三橋さんの顔写真だけを使うのは、かわいそうなので、本の宣伝になるかと、本の表紙にしてみました。彼の論理や言論活動は、悪ではないので。。。
今回は、少しDVについて考えてみたいと思います。。。
みなさん、こんにちは。
お正月早々、日本では三橋氏DVで、逮捕というショッキングなニュースが流れていますね。
たくさんの人が、他人の夫婦喧嘩くらいで、騒ぐな、なんていうことを言っておられますが、DV ドメスティックバイオレンスというのは、虐待であって、夫婦げんかの域はとっくに超えているものであります。
そもそも、男性が女性に、まあ、女性だって男性に暴力は振るってはいけませんが、相手を支配し、洗脳し、いじめ倒し、暴力でいためつけて、自己満足するという、ひどい構造なんですね。
やられる方も、この人は本当はいい人だから、とか、赦してしまうし、また、暴力振るわれていても、自分がよっぽど悪いから相手が殴るんだと思い込んでしまいます。
最愛の人が、自分に暴力をふるうので、自分を責めるしかないからです。
日本とアメリカのDVについての扱いがずいぶんと違うことにびっくりしました。とくに、ここワシントン州は、女性に優しい法律になっているようなんですが。。。
日本は、通報する人も、少なく、逃げ場も少ないのでしょうか。。。
とにかく、対処が甘いような気がします。
この三橋氏の、三十歳年下の十代の奥さんに逃げ場があるのか、とても心配です。日本には、DV救済のノンプロフィットオーガニゼーションがあるのでしょうか。。。地域にどのくらいあるのでしょう。田舎にもあるのでしょうか。
私には、知識がありません。。。
アメリカワシントン州では、DVにあって、すぐに通報すれば、警察が来て、どちらかを逮捕していきます。
何時間以内に通報しなければ、現行犯逮捕にはならないのですが、何日前の出来事でも、通報できるときに通報すると、警察は来てくれます。そして、レポートを書いてもらって、ケース番号をもらいます。そのケースが何回もたまれば、警察は、逮捕に踏み切ってくれます。だから、すぐに通報できなくても、大丈夫だから、ぜひ、通報してください。
それから、殴られてなくても、部屋に閉じ込められたり、お金を自由にさせない、ずっと家にいないといけないなど、自由を奪われている、また精神的な嫌がらせ、常に悪口を家庭内でずっと言われる、わめかれている、などなど。。。。体に傷がなくても、このようなことでも、通報して大丈夫とのことです。これは、警察の方がおっしゃいました。お金を留めだすと危険だそうで、警察の方によると、近々もっと悪いことをするかもしれないから、と要注意してくれます。
また、びんたとかバンチでなくても、家の中のものを投げて壊したもだめです。
それから、逃げようとしたり、助けを求めようとしてるあなたの手をつかんだり、腕をつかんで引き戻そうとしてもだめです。これも、早く通報すれば逮捕になる領域です。
思いつくままに、ならべてしまいましたが、私たちが思っている以上に、きちんと、警察は被害者を守ってくれようとしてくれています。
それで、すぐに通報して、警察が来て逮捕されたら、一晩刑務所で過ごさないといけません。
それだけではなく、ちゃんと裁判で裁かれ、二年間の公共での奉仕活動が義務づけられる上に、専門のカウンセラーにあってカウンセリングも受けないといけません。
また、警察は、必ず、被害者に逃げ場、シェルターやソーシャルワークなどのネットワークにつなげてくれますし、必要な情報を教えてくれます。しかも、とても、優しいです。子供が一緒にいる場合などは、女性のお巡りさんも来てくれます。
アメリカのやり方は、非常に賢いと思います。もちろん、えん罪なんて時は、大変ですが、警察も裁判官もカウンセラーも馬鹿じゃないですから、慣れてますし、どうも見たら分かるみたいですしね。
日本も、これくらいしてもいいのではないかと、思いました。
三橋氏は、公でも地位のある有名なハイファンクションな方ですから、自分から間違いを認めて、カウンセラーに会うようなことは、絶対にないでしょう。
奥さんが逃げても、次のナイーブで優しい犠牲者を探すだけです。
この奥さんには、逃げて欲しいです。。。本当に、気の毒です。
私は、三橋さんの名誉を傷つけるつもりはないです。
でも、DVの深刻さと闇の深さを、皆さんに知っていただきたいと思いました。
もし、ご近所にDVを受けているらしい方がいたら、ぜひ、力になってあげてください。
暴力をふるう方の方も、ぜひ、心の中の本当の問題に向き合って、他人を犠牲にしなくても、自分が満足できる生き方を見つけていただきたいと思います。。。
いつもと違う内容ですが、
苦しんでいる人を見てきたので、書かずにはいられませんでした。。。
今日も皆さんの身の安全が守られますように。。。。
ブログル仲間の皆さん、何か、日本での知識、情報、逃げ場に関してご存知でしたら、下のコメント欄に書き込んでいただけませんか?
