この日の息子のサッカーの試合もナイター。
自らの学校ホームグランドでの試合。
この学校のサッカーグランドもまた人工芝。
ベルビューの学校ではほとんどの中学校高校は人工芝のサッカー場やフットボール場があります。
恵まれすぎた環境にあっては
生徒らはおそらく気づかないままでしょうね。
それはそれとして今回の対戦相手は長女の通うS学校。
隣に座る長女とキャシイはS学校を応援し、
私は息子のN学校を応援してました。
3対0でN学校の勝ち。
最近息子のボール・テクニックが上手くなったと感じてたのですが、
今回もまたボールコントロールとスルーパスのテクニックはピカイチに光っていた。
サッカーにはそれぞれの選手の特徴を生かしたポジションなり役割がある。
足の速い選手
ボールコントロールの上手い選手
身長高くヘリングに有利な選手
コーナーキックで正確な位置にボールを放る選手
テクニックは無いけど当たりが強くディフェンスに優れた選手
などなど
私たちはそれぞれ違う。
それぞれ違うからこそ、
チームに生かされる何かを持っている。
、、、、、はずである。
「さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた」 ルカ9章51節
「これらのことを話してから、イエスはさらに進んで、エルサレムへと上って行かれた」 ルカ19章28節
⑴方向性を確認せよ〜「エルサレムへ」
①ルカ福音書には主が明確な姿勢をとられ、心定められたことが二度記されてある。
②エルサレムにおいては受難・死というミッションが待っていた。
③それはまた天へ帰ると言う最終ゴールのプロセスの1つでもあった。
私たちは本来創造主なる神の元から出、
神の元に帰るものである。
⑵転換点を把握せよ
①前者の御言葉はガリラヤ伝道からペレヤ伝道への転換点にあり、
後者の御言葉はペレヤ伝道から受難のエルサレム伝道への転換点となったもの。
② 3月4月は日本において卒業入学就職の人生の転換期でもある。
③この転換点を神の時として自覚的に把握しているだろうか。
⑶集中力を見い出せ〜「毅然として進んで行かれ」
①かつて神と調和し集中していて私たちの人格が分散されたままにあるのが罪の状態。
もの影に隠れてしまったエデンの園でのアダムを見よ。
②主は朝も夜も限られた時間、ご自分の使命に邁進された。ルカ21章37ー38。
③私たちの心を何に用いているか。その用い方が精神的霊的統一を培養し訓練するものである。
(結論)〜永遠に向けられた視点を持て
あるビジネスセミナーコーチは、
「終わりを思い描くことから始める」
習慣を身につける様に指導しています。
そのために個人のミッションステートメントを書くのが効果的だと言っています。
個人のミッションステートメントとは
「人生においてあらゆる決断の土台となる憲法」です。
この個人のミッションステートメントは
一朝一夕でできるものではありません。
時間をかけて自分で見出すものです。
そのミッションステートメントためにこれらの質問を考えてみましょう。
【質問1】
自分の葬儀の場面を思い描いたときに感じたこと、
考えたこととは何か。
葬儀に来られた家族友人知人に対して
自分はどういうものとして覚えてもらいたいのか。
【質問2】
普段あなたが果たしている「役割」とは何か。
そこに映る自分の人生のイメージに満足しているだろうか?
