「白髪になってもわたしは背負う」
2月
27日
3歳ほどの小さな女の子が楽しそうに靴を選び、履いては踊っていた。
その隣の美容室では美容学校出たばかりの20歳そこそこの新進気鋭の若い女性が張り切って仕事に励んでいる。
一方、昨日訪問にいかせていただいたナーシングホームに暮らす女性。
食事や排泄といった身の回りのことは自分では出来ず
寝たきりのまま他者の助けになる他にない。
仏教では人が苦しみを負わねばならない4つの分野が人生にはあると教える。
「四苦」〜その1つは生きることそのものだという。
確かに将来に希望の持てる若さと、
将来というものの望めない老いや障害の厳しさと。
両者を比較するとそのことが納得できるようにも思えてくる。
誰にも老いの現実と言うものはやってくるものだから。
ところが、初対面にお会いしたそのナーシングホームに暮らす女性は
私に会うなり驚くべき発言をされた。
「退屈していません」
記憶や言語機能の多くを失い、ただ上を向くことしか許されてないベッドの上で
日本語放送のテレビを1日中つけながらも、
それでも、
「退屈していません」
その言葉は私の老人・障害施設に暮らす人への先入観を見事に裏切るものとなった。
サンフランシスコにある日本語キリスト教会のある一時期を支えた彼女。
たとい外なる活動は出来なくなったとしても
生涯彼女を支え続けた信仰は、現在の彼女の境遇をも支え続けているものらしい。
主が私たちに与えて下さっている希望は、病が癒される、苦痛がなくなる、問題が解決する、豊かになる、、、といった現世のご利益ばかりではない。
それらをはるかにしのぐご利益を経験した、死を越えたところのゆるぎない希望につながるものである。
「ですから、私たちは勇気を失いません。
たとい私たちの外なる人は衰えても内なる人は日々新たにされています。
今のときの軽い艱難は私たちの時に働いて、
測り知れない重い永遠の栄光をもたらすからです。」
Ⅱコリント4章16-17節
「あなた方が歳をとってもわたしはが同じようにする。
あなた方が白髪になってもわたしが背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なおわたしは運ぼう。
わたしは背負って救い出そう」
イザヤ46章3節4節