岩上敬人先生による、Eラーニング講座・
「使徒パウロの足跡をたどるーパウロの手紙を深くじっくり味わうために」
8回の講義・提出課題のあった中で、
私にとって最も刺激的で有意義であったと思われた一つを紹介します。
それは、第3週目のディスカッショントピックでした。
【二つのディスカッショントピックの課題】
(1)資料1を読んで、パウロの回心について、今まであなたが理解していたものと違っていたら、どこが違うかを述べてください。もし「パウロの回心はこのようなものだった」とあなたが考えるものがあればそれも書いてください。
・・・・・・・・・・・・・・
(2) 資料1には、「自分の犯した罪の大きさ、また罪深さは、十字架経験によって本当 に理解できる」とありますがそれについてどう思いますか。そのような経験をしたことがありますか。もしあれば書いてください。(詳しく書く必要はありませ ん。)
【私はディスカッショントピック⑴を選んで、以下のように応答しました】
今回の学びを通じてパウロの回心がどのようなものであったか、大きな示唆が与えられ、また漠然としていたことにも鮮明さが与えられたようで感謝しています。
テキストには、
「パウロの回心は私たちが経験するような、個人の罪深さを自覚し、個人の罪の赦しを求めて、主イエスと出会ったという回心ではありませんでした。
つまり、回心する前、ルターやウエスレーのように自分の罪深さや霊的な苦しみ、内的な罪の意識に苦しんでいたとは思えません。」
との御見解がありました。
私は長い間、漠然としてではありますが、内的な罪の葛藤に苦しんだ挙句、
ダマスコでのイエスとの出会いに至ったと考えていたようです。
宗教改革後のプロテスタント教会の神学的な潮流に身を晒していた者の一般的な見解であると言えるでしょうか。
その根拠として、ローマ7章にある「私」が罪責感に激しく苦悩しているところが影響していたように思います。
その「私」とはパウロの信仰後の告白か、信仰前の告白かの議論はありますが、パウロ個人の正直な内情の吐露であると考えておりました。
真に「私」が誰であるかを理解するためには、パウロの用いている修辞的技法を知る必要があると説いておられます。著書のP210。
その「私」表現は、当時の世界で使われていた勧告的修辞学の人格体現化という技法であるというご指摘に目からウロコが剥がれたようです。
彼が演じていた人物とは、
7:7-13では、アダムであり、
7:14-25では、アダムにある人間であるとのこと。
それがローマ6ー8章で、
アダムとアダムにある人間、
キリストとキリストにある人間の対比を一貫して説いている文脈にも合致することからうなずくことができました。
さらに、この「私」がユダヤ人パウロやクリスチャンパウロではなく、その良心の葛藤を書いたのではない根拠として、岩上先生はパウロ自身が書いた他の書簡での自身の告白を上げておられます。ピリピ3:6、使徒23:1
「律法による義についてならば、非難されるところのない者である」
と胸を張った人物が、
どうして罪責感に悩んだ末に回心したと言えるか、
とのご指摘に賛同する者です。
彼の回心は重たい罪の罪責感から解放されたものというよりも、
新しい神概念の啓示によって、これまで培って来た契約や律法理解をさらに大きな次元から包み込むような完成された契約・律法概念を把握したものと言えるのではないでしょうか。
岩上敬人先生による、Eラーニング講座・
「使徒パウロの足跡をたどるーパウロの手紙を深くじっくり味わうために」
8週間コースが今週で終了しました。
毎週、課題図書を読んで設問に応える課題が出されました。
二つの設問のうち一つを選んで応えます。
それをネット上に投稿しますので、講師と全ての受講者が閲覧することになります。
理解を増すために、講師の岩上先生がその部分を15ー20分ほどにまとめ上げた講義を拝聴。
さらに、地図や年表、図表などを含む文書もアップされていて、私のようなものでも落第しないよう、「これでもか!」と言わんばかりのサポート体制が幾重にも施されていました。
それぞれが他の受講者の提出課題にも最低1回は応答することも義務付けられていて、
議論が深められて行きました。
その週の課題を終えると、
講師による総評がビデオや文書でアップされます。
さらに「講師への質問コーナー」があり、課題とは直接関係のない受講者の問いにも懇切丁寧にお応えいただいて重複的に理解が進んで行きました。
毎週の課題に取り組んで行く中で段々とパウロさんが近しい人に感じられるようになり、
大袈裟に言えば、その息づかいまでが聞こえて来るような感覚です。
8回の課題の中から私が最も有意義な学びであったと感じているものを
お分かちしたいと思います。
それは、「パウロの回心」についてです。
またこれに関連するローマ7章14節以下の「私」についての論考でした。
ヘレニズム的教養人であったパウロが、
当時のギリシャ・ローマ文明の知識人が多用していた修辞学(rhetoric)的な手法
を採用しながらローマ書を執筆しているとの視点は、
聖書解釈において中心軸となるべきコンセプトであると認識しました。
「ユダヤ的視点」による聖書解釈とは、
ローマ書において「ギリシャ・ローマ的視点」と同一のコンセプトであり、
それは聖書が執筆された時点の社会・文化的な文脈を
掘り起こして行く作業であると理解します。
講座での課題とこれに対する私の応答を紹介させていただいて、
その聖書解釈手法の重要性を皆様ともシェアしたく思います。
その前に、その課題のキモとなっている部分を岩上先生の
「パウロの生涯と聖化の神学」から抜粋します。
