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"#社会史"の検索結果
  • 生産性運動と国労 生産性運動中止へ 第二話

    国労、動労が不当労働行為の証拠を積み上げていくとしていた時期、鉄労の方はどのような状況であったのでしょうか。鉄労の、国鉄民主化への道を参照しながらお話しをさせていただこうと思います。ストライキか合理化か・・・揺れる国鉄と、春闘さて、当時の国鉄はどのような状況だったのでしょうか。国鉄を含む公労協が5月20日に24時間ストを計画しているとして公共企業体等労働委員会 以下公労委と略す)の合同調停委員会は、19日夕方から三公社五現業の賃金調停作業に入るべく準備をしていたそうです。・・・しかし、所定の時間になっても一向に国鉄労使が姿を見せなかったそうです。公労委としては、国鉄のストライキを回避させるため...
  • 生産性運動と国労 生産性運動中止へ 第一話

    生産性運動に対して決め手を欠く、国労と動労生産性運動に関しては、国労自身が組織の危機を感じて本格的な反論を開始したのが、昭和46年1月に入ってからでした。前述の、「ウソだよ生産性運動」(初期はクタバレ生産性運動だったそうです)のような、ビラを配布したり、あの手この手で、生産性運動を批判していました。特に、昭和46年1月以降、国労は「総力戦」の方針を固め、従業員意識(「国鉄一家」意識)の払拭、階級意識に立った労働組合運動の継続発展、簡単に言えば、職制は、資本家階級の使用人であり、労働者階級の敵であると言う意識付けであり、鉄労はこうした手段を、マルクス・レーニン主義そのものであると厳しく批判してい...
  • 山陽新幹線 岡山開業 番外編

    長らく労働運動の話ばかりが続いていますが、その辺は特化したblogに任せて、国有鉄道史に戻りたいと思います。新幹線岡山開業前後の話昭和47年3月には、山陽新幹線の延長区間として、新大阪~岡山間が開業することとなりました。この開業はあくまでも暫定的であり、昭和50年に博多開業が予定されているため、改正自体は小規模なものとなり。大阪始発の九州特急も数多く残る結果となりました。山陽新幹線と遣い同新幹線の建設基準>以下の通り簡単にまとめてみましたが、曲線半径が4000mと広くなり、最急勾配も15‰以下となっています。また、レールは60kgレール(より正確には60.8kgレール)が採用され、東海道新幹線...
  • 鉄労から見た生産性運動

    生産性運動は、鉄労の結成当初からの基本理念生産性運動は、鉄労の結成当初からの基本理念であったことから、国鉄が生産性運動を導入したことは、遅すぎると批判することになります。その辺を、鉄労友愛会議の「国鉄民主化への道」からみていきたいと思います。国鉄当局が生産性運動にとり組んだ背景は最初に国鉄が生産性運動に取り組んでいく背景には、もちろん厳しい労使関係がありました。、昭和41年には累積積立金を食い潰し、昭和46年には償却前で赤字を計上するなど、国鉄の財政再建は急務となっていました。そうした意味では、国鉄が緊急に立て直すために生産性運動に取り組むことは喫緊の課題でした。生産性運動自体は、国鉄職員の中...
  • マル生運動 国労の反発 第1話

    マル生運動に関しては国労は、一貫して反対の立場マル生運動は、国労・動労は一貫して反対の立場を貫いていたことはご存じの通りですが。国鉄当局のマル生運動に対して、国労は、「ここが変だよ生産性運動」という冊子を作成して、職場などで配布するのですが、中々実効的な効果は得られませんでした。国労はマル生運動を、管理者による組合分断だと判断していた国労はマル生運動を、管理者による組合分断だと判断していた国鉄労働組合40年史を参照しますと、「マル生」運動の浸透と言う項目で以下のように書かれています。少し長いですが、引用したいと思います。国鉄の職場で、「マル生」運動が公然と行われるようになったのは、1970年の...
  • 組合に、本社幹部の人事権を握られる国鉄本社

