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【Day368】東日本大震災後のフクシマとコロナ禍

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【Day368】東日本大震災後...

「たいぞー、後ろ! 後ろ!」

2011年3月11日14時46分、私は職場でデスク・ワークをしていた。
背後に設置された巨大な書庫が私に襲いかかってくる瞬間、社長の一声で、間一髪、机の下にもぐりこむことができたのだった。
その直後に書庫が倒れてきて、複数の机を強打した。あのままフリーズしていたら、窒息死していたかもしれない。
机の下から脱出するのも困難だったが、本当の試練はここからだった……。


1歳半の息子たちを保育園に預けていた。無事なのか?
駅前で働く妻は? 両親は大丈夫か? みんな生きていてくれるのか?
何度も何度も、携帯電話を鳴らしたが、電話自体が機能してくれない。

仕事はいったん解散となり、法定速度を無視して保育園まで車を走らせた。

そこには、笑顔の息子たちの姿があった。
うちが最後のお迎え。息子たちを抱っこして守ってくれていた保育士さん。
不安から開放されたせいか、私の目は涙でにじんだ。
その後、妻も両親も無事だとわかり、その日は妻の先輩の自宅に避難した。


福島県郡山市。福島県のちょうど真ん中の都市。
津波の心配は無かったが、それからは、目に見えぬ「放射能」との戦いが待ち受けていた。

テレビを付けると、天気予報のコーナー内に線量の数値が発表される。
明日が「雨」でも「晴れ」でもどっちでもいい。
とにかく、線量の数値だけが心配だった。

2歳になっても、子どもたちを外で遊ばせることができない不安。
フクシマの食べ物の安全性が問われるようになり、「この子たちは、元気な大人になれるのか?」、毎日そんなことばかりを考えていた気がする。

ある日、子どもたちを長時間、公園で遊ばせたことで、妻とケンカになった。
どちらも「子」を思ってこと。私も妻も間違ってはいなかったと思う。
陸の孤島での生活は、我々家族の心をじわじわとむしばんでいく……。


それでも少しずつ、元の生活ができるようになっていった。

「がんばろう、日本」

復興の力で、少しずつ町が元気になっていくのを感じた。息子たちも制限なく、外で遊ぶことができるようにもなっていった。


あれから9年。

今度は、あの震災後のフクシマと同じような「厄災」が世界を襲った。

「新型コロナウィルス」である。

震災後は、フクシマから離れていく人もいたが、今回は、全世界がターゲット。

小学生高学年になった息子たち。学校が休校になり、あの日と同じように、数週間、家で隔離生活をすることになった。震災後のフクシマを経験した者にとって、このコロナ禍の生活は「デジャヴ」でしかない。

ふと、「東日本大震災後」と「コロナ禍」の生活を比較してみたくなった。

いったい、どちらが大変なのだろうかと。

先週1週間、当時から福島に住んでいる職場の仲間を中心に話を聞いてみた。
計51名にインタビューしてみたのだ。

結果は、震災後25票、コロナ禍26票となった。

震災後の方が辛かったという方は、身近な人を亡くしたり、出産前で不安だったり、ライフラインが止まり、放射能という目に見えない不安の恐怖などがその理由だった。

コロナ禍が辛いと思った方の意見は、病気そのものの苦しさ、思いっきり人と関われない寂しさ、閉塞感を感じる、といった理由が大多数。


このインタビュー、過去や現在の辛い部分にフォーカスした質問になってしまい、はじめは後悔したのだが、最終的には、普段あまり話をしたことがない方や久しぶりに話す方々と震災後の苦労を分かち合ったり、今の苦しみを共感することができたりと、私にとっては非常に貴重な時間だったといえる。

インタビューしてわかったことは、当然なのだが、それぞれが置かれた状況によって答えは違ってくるし、その人の価値観や年代によってもまた変わってくるということだった。
20代に聞いたら、震災時は中学生だったとのこと。10年ひと昔とは、よく言ったものだ。

どちらも、辛い出来事には違いはない。意見が真っ二つに割れたのが、それを証明しているように思う。

さて、私個人としてはどう思っているのか?

私は「東日本大震災後」に一票を投じたい。

あの日の苦しみに比べたら、今は熱いお風呂に入れるし、ソーシャル・ディスタンスさえ取れば、外で思いっきり走ることもできる!

さらにコロナ禍では、オンラインを通じて距離の壁が無くなり、たくさんの友だちもできた。よく言われるように、3~5年、時代を押し進めてくれたのだ。良い面にも目を向けたい。

「未来は明るい」ということを私は信じる。

「戦争」が起こり、「不況」の足音が聞こえてきている今、世界は失速していくという風潮があるのもわかる。それでも世界は、前進していくと信じたいのだ。

これまでも、人類は発展を遂げてきた。移動の自由、職業選択の自由さえなかった時代を考えてみれば、今の生活の豊かさがどんなに素晴らしいことなのか、感謝しても感謝しきれないことばかりではないのか。
人の寿命が30歳だった時代もあったのだ。

明けない夜はない、やまない雨はない、終わらない感染はない。

世界を変えるのは、人類1人ひとりの「ムード」なのだ。
「未来」を信じる人が増えることで、世界はより良い方向に向かっていく!

1人ひとりが、明るい「未来」を信じて、「ムード」良く、自分の人生をより良くしていくことで、世界は変われるはずだ。

「困難」は乗り越えるためにある。

今の「困難」を乗り越えた先に待っている未来は、いったい、どんな世界なのだろうか? 

楽しみでしかない。

#ライティングゼミ

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【Day361】マラソンレース最後の敵は「睡眠」だった

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【Day361】マラソンレース...

枕元に置いたスマホに手を伸ばすと、時計は深夜2時を過ぎたところだった。「今寝られたとしても、○時間しか眠れないぞ!」という不安が襲ってくる。

マラソン大会前夜の私のワン・シーンである。

フルマラソン以上のレースの前夜、私は寝れたことがない。まるで、中森明菜さんの歌の歌詞のようだ。

一睡もできない、つまりすべてのレースを「完徹」で走ってきたことになる。

いったいなぜそうなってしまったのか?

