創世記6章1-8節 ⑵
聖書は悪霊とその存在を教えています。
悪霊がこの地上にあって暗躍しているし、
また地下のハデスと言う所にあっては幽閉されています。
そのハデスの一画に悪霊専用の住処が2つあります。
その1つはアブソスといいます。
悪霊が時に出たり入ったりする所です。
主イエスと出会った悪霊が自分たちを底しれないところに葬り去らないでくれ、
と懇願していますがその場所がアブソスです。ルカ8:31。
もう一つの悪霊の住処はタータラスと言うところです。
ここは創世記6章において人間の女性と婚姻関係を結んだ特殊な悪霊だけが幽閉されているところです。
一度入ったらもう出ることができず、
次に出てくるときには白い御座の前で永遠の裁きを受けるときだけです。
その後は火の池に投げ込まれることになります。
新約聖書にある2つの聖書箇所がこれらの教えを支持している聖句です。
「神は罪を犯したみ使いを容赦せず、地獄に引き渡し、裁きの時まで暗闇の穴の中に閉じ込めてしまわれました。また昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち8人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました」Ⅱペテロ2:4-5
ここの聖句にある「地獄」がタータラスという固有名詞であり、
聖書においてここだけに用いられている語句です。
5節から悪霊らが幽閉されたときの地上での背景が分かります。
「罪を犯した」のは人間の不信者ではなくみ使いだったのです。
さらに、
「主は自分の領域を守らず、自分のあるべきところを捨てたみ使いたちを、大いなる日の裁きのために、永遠の束縛を持って暗闇の下に閉じ込められました」ユダ6節
タータラスが「暗闇の下」という形容句に言い換えられています。
そこは出入りができない「永遠の束縛」の場所です。
このように、悪霊たちには2種類の住処があることを聖書は教えています。
メッセージノートは。創世記6章⑴と同じです。
こちらから
http://wdx.hosannamin.org/uploads/2016/12/10/創世記6章1~8節%20「人と悪霊の雑婚22」%20(Autosaved).pdf
創世記6章1-8節 ⑴
さて創世記6章からは、ノアの洪水物語が始まります。
丁寧に聖書を研究していくとこの洪水が中東の一地方だけのものではなく
全地球を覆う世界大ものであるとの結論に達します。
そんなひどい話が、、
地球上の人間も動物も鳥も息のあるものを全て洪水に飲み込ませ死に至らせるだなんて、、
神がそんな恐ろしいことをするなんて、、
と、多くの方は疑問を感じてしまうかもしれません。
6章の冒頭にそこまで徹底的して地上を壊滅せねばならなかったほどに悪が蔓延していた様子、
やむなく洪水と言う非常事態を招かざるを得なかった背景が説明されています。
「主は、地上に人の悪が増大しその心に計ることがみないつも悪いことだけに傾くのご覧になった」(5節)
神に全滅を決意させるほどの邪悪が広がっていたとあります。
その理由が2節にあります。
「神の子らは人の娘たちがいかにも美しいのを見てその中から好きなものを選んで自分たちの妻とした」(2節)
ここで議論となるのが「神の子ら」は誰のことで
「人の娘たち」が誰であるかという点です。
多くの方々は、前者が信仰者たちすなわちセツの家系であり、
後者が不信者たちでそれがカイン家系であると考えます。
歴史的キリスト教会のほとんどのリーダーはそのように解釈してきたからです。
それは教会教父時代のオーガスティンがそのような解釈を始めて以来のこととされています。
この東方教会代表とも言うべきギリシャ的思考を基盤としているオーガスチンは、その時代
〜それはキリスト教会の中からユダヤ的要素が骨抜きにされて行く時代〜
にあって大きな影響力を持っていました。
ところがそれまでの初代教会まではいずれも「神の子ら」を
堕落した天使たちすなわち悪霊である
と解釈していたのです。
70訳聖書では「神の天使たち」とギリシャ語に翻訳しているし、
ヨセフス「古代史」も
エノク書や死海文書も
ユダヤ教のタルムードも
同様に「天使」であると説明しています。
ここで多くの人が
悪霊が人間と結婚するなんて
トンデモだ!なんて印象を受けるかもしれません。
そんな非常事態の中から、
人と悪霊との雑婚の結果がネフィリムと言う次世代の存在でした。4節。
「神の子ら」はヘブル語の原語で「ベネイ・ハ・エロヒム」となりますが
旧約聖書においてはいつも天使たちに適用されていて人間に適用されたことはありません。
さらに天使に出産能力があるのか、
いったい人間と性的関係を結べるのか、
という難題に対しては新約聖書が答えています。
「罪を犯したみ使いを」Ⅱペテロ2:4
「自分の領域を守らず、自分のおるべきところを捨てたみ使いたち」ユダ6節
さらに 詳しくはメッセージノートを参考としてください。
http://wdx.hosannamin.org/uploads/2016/12/10/創世記6章1~8節%20「人と悪霊の雑婚22」%20(Autosaved).pdf