もしかしたら、苦しんでいる人が読んでいるかもしれません。
アメリカでお困りの方は、800-799-7233 に電話してください。夫じゃなくても、ボーイフレンドでも電話して大丈夫です。
私に、メールをくださっても大丈夫です。
ぼ
日の出を見ると、神様がなんだか、今日も共にいて、祝福してくださるっていう思いが来ます。
God is with you!
明けましておめでとうございます。
みなさんに、今年初めの、励ましの言葉を贈りたいと思います。
二週間前はクリスマスでしたね。みなさん、聞いたことがあるかもしれませんが、イエス様の別の名前は、インマヌエルと言います。その意味は、「主は私たちとともにおられる。」と言う意味です。それがどうして素晴らしいのでしょうか。
聖書の中には、次のような言葉があります。
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』イザヤ書41:10
Fear not, for I am with you;
Be not dismayed, for I am your God.
I will strengthen you,
Yes, I will help you,
I will uphold you with My righteous right hand.’ Isaiah 41:10
そして、「恐れるな」と聖書の中に、なんと365回出てくるのです。
まるで、神様が、一年毎日毎日、私たち人間に恐れるなと念押しをしているようです。
そして、その理由が、わたしがあなたとともにいるから。わたしがあなたを助け、守るから。。とあります。
神様が私と共にいてくれるということを心に持った人は、強いのです。
なぜなら、神には無限の力と知恵があるからです。
2018年という年を迎えるにあたって、すぐに頭に浮かんだのが、今年、神は私とともにいらっしゃるということ。だから、大丈夫! ということです。
一は、アイ私で、8はよこにむけると∞になります。
私は、小さい存在ですが、ちょうど、1のように、しかし、無限の力と知恵と愛のある神様が私とともにあれば、絶対に何があっても大丈夫なのです。
神がともにいてくださるなら、恐れることはないのです。
みなさん、「恐れるな、神が私と共にいるから」と毎日自分に言って聞かせてあげてください。
ぜひ、今日覚えてください。神が私と共にいる。ということを。
皆さんのために、お祈りしています。
ブログル仲間さん、今年も、素晴らしい年になりますように!