過去のレースを振り返ってみたい。


初マラソンは、2017年の新潟シティマラソン大会。
レース前日には、友だちと群馬、長野観光をしてからの新潟入り。「上田城」「松本城」「善光寺」などを巡り、足はクタクタ。旅館ではすぐに休めると思ったが、枕が変わると眠れなくなるデリケートな一面が出てしまい、友人達のいびきのメロディーを聞きながら朝を迎えた。

レースはボロボロ……。
おそらく、しっかり睡眠が取れたとしても同じ結果だったと思う。
単純に「走力」が無かっただけのこと。初マラソンを完走はできたが、タイムは5時間30分。レース後半は、ほとんど歩いていた気がする。このとき、「二度とフルマラソンなんて走るものか!」という感想を持ったことを思い出す。


しかし、人間はすぐに忘れる生き物。「フルマラソンは苦しい」という記憶は薄れていき、「次は何とかなる!」という根拠の無い自信が生まれて、チャンレンジした次の大会が、2019年11月のぐんまマラソンであった。このとき、新たにレースを4時間以内で走り切るという目標を持っていた(通称:サブ4)。

この日は当日現地に向かうため、車で4時に出発することもあって、夜の8時前には布団に入ったのだが、この日も一睡もできず……。
スマホで気を紛らそうとしたのが逆効果になり、またも徹夜。
ギンギンな目で車を運転して、福島県から群馬県を目指した。

レースは、またも惨敗……。
前回と比べて序盤はいいペースでレースを運んだが、「30キロの壁」にぶつかり、後半5kmは、ほぼほぼ歩いた。
眠れていたらどうだったか? タラレバにはなるが、まだまだ「走力」が不足していたのは確かだ。

タイムは4時間33分。目標よりも33分もかかってしまう。
それでも初戦のレースから1時間近くタイムを短縮できたのは、嬉しかった。


コロナ禍に入り、次のレースは今年2022年の6月。
今度は、初のウルトラマラソン大会! 距離は100km!

妻の友人に誘われ、ノリでエントリーしてしまったのだ。
この時は、今まで以上の「睡眠障害」に陥った。
レース1週間前から徹夜が不規則に3回もやってきたのだ。もちろん、レース前日も完全徹夜。2時半出発だったので、この日は0時まで寝付けないとわかると、読書をして友人の迎えを待つことにした。

3度目の「寝ずRUN」であったが、結果は何と、完走できてしまった!
100キロRUNはペースも遅いこともあり、ゆったり自分の走りができたことで、うまく折り合うことができたのだ。「不眠」でも「走れる!」ということを学習できた。


そして今回、2022年10月16日。

3度目のフルマラソン「長井マラソン大会」。
このレースは、再度「サブ4」に挑戦する大事な一戦となる。

しかも世界的な厄災もあり、3年ぶりのチャンス。
そもそも、この3年間は、フルマラソンの大会自体が無かったから、挑戦権も得ることができない状況だった。「大切な戦いだからこそ、しっかり寝て、万全のコンディションでなければ達成できないぞ!」という焦りがあった。

案の定、レースの5日前、またも眠れなくなる。

「ついに来た! 来てしまった!」 

また徹夜で走ることになるのか?

しかし、レース2日前くらいから、何故自分で立てた計画なのに、自分1人で苦しんでいるのか、滑稽に思えてきた。
あえて曲名を付けるならば、『勝手にしんどかった』となるだろう。

これまでの私は、「動物脳」で考えていた。「フルマラソンを走る」ことから連想していたのは、「恐怖」「不安」「不快感」。
そんな気持ちだったからこそ、本当は「逃走」したいのだが、自分を無理に鼓舞してしまい、「闘争」のスイッチを入れていたのだ。

本当の目的は何だったのか? 自分が掲げた目標をどうやって攻略するか、そのゲームをとことん楽しむことだったのではなかったか。
目標を1つひとつ達成していく中で自分に自信を付けながら、「自己基盤」を高めていくことだったはずである。

そう思ったら、一気に肩の力が抜けた! 

いい意味で、明るく楽しい「未来」を想像することをやってみた。
当日は「試練」の日ではなく「小旅行」の日である。レースはトレースなのだから、練習通りの走りをすればいいだけのこと……。
まさに本来、人間だけが持っているポジティブな思考、「人間脳」を使うことができた感覚があった。

「3度目のフルマラソンのレース前夜、しっかりと熟睡できた男がいたんですよぉ~」

「な~に~!! やっちまったなぁ~!」(確かにやりきった!)

「サブ4」の行く手を阻む「ラスボス」をレース前に倒した私は、すでに成功を確信した。

結果、3時間57分42秒でゴール!

初めてフルマラソンに挑戦してから、丸5年の歳月が流れていた。

今回、「走りきること」と「眠ること」の2つを達成できたことは大きい。
きっとこの先も、見えないオバケに対して不安な夜を過ごすこともあるだろう。もしそんな日が来たときは、とことん「ポジティブ」に考えることを試したいと思う。ウソでもいい、とにかく脳をだましてみよう。

そのとき、私の表情は、きっと微笑みに満ちているはずである。

妻よ、いびきがうるさかったらごめんね。
#ライティングゼミ

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【Day355】親子成長のワンダーランド、その名はスポーツ少年団

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【Day355】親子成長のワン...
「友だちに少年野球チームに入らないかと誘われた。僕も野球をやってみたい!」

小学5年になったばかりの双子の息子の1人から告げらたとき、私の初期感情は「休みが無くなるかも……」であった。練習が毎週土曜と日曜日に行われることを、以前知り合いから聞いていた。確実に自分の時間が無くなってしまう、そんなネガティブな感情が脳内を充満した。

しかし、息子の「やりたい!」を尊重できないなんて、父親失格である。

曇りそうになった表情をかき消して、「そうか! 野球か! いいじゃないかぁ~!」と返答。間一髪、ダメ親父にならずに済んだ。危ない、危ない。

本来なら4月から合流したかったのだが、コロナの影響で練習が中止の状況。当時は、あの「流行り病」に対して為す術がなく、とにかく「ステイホーム」するしか無かったっけ。

恐る恐る練習が再開したので、ついにスポーツ少年団の門を叩く。結局、息子2人ともお世話になることに。2020年6月21日(日)のことである。

野球経験がまったくない彼ら。満足にボールも投げることができず、私がゆっくり投げたボールにもビビって腰がひけてしまう始末……。この先、試合に出れたとしても、怪我をしてしまうのではないかと心配になった。

