字義通りか、比喩による拡大解釈か、それが決め手です
12月
3日
先日、ある聖書教師との間で意見を交換しましたので紹介します。
(T様から私へのメッセージ)
高橋さん。
お読みくださり、コメントをありがとうございます。
簡単に僕の理解を述べさせていただきます
ラプチャーは、Ⅰテサロニケ4章の拡大解釈だと思っています。
この意味は、基本的に、王が自分の支配地を訪ねるときに、町の住民が城壁の外に出て、町のそとで王を迎え、王を先頭に町に入ってい来る・・・同じように、キリストがこの地に目に見えるように降りてこられるとき、信者が引き上げられ、キリストを先頭にこの地に下ってくることを指ししていると思います
千年王国に関しては、黙示録では、「千年の間王となる」と記されているだけの概念があまりにも独り歩きして、そこにイスラエルの預言が成就する隙間をいれたということだと思います。
僕は、イスラエルの回復は、基本的にキリストの教会において成就すると信じ、イスラエルの建国を預言の成就とは認めていません
ただ、肉のイスラエルの回復の希望を、パウロが熱く語っていることは確かだと思います。その意味で、戦後に、多くのユダヤ人がイエスを主と認めるようになってきていることに大きな希望と喜びを見出しています。
………以下は省略
(続いて私からの応答です)
T様
私の突飛な問いにも丁寧にお答えくださりありがとうございました。
T様の聖書を解釈する手法、
イスラエルと預言の成就の関係に関するお考えをご披露下さいました。
見解の別れるissueであるにも関わらず、端的に明瞭にご自身の立場を鮮明にしてくださった点に敬意を感じました。経済問題を解くように、解りやすく切れ込んで下さいました。
再臨に関しての見解が人によって別れています。
その原因は一体なんであるのか、、、
おこがましい表現で恐縮でございますが、最近突き止めたように感じています。
それは、
「聖書を字義通りに受け取るか、比喩的に拡大解釈するか」
の点に尽きるようです。
聖書は啓示の書であるとともに文学書ですから、
比喩的に書かれた場所ももちろん存在します。
その時には比喩として読まねばなりません。
が、比喩として読むように文脈上示唆されていない箇所では、
ストレートに字義通りに読みんで理解せねばならないと私は考えます。
そうでないなら、人の数だけ様々な解釈が可能となり、
結局のところ、どれが真理か分からなくなります。
神はそのような相対化できる文書を人に与えたものではないはずです。
Ⅰテサロニケ4章は、主の空中再臨とラプチャーを教えている聖句であると私が結論する根拠です。
T様がここで展開されたような、
「王を迎えに出る住民」モチーフはその章にヒントさえ出てきません。
その聖書を字義通りにどこまで解釈するのか、という1点が、
他の見解の別れる終末論にも、イスラエルの救いの教理に対する姿勢や理解力を決定づける要因であるように思われてなりません。
教派や神学者の頭数だけ終末論の見解の相違があるようですが、
神はそのような計画で啓示の書を我らに与えたはずではなかったはず。
終末時代は、一つだけの歴史様態しかあり得ません。
(今後の歴史は一つきりという意味です。人が明日過ごせる時間は24時間で、それ以外の時間帯を過ごせないというのと同じ)
そのたった一つの歴史様態を聖書が預言として伝えていると私は信じています。
その伝え方には法則性があります。
当時のユダヤ人の知性や文化を通じて、
読み手のユダヤ人に語ったところのものが聖書として集大成されたものであります。
つまり、その法則性を見出す手法として「ヘブル的視点」
が必要ではないかと小生は考えております。
長々と私論につきあわせてしまい失礼しました。
(総評)
聖書を字義通りに啓示の書として信じることがないなら、
「千年」にも、「イスラエルの回復」にも確固として信じられなくなるのは当然のことです。
聖書観がその人の終末論を規定していくと言えるでしょう。