ぼ
我が家はすぐそばに、皆さんがわいわい集まるシアトルセンターがあります。すごく寒かったので、外に出ずに、家の中から花火を眺めました。しかし、今年は音がすごい! ビルがもっと増えたせいなのか、花火の数が増えたのか。。。景気のいいことです。あけましておめでとうございます。
2017 年12月31日今年最後の主日礼拝音声はこちらから、
VIDEO
ルカ17:11-19
11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。
12 ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、
13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。
14 イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。
15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
17 そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」
今日は、最後の礼拝です。神様に心からの礼拝を皆さんと一緒に捧げたいと思いました。毎年、感謝祭のころや、イースターのころに、I-5にかかっている陸橋から、Jesus Loves You. という看板を掲げている人たちをみます。トラフィックに手を振っています。Jesus Loves You 。こないだのクリスマスの時には、さすがに風吹で、いなかったな。。。などと考えていました。
イエス様は、私たちを愛しておられます。信じますか。
人間というものは、本当に愚かなもので、心を鈍らせ易いものです。おいしいものでも、毎日食べると飽きてきたりします。初めて感動した味が薄れ、心が麻痺します。ある人に親切にされて、初めはとても感動しても、親切にされ続けるとそれを疎ましく感じたりします。
私の主人はいつも優しいのですが、それが当たり前になっていることがあるな。とつい昨日、思いました。しかし、私の主人は、毎日何回も私に感謝を表してくれます。とても気分がいいです。当たり前になって、私は、感謝を忘れてしまいます。そのようなことが夫婦、友人の間でもあるのではないでしょうか。。。。どんなに親が私たちを愛しているか、小さいときから当たり前に受けていた愛ですから、疎ましく思うことは、若い人たちに良くあります。
このJesus Loves You の看板がまさにそうです。今年は、見なかったので、寂しかったです。。。
私たちにとっては、今となっては、その言葉は、当たり前のことで、クリスチャン生活の日常にあふれていることです。しかし、人生に迷ったとき、この言葉にしがみついて、救われたのです。この言葉で、私は、世界の見方がかわり、人生が180度変わり、家族みんなの人生が変えられました。そして、落ち込んだとき、失敗したとき、この言葉が私を立て直したのです。
今年は、この礼拝をもって一年が終わりますが、私たちには、感謝をささげるべきお方がいます。そして、感謝をし続けるライフスタイルの中に私たちはすでに入れられているのです。
ルカの17章11-19節を読みましょう。この箇所からいろいろなメッセージが語られますが、今日は一点のみ。10人らい病の人たちがいて、普段は、町を歩くときに、「私は、汚れている」と叫びながら歩かなければならなかった人たちが、イエス様をみつけるなり、「主よ、憐れんでください」と叫びにかわりました。彼らはJesus Loves You の真理、いけるみ言葉にいわばしがみついたのです。
イエス様は、10人とも癒された。当時祭司にみてもらうというのは、病気だった人がもう病気でないと祭司に認めてもらって宣言してもらうため。すなわち、もう癒されたよとイエス様は言っている。
10人は、嬉しかっただろう、何年も隔離されていたから、会いたい家族、子ども、恋人、友達がいただろう、その人たちに早く癒された自分を見せたかったろう。誰もが、急いで走っていた。しかし、一人だけ、ユーターンした人がいた。
15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。
サマリヤ人だけがイエス様のところに戻って、感謝を表した。
サマリヤ人が感謝をして、いやされたことを神の栄光に帰した。私たちが、イエス様とのであいによって、受けた恵みをどこまでも神の栄光として、表すところに世の宗教との違い、ご利益宗教との違いがある。ご利益宗教とは、自分にとってよい見返りがくることのみに集中していて、私たちが信じていること、や対象はあまり問題でない。自分に良いことが来ればいいだけ。
しかし、イエスを信じるものは、イエス様に全ての栄光を返すべきである。これがキリスト教信仰であり、これが礼拝である。
そして、この礼拝の心を持っている人は、強い。どんな試練の中でもゆるがされない。倒されない。それは、この素晴らしい神様がいつも私とともにいると信じているから。
そして、そのサマリヤ人に、イエス様は、聞いた。17 そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
イエス様は、他に感謝するべき人たちがいないのか? と聞かれた。
そして、19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」
イエス様は、サマリヤ人に信仰があると認められた。イエス様は、残りの9人のユダヤ人たちにも信仰を見たかった。認めたかったであろう。その信仰とは、自分が良くなることだけに集中するのではなく、神様というお方に焦点をあてるということ。実際に、ユーターンして、イエス様の足元にひれ伏し、感謝をし、関係を結ぶ。こと。
私たちは、あまり個人的に良く知らない人からプレゼントをもらって、そのままにしておくと、関係は結ばれませんが、その人にお礼を言って電話をしたり合いに行くと関係が結ばれます。ワールドビジョンの里親制度でも、クリスマスになると、いつも子供たちの写真と手紙が送られて来ましたし、そのことによってさらに絆が深まるりました。
イエス様は、私たちを喜んで癒したいと願っています。そして、それ以上に、関係が結ばれ、関係が始まることを願っておられます。
信仰は、主に栄光を返してこそ完成します。主に近づくものは、信じるものに報いてくださることを信じなければならない。とありますから、報いられたら、ますます主に近づくものなのです。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。 (ヘブル11:6)But without faith it is impossible to please Him, for he who comes to God must believe that He is, and that He is a rewarder of those who diligently seek Him. (Hebrews 11:6)
今、主に近づき感謝を捧げましょう!