初めての試合は2020年7月。隣町まで遠征しての練習試合。

息子たちの緊張が伝わってきた。うちの息子のときは「5ストライク」にしてほしい! 親バカ思考になっていたのもこの頃だった。試合では三振、エラーは当たり前。怪我なく帰宅できただけで儲けもの。


しかし、しかしである。

日を追うごとに、少しずつ成長していく彼ら。秋にはキャッチボールも様になってきて、眼つきも変わってきた。子どもの成長は「こだま」のように速く、「ひばり」のように高く上昇していく。それが世界中の親の「のぞみ」でもある。

父親になったばかりの頃に、息子とキャッチボールをすることを「やりたいことリスト」に書いていたことをふと思い出す。しかし当時は、その想いにふける余裕は無く、チームの迷惑にならないようにと、私も必死にゲキを飛ばしていた。

5年生の冬。ひと山越えると成長すると言われる3歳の競走馬のように、彼らの成長も加速していった。「プロ野球」にも興味が出てきて、巨人と広島を応援するように。贔屓の選手は、坂本選手と菊池選手。冬休みには、YouTube動画を何度も一緒に観た。一流の考え方に触れたのは、彼らにも刺激になったはず。


学年が1UPし、いよいよ最後の野球シーズンが始まった。

その時、息子の1人は常時試合に使ってもらえていたが、もう1人は出れたり出れなかったり……。時々試合に出れても、なかなか結果が出ずに歯痒い想いをしていた。
6月の試合。決定的な出来事が起こる。

レギュラーではない息子が高めのボール球に手を出して三振をした。監督からは厳しい言葉をいただき、今にも泣き出しそうな表情でベンチに戻ってきたのだ。その様子をスコアラーとしてベンチで見ていた私。何も声をかけてやることができなかった……。
家に帰ったとき、突然「魂」のスイッチが入る音を感じた。

「最後まで本気で息子たちと関わっていこう!」

これまでも本気ではあったが、最後に「後悔」はしたくない。とことん向き合っていくことを決心した。

それから毎日、なるべく仕事を早く切り上げて、10分でもいいから室内キャッチボールや室内バッティング練習を継続。

土日は実践練習。チーム練習の前には、1人30分間ずつの個人練習を追加してやり続けた。

精神面の強化のために、一流選手の言葉(名言)をノートに書くことを日課にもした。

またメンタル面でのサポートも重要と考え、オンラインで知り合ったお父さん仲間から教えてもらった「コーチング」を学ぶために、コーチング・スクールにも通うことにした。
努力の甲斐があったのか、補欠となっていた息子も少しずつ自信を取り戻せたのか、夏以降は試合に出れるようになる!

しかし、コロナの猛威(第5波)もあり、試合数は激減……。
外部からのブレーキは、もどかし過ぎる。

11月のチームの記念大会には、2人そろって試合出場。

一生懸命に歯を食いしばってプレーする彼らの姿をみていた私に、もう親バカ思考は皆無。そこには、息子に対して1人の人間としての「尊敬」の気持ち、それだけがあった気がする。

最後の試合は12月11日。

最後にもかかわらず、残念ながら私はコーチングの認定試験と被ってしまい、肉眼で観ることはできなかった。

息子たちのために始めたコーチングだったのに、何という皮肉か。今思えば、柔軟に日程変更してもらえば良かっただけのこと。忙しくしすぎて、心に余裕が無かったのかもしれない。

その試合は、後日ビデオ録画を鑑賞。もう感動しかなかった。
貧打で快音が出なかった息子から、ついに痛烈な会心の一撃が飛び出し、もう1人もすべての外野フライをノーエラーで守りきっていた!

6月から「家族」というチームで頑張ってきたことが報われた気がした。

本気で取り組んできたからこそ、やりきった感があふれた。

約2年間、野球に情熱を注いだ我が家のストーリーは、こうして幕を下ろした。


「スポーツ少年団」は、まさに親子成長のためのワンダーランドである。

スポーツ少年団とはどんな場所だったのか?

第1に「家族で共有できる時間の大切さ」を学べる場所。
毎週毎週、家族でグラウンドに行くという「家族習慣」の時間が作れた。
特に貴重だったのは、練習が終わってから息子たちと話をすること。
「今日の練習、どうだった?」と聞くだけで、彼らの感情の機微を感じることができた。

第2に「成長する手段」を学べる場所。
目的は、野球が上達し、チームの勝利に貢献すること。そのための手段は、無限にある。個性と個人の特質に合わせてどんなやり方を選ぶかは自由。我が家は、コツコツと習慣を変えることでレベルアップを図ることを選択した。自分に合ったやり方を実践していけば、子どもの成長を邪魔することなく、むしろ後押しができる。目的を提供する場所があるからこそ、試行錯誤できるのだ。

最後は「チームワーク(絆づくり)」の大切さを学べる場所。
野球にかかわるのは子ども達だけは無い。監督、コーチ、子どもたちのお父さん・お母さん。全員の連携が取れてこそのチームである。団体競技を通してチームづくりの難しさを学ぶことができる。

こうした環境に身を置くことは、かけがえのない時間であった。

あの日、息子が「野球をやりたい!」と言っていなければ、ワンダーランドを知らずに平々凡々と過ごしていたに違いない。

さあ次は、我々家族の前にはどんな場所が待ち受けているのだろうか?

ワンダーランドの存在を知っている今、そこには「ワクワク」しかない。
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【Day347】音楽こそ、牛丼の上の紅生姜である

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【Day347】音楽こそ、牛丼...
「紅だぁあああー!」

外食チェーン店の牛丼を食べる時、私の脳内では「X」(現:X JAPAN)の名曲中の名曲『紅』が流れ出す。

紅に染まったのは牛丼の方。私を慰める奴、それがこの牛丼だ。

肉とご飯に「紅生姜」が融合することで、気分も最高潮に向かっていく。
今日という1日で、私にとってのクライマックス・シーンと言っても過言ではないぜ。

テイクアウトの紅生姜は小袋に入ったもので、『紅』はイントロだけでフェイド・アウトしていくのだが、牛丼屋のお店で食べる場合は「紅生姜」をセルフで丼ぶりに乗せることができる。自分の好みの分量を投入できてしまうのだ。
何という贅沢。

なぜ、これほど「紅生姜」と「牛丼」の相性が合うのだろう?

