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生産性運動に対して決め手を欠く、国労と動労 生産性運動に関しては、国労自身が組織の危機を感じて本格的な反論を開始したのが、昭和46年1月に入ってからでした。 前述の、「ウソだよ生産性運動」(初期はクタバレ生産性運動だったそうです)のような、ビラを配布したり、あの手この手で、生産性運動を批判していまし...
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長らく労働運動の話ばかりが続いていますが、その辺は特化したblogに任せて、国有鉄道史に戻りたいと思います。 新幹線岡山開業前後の話 昭和47年3月には、山陽新幹線の延長区間として、新大阪~岡山間が開業することとなりました。 この開業はあくまでも暫定的であり、昭和50年に博多開業が予定されているため...
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生産性運動は、鉄労の結成当初からの基本理念 生産性運動は、鉄労の結成当初からの基本理念であったことから、国鉄が生産性運動を導入したことは、遅すぎると批判することになります。 その辺を、鉄労友愛会議の「国鉄民主化への道」からみていきたいと思います。 国鉄当局が生産性運動にとり組んだ背景は 最初に国鉄が...
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マル生運動に関しては国労は、一貫して反対の立場 マル生運動は、国労・動労は一貫して反対の立場を貫いていたことはご存じの通りですが。 国鉄当局のマル生運動に対して、国労は、「ここが変だよ生産性運動」という冊子を作成して、職場などで配布するのですが、中々実効的な効果は得られませんでした。 国労はマル生運...
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生産性運動は、昭和46年10月には正式に中止(国鉄の公式発表では、研修資料の再検討)され、昭和45年から本格的に始まった生産性運動は、わずか1年半ほどで終焉を迎えることとなりました。 真鍋職員局長は、ローカル線担当の閑職に追いやられ、実質的な責任者であった、能力開発課長の大野氏も貨物局調査役に左遷さ...
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国労・動労による反生産性運動は、潤沢な資金を使ってマスコミ等に情報を流すという手法が取られました。 特にどのような方法で録音したのか明確ではありませんが、現場管理者【助役】が、国労組合員を鉄労に加入させるのが生産性運動だと勘違いした?もしくは誘導尋問をされたのかも知れませんが、そうした発言をしたとい...
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久々に日本国有鉄道史更新させていただきます。 本日は、弊サイト国鉄があった時代から見ていこうと思います。 昭和47年4月から、修学旅行の新幹線利用が一般化して言ったと書かれています。 この理由としては、「東京地区の修学旅行は、従来専用電車「ひので号」を利用してきたが、旅行のスピード化と生徒の体位向上...
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新幹線岡山開業で観光地としての岡山をアピール 当時の部内紙などを参照しますと、当時の岡山は、山陰・四国への乗り換え地点という位置づけであり、「観光岡山」という意識があまりなかったことから、この度積極的に岡山を売り出していくとともに、新幹線で四時間ほどという点を活かして、関西圏からだけではなく、東京方...
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本日から、東海道新幹線岡山開業のお話をさせていただこうと思います。 昭和47年3月、新幹線は岡山まで開業しました。 当時の資料などを参照しながら、お話を進めさせていただこうと思います。 実は、昭和47年に3月に全国白紙ダイヤ改正と、10月には日本海縦貫線完成と言うことで2回改正が行われています。 改...
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約1ヶ月ぶりの更新となります。 国鉄改革の方策として期待された、生産性運動は、確実に国鉄の職場を変えていきつつある雰囲気でした。 それは、組合員の数にも顕著に現れていきました。 生産性運動は、国労・動労組合員の脱退を加速させた 国労・動労を脱退して、鉄労に移籍する組合員が増えていったのです。 ストラ...