昨日の反トランプデモに続いて今日もまた巨大なデモ隊に遭遇しました。
封鎖されているマーケットストリートに警察の白バイが何台も並んでいます。
しばらく待っているとデモ隊の先頭集団がパトカーに先導されてやって来ました。
どうも様子が違います。
昨日のような殺伐とした雰囲気ではないのです。
行進する多くの方は女性で中にはベビーカーを押していらっしゃる方も見受けられます。
そして皆が賛美歌のような歌を歌っているのです。
後から知ったのですがWomen's Marchと言われているものでサンフランシスコだけでなく
全米各地で未曾有の大人数を動員して行われていたものでした。
その人数は半端でなく30分も行進が続いた後にもまだ人の波は断ち切れません。
次々に押し寄せてくる人の波、波、波、、、
妊娠中絶に反対するプラカードを多く見受けました。
それによると今や生まれてくる世代の3分の一は中絶によって殺されているとのこと。
胎児が人間の意思によって作り出したものであり、
親がその死を選ぶこともできると考えるのは人間の恐ろしい傲慢です。
殺人です‼️
胎児は神によって創造された尊い生命です。
『人生』
人生はひとつのチャンス
人生からなにかをつかみなさい
人生はひとつの美
人生を大事にしなさい
人生はひとつの喜び
人生をうんと味わいなさい
人生はひとつの挑戦
人生を受けてたちなさい
人生はひとつの責任
人生をまっとうしなさい
人生はひとつのゲーム
人生を楽しみなさい
人生は「 富 」
簡単に失わないように
人生は「 神秘 」
そのことを知りなさい
人生は「 悲しみ 」
それを乗り越えなさい
人生は「 冒険 」
大胆に挑みなさい
人生は「 幸運 」
その幸運を本物にしなさい
人生はかけがえのないもの
こわしてしまわないように
人生は「人生」
立ち向かいなさい
(by マザー・テレサ)
*-----------------*
たった一度の人生。
あなたにとって、
素敵な人生だったと言えますように。
東方の博士たちが見た星。
その星に導かれ彼らは
エルサレムからベツレヘムまでのやってきました。
また御子イエスのいらっしゃる家の真上にその星がとどまるのを見て
無常の喜びを得たとあります。
その家に子がいることを確信できたからです。
その家の屋根10メートル程の上空に星がとどまったことが想像できます。
先回はこの星の正体について多くの学者の諸説を紹介しました。
そして宇宙に存在する天体ではありえないことも聖書の記述から説明しました。
今回は私の理解しているこの星の正体についてお伝えします。
これは神の臨在に伴う栄光の輝きであり、
専門的にはシャカイナ・グローリーと言われているものです。
神は目に見えないお方ですが、
人間社会に特別な形でご自身を顕される時があります。
その顕現の際には様々な自然現象とも言えるものが伴われます。
雲、火、松明の炎、雷、稲光、火の柱、雲の柱、舌のような形をした炎などです。
この特異な自然現象によって神がご自身が顕現されていることを
人間には認識できるのです。
西洋神学でエピファニーと呼んでいたこの「顕現」を
ヘブル語で「シャカイナ」と言います。
その際、明るい栄光の輝きを伴って現れることからこの可視的な自然現象を
「シャカイナ・グローリー」とメシヤニック-ジュー(イエスをメシアと信じるユダヤ人)が呼ぶようになったのです。
東方の博士たちが見た星とは、このシャカイナ・グローリーであるとであると私は考えます。
イエス様の生誕とともにそのしるしが輝く星となってバビロニアの空に輝きました。
そしてその星が神の心のままに自由に動き、ときには消え現れしながら
博士たちを幼児イエスのいる場所までピンポイントに導いたのです。
私の卒業した神学校の創始者であり初代院長であられた蔦田先生は
これを「セキナの栄光」として日本語に訳されて紹介されました。
博士らに現れたシャカイナ・グローリーは御子生誕の晩、
ベツレヘムの野山に野宿している羊飼いたちにも現れています。
「主の使いが羊飼いの傍に立ち、
主の栄光が照らすとは神の臨在をわからせる現象であった。
これが『セキナの栄光』である。」
(蔦田二雄著 岩から出る蜜 P.276)
数週間ほど前のクリスマス礼拝では、
マタイ福音書2章が説教のテキストとして使われた教会が多かったと思います。
私もその日、隣の街の栄光キリスト教会でゲストスピーカーとして招かれていて
この箇所からお話しさせていただきました。
古来から議論となっているポイントは、
東方で博士たちが見た星でした。
聖書において「東方」とはメソポタミアのことであり
バビロニアかペルシャを示す地域限定用語です。
その地方の博士達が「ユダヤ人の王が生まれたしるし」としての星を見たとして
エルサレムまでやって来ました。
この星の正体については多くの学者達が推論して来ました。
有名なドイツのケプラーは、
木星と火星の融合したものだと結論づけました。
他の学者はハレー彗星であるとか
超新星、
2000年以上の周期にある彗星であると言う人もいます。
しかし聖書を厳密に解釈していくなら
この星がどの天体にも当てはまるものでないことが明らかとなります。
