八月末から、大学院二年目、始まっております。最近、にわかに課題の多さに気が付きまして。。。。焦って、ブレイク中にスタバで必死でキャッチアップ。。。。専門的になってきました。今学期は、心理病理学、人間発達学、性的障害、安息日と霊性という科目を取ってますが、明らか取りすぎやな。。。。溜息
2017年9月17日日曜日礼拝メッセージ音声は、
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先週に続き、ホセア書三章です。先週は、裁きの預言に続き、神が再びイスラエルを追い求めるという預言と方法が書いてありました。ここでは、実際に、神は、預言者ホセアの人生を用いて、その愛のメッセージをホセアに体現させています。
ホセア3:1-5
1 主は私に仰せられた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。」
2 そこで、私は銀十五シェケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取った。
3 私は彼女に言った。「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。」
4 それは、イスラエル人は長い間、王もなく、首長もなく、いけにえも、石の柱も、エポデも、テラフィムもなく過ごすからだ。
5 その後、イスラエル人は帰って来て、彼らの神、主と、彼らの王ダビデを尋ね求め、終わりの日に、おののきながら主とその恵みに来よう。
★ 恥を癒すoffered gaze v1
恥の結果の反対 反対のスピリットで神は近ずかれる
1 主は私に仰せられた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。」
今、日本でもいろいろ不倫の話題が多いようですが、なかなか第三者からは手厳しい裁きを読んでいます。誰も、不倫をしている人の味方はいません。不倫をされた側からみると、きっと力が抜けるほど腹がたつことだと思います。どうして? 先週、顔と顔と合わせる、親密さ。Gaze の話しを少ししました。また、先月には、顔と顔と合わせるところに、その会話の中に栄光があるという話しもしました。神に背くことを、背を向けるとも表現する通りに、人を裏切る時には、このgaze がどこかを違う方向に向くのです。
この夫がありながら、ほかの男と姦通する妻は、恥さらしです。本当なら、この恥から目を背けたいのが人間です。そうですね、例えば、道に落ちている汚いものをじっとまじかで見つめたい人なんていないですよね。それと同じです。みな、顔を背けたいのです。
また、罪を犯している本人だって、その恥から目をそらし、心の中では、自分自身に向き合うことなんてできないのです。恥とは、そのようなものです。
干しブドウ二個分が、売春婦の一回の価格だった。また、バアル礼拝の儀式に用いられているものでもあった。姦淫のシンボルである。
★ 払う必要のない犠牲を払ってまで v2 Unnecessary sacrifice
2 そこで、私は銀十五シェケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取った。
ホセアは、売春婦を初めて自分のものにするためにお金を払うのではありません。自分の妻を買い戻すためにお金を払ったのです。なんということでしょうか。。。妻を買うためにお金を出さないといけないとは。。。
出エジプト記によると、奴隷の一人の買い取り価格が、銀30シュケルでした。ゴメルは、ホセアの妻でありながら、売りに出ていたのです。なんというこでしょう。ホセアは、銀15シュケルと足りない分は、大麦を集めてそれを足して、ゴメルを買い取り自分のものにすることができました。この部分だけを読んでも、ゴメルを奴隷状態から買い戻すのは、簡単ではないことが分かりますね。いろいろと工面しなければいけなかった。
文字通り、贖いの行為です。
私たちは、みな神に造られたものたち。しかも、神の似姿に造られたものたちです。みな、霊を持ち、賜物が与えられている。しかし、神から離れているがゆえに、買い戻されなければいけなかった。。。
イエス様の十字架、誰もが目を背けるほどのむごさであり、恥の集約でした。それを体験している、その気持ちの分かる神。
目をそむけたくなる、恥にまみれたゴメルを代価を払って買ったホセアでした。
★ 再び結婚の誓い v3 Marriage Vow again
私は彼女に言った。「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。」And I said to her, “You shall stay with me many days; you shall not play the harlot, nor shall you have a man—so, too, will I be toward you.”