紅生姜なしの牛丼を食べた記憶を思い出してみたが、まったく記憶が無い。
牛丼を彩る名脇役、それが「紅生姜」。

シンプルに幸せになれる方法のひとつ、それは大好きなものを食べてお腹いっぱいになることなのかもしれない。

さらに幸福度を高めてくれているのは、頭の中で『紅』を再生させているからなのか?
「幸せ」の定義を考察してみたが、もしかしたら「音楽」は人間にとって無くてはならないものなのかもしれない。

きっとそうだ。そうに違いない。

テレビドラマやスポーツの試合を観ていても、必ず音楽がストーリーに花を添えてくれる。観ている人の気分を盛り上げてくれるのだ。

また直接的でなくても、脳内で音楽をイメージするだけでも、『紅』のように気分を変えてくれるはず。誰もが、頭の中に流れる自分だけのミュージック・プレイヤーを持って、即座に音楽を流すことができれば、「幸せ度」を高めてくれるのではないか?

まずは自分が『紅』以外で、どんな場面で脳内音楽を再生しているか。

あらためて、ここで振り返ってみたい。


まずは、自分のタイプの女性と話をしている時。
その際に流れる音楽は、久保田利伸さんの『LA・LA・LA LOVE SONG』。
言わずと知れたTVドラマ「ロングバケーション」の主題歌である。
独身であれば、いつ恋が始まってもおかしくはないのだ。一歩間違えると、怪しい男になってしまうが、ときどき俯瞰して自分の姿を客観的に見つめることができれば、問題なしだ。久保田氏の音楽のおかげで、あなたも今日から木村拓哉さん演じる瀬名になれる!? 注意事項は、鏡を遠ざけておくことか。


車の運転をする時は、F1のテーマの「T-SQUARE」のインストナンバー『TRUTH』で決まりだろう!? 
アクセル全開で夜の高速をぶっ飛ばせ?・・・さすがにこの選曲は止めておこう。運転は、安全運転で無事故・無違反といきたいものだ。せめて「マリオカート」などのゲームでのバック・ミュージックならOKか!


次は「マラソン大会」に出走した時。
ゴールまで残り5kmになったら脳内で流す曲は、もうお分かりだろう。
「ZARD」の『負けないで』一択である。
最近は、コロナ禍であの感動は味わえていないが、沿道で応援してくれる方々のおかげで、気分は24時間テレビのランナーになった気分を味わえる。
間寛平さんになったつもりで、笑顔で、全力で手を振ろう。
さあ、歯を食いしばれ! 日本武道館はもう目の前だ!


自分がプレゼンテーションを行う時はどうだろう。
ここでは「大事マンブラザーズ」の名曲『それが大事』が心を支えてくれる。
「相手に伝えて、行動してもらう」という本当の目的に気づかせてくれるはず。
緊張は自分にベクトルが向いているからだ。気を相手に向けてこそ、一流のプレゼンターになれる。何が大事かを気づかせてくれる極上の一曲だ!


最後は、意外な使い方を紹介しよう。
上司などから説教を受けているときだ。こんなときにシリアスな暗い楽曲を流すのは「もってのほか」である。怒られている事実は変わらないし、改善策は後でじっくり考えるとして、その瞬間をネガティブに引っ張られないような明るい曲を流してしまおう。例えば「笑点」のテーマソングはどうだろうか?
メジャーコードで進行していく曲のおかげで、気持ちが沈むことは無くなってくる。笑点の曲が終わった時、笑顔がこぼれてしまうかもしれない(また怒られてしまうリスクはあるが……)。


音楽があることで、人生が色鮮やかになっていく。

そう、牛丼の上に飾られた、あの紅色の生姜のように。

あなたの人生の主人公は、あなた自身なのだ。

生きていれば、最高にワクワクした1日もあれば、踏んだり蹴ったりの冴えない1日もあるだろう。

自分の人生のワンシーンごとに、たくさんの音楽を奏でよう!
自分が選曲したあなただけの音楽を、必要な場面ごとに再生しよう。
日常が、ドラマティックなものになっていくこと間違いなしだ。

自分の機嫌を自分で取っていく必要があるのだ。そのために「音楽」の力を借りるのは、最良の選択肢になる。自分自身を「いい状態」にしていくことだけを考えていけば、明るい未来になるに決まっている!


さあ、あなたは、どんな場面で、どんな音楽を流しますか?
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【Day340】稲盛さんと倍速再生と私

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【Day340】稲盛さんと倍速...

「京セラを一代で世界的な企業に成長させ、経営破綻した日本航空の会長として再建に尽力した京セラの稲盛和夫名誉会長が今月24日京都市内の自宅で老衰のため亡くなりました。90歳でした。」

8月30日の夜のこと。スマートフォンのニュース・アプリから、経営の神様、稲盛和夫さんの訃報を知る。窓の外の夜が、いつもより「黒」が強めに思えた……。

稲盛さんといえば、私にとって「音声学習」を定着させてくれた恩人なのである。稲盛さんがいなければ、私が今日まで勉強を継続することはできなかっただろう。さらに「音声」にこだわった学習を継続させることは無かったはずだ。

稲盛さんと音声学習の関係とはいったい何か?

その出会いのきっかけは、2003年秋までさかのぼる。

私の20代は、まったく勉強せずに、実に怠惰な生活を繰り返していた。毎日のように飲み歩き、自己投資と呼べることは皆無。「その場、その日が楽しければオッケー!」という感覚で、お金は飲み代やギャンブルに消えていった。

そんな堕落した生活から立ち直るきっかけとなったのが30歳のとき。そう、2003年11月、職場から2泊3日の合宿研修に強制的に参加させられたのだ。

そこでは、軍隊のような生活が待っていた。
5時に起こされ、本気のラジオ体操から朝が始まる。漢字の書き取り、計算問題などを何度も反復練習した後、参加者同士でディスカッションの時間。夜は決められたテーマについて作文を書くことになり、ほとんど寝る時間も無かったはずだ。

隣の仲間は、堂々と自分の意見を発言していて、自分の不甲斐なさを思い知る。このときである。「俺はいったい今まで何をして来たのだろう!」と思ったのは……。目からは熱いものがこみ上げてくるほど、後悔の念に苛まれた。