「さて、ローマ7:7-25の『私(一人称単数・エゴー)』という表現について、
聖書解釈の長い歴史の中で、様々な見解が出されてきた。
『私』とはパウロ自身を指し、パウロ個人の内面の告白であると解釈する。例えば、クリスチャンになる前のユダヤ人としてのパウロであり、キリストを信じない者の心の葛藤を描いているとする。
あるいは、『私』とは信仰をもった後のパウロであり、クリスチャンの心の葛藤を告白しているとする。
次に『私』とは、パウロ自身を指していないという解釈もある。つまりパウロの個人的な内面の告白ではなく、信仰をもっていないユダヤ人を代表している、あるいは肉的なクリスチャンを代表しているなどの解釈もある。
…………………………………(略)…………………………………
ローマ7:14-25を理解するためには、パウロが用いている修辞的技法を知らなければならない。パウロは、ディアトリベ(対話形式)など、その当時使われていた修辞学を駆使してローマ書を執筆しているからである。
7章でパウロが用いている『私』という表現は、当時の勧告的修辞学(deliberative rhetoric)でよく用いられていた「人格体現化」(プロソーポポエイア)という技法であると考えられる。
人格体現化というのは、面を被って他人を演じること、ある人物になり切るという修辞的技法である。つまり7:14-25で、パウロは自分の内面を吐露しているのではなく、『私』という表現を用いて、誰かを演じている。
その人物とは、
アダムであり(7:7-13)、
アダムにある人間である(7:14-25)。
これまで観察してきたように、パウロは6ー8章の中で、一貫して『アダムとアダムにある人間』、『キリストとキリストにある人間』の対比を描いている。
ローマ7章で描かれている『私』とは、アダムにある人間である。
『私(アダムにある人)』は罪の支配の中にいるので、正しく聖なる律法でさえ、私が罪の虜になっている現実しか見せてくれない。
『私は、ほんとうにみじめな人間です』(7:24)という悲痛な叫びは、罪の力に支配されている『アダムにある人』の敗北宣言である。」
《パウロの生涯と聖化の神学 ・ P.209-212から引用》
〜 長くなりましたので、次回に続きます。〜
地中海に沈む夕日
引き続き神学者たちとの終末論に関する意見交換を紹介します。
(M様からの応答)
このスレッド、色々学ばせていただき感謝です。
「イスラエルの7つの祭りを学ぶと見事に終末プログラムと合致している」との意見、そういう解釈もあるのかなぁと思いました。なるほどと。
同時に、(1)~(7)の終末論的プログラムが、当時の異邦人にも分かるように新約聖書で明確に書かれている箇所はどこだろうか?と、思いました。
また、五書で言及されている祭りが、こういう終末論的プログラムで読むように著者が意図したのかなぁ?とも素朴に思いました。
よく勉強していないので分からない所も多いので恐縮ですが、旧約聖書の祭りは何らかの意味で終末に関係していると思いますが、こういう終末論的プログラム・タイムスケジュールまで展開する解釈は難しいのでは?とも感じました。
同じ福音主義の枠内でも、終末論や黙示文学解釈は非常に意見の分かれるところと思いますので、関心あります。ご批評ください。
(私からの応答)
7つの例祭がイエスの来臨をよ表するもので、
春の4つの例祭は初臨を、秋の3つの例祭は再臨をよ表しています。
しかしそれを直接言及している箇所は新約聖書には見出されません。
これら7つが例祭として、ユダヤ民族が世世に渡り守るようにとの教えは、
レビ23章にまとめて見出されます。
私はメシアニックジューの学者によるヘブル的な視点での聖書解説から学びましたが、異邦人の我々には例祭がどんなものか不案内ですので、それらが神の救済プログラムを網羅し、よ表していると気づくことはないはずです。
もっとも、毎年例祭を繰り返して来たユダヤ民族自身も、それがメシア来臨を雛形としているだなんて考えも及ばなかったことでしょう。
過越の祭りの際に十字架の死を遂げることはイエス以外、誰も想定できていません。
主はそのご自身の「時」(ヨハネ2:4、7:6、8、30、8:20)を見定めながら公生涯を歩まれました。
メシアが贖いの死を完成させるには、ただ刑死するだけでは不十分なのです。
二つの条件が満たされなくては父なる神が受け入れる贖いになり得ません。
旧約聖書預言から、その一つは木にかけられて呪われたものとされること、
もう一つは過越の祭りにおいて殺されなくてはならなかった、と言えます。
その通りにニサンの月の14日よる、弟子らと共に最期の晩餐で過越の祭りの食事をされ、翌日の9時に祭司らが神殿で過越の羊を屠る時刻に主は十字架につけられました。
そして信者の初穂として復活をされたのは、初穂の祭りの当日でした。
これらは弟子たちには全て想定外の事柄ですが、主にとっては計画通りのものでした。
さらに聖霊の降臨については、弟子たちに「もう間もなく受ける」ので「エルサレムを離れずに祈れ」と主はお命じになられましたが、その日時には言及されていません。
これら初臨の出来事が全て春の例祭に重ねられたものであり、時期ばかりでなくその祭りが意味しているとことを主が十全に成就されたとの認識は、弟子たちが聖霊体験をした後に、過去を振り返って初めて気がついたことです。
その後の秋の例祭までには約4ヶ月間ほどありますが、その間に命じられていることは、在留異国人や貧弱のために畑の隅々まで刈入れてはならないこと。これが異邦人に福音が及ぶ教会時代と重なります。
