしかめ、自分のミスに腹を立てたりしたのだが、今は何とも感じない。

痛いには痛いのだが、それが怒りに届かない。

考えてみれば、寒さにも鈍感になっている。

若い頃は、冬の朝は起きるのが大変だった。タイマーで暖房を付けておき、十分に部屋が暖まってからようやくふとんからはい出したのだ。

今は、寒さも平気だ。ふとんからサッと起き出し、寒い部屋の中、普通に服を着替える。「よしっ」という気合いも思い切りも必要ない。

痛みや寒さに対して鈍感になっているのだろう。刺激に対して鈍感になっていると言ってもいい。

そう言えば、映画や小説から受ける心の動きも小さくなったように感じる。子供の頃「猿の惑星(1968)」を見て、衝撃のラストに「地球だったのかっ」とテレビをつかんでゆさぶったのだが、今は「ミスト」のあの衝撃にもさほど心は動かない。

「あ~あ」と小さくため息をつき、「決断をちょっと早まったよなあ」とつぶやく程度である。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」をこの間見返したのだが、再見とはいえまるでこたえなかった。

今なら「火垂るの墓」だって平気で見られるような気がする。

今、気がついたのだが、夜寝る時の姿勢と、朝起きた時の姿勢が同じなのだ。ふとんもほとんど乱れていない。

もしかすると、寝返りをうっていないのではないか。子供の頃は、ごろごろ転がって、いつも朝起きると隣の部屋にいた。ピアノの下が私の起床場所だったのだ。

寝相がよくなったと喜んではいられない。生命力が落ちてきているのだ。きっと死にかけているのだと思う。

さすがにまだ死にたくはないので、今日は、寝ている途中でゴロゴロ転がって、階段も転げ落ち、朝起きたら、キッチンのテーブルの下で寝ていたという状況を目指したいと思う。

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伊右衛門茶の謎

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サントリーの「伊右衛門茶」は滅多に飲まない。

私にとってお茶と言えば、昔から「お~いお茶」と決まっている。正露丸ならラッパのマークしか認めないし、缶コーヒーはBOSSのレインボーマウンテン、さらに言うなら、三時のおやつはキャラメルコーンしか食べない。

極めて幼児性の強い性格である。

なぜ、伊右衛門茶を飲まないのか。そもそも「伊右衛門」と名乗りながら、読み方は「いえもん」である。「右」はどこにいったのだ。「いえもん」であれば、「伊衛門」と表記すればいいわけで、なぜ読みもしない「右」を入れるのか。

私は、そんな訳の分からないやつは嫌いだ。

もしかしてネトウヨなのか。どうしても右を入れたかったのか。そんなに右翼が好きなのなら、次の選挙では桜井誠に投票すればいいのだ。おわり

これで記事を終えるのはさすがに安易だと思えるので、ちょっと調べてみたのである。

問題は、「衛」である。「右」には罪はなかった。

実は、「衛」は「ゑ」が元々使われており、本来の読み方は「うぇ」だったのだ。となると伊右衛門は「いううぇもん」と発音するのが正しいのだが、古来、日本では母音が連続するのを避ける傾向があったのだという。そもそも「いううぇもん」ではしゃべりづらい。

おそらく舌が短い偉い人が、人前でうまく発音できなくて恥をかき、「もう、右は読まんでいい」と癇癪を起こしたのではないか。だったら表記も「右を入れるのは禁止な」と決めてくれれば後世の私たちが思い悩む必要もなかったのであるが、そこまで知恵が回らなかったのだろう。

まあ、昔の人だから文句を言っても仕方がない。これからも我慢して「いえもんちゃ」と呼ぶしかないのである。

ちなみに私が愛飲している「お~いお茶」は、1968年にテレビCMのフレーズとして生まれ、商品名として使われるようになったのは1989年だ。随分と長寿な商品である。

