昨晩の0時ごろは南中する美しい月を見ることができました。教室ではほんのつかの間ではありましたがお団子を食べながらのお月見。近頃では子ども達が集まって季節を味わうとか、昔話を聞くということが少ないようです。とても楽しそうでした。
小さかったころは、田舎の家の縁側でおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に秋の風に吹かれながら、ススキの先に見える名月とお団子を比べて見たものです。そして決まっておじいちゃんはうさぎの餅つきの話しでした。当時は本当だと思って目を丸くしながら聞いたものでした。でも、今の子ども達には通じないようです。
(ラッコ横山)
初めのうちは「そんなことはあり得ない。」などと文句を言いながら観ていたテレビドラマの「受験の神様」ですが、いつの間にか土曜日の夜9時になると、年甲斐もなくテレビの前に“地ばく霊”のように釘付けになってしまい、「他にやらなくてはならない大事なことがあるのに。」などと真剣にぼやきながらもやめられませんでした。それも先週最終回を迎え、はずかしながら他人力でようやくこの呪ばくから開放されました。暗い事件の多いこのご時世ですから、あまり教訓めいたものは入れずにオールハッピーエンドにして欲しいとの願いも叶い、心底ほっとする最終回でした。ドラマでは実際に中学受験でも役立ちそうな勉強法も多く取り入れられていましたので、これは次回紹介したいと思います。
主人公の菅原道子が、最終回の1つ前の回で言った「長い人生の中で、人に裏切られることは何度もあるけれど、学問には裏切られないのよ。」という言葉がとても印象深く残っています。“受験の神様”の「菅原道子」の名前は“学問の神様”の「菅原道真」からきており、歴史を学んだことのある人であればすぐに気付くはずですね。そして、わが家の家紋がこの菅原道真公を神様とまつる“梅ばち”で、子供の頃から天神様として慣れ親しんでいたのが、こんなにこのドラマにのめり込んだ理由の一つだと思います。
道真公が学問の神様と呼ばれるのは、朝廷の行った役人の登用試験の初の合格者で、その後右大臣にまで登りつめたことが大きな要因のようです。後に藤原氏の策略で九州の大宰府に移されましたが神の地位を得、死後天満宮が建てられ、そこにまつられて「天神様」になりました。梅の花をこよなく愛し『東風(こち)吹かば においおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ』という歌を詠みました。飛梅伝説のもとにもなったこの歌は、私の好きな歌の一つです。
子供の頃、雷などがおこると『くわばら、くわばら。』と言って、家の中に逃げ込んだものです。この『くわばら』は、道真公が追放された後の京の都では大きな天変地異が度々おこったのですが、道真公の住んでいた桑原という梅の木がたくさんある地域だけはこ災害からのがれられたのだそうです。このことから、京の都の人達は、この天変地異は道真公のうらみからおこされているものと信じ、これをさけるためのおまじないとして『くわばら、くわばら。』が言われるようになったそうです。とても多くの人々に尊敬されていたのですね。
学問も自分のためだけじゃなくて、人のためにまで生かせるようになれば最高ですね。
(カーネル笠井)
朝晩の涼しさは、秋の訪れを告げています。
明日は中秋の名月、お月見です。
パソコンや携帯メールが普及した現代人は
近い距離で目の焦点を合わせることが多くなっています。
ある雑誌にこんな記事がありました。
そういう生活を続けていると
遠くの物が視野に入っていても
認識しようとしなくなってしまう。
ようするに視覚の能力がおち、
退化の道を辿るんではないかと
警鐘をならしているものでした。
五官の能力を高め、五感を磨きましょう。
明晩晴れたら
是非、月とまわりの星達を
ご家族でお楽しみ下さい。
福井