研修が終わると、3ヵ月間の課題提出。
その課題の中には、毎月3冊の「読書感想文」が含まれていた。

読書といえば、漫画ばかりだった私にとって、課題図書リストにある本は、初めて目にするタイトルばかり。当然である。

しかし、私は読書に夢中になった。脳内が空洞だったことで、知識が吸収されやすかったのだろう。

松下幸之助氏、本田宗一郎氏のエピソードに胸が熱くなり、司馬遼太郎の歴史小説では、新選組副長の「土方歳三」のサムライ魂に心が踊った。
考え方や歴史の奥深さを知れば知るほど、読書を楽しむようになっていた。

そんな三十路の男が目を輝かせて昼休みに読書を楽しんでいるところに、当時の部長が1冊の本を私の目の前に置いたのである。

その本が中村天風氏の『成功の実現』。

なんと1万円もする本。私に貸してくれるという(恐縮です!)。

そこには生きる上での心構えが直球で書かれていた。
心をいかに積極的にして、人生を明るく前向きに生きていくための教えがそこにはあった。「絶対積極」という言葉が強く脳裏に刻まれた。

天風哲学に触れた私は、次に衝撃の事実を知る。
中村天風の思想や活動に影響を受けた人物に、東郷平八郎、原敬、双葉山、広岡達朗、松下幸之助、稲盛和夫などがいるという記事を目撃したのだ。

そこではじめて稲盛和夫さんの存在を知ったのである。

時を同じくして、Febe(現:オーディオブック)という音声メディアが世間に登場していた。車社会のアメリカでは、すでにその何年も前から車の中で「音声学習」する文化が醸成されていたようで、ようやく日本にも、「音声」に着目したスタートアップ企業が立ち上がったところだった。

当時の私は、徒歩通勤していたこともあり、歩きながら読書をする方法を模索していた。まさにFebeとの出会いも運命の出会いだったといえよう。

そのFebeではじめて購入した「音声ブック」が、忘れもしない、稲盛和夫さんの『生き方(倍速版)』であった。

当時は、倍速再生機能などなく、通常速度で聴ける「通常版」と2倍速で聴ける「倍速版」の2種類が販売されていた。

私は、稲盛さんの『生き方』を何度も何度も、歩きながら聴いた。
倍速版なので、通常版1回分の時間で、2回聴けるというわけだ。

あの合宿研修で、自分の意見を言えない「負け犬」の自分には戻りたくない、早く一人前になりたいという思いしかなかった。

その自分軸となりそうな考え方が、中村天風さんの本、そして稲盛さんの音声の中にある気がしていた。無我夢中に貪り続けたのだ。

昨今、Z世代の若い世代では、倍速で動画や映画を観る機会が増えているらしい。それに対して、賛否両論あるらしいが、私はどんどん倍速で観て、聴いて、たくさんの作品に触れればいいと思っている。
これだけ世の中にはたくさんコンテンツで溢れているのだから、まずは本物にたどり着くためにも倍速機能は欠かせない。

自分の教科書となる音声、オーディオブック、動画こそ、倍速で何度も何度も観て聴いて、自分の中にインストールしてしまうといい。
「守破離」の教えの中で、一番大切なのは、徹底的に「守」を貫くことだと思っている。中途半端なオリジナルなんて不要なのだ。


『生き方』という倍速版の音声から学んだこと。人間として何が正しいかを基軸にして、原理原則を大事にし、徹底的に思い、世のため人のために利他の心で動き続ける。私にとって、稲盛哲学は今の仕事の仕方の基盤になっている。

さらに、はじめての音声学習をした本が『生き方』だったことで、音声学習に対して良い印象を持てた。だからこそ、あれから15年以上も「音声学習」を続けることができている。間違いない。断言する。

人の死には2種類あるらしい。1つは肉体の死。もうひとつは、生き残った人の記憶からいなくなってしまうこと。稲盛さんは100年後も、300年後も生き続けていくに違いない。私の中には、最後まで稲盛さんは生き続ける。


稲盛和夫さん、お会いしたことはございませんが、今までありがとうございます。心より深く感謝を捧げると共に、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
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【Day333】中肉中背の中年が「走ること」で手に入れたいこと

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【Day333】中肉中背の中年...

「おーい! 待ってくれー! こんな丸太、ちょちょいのちょいだぜ!!」

地元のフィールド・アスレチック場で、8歳の息子たちを無我夢中で追いかけた中年のセリフである。まさかこの5秒後に、あんな悲劇が訪れるなんて、いったい誰が想像しただろうか。

中年の私は、高めに配置された太い丸太に気持ちよく飛び乗り、ジャンプで次の丸太へ飛び移っていた。気分は、赤帽子を被ったヒゲおやじ。架空のスターをゲットし、まさに無敵状態で先を進む息子たちに向かっていく。

しかし、4本目の丸太へ飛び乗ろうとした瞬間である。

イメージでは、カール・ルイスの幅跳びのような跳躍だったのだが、実際は気の抜けた水鉄砲から発射された水のような弧を描いてしまい、丸太に足が数センチ届かずに、見事に落下。

真下にあった小丸太に脇腹を強打してしまったのだ。

「お父さん、どうしたの?」
「演技? わざとやっているの?」

前方から戻ってきた息子たち。衝撃の落下シーンは目撃していないため、予想外な「問い」を投げかけてきた。普段、ふざけてばかりいた私。彼らには、悶え苦しむ父のシリアスな場面は、すぐには現実として受け入れられなかったのだろう。

肋骨4本の骨折。全治1ヵ月半。


私が本気で運動しようと決めた決定的な出来事。
4年前の事件であった。

当時は、体重が80kg。体が重く感じていたのに、超一流のアスリート気取りだったなんて、本当に滑稽な話だ。

運動はその3年前からは「ジョギング」だけは始めていた。

週に約2回、5~7kmをゆっくりと自分のペースで流す程度。走ったその日は、「運動したのだから、お酒もOKさ」と、いつも以上に飲んでしまうという謎の特別ルールが発動される。

さらに、骨折中に受診した「人間ドッグ」が、最悪の結果となった。

「要検査D」が2つ。太っていた状態で運動習慣が無くなってしまったことで、以前より悪化したのだ。

ジョギングを始めた理由は、「痩せて、健康寿命を1日でも長くする」だった。かなり漠然としたものだったため、本気になれていなかったのかもしれない。

骨折中にとことん自分と向き合い、本気で「走ること」にフォーカスすると決意。長期目標はそのままに、短期目標として、本格ランナーの証となる「サブ4」を目指すことにした。

「サブ4」とは、フルマラソンを4時間以内に走り切ること。この目標をクリアしていく過程で、体重も減少するだろうし、カラダの数値も改善されていくだろうと考えた。
さあ、「サブ4」を達成するためには、どう行動すればいいのか?