ティシュリ(7月)の月の1日に長くラッパを吹き鳴らしてラッパの祭りが始まりますが、それはラプチャーの際に天使がラッパを響き鳴らして始動することの雛形となっています。
1テサロニケ4:16,1コリント15:50-58
同じ月の10日に贖罪の日という祭りがありますが、ユダヤ人にとり断食と悔い改めの日であり、苦悶の日です。これは、大艱難時代をよ表しています。
同じ月の15日に仮庵の祭りです。
荒野の旅を記念すると同時に、粗末な仮庵に住んで恒久的な住まいであるメシア的な王国(千年王国)を待望する時でもあります。
その時、雄牛が70頭捧げられますが(民数29:12-34)、それらはノアの子供らから派生した70の異邦の国々を象徴するものです。
千年王国のときには、世界中の異邦の民がエルサレムにて仮庵の祭りを祝うために集まるようにもなります(ゼカリヤ14:16-19)。
ユダヤ人らはこれらの預言的な意味を知らないまま例祭を現在でも祝っているのです。
やがて彼らはその意味を悟る時が来ます。大艱難時代の最終幕で彼らがイエスをメシアと信じて受け入れる時です。そのメシア待望の彼らの声に応えてメシアが地上に降り立つのです。その時はすでにラプチャーによって天に引き上げられていた新約時代の聖徒らとともに降りてこられます。「主は千万の聖徒を引き連れて来られる」(ユダ14)
イスラエルは神にとって「選ばれた種族、王でる祭司、聖なる国民、神の所有の民」(1ペテ2:9)であり、その選びと賜物、召命とは変わることがありません(ローマ11:29)。
ゆえに例祭の中にも、彼ら自身にも気が付かない預言的な内容が隠されていたと言えるのではないでしょうか。
さらに、彼らの数千年来守ってきたユダヤ式婚礼の順序と方法の中にも同様な隠された預言的な意味が汲み取れます。それを見れば聖書の教える終末プログラムのシナリオを見事に体現しているのに驚かざるを得ません。
http://wdx.hosannamin.org/page/seisho-34
本来ここは読書会のページなのに長々と書いてしまい申し訳ありません。
(M様からの応答)
長文の返答に恐縮です、ありがとございます、色々勉強になりました。感謝です。
共感する解釈もありますが、例祭が終末プログラム・スケジュールを
「直接言及している箇所は新約聖書には見出されません。」となると、
それは絶対の解釈・教理というより一つの解釈となるのではないかなぁ、と思いました。
新約をユダヤ的視点(この言葉の定義も重要ですが…)で読むことも共感を覚えます。同時に、パウロ書簡などを読むと、異邦人クリスチャンが対象という面もかなり強いと思います(異邦人と言っても、日本人の私たちより旧約聖書のことを知っていたと思いますが)。
すると、旧約聖書に精通していたパウロが、異邦人信者が多い教会に、「実は例祭が終末プログラムと合致しているのだよ!」と旧約聖書を引用し、明確に書いていないのは「?」と、思いました。
テサロニケの手紙Ⅰにも、直接的に例祭が出てきていないと思いますし、「引き上げられる」の解釈もこのスレッドを見ると色々分かれると思いますが、このフレーズを一人歩きさせてしまうと、パウロが2000年前の特定の歴史・文脈・課題の中にいたテサロニケ教会へのメッセージが見えなくなってしまう可能性もあるのかなぁ~と思いました。
この文脈のパウロの強調点や意図は他のところにあるかもしれない、という考えも十分成り立つかもと素朴に感じました。
あっ、決して誰かの非難とかではなく、私個人も関心あるテーマなので、色々書いてしまいました、すみませんww。高橋先生のコメントを拝見し、本当に教えられることが多く、感謝です。整理できたことも多かったです。
(私からの応答)
M様
率直なコメントをありがとうございました。
パウロ書簡で、異邦人らにイスラエルの例祭が預言の雛形であると直接言及がないので、、、とのご指摘。
それには理由があるように思われます。
先述したように主はご自身の十字架、復活、そして聖霊降臨を意図的に春の例祭タイムテーブルに合致させたにもかかわらず、弟子たちにはあえてそれを隠されたのです。
それと同じ理由が…
もし弟子たちに祭りの預言内容まで詳細に語ってくださっていたら、十字架捕縛の際に逃げ出したりせず、復活を確信できて死をも恐れなかったかもしれません。。。
さらにこのスレットで話題となっている、終末的な千年王国成就のプログラムを数式のように明瞭に順位立てて教えてくれていたら、議論百出せず、誰もが安心して終末を迎えることが出来るではないでしょうか?
さらに三位一体や、人の意識vs神の選び、イスラエル今も選びの民なのか、捨てられた民なのか、といった類の神学論争も、聖書の中に僅かのヒントしかないがために、そして両者を肯定しているかのような書き方が随所に見られるがゆえに、見解まとまらず論争付きず、教会分裂まで引き起こしてきたのが我々キリスト教会の歴史であったと言えましょう。
なぜ神様は議論の余地ないほどに明瞭な信仰綱領をカルビンがしたように残さずに、書簡や物語、旅行記や詩歌、幻を見た体験記(黙示録のこと)の体裁文書を我々には与えられたのか。。
私はここで神様に代わってその理由をお知らせしようだなんて大仰なことを話すつもりは毛頭ありません。
一つ言えることは、もし信ずべき信仰箇条や終末プログラムが簡略されて羅列されていたら、人は学ぶという行為を捨ててしまうのではないでしょうか。
求道中の方がいとも容易く神を信じられたのなら、激しく葛藤しながら神を求めるというプロセスはなおざりにされる。結果的にひ弱な信仰しか育たないことと関連するかのように。。
神からのチャレンジと言えるかもしれません。
@理屈で割り切れない教理も、わたしの言葉ゆえに受け入れるのか?