私が物心ついた頃には存在していたわけで、つい選んでしまうのも納得だ。ただ、心配なのが、長寿過ぎることだ。「お~いお茶」以外の緑茶がほとんど出ていないわけで、そろそろ新しい風を吹き入れる時ではないか。

とりあえず「わ~いお茶」と「へ~イお茶」を提案したいと思う。よければ使ってくれたまえ。



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「はれのひ」が涙雨になった日。晴れ着を着れなかった、あるいは着なかったあなたへ。

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「はれのひ」が涙雨になった日。...
成人式とは、成人になった覚悟を迫る式であって、祝うためのものではない。従って晴れ着や羽織袴など言語道断。戦闘服で行かんかいっ、などと私は考えているのだが、そんな偏屈な人間は大人には少数なので、これから成人になる方々は心配しなくていい。

おそらくこれからもずっと成人式は祝う日であり続けるだろう。

さて、成人の日のニュースで注目したのは、やはり「はれのひ」という貸衣装屋の当日バックレ詐欺事件である。「はれのひ」は、横浜市などに店舗を置き、着物の着付けやレンタル、販売を手がける業者なのだそうだ。

成人の日の当日、契約した新成人らが「いよいよ今日は成人式」と行ってみたところ店が閉まっていた。あわてて電話をしてみるもつながらない。他の業者の協力で着付けできた人もいたが、それは一部の人だろう。一人あたり数十万円を支払っていたといい、被害者数は300人ほどと思われる。

成人の日だからとなぜ晴れ着を着るのか、と普段ブツブツ言っている私でも、この事件はさすがに被害者が可哀想に思える。店舗に行って、そこが空っぽであった時のショックは何となくだが想像できる。

頭の中が真っ白になるという陳腐な表現があるが、まさにその通りなのではないか。

一人の女性が「成人式には出ません」と健気に語っていた。彼女だけではなく、彼女の晴れ姿を楽しみにしていた親や祖父母がいるはずで、そのことを考えると胸が詰まった。

私は思わず、自分かドラえもんだったら何とかしてやれるのにっ、と本気で悔しがった。私が魔法使いサリーなら一瞬で解決できるのにと残念がり、さらには私が福山雅治なら「残念だったね。でも、これからぼくと二人だけの成人式をやろうじゃないか」と言ってやれたのにと妄想が発展したのである。

まあ、私の妄想などどうでもいい。

これだけのニュースになった以上、警察は動くだろうし、捜査にもかなりの力を入れるのではないか。これを取り逃したら神奈川県警の汚点がまた一つ増えてしまうのである。行方がわからない社長も、おそらくすぐに見つかるだろう。

今頃は、「こんなはずではなかった」と怯えているのではないか。

「はれのひ福岡店」だけは業務を行っていて、店舗責任者の女性は「社長とは今年に入って連絡が取れていないが、新成人の予約が入っており、スタッフと話し合って対応しようということになった。お嬢さんたちを泣かせるわけにはいかないと思った」と語っている。できれば、他店との連携もしてほしかったが、まあ、横浜と福岡ではちょっと無理か。もしかすると地理的なこともあって、社長の影響力が薄かったのかもしれない。

ちなみに「はれのひ」の社長は、篠崎陽一郎という人で、一部の信頼できない情報ではすでに上海に逃亡したとのこと。Facebookを8日夜10時過ぎに更新し、それに上海の位置情報画像があったらしい。記事はその後削除された。ただ、わざわざ位置情報を含めた更新をする意味が不明で、これは捜査を撹乱する目的でわざと晒したとも考えられる。また、この情報のすべてがフェイクである可能性もある。

会社のサイトもすでに削除されていて、なかなか手際がいい人のようだ。にっちもさっちもいかなくなってやむなくバックレたというよりも、開き直って「もう、こうなったら稼げるだけ稼いだるわい。後は野となれ山となれじゃ」という心境だったのだろう。