①この星はエルサレムからベツレヘムまで、北から南へと移動しています。
「すると見よ、東方で見た星が彼らを先導し」(マタイ2:9)
惑星は時に通常の軌道から逆方向へ進む場合があります。
その変則行動が博士たちをして導いたと解説している専門書を見たことがあります。
しかしその変則行動であったとしても惑星は東西の軌道上から外れる事はなく
北から南へ移動する博士たちを導く動きになり得ません。
②ある地点にまで進んでいき、そこにとどまっています。
「ついに幼児のおられるところまで進んで行き、その上にとどまった」(マタイ2:9)
あたかも意志を持っているかのような動きです。
進む方向も、止まる地点も、それが現れるタイミングも、
全てが博士らをして幼児イエスに導くためのものでした。
③長旅が報われた安堵と喜びを博士らに与えています。
「その星を見て彼らはこの上もなく喜んだ」(マタイ2:10)
この段階で博士らはまだ幼児イエスに面会はしていません。
その家の前で無常の喜びを抱いたのです。
そのためには誤りなく幼児の場所を探し当てたとの確信がなければならなかったはずです。
つまり、その星は幼児のいる家の屋根のすぐ上に止まったからです。
もしそれが天体の星であるならばその家も、ベツレヘム中の家家も町全体が破壊されていたことでしょう。
それでは、この星の正体とは何か?
次回私が理解しているところをおつたえします。
新約聖書が「奥義」と言う言葉を使うときに
これは聖書独特の概念を示す専門用語です。
一般的には通常、人には隠されているもの、長年秘められてきたものと言う意味です。
ところが聖書においてはそのベクトルは逆であり
「長年秘められていたことが明らかとされ、時至って開陳されたこと」
を指す言葉となっています。
新約聖書のコロサイ書には、
3つの奥義が出て来ます。
①教会の奥義(コロサイ1:24〜26)
「キリストの体とは教会のことです。……私は神から委ねられた務めに従って、教会に使えるものとなりました。これは多くの世代にわたって隠されていて、今や神の聖徒たちに現された奥義なのです。」
②内住のキリストの奥義(同1:27)
「この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」
③神の奥義なるキリスト(同2:1)
「豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。」
……………………………………………
これら3つのものは旧約時代には私たち人間に知らされておらず、
従ってその時代の誰も体験できないことでした。
主イエスが地上に来られた事で神の経綸(英語でエコノミー、またはディスペンセイション)
大きく動き、
私たち人間がこれら豊かな神のギフトを手に出来る道が開かれたのです。
クリスマス・イブの今宵、
イブのパーティに家族で行って来ました。
毎年の恒例となっている家族・親類でのパーティ。
年に一度しかお会いしない方々がほとんど。
子供らは背丈が伸びて成長ぶりに驚き、
変わらない壮年世代の元気さ、その成熟ぶりにお互い安堵する。
私よりも1世代上の叔父叔母の中には今年から老人ホームに入居したり、
ガン手術後のキモセラピーのため来られなかったりした方々が3名ほどいらっしゃた。
恒例の聖書朗読では最高齢のノームおじさんから
同世代の壮年にバトンタッチがなされていた。
月日と共に肉体は衰え
今まで出来たことが剥ぎ取られていく。
生きるというのは時に残酷である。
その現実社会に人となって来られたのが主イエスであられた。
神ご自身が肉体をともなって、しかも無力な赤子の姿をとりこの世に降誕された。
この事実は、病、死、罪という人の克服できない現実を凌駕するものがある。
それゆえ私たちは御子イエスのご生誕を喜び、
子供らにはプレゼントが贈られた。
サンフランシスコのマーケット通り
どんよりとした曇り空の続くシアトルの12月。
これは冬の典型的なノースウェストの天候で来年3月頃までこのような重たい空模様となる。
今日は雨が降らないだけそれでもまし。
先週のように氷点下にならないだけまだマシ。
しかも今年はどうした事か
師走だというのに道路は渋滞に犯されてない様子。
…………どうも天候やら道路状況に私の気分まで左右されているようだ。
紀元66年の使徒パウロは殉教を目前にして生涯の最後期に
その心情を吐露している手紙を書いている。
テモテへの手紙。
「しかし主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。
………………
主は私を全ての悪から救い出し、天の御国に救い入れて下さいます。」
(Ⅱテモテへの手紙4:17-18)
パウロにとっては環境が全てではなかった。
環境を超えたものを持っていた。
環境で恩寵の大小を計らずに
現実を超越したところにある恩寵を知っていた人物であった。
パウロの最期は実にひっそりとした寂しいものであったが
その心中には凱旋的勝利への歓喜が沸き起こっていたのである。
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