@聖書という大海の全貌を見極めるほどの努力や探究心を保つのか?
@終末については僅かの言葉を預言書に与えた。その僅かさをつなぎ合わせて統合された世界観を構築するだけの注意深さを払う用意はあるのか?
@理性で判断するのではなく、貴方の最終権威をわたしの言葉に賭けるのか?
「これは、神を求めさせるためであって、
もし探り求めることでもあるなら、神を見出すこともあるのです。」(使徒17:27)
説教調の様な文書になってしまっていたら、申し訳ありません(^_^)
引き続き、神学者たちと交換した終末論に関する意見交換です。
(私への投稿)
高橋様
僕のお友だちや所属教団の中には、
高橋様と同じような見解を持つ人はたくさんいます。
僕は二十数年前に、より明確なディスペン主義者から、「T先生は、エゼキエルの神殿の完成の預言を文字通り信じていない・・・そんなリベラルな神学を奉じる人とは一緒にやってゆけない」と教会の公の場で批判を受けたことがあります。
また牧師の友人からも、「T先生は、それでも福音自由の信仰だと言うのですか・・・・」などと批判されたことがあります。
でも、幸い時代が変わり、最近は、僕のことをそのように言う人はいなくなりました。時代が変わってきたのだと思います。
僕の方からは、そのようなディスペン信仰に立っている人を退けたことはありませんが・・・
テサロニケの文脈ですが、1章10節でも、問題の箇所の直前の4章16節でも、大枠の文脈は、主が天から下って来られる・・・ということがテーマになっています。
ところが携挙なる概念を入れると、この箇所を、「空中再臨」という解釈をせざるをえなくなります。
王が自分の植民都市に来るように、王であるイエスがこの地に目に見える支配を明確にするために降りて来られる・・・というのはまさにテサロニケの文脈そのものですし、黙示録のエルサレムが地に下るというイメージともあいます。
僕が残念に思うのは、空中再臨などと言う聖書に明確にはしるされていない概念を作ることによって、明確に繰り返されている「新しい天と新しい地」のゴールがぼかされてしまうことです。
すべてのクリスチャンは、「新しい天と新しい地」をゴールとするという点では一致出来るはずなのに、それに至るプロセスの理解の違いが前面に出すぎて、互いの相違が大きく見えすぎてしまう。
僕はそれを何よりも避けたいと思っています。
ここはライトさんの本の読書会なので、ラプチャー批判を堂々としてしまいますが、ふだんはそんなことを話題にはしません。
ただ、それでも、僕のメッセージを聞いて、ラプチャーを信じていないことにお気づきになり、批判してくる人が過去にいたこと、それをもって、僕をリベラル呼ばわりする人がいた・・・
そんふうな応酬にはなりたくないと思っています。
(私からの応答)
T様
リベラル呼ばわりされて断罪されたとはご愁傷さま?でございました。
ある神学ラベルを貼り付けて片付けようとする向きが行き着く最終地点は、
中世のカトリックの魔女狩りでしょうか?
アナバプテストの教理ゆえに捉えた信者を溺死させたカトリックの宗教弾圧などは、どちらが魔女の蛮行か今なら明らかでも、当時の情勢下では「神のために熱心」ゆえに正当化されていたようです。
程度の差はあっても、私たちも同様の愚かさや過ちに陥ってしまいやすいものなのでしょう。私も高橋様と似たような経験があり、私の神学的な主張を十分に理解しないまま「極端なディスペンセイション主義者だ」と教団内で断罪されたことがあります。
この読書会ではそのような大人気ない過ちは避けたいと考えます。
私は高橋様がラプチャーを否定しようとも魔女とは考えませんし、改宗させようだなんていう無謀な野望は抱いておりません。
主にある兄弟として尊敬申し上げておりますし、こうしてFBにて議論を戦わせる機会に感謝しております。
お互いに「聖書を誤りのない神の啓示の書である」とみなす聖書信仰が有る限り、議論も意味があることと考えます。
先に挙げられた聖句は間違えなく主の空中再臨を教えていると、私も同意します。
ゆえにラプチャーの教えが抽出できることになります。
その直後に高橋様は、「空中再臨などという聖書に明確には記されていない概念」と断じておられるところが理解できません。
主イエスが天から来られるのは、やがて来る御怒り(艱難期)から私たちを救い出すため(テサ1:10)ーーーラプチャーゆえに信者は艱難期の苦しみを通らずに済むのであると聖書は明言していないでしょうか。
4:16にてご自身が天から下って来られて(この時は地上に立つとは書かれていません)、
その後で信者がラプチャーされて、「空中で主と合う」(4:17)ことに何の疑問があるでしょうか?