骨折中に本を読み漁り、やることを明確にした。

ジョギング練習は、「3連休はない」という「鉄の掟」を作った。
走らない日を3日連続で作らないルールである。意外と天気が3日連続で悪くならないことを知った。決意して以降、風邪をひかなくなった理由は、もしかしてこの絶対ルールのお陰だったのかもしれない。

毎週1回は、マラソンについてのブログ(note)を書くこともルール化した。
誰も読んでくれなくてもいい。ただ「サブ4」という目標を忘れないために、最低週1回は、文章を通して、とことん目標に向き合うために書き続けることにした。


心から達成したい目標ができると、人は変われる。

半年で体重は60kg台になり、翌年の人間ドッグの結果は、すべてAとBになった(よっしゃぁー!)。

さて、肝心の「サブ4」は達成できたのか?

2022年9月現在、まだ達成できていない。
物語は続いているのだ。

2019年秋の「ぐんまマラソン」では、4時間33分。
自己ベストを1時間近く短縮できたが、サブ4までは、33分以上の短縮が必要だ。
ぐんまの敗戦でよりスイッチが入り、自分のカラダを痛めつけて、2020年2月の「いわきサンシャインマラソン」で「サブ4」を決めようとしたが、そこで世界的パンデミックが発生してしまう……。

あの年は、外に出て走る行為も「違法行為」のように思われるようになる。
参加できるレースもほぼゼロ。仕方なく、2020年秋には、オンラインでのマラソン大会にエントリー(1人で走り、タイムを申告するもの)。

そこで何と、3時間59分で走り切ることができたのだが。

スマートウォッチで測定した結果。これは公式の記録ではなく、どうも達成感が無い。正式なコースを走り、競技場のゴール板を通過して達成したい。

2021年以降、緊急事態宣言、まん延防止重点措置の中でも、人とすれ違うことの無い山の方面を走るなどの工夫をし、何とか「3連休のないRUN」を継続してきた。

そして今年2022年。10月16日である。
山形県の「長井マラソン」にエントリーしている。

開催されると、実に2019年11月の「ぐんまマラソン」以来3年ぶりのフルマラソンの公式レースとなる。

あの日の骨折事故があったからこそ、背中のスイッチが「ON」になり、本気で走り続けることができた。

2018年6月に骨折して以来、本当に長い期間、1つの目標に打ち込んでこられたのは、「本気でやれば、何とかなる!」というプロセスを証明したい、ただただそれだけなのだ。

骨折から4年4ヵ月。短期目標としては、だいぶ長期間になってしまったけれど、必ずこの「未完了」の目標をクリアしよう。笑顔全開でゴールを駆け抜けよう。そして、息子たちを抱きしめよう。

中年の「中」は、「熱中」の「中」である。
さあ、お楽しみは、これからだ!
#ライティングゼミ

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【Day329】ライティングの気付き

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【Day329】ライティングの...

天狼院書店のライティング・ゼミに参加中です。

アップロードした文章は、これまで3本。

1本目と2本目はOKをいただき、無事、公開サイトに掲載してもらうことができました。




しかし、3本目は、合格をいただけませんでした。

合格と不合格を分けるものは何なのでしょうか?

ずっと考えていました。


その理由は、伝えたいことの「本気度」だったのかもしれません。

3本目は、「大好きな数字を語り合おう」。

面白さだけを追求したものでした。

伝えたいことに、そこまで情熱はありません。1、2本目は、普段から何度も考えていること。

「変化を楽しむ」と「死ぬまでチャレンジ」です。


さあ、この連休で4本目の文章を執筆します。


何を書きましょうか?

この考察が正しいかどうか、いつも大事に思っていることをぶつけてみようと思います。

挑戦をして、結果が出る。

良くも悪くも、そこから何かを学び、改善していく。

この繰り返しが大事ですものね。

また、陰に籠もりましょう!!!


#ライティングゼミ #気づき

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【Day327】大好きな数字を語り合おう

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【Day327】大好きな数字を...

世界共通の言葉である「数字」。
使わない日はございませんよね?

「目標は数値化せよ」
「今の進捗率は何%なの?」
「今日、いくら使った?」
「現在の順位は?」

などと言葉で聞いたり、話したり、パソコンやスマホに数値を打ち込んだり、数値に触れ合わない日は、まず無いでしょう。

「今、何時?」と時計やスマホに目を向けた瞬間、確実に数値を見ることになりますからね。数字を見ない日を作ることは、無理ゲーなのです。

そんな数字は、「0」から「9」までの、計10人のキャラクターで成り立っています。
突然ですが、あなたの「推し」はどの数字でしょうか?

2022年秋、ずっと数値に触れ合ってきたにもかかわらず、大好きな数字を真剣に考えることが無かったことに気づいてしまいました。

小学生だった頃、友だち同士で語り合った記憶が微かにあるのですが、自分自身、どの数字を選んだかまでは覚えていないのです。

大人になった今だからこそ,ド真剣に考えてみましょう。


まずは、僕から発表しますよ。
勝手に先行を選んでしまってごめんなさいね。

心の準備はオッケーでしょうか?

0から9までの中から、確実に1つだけ選択します。

「数字を選択したく候う」

それでは、発表します。


私が最も愛する数字は、ズバリ「3」です!

