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国労の誕生 統合組織への機運が高まった昭和21年、2月27日には北陸の片山津で「国鉄労働組合総連合会」の結成大会が開催され、同年3月15日、東京の飛行会館で第一回の国鉄総連合中央大会が開催されました。これが国労の前身となる国鉄総連合です。 この大会で発表された組合員数は50万8,656人で、国鉄全従業員の96%に達しました。 これは、省電闘争のために、全国鉄単一労組準備会が東京の地方協議会から除名されていたためです。 ナショナルセンターの発足 昭和21年8月全国には、単位労働組合を都道府県別に結集した、戦前の総同盟の流れを汲む日本労働組合総同盟(略称「総同盟」)、21の産業別単位労働組合連...
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戦後、労働運動は民主化の旗印の下、合法化されました。 昭和20年12月には労働組合法(昭和24年6月施行)が公布され、(実際には昭和20年に制定された労働組合法を全部改正すると言う手続きを経て公布施行されました。) そこで、雨後のたけのこのように組合は結成、発展していきました、当初はGHQも民主化のためということで、日本共産党(以下「日共」と略す)の活動についても静観を決め込んでいきます。 さて、ここで国鉄(当時は運輸省鉄道総局)の動きを見てみましょう。 運輸当局は、戦争中に結成された国鉄奉公会が解散した後、鉄道委員会の組織化を開始しました、これはいわば御用組合のようなもので、労働基...
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戦前にも労働組合は存在しましたが、労働組合の存在は非常に弱いものであり、使用者に対しては請願という形で行われるのが一般的でした。 実際には戦前にあっても、ストライキなどを実行する会社もありましたが、ことごとく労働者の敗北に終わっていました。 特に太平洋戦争(大東亜戦争)中は、全ての組織が翼賛会に再編されたこともあり、労働運動はひとまず姿を消します。 鉄道においても、同様で鉄道及び連絡船航路は軍人に準ずるものとして、連絡船航路の従業員は一足先に海軍軍属に、またその他鉄道従業員も、陸軍軍属とされていきました。 戦前の労働運動に関しては、資料も未だ十分ではないので今後の機会にしたいと思いますが、第1...
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国鉄の誕生 GHQの見解を聞いて頭を悩ませたのは時の政府でした。 GHQの命令は絶対であり、マッカーサーからの書簡(指示)という事になれば尚更でした。 前項に書きましたように、政府としては鉄道総局をどうすべきか考えた結果、政府の意向ができるだけ通る、すなわち政府が公共企業体を支配できる体制を考え出しました、これが後々まで国鉄を苦しめる結果となりますので、よく覚えておいてください。 そこで政府は、3つの案を考え出します。 (1) 国務大臣を総裁とする鉄道総庁 (2) 運輸大臣の監督下に置く特別法人国鉄公庁 (3) 特別の管理機関をもつ特殊法人国鉄公社 政府は、(1)の形で決着を着けたか...
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労働運動の台頭 当初、労働運動には寛容であった、GHQでしたが、これを日本共産党が解放運動と感じたことに大きな誤りが生じることとなりました。この辺りにつきましては、国鉄とは直接関係ないので割愛させていただきますが、後ほど機会を見つけて論述したいと思います。 当時の、日本共産党は、ソビエトの指示、すなわち、コミュンテルン(国際共産党)の指示を受けていたこともあり、ソ連の情勢判断は、世界革命近しということで、労働者を指導し、労働運動を活発化させるとともに、非合法活動(銀行襲撃や、爆弾製造など)も平行して行われていました。 戦後労働運動の推進役を担ったのは官公労であり、民間では食べることに精一杯でそ...
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はじめに 国鉄を鉄道国有化の明治時代まで遡るか、戦後の昭和24年以降とするかは、議論の分かれるところではございますが。 ひとまず、昭和24年以降の日本国有鉄道以後の内容ということで、記述を進めたいと思います。 なお、国鉄に関する労使問題や、車両の動きなどといった専門的と思われる分野は、別の機会ということで、ここでは、概要のみを伝えることにしたいと考えております。 日本国有鉄道の誕生前史 日本には、かって鉄道省という役所(さらに古くは鉄道院)という役所がありました、戦時中は逓信省(現在の郵政公社の前身) と統合され、運輸逓信省に、さらには運輸省になり、空襲激しくなる中でも、兵員輸送に、また...