主ご自身も、先に信者を迎えにくると言っておられます。ヨハネ14:3
その後天に引き上げられた教会と主は、天にて婚礼を挙げられると黙示録は明解です。
地上には不信者をさばく「主の日」(旧約聖書表現です)が、艱難期7年間として始まります。
なお、イスラエルの7つの祭りを学ぶと見事に終末プログラムと合致していて、
艱難期前に主の空中再臨とラプチャー、艱難期後に主の地上再臨があることが隠されていたことに驚きました。
⑴過越の祭り〜 神の子羊、キリストの十字架による刑死をよ表
⑵種無しパンの祭り〜罪のないキリストの血が捧げられた
⑶初穂の祭り〜キリストの復活をよ表
⑷ペンテコステ〜聖霊の降臨をよ表
(中間の4ヶ月間・教会時代に対応)
⑸ラッパの祭り〜教会のラプチャーをよ表
⑹贖罪の祭り(ヨムキップール)〜艱難期の7年をよ表
⑺仮庵の祭り〜千年王国をよ表
これだけ情報があっても、改宗はあり得ませんよね。
失礼しました(^o^)
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージ・ノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/43490
「千年王国3」
マタイ 24 章 34 節 ~マタイ福音書連続講解説教 90~
イントロダクション
主イエスは千年王国を暗示された。
「まことに、あなたがたに告げます。
これらのことが全部起こってしまうまで は、この時代は過ぎ去りません。 」
(マタイ 24:34 )
現在の「恵みの時代」、
または「奥義としての御国時代」が終わると次に来るのが千年王国である。
その転換点には、イスラエルの回復があることを聖書は預言している。
「こうして、イスラエルはみな救われる」(ローマ11:26)。
これは民族としてのイスラエルがイエスをメシアとして悔い改め、信じることの預言であり、この前提条件が果たされてからイエスの地上再臨が実現する。
それでは、そのイスラエルの救い(回復)とは一体何を意味するのか。
そこにある4つの側面を学んでみよう。
①イスラエルは民族的に新生体験をする
その土台は新しい契約・エレミヤ 31:31~34
シナイ契約(モーセ契約)は、
神とイスラエルが結んだ 5 つの契約の中での唯一の条件付契約であった。
このシナイ契約は律法を守る力までは提供していない。
結果、イスラエルはバビロン捕囚や世界離散の憂き目に遭ったきた。
新しい契約においては、新生によって義なる生活を送ることが可能となる。
肉の、人間的なものではなく、聖霊による信仰生活が始まるからである。
国家的新生を体験したイスラエルは千年王国に入り、
そこでは未信者のユダヤ人は存在しない。
預言の進展・エレミヤ 24:7
~神はイスラエルに神を知る心を与える。
②イスラエルは信者となって約束の国へ帰還する
その土台は土地の契約・申命記 29 章~30:20
イスラエルの背信とそれに結果する約束の地からの追放が預言され、歴史上、実現に至った。
彼らは長期にわたり異邦人社会にて迫害を受けて来た。
しかし約束の土地からの追放は永遠のものではない。
イスラエルは新生した後、世界各地からの帰還するようになる。
預言の進展・イザヤ 11:11~12:6
ここで「再び」とあるが、ヘブル語では「2度目に」という原語となっている。
最終的な帰還は 2 つの帰還のうちの 2 番目のものである。
最初の帰還は不信仰のままでのものであり、
1948年のイスラエル共和国建設から現在までの間に成就している。
それは大艱難時代前に起こり、裁き(艱難時代)への序曲となる帰還である。
最終的な帰還(2度目)はレムナント・信者の帰還であり、千年王国への祝福への序曲となる。
マタイ 24:31によると、天使が最終的帰還の際に活躍する。
それは主の再臨の後に起こる。
③イスラエルの約束の土地の所有
その土台はアブラハム契約・創世記 15:12~21
千年王国でのイスラエルの北の境界線はユーフラテス川。
南の境界線には2つの考え方がある。
「エジプトの川」The River of Egypt 〜常に水が流れる川のことで、ナイルデルタにある東端のナイル川支流のこと。所有権の境界を意味する。
「エジプト川」The Brook of Egypt 〜ワジのことで、シナイ半島中央部にある水なし川。実際の入植の境界線のことであろう。
預言の進展・イザヤ 30:23~26
土地の生産力が増加。月は太陽の光のように、太陽は 7 倍の光を放つ。
肉体的な病が癒される。
④ダビデ王座の回復
その土台はダビデ契約・1 歴代 17:10~14
ダビデの死後、彼から出る子孫によって王国が確立される。
IIサム 7:11~16 は、ソロモンに関する預言
I歴代は、イエス(ナタンの子孫)に関する預言
メシアも神殿を建てる(千年王国期)。その王座は永遠に立つ。
永遠の王朝、王国、王座が保証されているが、その根拠はメシアが王として永遠に君臨されるからである。寿命に限界のある人には永遠の王国保持は不可能。
預言の進展・エレミヤ 23:5~6
ダビデの子孫が王座につく。
その王は神人である。統治の特徴は知恵、公
義、正義である。
結論として、千年王国での統治権について確認しよう。
メシアがダビデの王座に座して世界を統治されるが、
教会時代の聖徒らが、
「キリストとともに、千年の間王となる」(黙示録20:6)と預言されていて、
「キリストとの共同相続人」(ローマ8:17)となることは先週学んだ。
地上の統治権はサタン、人間、サタンと変遷してきて、
最後にメシアが相続することも学んだ。
それでは、その相続・統治権とは、
どういう判断基準で各人に与えられるものなのであろうか。
千年王国における統治権は各人に異なったレベルがある。(ルカ 19:11~26)