ホセアの一方的な赦しがあってこその誓いの言葉であり、新しく交わされた契約であった。洗礼式の時に、みなさんお気づきかと思いますが、「死に至るまで忠実でありなさい。」と祈ります。神の救いは、永遠に至る救いです。ですから、私たちは、命の限り、誠実であるべきだからです。結婚式の時にも、誓いの言葉を交わします。死が二人を分かつまで、忠誠を誓うのです。ホセアは、永遠の愛をゴメルにオファーしているのです。
○赦しと悔い改めの実について
★ 究極の王の訪れと真の救いの希望を示す V4, 5 Ultimate King and hope of salvation
4 それは、イスラエル人は長い間、王もなく、首長もなく、いけにえも、石の柱も、エポデも、テラフィムもなく過ごすからだ。
5 その後、イスラエル人は帰って来て、彼らの神、主と、彼らの王ダビデを尋ね求め、終わりの日に、おののきながら主とその恵みに来よう。4 For the children of Israel shall abide many days without king or prince, without sacrifice or sacred pillar, without ephod or teraphim. 5 Afterward the children of Israel shall return and seek the Lord their God and David their king. They shall fear the Lord and His goodness in the latter days.
アッシリヤに征服されてから、イスラエルに王が立てらることは実際にありませんでした。王は、ただ一人、イエス・キリストのみとなります。長い間。。。とあります。神は、目に見えるものによりたのむのではなく、目に見える王でなく、やがて来られる真の王、霊の王、イエス・キリストのおとずれを示唆しているのです。
いけにえも、石の柱も、エポデも、テラフィムもなくwithout sacrifice or sacred pillar, without ephod or teraphim
とは、様々な異教的な文化をさしています。カナン文化とも言えますが、石の柱は、バアル神の象徴。エボデは祭司が占いを行うときに着けるベスト。テラフィムは人の形の像で、家の守り神的な像、サムエル記、さかのぼって創世記にも出てきますよね。
やがて、人間的な王、この世の宗教ではなく真の神、王イエス・キリストに出会う日が来る。という、終末的預言に至っています。
2017年9月10日日曜日礼拝メッセージ音声は、
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イスラエルの民の名前が変わってく過程についての預言。鍵は、神の愛。
ホセア2:2-23
先週に続いてホセア書の第二章です。一章の終わりに名前が変えられるということが出てきました。ホセアの子供たちの名前を文字通り使っての預言です。さて、どのようにして名前が変えられるのでしょうか。
●裁き・罪の結果 v2-13 Judgement and Consequence of sins
まず、前半裁きの言葉です。裁きというのは、ただ、自由気ままに神様が怒るのが裁きではありません。裁きは、罪の結果によるものであり、自分の行動の結果とも言えます。
☆偶像と手を切るように Leave the Idols
V2-4「あなたがたの母をとがめよ。とがめよ。彼女はわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではないからだ。彼女の顔から姦淫を取り除き、その乳房の間から姦通を取り除け。3 そうでなければ、わたしは、彼女の着物をはいで裸にし、生まれた日のようにして彼女をさらし、彼女を荒野のようにし、砂漠のようにし、渇きで彼女を死なせよう。4 わたしは彼女の子らを愛さない。彼らは姦淫の子らであるから。
まず、偶像と手を切るようにと神様は言われます。イエス様も、「二人の主人に同時に仕えることはできない。」また、「わたしに仕えるのか、マモンに仕えるのか」ともおっしゃいました。私たちは、決して、二人の主人には仕えられないのです。どちらかを愛して、どちらかをおろそかに必ずするからです。ですから、神様よりも大事なものを持つことは、偶像礼拝です。何を失っても、神様がいれば大丈夫。これが信仰です。
