この冬休みに雪山ですべる。途中、転倒。
人生は七転び八起きだ、魁くん。
…昨日からの続編…
リビングに行ってみると、そこでは長男が朝食を食べていました。
なんだか、のっぴきならない空気となっています ~_~;
彼は学校が大嫌い。
なぜなら勉強が大嫌い( ̄▽ ̄)
この日が冬休みが終わっての登校初日でした。
朝起きるのも辛かった彼は、力を振り絞って食卓まで辿り着くと、涙を流しながら朝食を食べていたのです。
Life is so tough.
生きるって辛いことだね
妻に先ずストレスをぶちまけた後、彼につくづくとそう語りかけていました。
2人してブルーな朝を迎えたわけです。でもそれを共感し合えることが出来てから、お互い少し元気が出てきました。
朝食を終えた頃、彼は学校まで歩くのに心配はいらなくなっていました。
私も元気を取り戻して、彼と歩きながら歌を口ずさんだほどです。
彼はそれだけはやめてくれ、と懇願します。
小鳥が私の歌を待ってるんだ、と言ってめげずに歌い続けました。
さてさて、消去してしまったそのヘブル書4章14節から16節を再び引用します。
14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 (Heb 4:14-16)
イエスと言うお方は、神でありながら人となられた方です。ゆえに、私たちの弱さに同情できる方です。
罪を別として、私たちと同じように誘惑を受けて試みられ、苦悩の中を通って来られました。
「同情」と言うこと、「誘惑」を受けるという事、「私たちと同じようになる」ということがどういうことかについて原語からさかのぼって解説をしました。日本語では訳出できないニュアンスがあります。
「同情」と聞くと、上から目線でもの言ってるように受け取る言葉になるのでは?
それで原語が本来内蔵しているニュアンスを書いたのですが、それはすべておじゃんとなりました☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
ただ、この教えの実際的な適用をこの朝経験できたように思います。
主イエスは私の悔しさやもがき、長男の悲観なども同様に体験してこられたが故に、私たちと同じ立場にあって苦しみを担って下さることのできる方であるとの発見です。
30歳になるまで、主は家業の大工として働いて生計を立てられました。
完成した家具を納品する直前にどこかにぶつけて、台無しにしてしまった悔しさを味わったことがあったかもしれません。
苦手な依頼主のところに行かなくてはならない朝には、起き辛い経験もされたことでしょう。
昨年の11月、その主が生活をされておられたナザレにあるヨセフの家を訪問しました。
まさに私たちと同じように試みられた人生を歩まれまれた主を偲び、人間イエスを再発見したのです。
人間としてのイエスのゆえに、私たちは大胆に神の御前に出ることができます。
主イエスが私たちのために、父なる神の前で執り成しをしていてくださるからです。
ですから私たちは憐れみを受けて、恵みをいただいて、おりにかなう助けを受けることができます。
ハレルヤ(^○^)
各生徒に出身国の民族衣装・服装を描いてもらいます。
これも家内が一人で貼り付けました。
長男による製作中の黄金忍者
今年のパフォーマーは東ヨーロッパから。
今週は長男の通う小学校でMulticulture Week となります。
そこで私も家内も本日は登校。
昼休みを利用して子供たちに異文化経験をしてもらうパーフォーマーたちを案内するためです。
「異文化」といっても、もともとこの国は民族のサラダボールと言われています。
混ざり合わないけれど、各種民族が雑居している様子。
特にワシントン州のベルビュー市はアジア系も多く、世界の縮図。
英語以外の言葉が話されている家庭は、なんと40パーセントにも上ります。
これを夏に体験入学している山形県のある小学校で家内が紹介したところ、担任教師が生徒に聞きました。
「皆さんの家庭で日本語以外のことばを話しているところはありますか?」
「,,,,,,,,,,, 」
昨年は日本の太鼓。
その前年は中国のドラゴンの舞。
そして今年は東ヨーロッパからのダンスでした。
木曜は体育館が "It's a small world"となります。私も着物に着替えて日本ブースを守り、日本文化宣教師となります。
今朝も長男を学校まで送っていく。
最近、彼は私に送ってもらうのをひどく嫌うようになった。
その理由を論理立てて列挙し、審査役の母親から勝敗の判定を仰ぐゲームを何度繰り返したことか。
大統領選挙のTV討論会を見て真似るようになった。
「ダディに送ってもらいたくない、その論拠は3つあるんだ。まずその第一は、、、、、」そう威勢良く切り出してからも蕩々としたスピーチが続く。
❶歩きながらダディは歌を歌い出すんだ! 恥ずかしい!