照りつける日差しは夏のようですが
日陰を通りぬける風に
季節の移ろいを感じます。
そろそろ小学校受験の面接が始まったのでしょうか
紺を基調にした面接ファッションに身をつつんだ
親子連れを見かけます。
私も同じように二十数年前、渦中の母親でした。
娘のよさをそのまま残して育ててくれる
そんな学校を選んだつもりでしたが
十二年間も女子だけ
成長していく我が子が好きでいてくれるか
逆に可能性を奪っているのではないか
様々な迷いの中での選択でした。
子どものために何を選択していくか
親は大きな責任を負っています。
迷いや期待の中で
共に喜び、悩んで
絆を深めていくのかもしれません。
福井
素直に喜ぶことって、意外に難しいことかも知れませんね。しかも、目に見えることよりも目には見えにくいけれど親や大人として嬉しいこと、喜ばしいことは素直に喜んであげるとよいとはわかりながら、わが子の場合、なかなかそううまくはいかないようです。どちらかと言うと、その逆の部分が目につきやすいようです。
でも、親が自分のことで素直に喜んでいる場面は子どもにとって最高の時です。しかも、それがテストの結果や成績以外の日常生活の些細なことだったりすると、その喜びも大きいようです。
先日バスに乗ったときのことです。
外国人のお母さんが二人の子どもを抱えて乗ってきました。汗をかきかきようやく後方の席に分かれて座ることができました。するとちょうどその近くにパナマ帽をかぶったちょっとおしゃれな老人が座っていましたが、なにやらかばんから取り出すと軽やかに手を動かし始めました。どうやら紙工作のようです。色紙をはさみで上手に切り取っています。そしてその色紙に指で癖をつけ、最後にマジックで目と口を書いたら出来上がり。そう!犬の出来上がり!もらった子どもはあまりのことに目を白黒させて驚きました。お母さんも嬉しそうです。片言の日本語で「ありがとうございます」。
さらに老人はまた別の色紙を取り出すと今度は象を作り、さらにはキリンだのといつのまにやら動物園のようになりました。きっといつも子どもを見るとちょっとしたマジックを披露しているのでしょう。こちらまで微笑ましくなってきました。久しぶりにあったかい光景でした。
毎夜、うるさいほどのスズムシの鳴き声が聞かれます。私の住んでいる辺では、それに混じってエンマコオロギ、ミツカドコオロギ、カンタンといった虫たちも負けじと羽をこすり合わせています。子供の頃、秋の虫ウマオイのことを『スイッチョン』と呼んでいました。きっと、鳴き声が“スー、イッチョン”と聞こえたからだと思います。まだ夏のさかりなのに、すずしい家の中に入りこんできては、昼間のうちから“スー、イッチョン”と鳴いていたのを良く覚えています。
同じように子供の頃、カラスノエンドウの実のことを『シビビー』と呼んでいました。これもきっと耳に聞こえる音から名前がついたものだと思います。カラスノエンドウの実を半分に切り、背を割って中の実をほじくり出して笛を作って遊びました。つめを立てて、さやの中をきれいにすることがうまく鳴らせるコツです。そして、口にくわえて吹くわけですが、このとき、あまり強く吹くと入り口がつまってしまって鳴りません。そこで、はじめはそっと吹くのです。すると、“シー”と息のもれる音がします。この状態ではく息を少しずつ強くしていきます。すると、まず1回“ビッ”と鳴ります。このときのはく息の強さを覚えておき、その強さでもう一度吹くと“ビービー”と長く鳴らせることができるのです。子供達の間で、笛をうまく鳴らせる方法の過程として伝わったのが『シビビー』なのだと思います。