彼女の顔から、胸の間から姦通を取り除け。私たちの顔の向く方が私たちの求めているものではないでしようか。愛する人がいたら、女性は、顔と顔を合わせて見つめ合いたいのではないでしょうか。また、心のうちに大切に、親密な思いは、胸においておくのではないでしょうか。完全に異なる神、偶像から自分自身を取り除くようにと神様は言われます。
☆罪の結果 The Consequence of Sins
そうでなければ、彼女の着物をはいで裸にし、生まれた日のようにさらし、砂漠のようにし、渇きで死なせる。。。と。私たち、キリストに出会っている者たちは、分かります。恵みのクッションの大きさが。私たちを覆う覆いでキリストにより罪が隠されていることを。しかし、そのようなものもなく、罪の恥をさらし、まっぱだかで、しかも、潤いもなく、神の恵みも憐れみも感じず、飢え渇き過ぎて死なせると。。。。この状態、私たちも味わったことがある感覚ではないでしょうか。そう、救われる前。何をしても砂をかむような、白黒写真のような。。。でも、神様に出会ってから、渇くことのない泉のように、神様に頼れば頼るほど、恵みがあふれてくる。。。その反対になるというのです。そうです、神様に背を向けては、真のいのちがなくなってしまうのです。
☆偶像礼拝には理由がある The Reason of Idol Worshipping
V5-9 5 彼らの母は姦淫をし、彼らをはらんで恥をさらし、そして言った。『私は恋人たちのあとを追う。彼らは私にパンと水、羊毛と麻、油と飲み物を与えてくれる』と。6 それゆえ、わたしは、いばらで彼女の道に垣を立て、彼女が通い路を見いださないように、石垣を立てよう。7 彼女は恋人たちのあとを追って行こう。しかし、彼らに追いつくことはない。彼らを捜し求めよう。しかし、見つけ出すことはない。彼女は言う。『私は行って、初めの夫に戻ろう。あの時は、今よりも私はしあわせだったから。』8 彼女に穀物と新しいぶどう酒と油とを与えた者、かた、バアルのために使った銀と金とを多く与えた者が、わたしであるのを、彼女は知らなかった。9 それゆえ、わたしは、その時になって、わたしの穀物を、その季節になって、わたしの新しいぶどう酒を取り戻し、また、彼女の裸をおおうためのわたしの羊毛と麻とをはぎ取ろう。
罪から離れられない最大の理由は、罪を愛していことです。罪は嫌わないとやめられません。母たち、イスラエルの民全体のこと。国。偶像礼拝には理由があります。それは、「彼らは私にパンと水、羊毛と麻、油と飲み物を与えてくれる」とあるとおりです。今、私が欲しいものをくれる。自分の思うとおりになることが、偶像礼拝の根っこです。偶像礼拝の反対は、では何でしょうか。そうです。信頼と信仰です。みなさん、気を付けてください。信頼と信仰がないところには神様はおられないです。今欲しいものが与えれないことを悲しみとするなら、それは偶像礼拝なのです。神は、バアルを通してでも物事を与えたのさえも真の神であるとおっしゃいます。それさえ、知らないのか。。。と。それが分からないものには、すべて新しい葡萄酒も取り戻すし、羊毛も麻も剥ぎ取り、恥をさらすと。
☆礼拝も取り上げられる Religion was taken away
V10-13 10 今、わたしは彼女の恥を、恋人たちの目の前にあばく。だれも彼女をわたしの手から救い出せる者はない。11 わたしは彼女のすべてを喜び、祭り、新月の祭り、安息日、すべての例祭を、やめさせる。12 それから、わたしは彼女が『これは私の恋人たちが払ってくれた報酬』と言っていた彼女のぶどうの木と、いちじくの木とを荒れすたらせ、これを林にして、野の獣にこれを食べさせる。13 わたしは、彼女がバアルに香をたき、耳輪や飾りを身につけて、恋人たちを慕って行き、わたしを忘れてバアルに仕えた日々に報いる。—主の御告げ—
二人の主人には仕えられません。しかし、当時のイスラエルの民は、教理も何も偶像とごっちゃにし、ユダヤの神を拝む体で、偶像礼拝をしていました。みなさん、これ、怖いと思いませんか。私は、真の神を信じているといいながら、実は、心の奥底では異なる神を拝んでいるとは。。。しかし、当時のようにバアルなどはっきりしているものと違って、今の教会に置き換えるなら、本当にはっとさせられます。私は、どなたを礼拝しているのか。。。
●再び主がイスラエルを追い求める v14-23 God pursues Israel again
☆主とのエンカウンター Encounter with God
