日本国有鉄道誕生 第2話
10月
18日
当初、労働運動には寛容であった、GHQでしたが、これを日本共産党が解放運動と感じたことに大きな誤りが生じることとなりました。
この辺りにつきましては、国鉄とは直接関係ないので割愛させていただきますが、後ほど機会を見つけて論述したいと思います。
当時の、日本共産党は、ソビエトの指示、すなわち、コミュンテルン(国際共産党)の指示を受けていたこともあり、ソ連の情勢判断は、世界革命近しということで、労働者を指導し、労働運動を活発化させるとともに、非合法活動(銀行襲撃や、爆弾製造など)も平行して行われていました。
戦後労働運動の推進役を担ったのは官公労であり、民間では食べることに精一杯でそれどころではありませんでした。炭鉱労働に従事していた、韓国人労働者の罷業などにより、石炭不足が生じ、列車設定を減らすといった問題も生じたりしましたが、当時の労働運動の旗振り役は官公労でした。
戦後労働運動をリードした官公労
特に国労は、国鉄、全逓は、郵政省の組合であり、いずれも国民に与える影響も大きいものでした。
当時国労には(動労や鉄労はいまだ誕生していない)穏健派の右派と、共産党の指導を受けた二つの派閥に分かれていました。)
穏健派は、民主化同盟派と呼ばれ、共産党の運動を拒否するものであり、総評の母体となりました。
元々、共産党嫌いのマッカーサーであった彼は、高揚する労働運動に我慢が出来ず、昭和23年7月22日、ついにマッカーサー書簡を発し、政府に対し運輸省鉄道総局と大蔵省専売局を政府直営から切り離すことを指示したのです。(これがマッカーサー書簡で、権力を持たない国の組織は公社という新しい形態の組織に改変することを求めたものです。)
新しい組織形態に困惑する政府
困ったのは、政府でした。政府には公共企業体という知識はありましたが、その歴史的背景についての知識は豊富でなく、その設立・運用に際しては困惑を隠せませんでした。
そこで、運輸省事務次官であった、下山定則(初代国鉄総裁、後変死)→下山事件(下山事件資料館様にリンクしています。)は、CTS(GHQの下で、鉄道輸送の総元締め)と交渉し、国鉄職員が一般公務員と言う立場は離れたとしても、組織改変は絶対的なものではないという結論を導いたのですが、GHQは同年の9月8日に再びマッカーサー書簡を発表、国鉄従業員の争議権禁止、団体交渉権の承認、調停・仲裁機関の設置が命じられました。
そしてこのために、、国鉄を設置するための公共企業体を設置する法律、鉄道労使関係の調停・仲裁機関を設置する法律、運輸監督機関の設置と運輸省の再組織に関する法律などを制定することが要求されました。
GHQが考えていた、公共企業体とは、民間的な発想で効率的な経営を行い、赤字部分を利益の出る分野で補い結果的に赤字部分の事業も存続させていくという考え方であり、それゆえに民間では出来ないと言う考え方でした。この点は重要ですので良く覚えておいてください。そしてこれは、資本主義がある程度まで行き着いた社会において考え出された手法であることにも注目しておいてください。
対応に困惑した政府は、GHQにお伺いをたてました、GHQの回答は、以下のようなものでした。
(1) 専売公社とすべき、塩・アルコール・たばこ・・・形式的には国の直営を離れるが、その実態は従来どおり国の直轄事業でよろしい。当然独占事業であることを認める。
(2)国鉄は、独立採算の会社として独立させ、できる限り効率的な経営を行い、かつ民間では行い得ない事業を遂行させること。
という見解が示されました。(当時電電公社は誕生しておらず、逓信省の一部局としての位置付けであった。)
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