受難週の金曜日。
英語でグッドフライデーと呼ばれている本日は
キリストの十字架の苦難を記念する日であった。
700年ほど前に記されたイザヤの予言の通りに
自ら進んでその命を捧げられたイエス。
ローマが生み出した最も残念な処刑方法である十字架。
その打ち傷ゆえに私たちが癒された。
それ以外にはなかった癒し。
完璧な癒しがここにある。
十字架には、
①罪から離れさせる力があるから
②神の義に生きることを得させるから
③心身をケアしてくれる優しい牧者のの元に帰れたのだから
④逸脱から守る監督者の指導の元にあるのだから
イザヤ53:5-6
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
Ⅰペテロ2:24-25
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。
詩篇42篇5節
「わがたましいよ。なぜおまえはうなだれているのか。
私のうちで思い乱れているのか。
神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる。
御顔の救いを」
私たちの日常生活には、
心がうなだれ、失望するようなことが時に起こります。
その時の対処法ですが、
⑴自分を知れ
そんな時まず大切なのは、
客観的にそして俯瞰的に
自らのその姿を正確に揃える事です。
「わがたましいよ。
なぜ、お前はうなだれているのか」
少し前の新改訳聖書では、
「なぜ
お前は絶望してるのか」とあります。
絶望している自分をまず知ることから
脱出への糸口が掴めます。
絶望している自分を否定すると
いよいよストレスがかさみ、
やがてはパニックとなり
良くない決断をしてしまって
さらなる傷口を広げることになりかねません。
⑵過去のデータベースを掘り起こせ
絶望して思い乱れている心であることを認めた上で
「神を待ち望め」と自らに問いかけています。
なぜならかつて神がどのように祝福し
祭りを喜びをもって祝い
栄誉と勝利を経験した基盤となる経験値があったのです。
「私は自分のうちで思い起こ
私のたましいを注ぎ出しています。
私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげて
あの群れと一緒に
神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを」
(42:4)
⑶人格との出会いがある 「私の救い、私の神を」
アブラハム・イサク・ヤコブの神は
イスラエルの歴史の中で出エジプトと言う
輝かしい奇跡を持って民を贖い救い出されました。
民族を救われた神は、
私たち一人一人と出会い
その窮状を知り
そこから引き上げてくださることができるお方です。
昨日の夜、長女から緊急連絡が入りました。
車のタイヤをパンクさせ
アルバイト先から帰れずに
スーパーの駐車場に車を乗り捨ててきたと言うのです。
翌日は私が学校まで送って行くことになったのは良いこととして
牽引トラックの手配
新しいタイヤの調達
保険を使うかどうかなど
面倒な懸案事項が湧き上がりました。
翌朝、彼女を起こそうとベッド脇で唸っている最中にも
電話が入りました。
すでに牽引トラックが現場に到着しているとの事。
予定より15分早いのですが
私がそこにいなければならないのです。
そんなことで私にもストレスがかさんでいました。
さらにその間に長男を朝食を食べさせ
彼の学校に送らねばならない。
ところがその途中、彼が携帯電話を忘れたため
家にまで引き返したりという
トラブルが重なりました。
こういったうなだれる、絶望する要因は
私たちの日常には事欠きません。
そんな自分を10メートル上空から客観的に把握することができたならば
心を憔悴させることから幾分か解放されて行きます。
必ず解決がある!
必ず脱出の道がある!
必ず勝利が待っている!