14 それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。15 わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門としよう。彼女が若かった日のように、彼女がエジプトの国から上って来たときのように、彼女はその所で答えよう。
主は、ご自身に背いているイスラエルに近づいてくどき、優しく語ってくれる。何ということでしょうか。顔に泥を塗られるようなことをされて、まだ、優しく説得してくれる神。私たちは、その神の声に気が付くようでありたいですね。そして、何も実を結ぶことも取り上げられていたところをブドウ畑にし、アコルの谷を希望の門、入り口とする。と。アコルの谷は、ヨシュア記でてきますが、昔、アイに攻め入ったときに、アカンが完全に聖絶せよという神の命令に背いて、欲がでて、自分のために金の延べ棒などを自分のぽっけにないないしました。そのことで、アカンは殺されました。その場所がアコルの谷です。そうです。アカンの心には偶像礼拝の心がありました。自己中心のあまり、神の声に従えませんでした。神に従っては戦うけど、自分のためにこれは取っておこうという心が偶像礼拝の心です。しかし、この箇所で、そのアコルの谷を希望の入って来る門にすると預言されているのです。二心のイスラエル、しかし、その二心さえも、それに気がつくことで変革とそれに伴う祝福が来るように、そこは、希望の入り口になると。。。そして、奴隷だったエジプトから救われてきた日のように、神に救われ、神に出会うだろうと。。。
☆主と契りMake a Covenant with God
16 その日、—主の御告げ—あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい。
17 わたしはバアルたちの名を彼女の口から取り除く。その名はもう覚えられることはない。18 その日、わたしは彼らのために、野の獣、空の鳥、地をはうものと契約を結び、弓と剣と戦いを地から絶やし、彼らを安らかに休ませる。19 わたしはあなたと永遠の契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。
20 わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。
私たちも主に立ち変える時が、人生のうち、一度ではなく何度となくその時が訪れるものです。私はバアルの名をイスラエルの口から取り除く。と。その口は、主を告白するようになるからです。そして、契りを結ぶ。主と再び結ばれ、そして、主を深く知るようになる。私たちは、神と結ばれなければ、主を知ることはありません。こっちに足を突っ込み、あっちにも足を突っ込んでいる状態では、主を知ることはできないのです。信仰は、あるかないかであって、大きいか小さいかではありません。少しの信仰があったらいいのかな、ではなく、主以外のものによりたのんでいたら、信仰ではないので、信仰はないということになります。
☆アイデンティティの変革 The Transformation of Identity
21 その日、わたしは答える。—主の御告げ—わたしは天に答え、天は地に答える。
22 地は穀物と新しいぶどう酒と油に答え、それらはイズレエルに答える。
23 わたしは彼をわたしのために地にまき散らし、『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう」
名前が変わるということは、アイデンティティが変わるということです。イズレエルは、散らすものから集めるものとなり、愛されないものは、愛され、私の民ではない者は、あなたは私の民と変えられます。私たちは、心の中心に何を持っているかで、生き方が変わり、アイデンティティが変わります。二章の預言は、どのようにして名前が変わるのかというプロセスでしたが、簡単に言うと、偶像と手を切る。そして、優しく語り掛けてくれる神の声に耳をまず傾けるということです。
今日聖霊様が、私たちのうちに働いてくださり、私たちのうちに隠された偶像を明らかにしてくださいますように。これだけは私から取らないでという、神様よりも大事なものがあるならば、手放しましょう。そして、神の声が聞こえるようになりますように。。。神様に新たに出会うことができますように。
いつも礼拝に来ているマイカくんでーーす。来年、短期宣教師として日本に行く予定!!! 今から、祈ってみんなで備えています。。。
2017年9月3日日曜日礼拝メッセージ音声は、