この主のたとえ話から分かることは、
その判断となる基準が、
「小さなこと(地上での委託事業)に忠実」であるかどうかである。
さらに、主の姿勢に倣い「仕える者」であったかどうかである。(マルコ 9:35)
「もし神の前にひざまずくなら、誰の面前であろうとも立つことができる」
あるFacebookの神学者達のグループで終末論に関して意見を交換しました。
その続きを紹介します。
(私に対する問いかけ)
高橋様、ご無沙汰しております。
ここであまり微細な説明はできないのですが、
ヨハネ黙示録の「千年」についてだけ一言書かせて下さい。
私もかつて、ここは「千年」とはっきり書いてある以上、千年と読むべきだと教わり、そう考えていましたが、黙示録全体の象徴的な数字の用い方をいろいろ勉強して、その考えをいまは改めています。
いまでも黙示録は私には「閉じられた」書のように感じられ、
よく理解できない部分がたくさんあります。
ただ、例えば11章の二人の証人の預言期間が三年半、12章の龍が女を追い回すのも三年半とありますが、私にはこれが文字通りの三年半とはどうしても思えません。
教会の迫害と神の守り、あるいは証の時代を象徴的に表しているという説のほうがはるかに説得力があります。
ボウカム先生などの本を読まれると(あるいはライトさんのエブリワンなど)新しい読み方に目が開かれると思います。
(私からの応答)
Y様
書き込み をありがとうございました。
「黙示録全体の象徴的な数字の用い方をいろいろ勉強」されたところ、
文字通りの解釈をお改になられたとのこと。
その経緯のほどを機会がございましたらゆっくりと承りたく思いました。
その際に小生がいろいろ勉強してたどり着いているものもシェアしたいと思いますが、
それがいつになることか、甚だ頼りないですので、、、、
僭越とは存じますが、手短にシェアします。
黙示録には象徴的な言葉が溢れていますが、当時のユダヤ人に分からないようなものではございません。多くの場合はすでに旧約聖書の中で象徴的用語として使用されていましたので、その用語も同様に解釈します。
ちなみに旧約聖書預言に言及している黙示録の用語はなんと550もあるとあるメシアニックジューの学者は計上しています。
旧約聖書で用いられていない予言の用語につきましては、それが比喩的で象徴的なものならば必ずと言って良いほどに、その前後のテキストに何を示しているかが指示されています。
ところが、数値においては象徴として用いられたところは一つもありません。
例外的に千年や3年半などが象徴として解釈せねばならない十分な理由も聖書本文からは見出されません。
なお、3年半は、「1260日」とか、「42ヶ月」、「ひと時とふた時と半時」、「1週の間」(この部分のダニエル予言では1日が1年です)という異なる表現で黙示録に随所に出てくることや、ダニエルの予言にもその数値が現れていて、恐ろしいほどに調和を保っています。
終末の千年王国樹立に至る艱難期の予言において、黙示録とダニエル書などを比べて見ますと、両者のプログラム進行プロセスに驚くほどの整合性が発見され、神の霊感を受けた啓示の書として揺るぎない確信を得た次第でした。
そのような終末論を当教会でシリーズにて扱いました。
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew
私はかつて黙示録は、艱難時代も再臨も象徴的な用語に混乱してしまい、誰も確かなことは言えない予言の書なのだと長い間考えておりました。
繰り返しますが、旧約聖書予言の象徴的用語の使用例を参考に紐解くなら、黙示録が何とも親しみやすく分かりやすい書に変わりました。その視点をヘブル的なアプローチであるとしているものでございます。
先日、ある聖書教師との間で意見を交換しましたので紹介します。
(T様から私へのメッセージ)
高橋さん。
お読みくださり、コメントをありがとうございます。
簡単に僕の理解を述べさせていただきます
ラプチャーは、Ⅰテサロニケ4章の拡大解釈だと思っています。
この意味は、基本的に、王が自分の支配地を訪ねるときに、町の住民が城壁の外に出て、町のそとで王を迎え、王を先頭に町に入ってい来る・・・同じように、キリストがこの地に目に見えるように降りてこられるとき、信者が引き上げられ、キリストを先頭にこの地に下ってくることを指ししていると思います
千年王国に関しては、黙示録では、「千年の間王となる」と記されているだけの概念があまりにも独り歩きして、そこにイスラエルの預言が成就する隙間をいれたということだと思います。
僕は、イスラエルの回復は、基本的にキリストの教会において成就すると信じ、イスラエルの建国を預言の成就とは認めていません
ただ、肉のイスラエルの回復の希望を、パウロが熱く語っていることは確かだと思います。その意味で、戦後に、多くのユダヤ人がイエスを主と認めるようになってきていることに大きな希望と喜びを見出しています。
………以下は省略
(続いて私からの応答です)
T様
私の突飛な問いにも丁寧にお答えくださりありがとうございました。
T様の聖書を解釈する手法、
イスラエルと預言の成就の関係に関するお考えをご披露下さいました。
見解の別れるissueであるにも関わらず、端的に明瞭にご自身の立場を鮮明にしてくださった点に敬意を感じました。経済問題を解くように、解りやすく切れ込んで下さいました。
再臨に関しての見解が人によって別れています。
その原因は一体なんであるのか、、、
おこがましい表現で恐縮でございますが、最近突き止めたように感じています。
それは、
「聖書を字義通りに受け取るか、比喩的に拡大解釈するか」
の点に尽きるようです。
聖書は啓示の書であるとともに文学書ですから、
比喩的に書かれた場所ももちろん存在します。