今年は、ぜひ餅つきをしようと、餅つき器を借りてきました。
二台を回して、二回つきました。
つきたては美味しくて、みなさんたくさん食べました。
たくさん作った大根おろしもほぼ完食。
あんこでは、あんころもちも作りました。
今日は、今年最後の土曜日
餅つき器を二台お借りして、餅つき会をしました。
突き立てのおもちは美味しいです。
あんこ、きなこ、のり、大根おろしなどを用意して食べました。
おもちは、すごくお腹がいっぱいになるんですね。。。
忘れていました。
で、つきすぎて、みんな家に持ち帰ることができました。
みなさん楽しまれて、なんだか、これから毎年恒例になりそうです。。。
今年は、いい年でした。
教会の皆さんも、神様の前に大きく成長する年になりましたし、
共に泣き、ともに笑う、愛の共同体として教会としても大きく成長できました。
洗礼者もたくさん与えられました。
いつも、何日もかけて準備していたイベントもみんなでばぱっと準備もできるようになりました。
なんだか、子供が成長していく頼もしさと寂しさの混じったような感情を覚えます。
これも、とってもいいことですね。
今年は、たくさんの祝福をいただいて、神様本当にありがとうございました。
私の学業も守られて、たくさん吸収させてもらっています。
みなさんも良いお年を!
ブログル仲間さんにはたくさん励ましていただいて、いつも感謝しています。
ぼ
土曜日は、教会のファミリークリスマスでした。皆さん、楽しくわきあいあい。ゲームやクッキー飾りを楽しみました。
教会員有志による、特別賛美
2017年12月17日日曜日礼拝メッセージ音声は、
VIDEO
クリスマスのお話し https://www.youtube.com/watch?v=JyVXIvdTF20
クリスマスのお話しをご存じない方は、こちらをご参照ください。
クリスマスのために、イエス様のお誕生のために用いられた人たちは誰でしょう。マリヤ、ヨセフ、羊飼い、エリザベツなどなど、いろいろといますが、皆さん共通の特徴があります。それは、神様を受け入れる態度です。マリヤのお話しを見てみましょう。
ルカ一章26-38
ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。37 神にとって不可能なことは一つもありません。」38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。
★ 神の道と人の道は違う God’s ways are not human’s ways.
待ちに待った救い主の訪れは、こっそり、ある人たちに伝えられました。しかも、有名な人でもなく、権力を持つ人でもなく、普通の人たちのところに来ました。王様や、宗教学者のところに行ったらいっぺんで広まるけれど、神様のやり方は違ったのです。
人は、外見を見るけれども、神様は心を見られるとⅠサムエルにもある通りです。皆さん、よく覚えておきましょう。神の道と私たちの道は違うのです。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。 ・・主の御告げ。・・ 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」 旧約聖書 イザヤ書55章8~9節
“For My thoughts are not your thoughts, Nor are your ways My ways,” says the Lord. 9 “For as the heavens are higher than the earth, So are My ways higher than your ways, And My thoughts than your thoughts.
★恐れるな Do not be afraid.