過去ののデータベースからそう確信できたら幸いです。
それは私自身に根拠あるのではなく
私を生かし
今も支えて下さっている方が
そばおられ、
必要な助けを与えて下さる事実から。
「私はなおも神ををほめたたえる。
私の救い、私の神を」(42:11)
結果的には
トラック会社がタイヤショップに車を牽引してくれ
長女も学校の授業に間に合い
すべては半日で解決してしまいました
サンフランシスコダウンタウンのホテルはとても小さな部屋なのですが快適に過ごせるよう工夫されています。
明日は5時半には起床して6時には出立しなければなりません。その日大切なメモリアルサービスがあるのです。
創世記46章1〜6節
1,イスラエルは、彼に属するものすべてと一緒に旅立った。そしてベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえを献げた。
2,神は、夜の幻の中でイスラエルに「ヤコブよ、ヤコブよ」と語りかけられた。彼は答えた。「はい、ここにおります。」
3,すると神は仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。
4,このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」
5,ヤコブはベエル・シェバを出発した。イスラエルの息子たちは、ヤコブを乗せるためにファラオが送った車に、父ヤコブと自分の子どもたちや妻たちを乗せた。
6,そして、家畜とカナンの地で得た財産を携えて、ヤコブとそのすべての子孫は、一緒にエジプトにやって来た。
このときのヤコブにとりベエルシェバは、
人生を画するする重大な意味を持っていた。
⑴歴史の転換点となった地。
70人程のヤコブ一家は
約束の地を出てエジプトに向かおうとしています。
そのエジプトでは400年間を過ごすことになりますが
彼らはその地で人口2百万人を超える一大民族に成長します。
つまり1部族が1民族に脱皮するのがエジプトであり
そこへ至る国境の町がベエルシェバなのです。
ヤコブ一家とっても人類全体の歴史にとっても転換点となるその瞬間、
神は「ヤコブ、ヤコブ」と2回も名を呼んで語っておられます。
⑵恐れを克服した地。
ヤコブにとってエジプト行きは、
心の整理がつかないままの葛藤を覚えたものでした。
そんな彼に「恐れるな」と神は語られましたが、
彼の恐れにはどのような理由があったでしょうか。
130歳という高齢は新しい環境と気候、仕事を恐れた。
アブラハム契約継承者としての神の使命に合致しているかの不安。
エジプト文化の中で民族的アイデンティティーを失って同化してしまうのではないかとの懸念があったことでしょう。
エジプトでの生活が困難であるとの預言から将来への不安。
「あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、
彼らは奴隷として400年の間、苦しめられよう」(創世記16章13節)
約束の地を離れて祝福があるだろうかとの不安。
かつても飢饉の時にアブラハムが、
イサクが約束の地を離れ失敗をしています。
イサク自身もパダンアラムへ逃れたことがありました。
これらは自分の都合による移動であり、
神からの許しを得ずに他国行ったときには痛い目に遭ってきたのです。
⑶神の語りかけによる決断の地。
夜の幻の中で神はヤコブに直接語りかけています。
これで6回目の顕現となります。
①アブラハム契約を結んだ神である。
②恐れなくても良い。
それが神の御心であり一大民族とさせる。
③神自身がヤコブと共にいる。
④ヨセフに見守られ天寿を平安の内に全うする。
これらの神の言葉があったゆえにヤコブは決心ができ
旅立ちを完成させた。
ベエルシェバは国境(境界線)の町であった。
私たちが人生の岐路に立つ時、
決断力はどこから生まれるだろうか。
それは神の言葉に親しみ、その御心を確信するところから生まれてくる。
日々聖書を読み
祈りながら導きを仰ぐ時に
神の御旨が徐々に分かるものである。
シアトルの空港で朝食をマックにて。
ここでもIT化は進み、注文と支払いを機械を相手にする。
電子画面に全てのメニューがアイコンで表示されるのでとても快適。
「あなたは正しすぎてはならない。
自分を知恵のありすぎる者としてはならない。
なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか」
(伝道者の書7章16節)
エジプトで食料調達した男たちは帰路についた。
ヨセフから遣わされた家の管理人が彼らに追いつき、
ヨセフの大切な銀の杯を盗んだ者がいると言った時の事。
男たちには見に覚えがないこと。
全く寝耳に水の彼らは、
自らの潔白を主張しはじめる。
その語気が必要以上に荒くなってしまって
次のように言ってしまう。
「僕どものうちの誰からでも
それが見つかったものは殺して下さい。
そして私たちもまたご主人の奴隷となりましょう」
(創世記44:9)
ところがその銀の杯は、
末っ子のベニヤミンの穀物の袋から見つかってしまう。
ベニヤミンの犯行によるものではない。
ヨセフ自身が彼らの知らぬ間に
銀の杯をその袋に入れておいたのだった。
俺は無罪だ!