なぜ好きなのかを一気にお話しいたします。

第一に、形が何よりも美しいからです。左右非対称で、押しても起き上がりこぼしのように、ゆらゆら揺れて倒れなそう。「3」は、数値界の「ビジュアル系」と呼んでも、差し支えないでしょう。

第二に、「さん」という心地よい響きが素晴らしい。「ん」で終わることで、言い切った感があります。あらためて声に出して読んでみると、「ん」で終わる数字は「3」だけではありませんか! 希少性もあるということです。
さらに、「さん」という響きは、太陽の「Sun」を連想しますし、「Thank you」の最初にも似ています。どちらも、生きていく上で欠かせません。生きていることを実感させてくれる響きが「さん」にはあるのでしょう。

第三に、「3」が付く言葉やことわざがたくさんあり、それらは「いいことオールスターズ」とも呼べる最高の布陣であるのです。縁起のいい数値だからこそ、よく使われるのでしょう。代表例は下記の通りです。

・3人よれば文殊の知恵
・三度目の正直
・早起きは三文の得
・猛打賞(野球で3本以上の安打)
・ハットトリック(サッカーで3得点以上)
・オリンピックのメダルの数(金・銀・銅の3枚)
・三大○○(ex世界三大夜景、日本三景)


本来ならば、スリー・チョイスでまとめたいところですが、もう少しだけお付き合いください。

第四に、「3」はアホになれる場所なのです。
2007年頃に世間を賑わせた、世界のナベアツさんの『3の倍数と3が付く数字のときだけアホになります』のお笑いネタのインパクトは、15年経った今でも忘れることはできません。「3」はアホになっていい場所。緊張感だけではなく、緩みを持ち合わせているなんて、「3」の懐の深さに脱帽です。

そして最後。何と言っても、「3」といえば、長嶋茂雄氏(読売巨人軍のスーパースター)の存在でしょう。ミスター長嶋さんの現役時代の背番号が3番だったのです。
私はどちらかといえば、原辰徳さんや松井秀喜さんの世代。ミスターの現役時代は知りませんが、長嶋監督の時代はど真ん中でした。1996年の「メークドラマ」は、今でも忘れもしない感動名場面のひとつです。

長嶋さんの笑顔、振る舞い、言葉など、本物のスターが付けた番号。スターに引き寄せられたのが「3」だったのか、「3」の価値を高めたのが長嶋さんだったのか、この際、どっちでもいい話かもしれません。


以上、私が「3」を愛する理由です。

どうでもいい質問を、本気でとことん考えてみる。

好きな理由を垂直質問で深掘り、さらに水平質問でたくさん好きな理由を見つけていくことは、自分自身の思考力を高めるための最高の練習になりました。

日をあらためて、別な数字で大好きな理由を追求してみるのもいいでしょうし、反対に一番嫌いな数字でやってみるのもいいかもしれません。

その答えに正解はないのだから、どんどん思考をフル回転させて、自分の主張を明確にしていくこと。

これができれば、仕事や日常生活において、答えのない質問の答えをうまく導き出せるようになるかもしれません。

決断により断ち切った選択肢に未練など持たずに、選んだ解がより良い未来に近づけるように推し進めていきましょう!

さあ、今後はあなたの番ですよ。
あなたの大好きな数字を聞かせてください。

お互いの「大好き」を知ることは、お互いが「大好き」になる一歩になるかもしれませんよ!
#ライティングゼミ

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【Day319】命をかける野球拳 ~老いへの抵抗は野球拳に勝つことである~

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【Day319】命をかける野球...
「野球拳」と呼ばれる悪名高い遊びを知っているだろうか。

服を着たもの同士がジャンケンを行い、負けた方が1枚着ているものを脱いでいき、最後、着る物が無くなったら負けという、令和の時代なら一発退場になる大人の宴会芸のことである。

そもそも、なぜ「野球拳」と呼ぶのだろう。
私は、やったことがないから分からない。

いかにも野球拳経験者(野球経験者ではない)っぽい友人に聞いてみたところ、掛け声が「アウト、セーフ! ヨヨイのヨイ!」であるから、野球拳らしいのだ。

「ファール、ヘェアー、ヨヨイのヨイ!」なら、どうだったのか?

それも野球拳か(笑)。

この「ヨヨイのヨイ!」という掛け声が、時代を感じてしまうところだが、今、パソコンの前で「ヨヨイのヨイ!」と小声でつぶやいてみたところ、一瞬にして元気がみなぎってきた。能天気にさせてくれる、魔法のフレーズである。

この野球拳、一枚ずつ服を脱がされていく様子が、人生折り返し地点を過ぎた今の自分の人生と重なる気がしてならない。


なぜそう思うのか?

人は、最終的に裸になって死んでいくから。裸で生まれ、裸で死んでいく。

服を着て「オギャー!」と叫ぶ赤ちゃんはいない。
あれ? 死ぬときは「死装束」を着る場合もあるので、裸ではないのか。
しかし、天国には自分の服や財産を持っていくことはできないということで、ここでは裸ということにしておこう。

「早く負けを認めて、その服を脱いじゃいな!」
「もう今までよく頑張ったよ。もう、新しい服を買わなくてもいいよ」

そんな言葉を投げかけられている気がしてくるのだ。

さらに世間は、年齢による限界説を押し付けてくる。

・プログラマー35歳限界説
・キャリアチェンジ40歳限界説
・市民ランナー自己ベスト50歳限界説

年齢については諸説あるが、何歳だとしても、他人が決めた限界年齢だ。
いったい、誰が決めたというのだろうか?

イソップ寓話『北風と太陽』の北風さんが、私に強烈な風を吹きかけてくる。

北風「35歳を超えたお前は、もうプログラムは書けないぞー、早くそのプログラマーのシャツを脱ぎなさい! ピュー、ピュー!」

私「ちょっと待って、ちょっと待って北風さん。私はまだこのシャツ、お気に入り。脱ぐ時は自分で脱ぎますわ」

このような野球拳をやっている感覚を今まさに感じている。

歳だからできない。歳だから食べられない。歳だから走れない。

まだジャンケンに負けたわけでもないのに、自分から服を脱いでいくなんて、私にはできない。自分の限界を自分で勝手に決めたくないだけだ。

挑戦し続けている限り、アラフィフでも進歩している感覚はある。

新しい服を手にしようとしている感覚、あるいは今まで着ていた服が、何度も使ってビンテージ感が出て、いい味が出てきた感覚。

今の私は、文章力を磨きたいという欲求から、こうしてこの文章を書く機会をいただいている(ありがとう、天狼院書店さま!)。

何歳であっても人は成長できる。

成長をし続けることは、ジャンケンに負けないこと。

つまり、服を着続けて、かっこいい大人であり続けるということ。

実際の年齢なんて関係ない。私の周りにも、実際の年齢と10歳も20歳も若くみえる方はたくさんいる。そういう方は、いつまでも挑戦をしている人だ。心の底から、尊敬しているし、応援し続けたいと思う。