けれども、その神様の良い知らせのために選ばれた普通の人たちは、戸惑いました。
神に選ばれた者たちに、等しく天使が言った言葉がある。それは、「恐れるな」です。
天使が言っていることは、信じがたいことであった。それは、自分の人生を大いに揺るがすことであったし、自分の力ではどうしても何も解決できるような種類のものでもなかった。
しかし、神は、「恐れるな」と天使に言わせた。
恐れの反対は? そう、信仰ですよね。恐れと信仰の間に距離がありました。それは、信仰をとれば、自分の人生を大きく変えるからです。
マリヤは、シングルマザーにならなければならなかったかもしれませんし、また、人に見つかれば、石打ちの刑で死んでいたかも知れません。信仰には、代価が伴うのです。
しかし、天使は、念押しの言葉を言っていますね。「神には、不可能なことはない。」と。
信仰には、自分の側のコスト、代価と、神の後押しの力が必要です。神には不可能なことはないと信じることが、信仰の本質であり、神はその信仰には必ず報いて下さいます。
★信仰はリスクを伴う Faith requires risk
〇アブラハムのお話Abraham’s case。。。。賜物セミナーでも出てきたお話しですね。
アブラハムは、やっと与えられた一人子を神にささげるように言われ、朝早く、その子イサクを連れて山に登りました。アブラハムはすでに神様と深い信頼関係がありました。二つ返事でした。あなたなら、どうしたでしょうか。大切な一人子を神にささげることができるでしょうか。子供を手放したり、誰かにあげたりすることなど、考えられるでしょうか。まして、この場合は、ほふって捧げるという意味だったのです。アブラハムは、神にはどんなことでもできる、ここだけは、分かっていました。神の約束、イサクから出てくる祝福の約束だって堅く信じていたのです。アブラハムは、自己の葛藤よりも、神の言葉を選びました。
神に言われたことをそのまま、受け入れることは、神を受け入れることでもある。
神をそのままで受け入れたのです。
彼が、子供を殺そうと手をかけようとした瞬間に、神がもうよい、分かった。と声をかけました。
そこには、捧げるのに完璧な動物が神によって備えらていました。神は、私たちの心を見ていらっしゃる。私たちが本来捧げるべきコストさえ、いけにえさえ、贖われるのです。
マリアも、ヨセフもその局面に立ちました。そして、神を取りました。
信仰を取るというときには、必ずしも、やさしいことばかりではありません、難しいことだってあります。しかし、いつも神は、喜んで神を心にお迎えする人の見方であります。
神は、子供のように素直な心で神を迎える人を探していらっしゃいます。あなたも、選ばれている者です。あなたは、神とともに生きる人生を恐れますか。それとも、何があっても、なんでもおできになる神を信頼しますか。神の言葉を受けとりますか。
★神の言葉を受け入れる姿勢 The posture that accept God’s word
「お言葉どおりに、この身になりますように」38 Then Mary said, “Behold the maidservant of the Lord! Let it be to me according to your word.” And the angel departed from her.とマリヤのように受け取りますか。
神は、子供のように、素直に、神をお迎えるする人を探しています。
★ぼくのところに来てください Please come to my place, Jesus!
次のお話は、私が若い時に、クリスチャン新聞か何かに乗っていて、ひどく感動したお話しです。クリスマスのお話しです。教会の降誕劇で、障害をもつ男の子が宿屋の役をもらいました。何度も練習して、セリフを覚えました。「すみませんねー、うちもいっぱんなんですよー。よそに行ってください。」本番が来ました。
イエス様がどんどん断られる。。。
最後の宿屋さん、断る、そして、馬小屋に。。が普通のお話だけど、。。。「いやーうちにもないのです。。。他に行ってください」と、マリアとヨセフが通り過ぎようとしたとき。。。
「イエス様、行かないで、ぼくのお家に泊まってください。」と泣き出した。
劇は、台無しになったどころか、みんなが神様を心にむかえる温かいクリスマスになりました。
〇選ばれたものとなるには、神を受け入れなければなれません。
イエス様は、王だけど、お生まれになる日に泊まるところがなかった。けれども、あなたを選んで、心に住み、あなたと一緒に神様の働きをしようと思っています。「ぼくのところに来てください。」の心で、神様の選びを受け取りませんか。
子供たちプラス、一人大人のアート。テーマは犬です。みんな上手ですし、みんな絵とともに、ストーリーを持っています。とてもクリエイティブ。また、どんな人も、インスピレーションを感じたときには、それにともなうストーリーを持っているんだと思い。。感動しました。
この犬は、おうちの中にいて、お客さんが来たので、うおーーんと言っているそうです。家は自宅で、犬は、お友達の犬らしいです。
2017年12月3日日曜日礼拝メッセージ音声は、
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★剪定のないぶどうの木、テストのない人生
ホセア10:1-1
イスラエルは多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。多く実を結ぶにしたがって、それだけ祭壇をふやし、その地が豊かになるにしたがって、それだけ多くの美しい石の柱を立てた。
良く茂った。。。。誰も剪定をすることのないぶどうの木。生い茂り、伸び広がり、実はもしかしたら短い間だけ、初めの年は、小さくてもたくさんつけれるのかもしれない。リサーチしてみたら、剪定してない木はろくなブドウができないと書いていました。また、伸びっぱなしのぶどうの木は病気にもなるそうで、どっちにしろ剪定なしでは木はだめになってしまうようです。
神は、愛しているものを懲らしめる。
へブル12:5-6
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
ダビデも、試練を通して学んだという。
詩篇119篇71節
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。It is good for me that I have been afflicted, That I may learn Your statutes.