俺には何もやましい事は無い!
濡れ衣を着せられている!
それは確かにそうであったとしても、
自己の正しさを制限なく主張してはならない。
神の御前に謙遜であることを学ばなくてはならない。
そうでなければその正しさが
あなたを自身を殺すことになると聖書が警告している。
この日の息子のサッカーの試合もナイター。
自らの学校ホームグランドでの試合。
この学校のサッカーグランドもまた人工芝。
ベルビューの学校ではほとんどの中学校高校は人工芝のサッカー場やフットボール場があります。
恵まれすぎた環境にあっては
生徒らはおそらく気づかないままでしょうね。
それはそれとして今回の対戦相手は長女の通うS学校。
隣に座る長女とキャシイはS学校を応援し、
私は息子のN学校を応援してました。
3対0でN学校の勝ち。
最近息子のボール・テクニックが上手くなったと感じてたのですが、
今回もまたボールコントロールとスルーパスのテクニックはピカイチに光っていた。
サッカーにはそれぞれの選手の特徴を生かしたポジションなり役割がある。
足の速い選手
ボールコントロールの上手い選手
身長高くヘリングに有利な選手
コーナーキックで正確な位置にボールを放る選手
テクニックは無いけど当たりが強くディフェンスに優れた選手
などなど
私たちはそれぞれ違う。
それぞれ違うからこそ、
チームに生かされる何かを持っている。
、、、、、はずである。
「さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた」 ルカ9章51節
「これらのことを話してから、イエスはさらに進んで、エルサレムへと上って行かれた」 ルカ19章28節
⑴方向性を確認せよ〜「エルサレムへ」
①ルカ福音書には主が明確な姿勢をとられ、心定められたことが二度記されてある。
②エルサレムにおいては受難・死というミッションが待っていた。
③それはまた天へ帰ると言う最終ゴールのプロセスの1つでもあった。
私たちは本来創造主なる神の元から出、
神の元に帰るものである。
⑵転換点を把握せよ
①前者の御言葉はガリラヤ伝道からペレヤ伝道への転換点にあり、
後者の御言葉はペレヤ伝道から受難のエルサレム伝道への転換点となったもの。
② 3月4月は日本において卒業入学就職の人生の転換期でもある。
③この転換点を神の時として自覚的に把握しているだろうか。
⑶集中力を見い出せ〜「毅然として進んで行かれ」
①かつて神と調和し集中していて私たちの人格が分散されたままにあるのが罪の状態。
もの影に隠れてしまったエデンの園でのアダムを見よ。
②主は朝も夜も限られた時間、ご自分の使命に邁進された。ルカ21章37ー38。
③私たちの心を何に用いているか。その用い方が精神的霊的統一を培養し訓練するものである。
(結論)〜永遠に向けられた視点を持て
あるビジネスセミナーコーチは、
「終わりを思い描くことから始める」
習慣を身につける様に指導しています。
そのために個人のミッションステートメントを書くのが効果的だと言っています。
個人のミッションステートメントとは
「人生においてあらゆる決断の土台となる憲法」です。
この個人のミッションステートメントは
一朝一夕でできるものではありません。
時間をかけて自分で見出すものです。
そのミッションステートメントためにこれらの質問を考えてみましょう。
【質問1】
自分の葬儀の場面を思い描いたときに感じたこと、
考えたこととは何か。
葬儀に来られた家族友人知人に対して
自分はどういうものとして覚えてもらいたいのか。
【質問2】
普段あなたが果たしている「役割」とは何か。
そこに映る自分の人生のイメージに満足しているだろうか?