しかしいつの日か、周囲から「もうお引き取りください」と言われるときが来るだろう。そんな日が来ることはわかっている。
その日を「潮時」と呼ぶのだろう。

ここまで熱く語ってきたが、自分の実力と自己評価のギャップが大きくなればなるほど、それは老害となる。

時代の変化が急激に加速していっている今、即戦力の実力が求められる。
年齢というラベルが高ければ高いほど、周囲の求める期待値も高くなってくるし、成長を待ってくれることは皆無だろう。

いつの日か、私の野球拳の闘いが終わりを向かえる。

これまでの熱さと反対になるが、いつでも「スッポンポン」になる準備はできている。私なりの「メメント・モリ」である。

とはいえ、パンツ一丁のままの自分で、第二の人生を迎えるのも素晴らしいことのように思う。たとえ薄着の状態であっても、他者貢献はできるはず。

その最後に自分が履いているパンツはどんなパンツなのだろうか?

何色なのか? どんなビジュアルか? フィット感はどうか?

それはそれで、楽しみでもある。


老いへの抵抗は、野球拳に勝つことである。

アラフィフ戦士として、まだ闘いは終わってはいない。

まだまだ、新しい服を着てオシャレを楽しむ自分でありたい。

アウトだろうが、セーフだろうが、「ヨヨイのヨイ!」と言いながら、笑い飛ばせる余裕を持って、この人生の余興を楽しむしかないぜ!

#ライティングゼミ

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【Day311】季節のようにカレーの辛さは移りゆく

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【Day311】季節のようにカ...
「あれ? カレーの味、変わった?」
私は食卓に出されたカレーを一口食べたら、いつもの感覚との違いに気付き、妻に聞いてみた。2021年夏の夕食でのこと。

「そうよ。今日から中辛にしたの。子どもたちからのリクエスト!」
なるほど! 彼ら(双子の男)も来年には中学生になるんだよな。きっと、辛いカレーを食べることが「大人の証」と思っているに違いない。一瞬でそのことを察した私は、次のように答えた。

「そうか、そうか。ついに中辛デビューか。お父さん、感激!」
カレーといえば最初に連想する芸能人、西城秀樹さんのモノマネを転用してみたが、食卓はホットなカレーとは対照的に、少し冷たい風が吹き付けたようだった。そんな空気を無視して、私はカレーを食べることに集中している演技をしてみせた。子どもたちは西條秀樹さんの存在は知らないので罪はない。妻からの冷たい視線が冷風の発生源であることは言うまでもなかった。

空気が戻ってから、子どもたちの様子を伺ってみた。慣れないカレーの辛さからくるものなのか、2人とも汗をかきながら、どこか無理をして食べているようにも見えた。どう見ても外見は「子ども」のままなのに、心は「大人でありたい!」と背伸びをしている姿から、ああ、しっかり「成長」しているんだなという喜びを感じた。

さらに、残りのカレーを食べながら、私は回想していた。

「たまには辛いカレーが食べたいんだよなぁ~」、「もう甘いカレーライスにも飽きてきたよ」などと、先日、妻に漏らしていたところだった。
とはいえ、甘いカレーが大好きな子どもたち。そうは言っても、生活の中心にあるのは、もちろん子どもたちである。甘口カレーを食べる日々は、もうしばらく続くことは覚悟していた。

カレーの辛さと同じように、子どもたちは、ずっと私に甘えてきてくれた。「一緒に遊ぼう!」「どこかに行こう!」とよく言われたものだ。
そんな彼らの期待に応えるあまり、私も随分と過剰なサービスをしてしまった反省もある。子どもが可愛いばかりに、彼らが1人でできることも、手を貸してしまったことは数知れず。将来のことを考えれば、自発的に彼らが自分で考えて行動する機会を奪ってしまっていたのかもしれない。私自身が「甘々」だったのだ。

カレーの辛さが変わった瞬間、少しずつ彼らが親から卒業していく姿が、脳裏をちらついた。過剰なサービスをしたくてもできないし、自分が彼らとの直接的な関わりの中で、「余計な手助けをしてしまった」などと反省する機会も無くなっていくのだと……。

しかしである。自分自身を振り返ってみても、まったく同じ歩みをたどってきたのではなかったか。中学生にもなると、親と出かけることが恥ずかしくなり、年々と会話をする機会も減っていったことを想い出した。親との時間は、そのまま友だちと共有する時間になり、趣味の時間に使われるようになっていった。
グレたことは無かったが、時には母に乱暴な言葉遣いをしたことで、悲しい顔をさせてしまった。あの頃の母の表情は忘れずに、今でも脳裏に残っている。
父も母も、私が今まさに感じている「寂しさ」を通って、一生懸命に働き、学費を払ってくれて、どんなときも私を見守っていてくれていたんだと思うと、胸が締め付けられてくる。

命のバトンのリレー。受け継がれた親子の数だけ、子どもが大人に変わる場面で、すべての親が寂しさを感じ、子どもたちは巣立っていくのだ。

カレーの辛さは、あっという間に「辛口」に変わっていくだろう。
同じ食卓で食べることができれば幸せなことであるが、その頃には、家族団らんの時間も取れなくなってしまうかもしれない。取れたとしても、親子の会話は徐々に無くなっていくのだろう。たまの会話も、辛口な言葉しか言われなくなる可能性もある。

「甘口」から始まり、「中辛」になり、「辛口」になっていく。そして、彼らも親になる日が来て、子宝に恵まれるとしたら、また「甘口」に戻っていくのだろう。まるで、日本の「季節」のように移りゆく。

人は成長していくのだ。いつまでも今の関係性が永遠であることはない。
そのとき、一瞬一瞬の状況を感じながら、味わうべきなのだ。

その人生の季節に応じたカレーの辛さを楽しもう。
自分の大好きな好みの味は、子どもたちが巣立っていってからでも十分楽しめる。今しか食べることができないその辛さを噛み締めて味わいたい。

辛口好きであっても、私は「調味料」で辛くすることは決してしない。彼らの成長を味わっていたいのだ。定期的に食卓に出てくるカレーを指標にして、息子の成長を楽しむのも悪くはない。
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