(役割の例)
家族(夫、妻、父親、母親、息子、娘)
友人、職場(マネージャー、経営者、社員)
【質問3】
これらの役割は創造主なるお方、あなたを活かしておられる神から委ねられた務めであるとの自覚があるか。
その務めを全うするために私の心を何に向けるべきだろうか。
「キリストの御霊の内住」
ローマ8章1〜14節
1,こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
2,なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
3,肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
4,それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。
5,肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
6,肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。
7,なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。
8,肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。
9,しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
10,キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。
11,イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。
12,ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
13,もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。
14,神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。」
15,あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
16,御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
17,子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです」
ドイツの聖書学者にシュペンナー言う人がいます。
彼は聖書全巻を指輪に例えると、
ローマ人の手紙が宝石の部分にあたり
そしてこの8章が
宝石の中で1番光を放っていると言いました。
まさに神が人に与えようとしている所の恵みを示している1番高い峰のようなところと言えましょう。
ここには神の霊である聖霊が信じるものに
どのような御業を推し進めていくかを
まとめて開陳してるからです。
キリストを信じた時に信者の内に与えられる神の霊の働きについて、
次の7つを紹介したいと思います。
⑴解放(2節)
「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです」
ここにある「律法」は改定前の改訳訳聖書では「原理」と訳されていました。
原語では「ノモス」ですから「律法」と訳しても間違いではありません。
ただここでの文脈から「支配力」というように言い換えても良いかと思います。
⑵達成(4節)
「それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです」
ここでの律法とは、旧約聖書にあるモーセ律法のことです。
信者に与えられた神の御心にかなうところの心の在り方や生活の規範が書かれてあるのですが、
もし御霊が内に宿るのなら、
その律法が達成出来ると教えます。
⑶内住(9節)
「しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません」
私たちはキリストを信じた時にキリストの御霊を内に宿すものとされました。
すべての信者が御霊を内に与えられているはずです。
⑷生かす(11節)
「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます」
「死ぬべきからだ」とは生まれつき罪によって汚染された体であり、
罪と死の束縛の中にある状態のことです。
そのからだが御霊によって病が癒される時があります。
そしてやがてキリストが地上に戻って来られる時、
既に死んでいる信者は全て復活せられ
栄光のからだをいただくことができます。
死が克服されて、死なない体をいただく事になります。
⑸殺す(13節)
「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます」
ここで言う「肉」とはビーフを好む習性のことではなく
肉体を持って生まれた人間の生まれつき持っている性質です。
その結果、
自己中心や虚栄心、
欲望や貪欲、
嘘や争い、
強奪や殺人などの
悪行が結果として現れてくるのが
ここで言う「からだの行い」です。
その「からだの行い」を殺すには、
教育やしつけ
修行や節制では不可能なのです。
神の霊のみがこれを殺すことが出来ます。
⑹教導(14節)
「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです」
キリストを信じている信者であっても
このような内側になされている神の御霊の働きについて無頓着であったかもしれません。
ほとんどの場合、