❷松ぼっくりをキックするが、うまく蹴らないで横にそらすか空振りする。遊び相手にもならない。
❸tornado creation (ninjago に出て来る必殺技) を真似るが、回転中に転落して尻もちをついたんだ。恥ずかしい。
それぞれに私にも反論があり、討論する。
だが視聴者(家内)による判定は、長男に軍配。
今朝もこの3点は御法度との約束をさせられた上で同行を許可していただいた。
居間でパチパチとホチキスを閉じる音が聞こえています。
すでに1時間ほどになるでしょうか。
顔を出してみると、妻が塗り絵の台本作りをしていました。
これは長男の通う小学校で恒例のMulti culture week(国際文化週間)があり、妻が導入したプロジェクトです。
子供たちには各自の文化衣装で塗り絵をしてもらい、それをホールに張り出す、というもの。350枚ほどを先ほどKINKOに行ってコピーをしてきた彼女が一人でパチパチしていたのです。
一人でしていたのでは、夜半を越えてしまうので私も参戦。
子供たちに観賞してもらう民族ステージのグループを現在探しているところなのだそうです。
2年前は中国人によるドラゴンの舞。
昨年は日本人による太鼓のパフォーマンスでした。
今年は通年よりも予算も限られていて、なかなか快諾してくれる団体がなく苦戦中です。
この日はニュージャージにある日本人教会牧師のN先生と一緒にランチをしました。
お話しをしながら、今回が初めて会うものでないことが分かりました。
私たちは約30年ほど前にすでにいちどだけお会いしていたのです。
それも今回のその日まで、お互い気付かずにいました。
私は当時高校2年生、N先生は高校3年生。
そこは東京都大島で開かれた高校生クリスチャンキャンプでした。
忘れもしません、そのキャンプで私はイエス様を信じ受け入れる決心したのです。それまでの私の生き方とは全く違う価値観にひどい躊躇や戸惑いを覚えながらの、よろよろのクリスチャンとしての出発でした。
一方N先生は牧師家庭にお生まれになられ、聖書教育を幼い時から与えられて大変うらやましい環境にいるなぁ、と高校生ながら憧れたものです。
ところが当時の先生もまた激しい葛藤や試練の中を通られていて、はっきりとした信仰を抱くのは大学生になってから、との事でした。
キャンプで数日間同室だっただけですが、数年間を学窓で過ごした友との同窓会をしたような、大変楽しい時を過ごすことができました。
私にとり高校時代に主イエス様に出会えたことが何にも勝る宝です。
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」(聖書)
今晩は長女のカリキュラムナイトに参加しました。
中学生の彼女の学校では科目ごとに教師が変わります。
ここまでは日本と変わりないでしょうが、この学校では教室は科目ごとに設定されていて教師はそこにとどまります。生徒が各教室を渡り歩くことになっています。
そこで私たち父兄も各教室を訪問して、各教師からそれぞれ15分間の教育施政演説を伺うことになりました。
科学、フランス語、社会、英語、数学、コンピューター、オーケストラの各教室を巡り終えたらすでに2時間が経過していました。
どの先生も情熱を持ってクラス運営されておられるのが良くわかり、私も明日からこの学校で中学生となって学びたくなりました。
真っ先に大反対するのは長女自身でしょうけれど。。
この日の夜、妻と長男の通う小学校へ行ってきました。
年に一度の「カリキュラム・ナイト」と言われるもので、担任教師と父兄たちとのクラス懇談会に出席のためです。
教師の教育に対する姿勢や、何を重視しているのかという価値観、成績のつけ方やクラス運営の実際方法など、あらゆる点をそれぞれの教師がその教室で父兄たちに説明する40分ほどの集いでした。
いわば年度初頭の教育指針演説、といったところでしょうか。
真剣に子供と向き合うその教師の情熱を感じることができたし、理解してもらうための工夫や共同生活するうえでの互いを尊重する価値観などには共感できました。
その教師は学力を伸ばすことに熱心な点でも学校で高い評価を得ている方です。
長男にはふさわしい教師であると、うなずいた夜となりました。
人は楽をしようとすればどこまでも怠惰になれます。
子供が訓練なしにセルフコントロールを取得することなんてあり得ません。
訓練なしに育ってきた私がたどり着いた結論でもあります。
写真は、その教師がクラスに張ってある「能動的参加チェックリスト」です。
クラスで挙手や発言など積極的な参加ができた生徒をチェックするもので、生徒の答えの正誤は問題にされません。ある程度たまるとピザなどのご褒美が与えられるようです。
「若者を(子どもを)その行く道に ふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いてもそれから離れない。」(箴言22:6)
今週から新学期が始まった。
小学4年生となった長男は、学校が好きになれない。
毎朝、重たい気持ちで起きてきて「学校へいかないと行けないの~」と聞く。
彼は米国で流行のNinjyagoの大ファン。
漢字で「忍者」の意味を説いた。「忍耐する者なのだ」と。
するとNigagoに出てくる忍者KAIはどれほど忍耐がないかを説明しだした。
そのエピソードの物語をとうとうとまくし立てる。
忍耐なくても忍者になれる妥当性を説得しているようだ。
ヤレヤレ。
FBの友人が、「忍」とは、「心」の上に「刀」を乗せた緊張状態とコメントしてくれた。
それも彼に説いてみると、
「それじゃ、死んじゃうジャン」
なんとも諦めが早いことよ。
先ほど家族総出で長女を迎えにシアトル北部まで行ってきた。
8日間のキャンプを終えた我が子を迎える家族たち数百人が控えている駐車場。
そこに大型バス4台に便乗した子供たちが帰還してくる。
どの家族たちも熱くハグを交わしながら感情的だ。
私も涙を抑えることができるか、心配になった。
バスのタラップを降りて姿を現した長女。
いつの間にやら変わっていた。
大人になっている。
家内の次にハグをしても、私ほど感激していない。
「Daddyに会えなくて、さびしかったでしょ」
「いや~ べつに」
あっさり。
別の種類の涙が出そうになった。
彼女の座席の窓を私がジャンプしてハイタッチしたことも、「恥ずかしかった」と厳しいおことば。
「あなたからはすでに離れたわねえ」と家内のおことば。
つい昨日までおしめを取り替えていたと思っていた。
こんな日がいつか来るのはわかっているつもりであったが、こんなにも早いとは。
独立していく我が子を見て頼もしくは感じない。
さびしく感じるばかりだ。
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