(役割の例)
家族(夫、妻、父親、母親、息子、娘)
友人、職場(マネージャー、経営者、社員)
【質問3】
これらの役割は創造主なるお方、あなたを活かしておられる神から委ねられた務めであるとの自覚があるか。
その務めを全うするために私の心を何に向けるべきだろうか。
「キリストの御霊の内住」
ローマ8章1〜14節
1,こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
2,なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
3,肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
4,それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。
5,肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
6,肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。
7,なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。
8,肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。
9,しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
10,キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。
11,イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。
12,ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
13,もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。
14,神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。」
15,あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
16,御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
17,子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです」
ドイツの聖書学者にシュペンナー言う人がいます。
彼は聖書全巻を指輪に例えると、
ローマ人の手紙が宝石の部分にあたり
そしてこの8章が
宝石の中で1番光を放っていると言いました。
まさに神が人に与えようとしている所の恵みを示している1番高い峰のようなところと言えましょう。
ここには神の霊である聖霊が信じるものに
どのような御業を推し進めていくかを
まとめて開陳してるからです。
キリストを信じた時に信者の内に与えられる神の霊の働きについて、
次の7つを紹介したいと思います。
⑴解放(2節)
「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです」
ここにある「律法」は改定前の改訳訳聖書では「原理」と訳されていました。
原語では「ノモス」ですから「律法」と訳しても間違いではありません。
ただここでの文脈から「支配力」というように言い換えても良いかと思います。
⑵達成(4節)
「それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです」
ここでの律法とは、旧約聖書にあるモーセ律法のことです。
信者に与えられた神の御心にかなうところの心の在り方や生活の規範が書かれてあるのですが、
もし御霊が内に宿るのなら、
その律法が達成出来ると教えます。
⑶内住(9節)
「しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません」
私たちはキリストを信じた時にキリストの御霊を内に宿すものとされました。
すべての信者が御霊を内に与えられているはずです。
⑷生かす(11節)
「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます」
「死ぬべきからだ」とは生まれつき罪によって汚染された体であり、
罪と死の束縛の中にある状態のことです。
そのからだが御霊によって病が癒される時があります。
そしてやがてキリストが地上に戻って来られる時、
既に死んでいる信者は全て復活せられ
栄光のからだをいただくことができます。
死が克服されて、死なない体をいただく事になります。
⑸殺す(13節)
「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます」
ここで言う「肉」とはビーフを好む習性のことではなく
肉体を持って生まれた人間の生まれつき持っている性質です。
その結果、
自己中心や虚栄心、
欲望や貪欲、
嘘や争い、
強奪や殺人などの
悪行が結果として現れてくるのが
ここで言う「からだの行い」です。
その「からだの行い」を殺すには、
教育やしつけ
修行や節制では不可能なのです。
神の霊のみがこれを殺すことが出来ます。
⑹教導(14節)
「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです」
キリストを信じている信者であっても
このような内側になされている神の御霊の働きについて無頓着であったかもしれません。
ほとんどの場合、
これを自覚しないで以前の「肉」のままの歩み方をしているのです。
ですから私たちは
聖書の御言葉に親しみ
祈りの時間を確保し
神の御霊が内に働いていただくよう
自らを明け渡していかねばなりません。
自らが同意し
決意し
従う時に
御霊は
信者を導くことができます。
⑺保障(16節)
「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます」