これを自覚しないで以前の「肉」のままの歩み方をしているのです。
ですから私たちは
聖書の御言葉に親しみ
祈りの時間を確保し
神の御霊が内に働いていただくよう
自らを明け渡していかねばなりません。
自らが同意し
決意し
従う時に
御霊は
信者を導くことができます。
⑺保障(16節)
「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます」
そのような御霊と歩調を合わせた生活は
私たちの内に確信を与えます。
それは私たちがキリストに属する者であり
やがてキリストともに新しく出現する神の国を共同統治する
神の相続人であることをことの
保証を与えるのです。
こんなところに気軽に書くのが憚られる
恐ればかりの栄光の富ー
それを神の御霊は
私たちに分け与えて下さるのです。
今年1月の聖地旅行、神殿の丘から
「あなたがたの信仰の通りになれ」
マタイ9章27ー31節
27,イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。
28,イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。
29,そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。
30,すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。
⑴「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」
①絶望的な状況
当時は生活保護や社会保障のなかった時代。
2人の盲人がかろうじて糊口を凌ごうとすれば道端での物乞いしかなかった。
その底辺に置かれた悲惨さは彼らを失望に陥れるだけでなく
目を上に上げさせる機会となった。
②「ダビデの子」とは、ユダヤ的表現でメシアを指し示すタイトルである。
メシア到来の時代、
盲人の目を開け
耳しいの耳が開けられ
足なえも癒されて
すべての病から解放された人々が
平和と豊かさを享受する時が来ることをユダヤ人は知っていた。
イザヤ35章。
⑵「わたしにそんなことができると信じるのか」
①ゆだねられている選択
信じるかどうかは誰とも強制出来ず、
100%各自の選択に任されている。
かつては領主や家長の影響が強く彼らの宗教が個人の宗教であった。
今でも思想信条の自由が許されずに
政治リーダーを崇拝信仰させられる国々もある。
失うものがなかった底辺の盲人としては
自由な選択は容易かったであろう。
②その選択に伴うチャレンジ
「叫びながらついてきた」のは、
イエス一行が彼らの声に聞き耳を立てず通り過ぎていったからである。
さらに一行が家に入られた後も諦めずに追跡し
イエスの御許にまでやって来ている。
何という一途な探究心であろうか。
幾多のチャレンジをはねのけるほどの真摯さがあった。
信仰とは行動に現れ出るものである。
⑶「あなたがたの信仰の通りになれ」
①信仰とは神の力ためにと引き出すチャンネルとなり得る。
その信仰が生き働いたのは、
神からの啓示(イザヤ35章)に対する真剣な応答があったからである。
弟子たちは「信仰が薄い」と叱責され(マタイ8:26)、
長血の女はきっと治ると信じ(同9:21)、
会堂司は娘が生き返ると信じて(同9:18)
そのように信じたとおりの事が起こった。
②各人の信仰深さが奇跡を打ち出したのではなく
イエスご自身によるものである。
「イエスは彼らの目に触って」御業を行われた。
神の栄光が拝される大きな業を見る時、
人でなくイエスご自身がなされている。
(結論)
社会や家庭などの後天的影響によって
人は宗教も限定されるように思われているが
実は各人に信仰の選択が委ねられている。
これは感情のレスポンスが環境に支配されるのではなく
主体的に選択しているのと同様である。
以下の例を参考にどうぞ。
=====================
ある看護師のお話しです。
=====================
「ナースはどこだ!?」
「ナース!! ナース!!」
「ナース!! ナース!!」
毎晩、この病棟では
ある年老いた男性患者が
看護師を呼びつける声が響いていました。
「ナースはどこだ!?」
「ナース!! ナース!!」
毎晩、この年老いた男性患者の叫び声が病棟に響きわたり
この患者は病院の職員、全員から嫌われていました。
そして、職場の職員同士で
「早く死んでくれればいいのに...」
という会話もささやかれるほどでした。
ある看護師も連日
この年老いた男性患者の標的にされ
何かと呼びつけられては、暴言を吐かれるのです。
看護師の頭の中では
繰り返し、繰り返し
この患者のフレーズが鳴りやみません。
「ナースはどこだ!?」
「ナース!! ナース!!」
「もう、やめて!!」
看護師はいつしか
職場に行くのが憂鬱になっていきました。
「今日もあの患者に呼びつけられる...」
「どうして、私が...」
「私が何したっていうのよ!! ...」
いつの間にか看護師は
この患者の被害者となっていたのです。
しかし、
看護師はあるセミナーに参加し
そこで、衝撃のフレーズを耳にします。
「あなたが自分で犠牲者になることを選んだのです。」
この看護師は
「なんですって!!」
「私が犠牲者になることを選んだですって?」
「あの年老いた男性患者の犠牲者に私が?」
「絶対にそんなことはありえない!!」
そう思いました。
「・・・・・」
しかし、
次の瞬間、この看護師は
言葉にもならない気づきを得たように
何やら隣の席にいた友人に話始めました。
そして
セミナーの休憩が訪れ、看護師に訪ねたのです。
「あなたの中で何が起きたのですか?」と。
看護師は興奮した様子で
「信じられない体験をしたんです!