    生産性運動は、昭和46年10月には正式に中止(国鉄の公式発表では、研修資料の再検討)され、昭和45年から本格的に始まった生産性運動は、わずか1年半ほどで終焉を迎えることとなりました。真鍋職員局長は、ローカル線担当の閑職に追いやられ、実質的な責任者であった、能力開発課長の大野氏も貨物局調査役に左遷されることとなりました。このときに、副総裁と国労幹部との間で、組合の推薦で職員局長を決定するという、およそあってはならないことが行なわれました。有ってはならないことですが、組合の意向で次の職員局長を決定してしまったことは、その後の国鉄の混乱を招く元となりました。その辺りの事情を、「国鉄を売った官僚たち」...
  • 生産性運動の終焉と国鉄、荒廃する職場

    国労・動労による反生産性運動は、潤沢な資金を使ってマスコミ等に情報を流すという手法が取られました。特にどのような方法で録音したのか明確ではありませんが、現場管理者【助役】が、国労組合員を鉄労に加入させるのが生産性運動だと勘違いした?もしくは誘導尋問をされたのかも知れませんが、そうした発言をしたという言質を取られて、それがマスコミに報道されたことで大きな問題に発展、磯崎総裁が国会で陳謝【謝るとともに、生産性運動の見直し、実質的に中止】することとなり、生産性運動を推進していた「大野能力開発課長」他の幹部を更迭【左遷】することで収拾を図ることとなりました。生産性運動終了後は、敗戦処理よろしく、国労・...
  • 修学旅行の新幹線利用一般化と、ローカル線廃止基準設定

    久々に日本国有鉄道史更新させていただきます。本日は、弊サイト国鉄があった時代から見ていこうと思います。昭和47年4月から、修学旅行の新幹線利用が一般化して言ったと書かれています。この理由としては、「東京地区の修学旅行は、従来専用電車「ひので号」を利用してきたが、旅行のスピード化と生徒の体位向上などから、今年度から全面的に新幹線を利用することになった」と書かれていますが。新幹線の利用は、昭和40年から始まっているようであり、昭和47年まで修学旅行電車が残った背景には、利用債の償還が終わるまでは使い続けるといった話もありましたので、そうした大人の事情もあったようです。それが、償還も終わったことから...
  • 昭和47年 新幹線岡山開業 第2話

    新幹線岡山開業で観光地としての岡山をアピール当時の部内紙などを参照しますと、当時の岡山は、山陰・四国への乗り換え地点という位置づけであり、「観光岡山」という意識があまりなかったことから、この度積極的に岡山を売り出していくとともに、新幹線で四時間ほどという点を活かして、関西圏からだけではなく、東京方面からの観光客も受け入れるようにしたいと意気込んでいます。昭和47年3月号、国鉄線という部内記事からその辺を引用してみたいと思います。観光開発については、これまで観光地といえば山陰、四国のイメージが強く、「観光岡山」の名はあまり知られていない。新幹線の開通は、観光面でとくに大きなインパクトを与えること...
  • 昭和47年 新幹線岡山開業 第1話

    本日から、東海道新幹線岡山開業のお話をさせていただこうと思います。昭和47年3月、新幹線は岡山まで開業しました。当時の資料などを参照しながら、お話を進めさせていただこうと思います。実は、昭和47年に3月に全国白紙ダイヤ改正と、10月には日本海縦貫線完成と言うことで2回改正が行われています。改正の準備は前年の10月頃から行われており、山陽新幹線誕生で大きく変わったのは、「ひかり号」でしょうか。「ひかり号」が超特急から特急に統一されるとともに、三種類のひかり号が登場することになりました。分類上は、「Aひかり」、「Bひかり」、「Wひかり」で「Wひかり」は通称「赤ひかり」と呼ばれて新大阪~岡山間をノ...
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