そのような御霊と歩調を合わせた生活は
私たちの内に確信を与えます。
それは私たちがキリストに属する者であり
やがてキリストともに新しく出現する神の国を共同統治する
神の相続人であることをことの
保証を与えるのです。
こんなところに気軽に書くのが憚られる
恐ればかりの栄光の富ー
それを神の御霊は
私たちに分け与えて下さるのです。
今年1月の聖地旅行、神殿の丘から
「あなたがたの信仰の通りになれ」
マタイ9章27ー31節
27,イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。
28,イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。
29,そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。
30,すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。
⑴「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」
①絶望的な状況
当時は生活保護や社会保障のなかった時代。
2人の盲人がかろうじて糊口を凌ごうとすれば道端での物乞いしかなかった。
その底辺に置かれた悲惨さは彼らを失望に陥れるだけでなく
目を上に上げさせる機会となった。
②「ダビデの子」とは、ユダヤ的表現でメシアを指し示すタイトルである。
メシア到来の時代、
盲人の目を開け
耳しいの耳が開けられ
足なえも癒されて
すべての病から解放された人々が
平和と豊かさを享受する時が来ることをユダヤ人は知っていた。
イザヤ35章。
⑵「わたしにそんなことができると信じるのか」
①ゆだねられている選択
信じるかどうかは誰とも強制出来ず、
100%各自の選択に任されている。
かつては領主や家長の影響が強く彼らの宗教が個人の宗教であった。
今でも思想信条の自由が許されずに
政治リーダーを崇拝信仰させられる国々もある。
失うものがなかった底辺の盲人としては
自由な選択は容易かったであろう。
②その選択に伴うチャレンジ
「叫びながらついてきた」のは、
イエス一行が彼らの声に聞き耳を立てず通り過ぎていったからである。
さらに一行が家に入られた後も諦めずに追跡し
イエスの御許にまでやって来ている。
何という一途な探究心であろうか。
幾多のチャレンジをはねのけるほどの真摯さがあった。
信仰とは行動に現れ出るものである。
⑶「あなたがたの信仰の通りになれ」
①信仰とは神の力ためにと引き出すチャンネルとなり得る。
その信仰が生き働いたのは、
神からの啓示(イザヤ35章)に対する真剣な応答があったからである。
弟子たちは「信仰が薄い」と叱責され(マタイ8:26)、
長血の女はきっと治ると信じ(同9:21)、
会堂司は娘が生き返ると信じて(同9:18)
そのように信じたとおりの事が起こった。
②各人の信仰深さが奇跡を打ち出したのではなく
イエスご自身によるものである。
「イエスは彼らの目に触って」御業を行われた。
神の栄光が拝される大きな業を見る時、
人でなくイエスご自身がなされている。
(結論)
社会や家庭などの後天的影響によって
人は宗教も限定されるように思われているが
実は各人に信仰の選択が委ねられている。
これは感情のレスポンスが環境に支配されるのではなく
主体的に選択しているのと同様である。
以下の例を参考にどうぞ。
=====================
ある看護師のお話しです。
=====================
「ナースはどこだ!?」
「ナース!! ナース!!」
「ナース!! ナース!!」
毎晩、この病棟では
ある年老いた男性患者が
看護師を呼びつける声が響いていました。
「ナースはどこだ!?」
「ナース!! ナース!!」
毎晩、この年老いた男性患者の叫び声が病棟に響きわたり
この患者は病院の職員、全員から嫌われていました。
そして、職場の職員同士で
「早く死んでくれればいいのに...」
という会話もささやかれるほどでした。
ある看護師も連日
この年老いた男性患者の標的にされ
何かと呼びつけられては、暴言を吐かれるのです。
看護師の頭の中では
繰り返し、繰り返し
この患者のフレーズが鳴りやみません。
「ナースはどこだ!?」
「ナース!! ナース!!」
「もう、やめて!!」
看護師はいつしか
職場に行くのが憂鬱になっていきました。
「今日もあの患者に呼びつけられる...」
「どうして、私が...」
「私が何したっていうのよ!! ...」
いつの間にか看護師は
この患者の被害者となっていたのです。
しかし、
看護師はあるセミナーに参加し
そこで、衝撃のフレーズを耳にします。
「あなたが自分で犠牲者になることを選んだのです。」
この看護師は
「なんですって!!」
「私が犠牲者になることを選んだですって?」
「あの年老いた男性患者の犠牲者に私が?」
「絶対にそんなことはありえない!!」
そう思いました。
「・・・・・」
しかし、
次の瞬間、この看護師は
言葉にもならない気づきを得たように
何やら隣の席にいた友人に話始めました。
そして
セミナーの休憩が訪れ、看護師に訪ねたのです。
「あなたの中で何が起きたのですか?」と。
看護師は興奮した様子で
「信じられない体験をしたんです!
私はあなたの言ったことが信じられませんでした。
私が被害者になることを選んだなんて言うから。」
「絶対にそんなことないって思った瞬間
私には被害者にならないことを選べるんだって
閃いたんです。」
「私は被害者ではなくて、
自分の感情は自分で選べるんだってことが
わかったんです。」
「そうしたら、嬉しくて、
もう牢獄から解放されたような気持ちになって
立ち上がってしまったんです。」
=====================
以上、ある看護師の話でした
=====================
コヴィー著「7つの習慣」から
実際に起こったコヴィー博士の体験談です。
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