私はあなたの言ったことが信じられませんでした。
私が被害者になることを選んだなんて言うから。」
「絶対にそんなことないって思った瞬間
私には被害者にならないことを選べるんだって
閃いたんです。」
「私は被害者ではなくて、
自分の感情は自分で選べるんだってことが
わかったんです。」
「そうしたら、嬉しくて、
もう牢獄から解放されたような気持ちになって
立ち上がってしまったんです。」
=====================
以上、ある看護師の話でした
=====================
コヴィー著「7つの習慣」から
実際に起こったコヴィー博士の体験談です。
キャッシーから突然電話が鳴り、悲報が告げられました。
近所に住む長女の幼友達が亡くなった知らせでしばらく絶句。
彼は二日前、友人とスノーシューティングへ行き雪崩に巻き込まれてそのまま帰らぬ人となったのです。
長女が小学校1年の時からしばらくの間、毎日のように遊んだ仲でした。
私ではなく彼を遊び相手に選んだ時には本気で嫉妬してました。
長女とは小学中学までは同じ学校に通い、高校からは離れたためたまに顔を見合わせる位でした。
前途様々の高校生の彼が突然取り去られる。
ご両親の悲しみはいくばくかでしょうか。
私たちは近く家族でその家に花を届けに行き、悲しみに寄り添うことができればと思います。
その家のガレージには常に二台のスノーモービルが止まっていて、週末には山奥のキャビンに出かけると言うウィンタースポーツ一家なのです。
かつて私たち家族もそのキャビンに誘われたことがあります。
もし長女が彼と同じ高校に行き付き合いが続いていたとしたら、そのスノーシューティングに一緒に出かけていた可能性はあったでしょう。
私たちは歳に関係なくいつ天に召されるか誰にもわかりません。
「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」との聖書の言葉が思い出されました。
⑴神は生前の私たちの言動を全て裁かれる方です。
⑵その裁判官なる全知全能の神の前で弁護士が必要です。
⑶その弁護士自身には私たちの罪をすべて引き受ける権威がなくてはなりません。
⑷その資格のある弁護士のことを「贖い主」と言います。
⑸あなたは贖い主を見出して神に会う準備ができていますか。
この数週間探したけれども見つからなかったものが出てきました。
パソコンの電源ケーブルです。
これがないとパソコンが使えずにこれまではずっとスマホで済ませてきました。
ホサナ教会のウェブサイトを更新するためにどうしても必要で、
これ以上先延ばしすることもできず新規購入せねばならないと腹を括った矢先、
思いがけないところから見つかりました。
涙が出るほど嬉しかったです。
引っ越しのどさくさに紛れあちこちの段ボール箱を開けても見つからず、
管理のできない自分に腹が立ち、
新規購入する煩雑さに重い腰があがらなかったのですが、
一挙に解決してしまいました。
これは運とか、自分のひらめきとかではなく、
主が哀れんでくださったことに尽きます。
つい先ほども既に調べてはずの箱を開けて再度探してみたのです。
その姿勢からふと本棚にある整理トレイに目をやると黒っぽい物が目に映りました。
そのトレイの1番奥に鎮座しているではないですか!
大切なものだとして、頻繁に使う整理トレイに入れておいたのです。
ところで私たち人間は神から見て失われた存在です。
もしその失われたものが見つけ出され、神に立ち返ることができたならば、
み使いたちが天で大喜びすると聖書は教えています。
電源ケーブルはそれ自体では役に立ちません。
人間に見出されパソコンにつながることによって初めてその存在意義を明らかにします。
私たち人間もそれと同様で、私を作り生かしてくださっている真の創造者と出会わない限り人生の意義や目的を見つけることができないんです。
主よ、どうぞ私をあなたのしもべとして用いてください。
そして、失われたものを見つけ出す尊いお仕事に使って下さい。
ルカの福音書
15章1ー10節
1,さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
2,すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
3,そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
4,「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
5,見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、
6,家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
7,あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