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人というものは、それぞれ自分の物語を生きています。誰でも、自分というストーリーを持っています。私たちの脳もまたたくさんのストーリーを蓄積させながら、自分という道のりをメイクセンスしながら生きています。あなたにも、ストーリーがあるはずです。しかし、こんなことは、ないでしょうか。どうして、あのことが私に起きたのだろう。とか、どうして、私はこの家に長女として生まれてきたのだろう。などと。。メイクセンスしたいのだけど、できないことも多いのが事実。また、自分でメイクセンスさせようとするから、その過程で、不健康な考え方に傾いたりもするものです。私たちのストーリーの中に、私たちを素晴らしく造って下った神様をお迎えしたらどうでしょうか。神様なしには、私たちのストーリーもつながらなかったりするものです。今週から、神の人ホセアのお話しを読んでいきたいと思います。ぜひ、心の片隅に、創造主なる神を置いて読んでいきましょう。
ホセア1章
1 ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨシュアの子ヤロブアムの時代に、べエリの子ホセアにあった主のことば。2 主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」3 そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって、彼に男の子を産んだ。4 主は彼に仰せられた。「あなたはその子をイズレエルと名づけよ。しばらくして、わたしはイズレエルの血をエフーの家に報い、イスラエルの家の王国を取り除くからだ。5 その日、わたしは、イズレエルの谷でイスラエルの弓を折る。」6 ゴメルはまたみごもって、女の子を産んだ。主は彼に仰せられた。「その子をロ・ハマルと名づけよ。わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、決して彼らを赦さないからだ。7 しかし、わたしはユダの家を愛し、彼らの神、主によって彼らを救う。しかし、わたしは弓、剣、戦い、および馬、騎兵によって彼らを救うのではない。」8 ゴメルは、ロ・ハルマを乳離れさせてから、みごもって男の子を産んだ。9 主は仰せられた。「その子をロ・アミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしがあなたがたの神ではないからだ。10 イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは、「あなたがたはわたしの民ではない」と言われた所で、「あなたがたは生ける神の子らだ」と言われるようになる。11 ユダの人々とイスラエルの人々は、一つに集められ、彼らは、ひとりのかしらを立てて、国々から上って来る。イズレエルの日は大いなるものとなるからである。
○ ホセア… 救いの意味
私たちにも、名前があり、意味があります。
○ 預言者
当時は、神様は、預言者を通して民に話しかけておられました。ホセアも預言者の一人でした。
○ 歴史的背景
北王国末期の四十年間に、ホセアは預言者として働いていた。アモスと同時期。イザヤとミカはホセアの後輩。彼の預言した時期の王たちは、ユダ、南では、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、イスラエル、北では、ヤロブアム二世です。
ホセアからさかのぼって200年前に、十二部族の中から十部族がダビデの王国から離れ、金の子牛を神とする国を立ち上げた。神は、エリヤ、エリシャ、アモスを遣わし、そして、この時、ホセアを遣わした。彼の生きた時代は、北王国では、繁栄していた。
○ 北イスラエル・北王国 ヤロブアム二世 (BC790-749)
○ 神の言葉
2 主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」2 When the Lord began to speak through Hosea, the Lord said to him, “Go, marry a promiscuous woman and have children with her, for like an adulterous wife this land is guilty of unfaithfulness to the Lord.”