その時には比喩として読まねばなりません。
が、比喩として読むように文脈上示唆されていない箇所では、
ストレートに字義通りに読みんで理解せねばならないと私は考えます。
そうでないなら、人の数だけ様々な解釈が可能となり、
結局のところ、どれが真理か分からなくなります。
神はそのような相対化できる文書を人に与えたものではないはずです。
Ⅰテサロニケ4章は、主の空中再臨とラプチャーを教えている聖句であると私が結論する根拠です。
T様がここで展開されたような、
「王を迎えに出る住民」モチーフはその章にヒントさえ出てきません。
その聖書を字義通りにどこまで解釈するのか、という1点が、
他の見解の別れる終末論にも、イスラエルの救いの教理に対する姿勢や理解力を決定づける要因であるように思われてなりません。
教派や神学者の頭数だけ終末論の見解の相違があるようですが、
神はそのような計画で啓示の書を我らに与えたはずではなかったはず。
終末時代は、一つだけの歴史様態しかあり得ません。
(今後の歴史は一つきりという意味です。人が明日過ごせる時間は24時間で、それ以外の時間帯を過ごせないというのと同じ)
そのたった一つの歴史様態を聖書が預言として伝えていると私は信じています。
その伝え方には法則性があります。
当時のユダヤ人の知性や文化を通じて、
読み手のユダヤ人に語ったところのものが聖書として集大成されたものであります。
つまり、その法則性を見出す手法として「ヘブル的視点」
が必要ではないかと小生は考えております。
長々と私論につきあわせてしまい失礼しました。
(総評)
聖書を字義通りに啓示の書として信じることがないなら、
「千年」にも、「イスラエルの回復」にも確固として信じられなくなるのは当然のことです。
聖書観がその人の終末論を規定していくと言えるでしょう。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/43489
「千年王国 その2」
マタイ 24 章 34 節 ~マタイ福音書連続講解説教 89~
主イエスは千年王国について直接的には言及されなかったが、暗示された。
「まことに、あなたがたに告げます。
これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」
(マタイ 24:34 )
過ぎ去った今時代の後に、次の時代が来る。それが千年王国。
その統治形態について学ぶ。
それは、メシアであるイエスによる専制君主制である。
メシアの王座はエルサレムにて設立され、
その統治は全ての異邦人諸国に及ぶ (詩篇 2:6~8)。
メシア統治の特徴としては、 正義と真実であるということが出来る。
なぜなら、王には聖霊が余すところ なく与えられ(7 つの表れ)、
またそれらがもたらす 5 つの結果(3~4)のゆえである(イザヤ 11:1~5)。
異邦人部門とユダヤ人部門との二つに別れた組織があり、
両者を統合した世界はメシアが統治するようになる。
この時、我ら教会時代の聖徒らは「キリストとともに千年の間王となる」
(黙示録 20:4)を見ると、その聖徒らは3つグループに別れているのが分かる。
⑴ 4A、携挙された教会時代の聖徒たちのこと。
「裁きを与えられた」とも訳せる箇所であり、これを採用する。すなわちメシアの裁きの座をすでに通過した教会時代の聖徒のこと。
その裁きとは、地上で行った信仰の業に対する評価のこと。
それが御国での地位を決めることにもつながっている。
⑵ 4B、大艱難時代の前半に殉教した聖徒のこと。第 5 の封印に時に言及(黙示 6:9~11)
⑶ 4C、大艱難時代の後半に殉教した聖徒のこと。
彼らは全てメシアの代理人として地上の各地に遣わされて行き、
メシアである王の法令を執行する役割を担う。
結論として、神の国の統治についてまとめてみよう。
1) サタンによる地の統治について
サタンは、創造された当初はケルブとして、神の御座の近くに仕えていた(エゼ 28:14)。
天地創造(創世記 1:1)後に、神の園・エデンに置かれた(エゼ 28:12)。
彼はその地の管理者として任じられていた。
ところが堕落ゆえに「地上の灰」(エゼ 28:18)となり、統治者としての権威を失ってしまう。
2) アダムによる地の統治について
地上の統治者、生物界の管理者として任じられた(創世記 1:28、ヘブル 2:8A)。
ところが堕罪により土地はのろわれ(創世記 3:17)、エデンの園からも追放された
(創世記 3:23、ヘブル 2:8B )。
こうして人は、与えられていた土地についての完全な統治権を失ってしまった。
その失った統治権をサタンが強奪したと考えられる(ルカ 4:5~7)。
3) メシアによる地の統治権の回復
イエスには第 2 のアダムとして、
アダムが失った地の統治権を回復するミッションがあったと言える。
死の苦しみゆえにメシア自身に栄光と誉れの冠を受けられ(ヘブル 2:9)、
さらに人にとっては「万物を足の下に従わせる」特権が回復された。
それは地上を統治する権威でもある。
それは、サタンがアビスに幽閉される千年王国においてで実現する(黙示録 20:3)。
神の経綸は、失われたエデンの園へ世界と人とを回復・移住?させることにある。
エデンの園(メシア的な王国)の共同相続人して私たちは召されている。
まとめ
当初サタンが持っていた地の統治権は堕落のゆえに失われた。
神がその後に造られたアダムにその統治権が代わって移譲された。
ところがアダムも堕落してしまい、その統治権を失うと、サタンが強奪してしまった。
その奪われた統治権を人に回復させるミッションがメシアに委ねられたのである。
メシアによってのみ、人は千年王国を相続し、地を統治するものとされるのである。
オレゴン州のフット山にかかる満月