イスラエルは、あまりのわがままさに、剪定されることもなくなり、ついに裁きがイスラエルに下っているということになります。。。。みなさん、神様の保護の中、剪定されるぐらい、なんですか。剪定の痛みは、裁きの痛みに比べたら小さなものです。
★二心
ホセア10:2-5
彼らの心は二心だ。今、彼らはその刑罰を受けなければならない。主は彼らの祭壇をこわし、彼らの石の柱を砕かれる。3 今、彼らは言う。「私たちには王がない。私たちが主を恐れなかったからだ。だが、王は私たちに何ができよう」と。4 彼らはむだ口をきき、むなしい誓いを立てて契約を結ぶ。だから、さばきは畑のうねの毒草のように生いでる。5 サマリヤの住民は、ベテ・アベンの子牛のためにおののく。その民はこのために喪に服し、偶像に仕える祭司たちもこのために喪に服する。彼らは、その栄光のために悲しもう。栄光が子牛から去ったからだ。
〇二心になってしまったイスラエル。。。
信仰は聞くことから始まる。。イスラエルは神の言葉を聞くことをやめてしまった。すなわち、他の神々のいうことを聞くようになってしまった。
最初の人、アダムとエバの堕落は、どこから入ったか。それは、神の声を聞くことよりも、サタンの声に聞いた、そしてその声に従った。=自分の人生を支配する権利はあなたにありますというもの。
人は、同時に二人の神に仕えられないとある。
マタイの福音書6章24節
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
両方の声を同時に聞いて従うということはあり得ない。
★王が取り去られ、偶像が取り去られる
王がいない…イスラエルの王は、次々に内部からの反抗で変わっていきます。人は、王がいないと嘆きますが、もともと心が分かれ悪魔に聞き従っている人には、恋焦がれている完璧に王に見えても、すぐにその王も取って変えられるようになります。私たちも、神にそぐわない、偶像化した自分の利益のための王を求めるなら、それは、やってきてはまた去り、落ち着くことがないでしょう。
子牛の栄光は消えてなくなる。…イスラエルは、ベン・エベン= 悪の家の子牛と書いてありますが、これは、有名なヤコブが天への架け橋を見た、べテル=神の家のことです。イスラエルが神に出会ったその場所を、彼らは、偶像の祭壇にしてしまっていたのです。なんということでしょうか。そして、その姦淫の罪のために、もう敵がやってきて、いくら子牛にすがっても、無駄である。栄光は取り去られた。裁きが来るということを、言っているのです。
偶像の栄光は、一時的なものであり、永遠ではありません。また、それが幻想であることを私たちは覚えておきましょう。
★今は、誠実を養う時
ホセア10:12-13
12 あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。13 あなたがたは悪を耕し、不正を刈り取り、偽りの実を食べていた。これはあなたが、自分の行いや、多くの勇士に拠り頼んだからだ。
神様は、真の天の父です。イスラエルのしてしまった罪と悔い改めない心の結果として裁きは来ますが、神様は、まだ、道を示していらっしゃいます。それは、人生心を入れ替えてやり直すことです。一つ一つ、神の前に正しいことをし、誠実に生きる。神の言葉を聞き、神の言葉に従って行動すること。これを勧めておられます。
一からこつこつ誠実の種を蒔いていくこと。これが、何よりの近道です。。毎日、神の言葉を頼りに生きること。神のみ言葉に従うことを私たちもしていきましょう。
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