預言者として、神の声を聞き始めたとき、主はホセアに、姦淫の女を娶れと言われました。これは、必ずしも、ゴメルが姦淫してたという文字通りの意味でなく、当時は、他の神々について行き、自分の身をゆだねていたイスラエルの民を姦淫の女に例えている。姦淫の民といってもいいほどの民。その中の一人と結婚するように、という意味。しかし、当時、偶像礼拝において、不倫行為を伴っていたこともあり、一人の人に貞淑であることは、文化的にも難しかったとされています。
ホセアが誰と結婚したかを私たちに適用するつもりはありません。
しかし、考えてみると、ホセアの人生を通して、神が語られ、彼の結婚を通しても神が語られるとすれば、新約の時代、祭司であり王である私たちの人生の出来事、そして、ストーリーに神のメッセージ性が秘められていることを心を留めましょう。
あなたの成功も失敗も、誰と結婚した、しない、も、全部、神にあっては、メッセージなのです。しかし、神ぬきでは、メッセージとはなりません。。。
〇 預言者の資質
ホセアは、神の言葉の通り、行って、ゴメルをお嫁さんにしました。ここで考えてみたいことは、神の人の資質です。
預言者とは、神の言葉を預かり、それを届けることです。その働きには、神の言葉に忠実であることが求められます。与えられたものに対して忠実でなければ、私たちは、メッセージを人に与えることができないからです。あなたの行動は、内にある神の言葉の現れ。
一章では、ホセアとゴメルは、愛し合っていることがうかがえます。二人の間に三人もの子供が生まれました。また、ゴメルも貞淑を尽くしていることがうかがえます。ホセアは、彼女を妻として愛しており、ゴメルもホセアを愛していたのだと思います。
○ 子供たちの名前
神は、三人の子供に名前を付けるように、言われました。ホセアは、言われた通りに、しました。その子供たちの名前が、イスラエルの未来を示す、預言になっています。
第一子 男 イズレエル … エフーが残虐をおこなった土地名前、イズレエルの谷からとっている。エフーは、バアル礼拝のアハブ王と王妃ジャズベルをやっつけ、バアル礼拝者をことごとく殺した人。しかし、ヤロブアムの金の子牛を拝むのはやめなかった人。神のイスラエルに対する刑罰の時が近いということを示すために、エフーが多くの報復の血を流したイズレエルと名付けた。また、「集める」と「散らす」の意味もある。やがて、神によって散らされるという意味としてここでは使われる。
第二子 女 ロ・ハルマ … もう二度と愛することはない。の意味。
第三子 男 ロ・アミ … 私の民ではない。の意味。ロは、でないの意味。
○ 回復の約束
V10, 11 イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは、「あなたがたはわたしの民ではない」と言われた所で、「あなたがたは生ける神の子らだ」と言われるようになる。11 ユダの人々とイスラエルの人々は、一つに集められ、彼らは、ひとりのかしらを立てて、国々から上って来る。イズレエルの日は大いなるものとなるからである。
わが教会では、毎月その月ごとの誕生日を祝っています。
今月は、なつこさん、エリック、えまちゃん。。。
えまちゃんはお休みで祝えませんでしたが、
手作りケーキにキャンドルを立ててーーー
あれーー
いくらふいても火がもどってくるーー
あーー。これ、いたづらのやつやんーー!!! と、
なかなか消えず、結局、水の中にじゅっとしたのでした。。
ふーーー疲れた。
ケーキもいつもは、るりこさんの美しい、美味しいケーキですが、
今回は、お留守なので、私が久しぶりに。。。。
結構失敗して、ういろうみたいになってしまった。。。。すまん、みんな。。。
この日曜日は、ゲストスピーカー、ビルマ人のジョシュアが久々に来てくれてメッセージしてくれました。
また、新しい方も来られて、とっても良い日曜日でした。
ぼ
洗礼を受けられた方々と一緒に記念撮影。
みなさんとても 嬉しそうです。
礼拝中に、どのように神様を信じるようになったか、神様に出会ってどんなふうに変えられたか、などなど、体験談を一人ひとりお話ししてくださいました。
七月に一人、八月に三名方が洗礼 (バプテスマ)を受けられました。
とってもとっても喜びにあふれた素晴らしい礼拝となりました。
聖書の中に次のような言葉があります。
ヨハネ3:3-4
3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
生まれ変わって、人生をやり直せたら。。。と思う人は多い、いや、ほとんどの人がそうかも知れません。
イエス様にあっては生まれ変わることができるのです。
洗礼というのは、神の前にも人の前にも、これからは神とともに生きて行きますという信仰告白の日であり、入学式のような、またお葬式のような日でもあります。
洗礼というのは、水の中に完全に浸かり、水の中は死を表し、水から出る時には、新しい命、イエス様の復活のいのちで新しく生まれるということを象徴します。
クリスチャンとしてとても大切な日です。
牧師をしていて、喜びの大きな日の一つでもあります。
礼拝の中で、みなさん証し/ 体験談をシェアしてくれました。
それぞれの人生が変わり、その人の周りが変わり、喜びと感謝にあふれていました。
素晴らしいです。
あーーーー嬉しい嬉しい! 喜びでいっぱい!
ぼ
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