ある方とディスペンセイションについて意見を交わすことがありました。
ここに紹介して私のディスペンセイションについての考えを披露します。
Kさんのお考え:
「千年王国も個人的には存在する、と思っておりますが、それが、イエスの2nd Visitの前か後かは、確定できないというのが、現下のわたくしの立場です。この千年王国理解が米国で広がる根源になったディスペンセイション神学を生んだ教派におりますので、その背景はある程度存じ上げており、私が見る限り、千年王国に関しては、聖書の箇所のどこをとるかによって、艱難後千年王国説にも、艱難前千年王国説にも、どちらでも理解を持っていくことは可能です。うちのキリスト者集団のメインの理解は、艱難前千年王国説でございますが、一部には、艱難後千年王国説の方もおられます。プレ、ミレ論争に関しては、千年王国理解の聖書解釈というよりは、わがキリスト者集団においては、戦前の宗教迫害期をその教会の関係者が通過したかどうかによる感じです。宗教団体法を経由し、投獄者が出た教会では、艱難後をとられることが多いようです。私は、無千年王国主義ではなく、時期不確定のままでよい(あるいは、時期を安易に判断しない方がよい)、と思っております。
ところで、ディスペンセイション神学という大変迷惑な聖書理解を生み出したキリスト者集団にいるものが言うのも変な話ではありますが、私は、ディスペンセイション神学の問題にもう辟易していて、これで理解することの限界を感じており、有体に言えば、「ディスペンセイション神学を西ノ島かどこかに捨てた」とご理解いただいた方がよいかと思います。
ここらのことが、Left Behindへの対応と、この世の生き方にかかわるのではないか、と思います。
以上、グダグダと小弟の現下の理解を申し上げました。ご容赦賜りますように。」
わたしはKさんに以下のように応答しました。
「ご丁寧に応答していただいてありがとうございました。
空中携挙やプレミレに関してのお考えが整理されていて、よく伝わって来ます。
ディスペンセイション神学に辟易されたのちに、西ノ島に捨てられた経緯をいつか膝を合わせて伺って見たいものだと思わされました。
私の属している教団はディスペンセイションに対して可・不可を明確にしておらず、
各牧師の聖書理解に委ねられているものであると私は考えています。
中にはディスペンセイションを煙たがる牧師もいたりするのですが、よく話を伺ってみるとだいぶ曲がりもののディスペンセイションを知見したことから由来する誤解に基づくものだったりしています。
私自身、「そんなディスペンセイションなら私も嫌い」としたことがありました。
私の信じているディスペンセイションとは、
神の経綸のことであり、あるいは契約を主な要素とする時代区分のことです。
モーセ律法が機能していた時代には、動物の生贄を決められた方法でエルサレム神殿にて捧げるのが、神への礼拝の様式でした。
イエスによって新しい契約の元にある我々にはそれが命じられていません。
なぜ?
ディスペンセイションが異なるからです。
ユダヤ人には今も豚やタコの刺身を食べられない人がいますが、
メシアニックジューの人でそれらを自由に食べる人もいます。
ディスペンセイションが異なるのを理解できたからです。
確かに千年理論や再臨の順序に関しては「圧倒的な聖書箇所をもとに議論できないこと」であることには違いありません。
しかし、私は聖書の十全的な霊感を信じている者です。
たとい重複せず一箇所であったとしても、聖書が明確に教えていて、他の聖句とも整合できる教えであるのなら、それを神が啓示されている真理であると受け止めております。
終末論を学び出すと、理性や常識では図りきれない預言に対面せざるを得ず、
自らの聖書信仰がグラグラと揺さぶられたのを思い出します。
Kさんのブログも大変興味深く拝読しました。
ありがとうございました。」
…………ディスペンセイションという多くの方にとって耳慣れない神学用語があります。
ある方々はその教えを奉じているとしながら、だいぶ怪しい信仰生活だったようです。
それだからと言ってディスペンセイションの教えを評価できるものではないはずです。
それは、ブッシュ大統領がイラク侵攻をしたのでクリスチャンは嫌いだ、
という論理と変わりません。
その教えが真理であるかどうかは、
聖書が教えているかどうかが決めてとならねばならないはずです。
そしてその聖書は千年王国について、携挙について、
はっきりとした預言を残してくれています。
貴方の先入観や常識を先ず脇において、
丁寧にみ言葉に接して行けば何を教えているかは明確になってくるものです。
電子空間でのこの問題についてのやり取りは今後も紹介して行きます。
ホサナキリスト教会では、感謝祭ポトラック礼拝を持たせていただきました。
ポトラック愛さん会の後は、先日イスラエル研修旅行から帰国されたばかりのUご夫妻が
写真を紹介しながらの報告会も合わせて持ちました。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。
私のうちにあるすべてのものよ。
聖なる御名をほめたたえよ」(詩篇103:1)
主に感謝する理由は数多くある中で、
小さきながらもこの礼拝を守れて来れたことが私には嬉しいことです。
聖書を字義通りに解釈、かつ当時のユダヤ人が受け止め理解した解釈を探求するヘブル的な視点を重心に据えた説教を積み重ねて来れたこと、
そしてこれを共有できる方々が与えられていることに改めて感謝するものです。
その路線とイスラエルへの研修で見聞したこととが重なり、
聖書をより有機的つながりのある神のストーリーとして把握されたご報告を伺ってこれまた感謝。
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