成人の日を迎えた皆さん。一部とは言え、こういう卑怯な振る舞いを平気でできる人間が存在するのが、世間というものなのだ。

ようこそ、大人の世界へ。


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「成人式」というよりも「二十七五三参り」か。そして、昔々、成人の日に私は。

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まるで理解できないのが、成人の日である。

若い頃からそうで、当然、私は成人式には出席していない。確かその日は、筒井康隆の「脱走と追跡のサンバ」の172ページ、主人公が血相を変えて一路自我町六丁目にある井戸時計店へ向かっているあたりから読みはじめ、夕方くらいには読み終えたはずである。有意義な一日だった。

成人式に行く理由として、友達に会えるからという人もいるようだが、私は「会いたい人にはいつでも会うし、成人式でしか会えない人には別に会わなくてもいい」派である。行く理由にはならないのだ。

昔から疑問だった。なぜ、成人の日があるのか。なぜ、成人式に行きたがるのか。おそらく当時からちょっとズレた人間だったのだろう。

まあ、今の成人式は多少の工夫があるようで、会場が豪華だったり娯楽性もあったりする。楽しそうだから行くというのもアリなのかもしれない。

私の頃には、ショボい会場に出かけて、確か国語辞典とか紅白饅頭とかをもらうのだった。そして、市長やら議員やらのつまらん話を聞くのである。まだ学生運動の尻尾が残っている頃で、日頃は「大人は汚い」「この権力の走狗が!」などと言っている男が、喜々として成人式に出かけていくのを見て、私は驚いたものである。「やっぱりこいつはアホだったか。もう、年賀状を出すのはやめよう」

今の成人式は、もう「式」というよりも「ファッションショー」である。女性のほぼ全員が着物で、男はスーツか着物。もう、七五三参りとかわらないのだ。「成人式」ではなく「二十七五三参り」とでもした方がいいのではないか。

あの着飾った姿をニュースで見るたびに、私は首を傾げる。

成人式と言いながら、その着飾り方は成人とは逆の行為なのではないか。精神の幼さが現れているような気がするのである。大人になることと、着飾ることの整合性が見えないのだ。まあ、着飾った中で、一人、今の身の丈にあった普段着で出席するのは勇気がいることなのだろう。そういうまっすぐに立てる成人が増えることを私は願っている。

幼さの顕著な例が、沖縄や九州などの一部の地域で見られる成人式だ。先程、横浜の成人式で着飾った成人が警備員に取り押さえられているニュースを見たから、地方だけの傾向ではないのだろう。

紫やら金色の羽織袴で着飾り、不細工な改造車で乗り付ける。祝辞の途中で酒を飲んで騒ぐ。彼らほど成人式が似合わない人間はいない。まさに七五三参りと同じ年齢層のバカなのだ。いや、近頃の七歳は、もっと賢い。

反社会的行為を繰り返しながら、市が主催する成人式には出席するという、もう何が何だか分からない自己顕示欲が肥大化した存在が彼らなのだ。成人式に出る代わりに、警察署の周辺を暴走するというのなら、その行為はまだ理解できるのだが……。もっと反社会性に徹底しろと思う。結局彼らにとっての羽織袴や改造車は、ファッションでしかないのだろう。

日本の夜明けは、まだまだ遠い。

成人の日、今は雨が降っている。今日の私は、PCで音楽を流しながら、相変わらず筒井康隆の「脱走と追跡のサンバ」を読んでいる。成長がないこと甚だしいのだが、好きなんだから仕方がない。

ちなみに今流れているBGMは、橋本潮「少年色のメルヘン」である。今から30年ほど前に放送されていた「おもいっきり探偵団覇悪怒組」のエンディングテーマだ。この曲も、若い頃から聞き続けている。

まるで成長がない。もしかして、アホなのではないかと自分でも思う。


中島愛(めぐみ)が少年色のメルヘンを踊ってみた

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