地方特有、あるいは地方の子供達特有の呼び名というのはまだまだたくさんありますが、あと一つ印象深く覚えているのが『ジンケン』です。ジンケンとは川魚のハヤ(オイカワ)の呼び名です。この魚は釣り上げてもフナのようにあばれたりしないし、バケツの水の中に入れてもすぐに死んでしまう弱い魚でした。ですから、子供達にとってあまり面白味のない魚でした。ジンケンという呼び名は、ようやく出回り始めた化学繊維のことを人絹と呼んでおり、そのころのものはまだ弱くてすぐに切れてしまうものだったようです。この弱さが魚のハヤの弱さにあてはめられてジンケンと呼ばれるようになったようです。そして、ハヤと聞くとある事件を思い出します。
民主党の顔となっている鳩山由紀夫氏と、第二次安倍改造内閣で法務大臣を務めている鳩山邦夫氏の異母兄弟が、菅直人氏らとともに民主党を立ち上げようとしていたときのことです。同じ志を持つ仲間を軽井沢に招き、川魚のハヤ料理を食べに行きました。そのとき、鳩山兄弟は、出てきたハヤを頭と身に分け、身の方を自分達で食べ、頭の方を招いた客達に食べさせたのです。これを取材していたマスコミ関係者達はびっくりしてしまい、さっそくその夜のテレビ、翌朝の新聞でこのことが報じられました。「あの兄弟はひどいやつらだ。自分達は魚の身を食べ、お客には頭を食べさせていた。」といった内容のものでした。民主党の立ち上げに好意を持っていた私は、このニュースを見て「ひどい人達ね。」と言う妻とは一線を画し、何かの理由があるのではと慎重に考えました。この真相は、実はハヤ料理は頭を食べる料理なのでした。ハヤの頭は美味なのですが、身はおいしくないのです。おそらく、何度も食べ慣れていた鳩山兄弟は、もったいないので身も食べるようになっていたのでしょう。その日の夕方には、さっそくおわびの放送が流されていました。
相手のあらさがしにやっきになっていると、思わぬ落とし穴にはまってしまい、きついお灸をすえられるという典型的な事件でした。自分の常識の及ばない所の事はあわてて判断せずに、むしろ好意を持ってもう一度立ち止まって考えるべきだということを教えられました。そしてこのことが、その後いく度となく直面した危うい危機を救ってくれました。
どんな良薬でも飲みすぎれば毒となります。
植物も水のやりすぎは根腐れの原因となります。
愛情も過ぎると害となるのでしょうか。
ある幼児をお持ちのお母様が
うちの子は生き物を構いすぎて殺してしまうと
嘆いていらっしゃいました。
ご自身はわが子の一挙一動を見守り
間違いが一つも起きないように
一つも起こさないように
先回りして気を配ってらっしゃいます。
摘むつもりはなく、子どもの芽を摘み取り
ご自分の愛する花壇で
促成栽培しようとしているのです。
悪意のかけらもなく
全て愛情からでた行為が
相手を蝕むとしたら
こんなにつらい、悲しいことはありません。
福井
益々変化する社会環境とともに、日々進化する子ども達も柔軟に一生懸命対応しています。しかし、大人が原因で犠牲になっている子どもが後を絶ちません。
学校から帰ると一人で塾の準備をし、重いテキストを背負いうなだれながら塾に向かう子、体の調子が悪く、楽しくないのにハードな塾に無理に通わされ顔色も悪い子、勉強をしていないとすぐに叱られるため、勉強しているふりをしておびえる子、学校でも家でも偏差値というものさしで評価されてしまい、劣等感につぶされる子、周りと比べて評価する大人の真ん中にいて、逃げ場を失って戸惑う子、テストの点を取るための勉強に徹しているため、正しい理解をしていない子、成績が悪いと次から次へとと塾を変えられる子、・・・など、考えさせられています。
台風が過ぎ去るごとに段々と秋色に染まっていきます。つい先日まで残りわずかな夏を惜しむように精一杯鳴く蝉の声ばかりだと思っていたら、いつの間にか秋の虫の音に変わっています。
涼しげで優しい音色です。何か戦いの後に心を癒してくれるようです。子ども達にとっても絶好の学習題材です。懐中電灯を片手に虫探しに出かけましょう。そして家に帰って図鑑で確認です。この学びが生涯につながる取り組みです。
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