8,また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。
9,見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
10,あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。
「ペテロとヘロデ」
〜使徒の働き12章〜
⑴ペテロ
①その窮状ー厳重に監視された牢獄に幽閉され翌日には処刑される絶体絶命
②その救援ー「教会は彼のために神に熱心に祈り続けていた」(5)
③その結果ーみ使いが光とともに現われ、腕にかけられた鎖がひとりでに解かれ町へと通じる鉄門もひとりでに開いた。
*人の目にはどうにもならない困難な中で教会の祈りは神の奇跡を引き寄せることがある。
⑵ヘロデ
①その権勢ーペテロを取り逃がしたとして番兵たちを処刑し自らはエルサレムを去りカイザリヤへと移動する行動の自由がある。
②その従者たちーツロとシドンの人々が彼をほめたたえ、そのスピーチに「神の声だ、人間の声では無い」と称えたがそれはおべっかであり心からのものでは無い。ここにペテロために心からの祈りをした教会との対象がある。
③その結果ー虫に噛まれ死んだとあるがそれは主の使いによる裁きであった。
*国主として最も力あるものであったが、虫に噛まれいとも簡単に死んでいる。
⑶両者の違いをもたらしたもの
ペテロは神を認め神の家族である教会との交わりの中にいて神の御言葉を広めるためには死をも恐れない覚悟の中にあった。
ヘロデは神を認めず教会を迫害し、人々に取り入って人々からの称賛と人気を自らに集めることに腐心していた。
「主の使いがヘロデを打った。彼が神に栄光を帰さなかったからである(23)。
(結論)
究極のところで私たちは自らに栄光を帰す者なのか、
神に栄光を帰すことを志しているのか問われているのである。
ドラえもんて結構いいこと言うんですね。
肝に関わるような名言です。
ポケットからおもちゃを引き出してのび太を助けるだけでなかったんだ〜
★感動するドラえもん名言10選★
1.今の時代が気にいらないと
こぼしてるだけじゃ
なんにもならない。
僕らの住んでいるこの時代を
少しでもよくするため
がんばらなくちゃ。
2.君はこの先 何度も転ぶ
でもその度に立ち上がる強さも
君は持っているんだよ。
3.どんなに勉強ができなくても
どんなに喧嘩が弱くても
どこかに君の宝石が
あるはずだよ。
その宝石を磨いて
魂をピカピカに
磨いて魅せてよ。
4.いちばんいけないのは
じぶんなんかだめだと
思いこむことだよ。
5.何かしようと思ったら
その事だけに夢中に
ならなくちゃだめだ。
6.人にできて、きみに
できないことなんて
ことあるもんか。
7.過ぎたことを悔やんでも
しょうがないじゃないか。
目にはどうして前に
ついていると思う?
前向きにすすんでいくためだよ。
8.いっしょうけんめい
のんびりしよう。
9.障害があったら
のりこえればいい!
かならずしも歩きやすい
安全な道をえらぶって
ことじゃないんだぞ。
10.いいじゃないか。
遅れても
最後まで
がんばれば
「その夜、神がソロモンに現れて、彼に仰せられた。
あなたに何を与えようか。願え」
(第二歴代1章7節)
ソロモンが父ダビデから王位を継承し、その王位就任の際、1千頭のいけにえを捧げた日の夜の事でした。
神がソロモンに現れて言われたことが冒頭の聖句です。
神は、何でも良いからあなたの心にある願いを言ってみろ、と言われたのです。
⑴彼が願ったものは、知識と知恵でした。
それが彼の心にあったものです。常に心にあるものが言葉になって言語化されます。明瞭な必要感が彼にはありました。
神はその心を喜ばれ、富も財宝も誉も敵の命も長寿も求めなかったことを喜ばれています(11節)。現代の教会指導者に置き換えてみるならばこれらのリストは、車も豪邸も教団内地位も宣教の成功も健康も求めずに、聖書の知識とそれを人々に適応する能力を求めた、となるでしょうか。
⑵使命を遂行するための願いでした。
王としての立場と職責を全うするために、国民を正しく裁き指導するために知恵と知識とが必要であると痛感していたのです。神に委ねられた責任を果たすための賜物とそれを運用する力、神の働きを成すために必要な力を求めました。そこには私利私欲のない清められた動機を見ることができます。
⑶ 100%以上叶えられた願いでした。
神は気前の良いお方です。彼が求めた知識や知恵はもちろん、求めなかった富や誉までも与えると約束くださいました(12節)。
私たちの心が神の前に正しい位置にあり、目指す方向が御心にかなうものであるならば、私たちが願い求める以上の祝福を神はお与えになられるお方です。
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