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この章では、戦後の復興に向けての輸送力の増強を中心にお話をして行きたいと思います。昭和30年代のお話につきましては章を改めて行ないたいと思います。輸送力増強 昭和24年9月、戦後初めての「特急 へいわ」が運転を開始しました。 戦後の暗い世相の中でたとえ一般庶民には高嶺の花であった特急列車が復活するということは国民に希望を与えるものでした。 特に、「へいわ」という愛称は、戦後の国民には素直に受入れられる名称では有りましたが、愛称については、改めて公募が行なわれることとなりました。 全国から約16万通の応募があり、その中から1,500余通を占めた「つばめ」が選ばれました。これにより、昭和25年1月...
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終戦当時はその疲弊した設備もあいまって多くの事故が発生し、事故の無い日のほうが珍しいと言われるほど混乱していました。 詳細は、幣ページの昭和20年からを見ていただくとして、多くの事故が発生しています。 これには、戦時中の酷使などで発生したと思われる蒸気機関車のボイラー破裂事故などもあります。 主だった鉄道事故を拾ってみても 肥薩線内トンネル事故 8/22 荷重超過のため上り勾配のトンネル内で立ち往生した列車をバックさせようとしたところ、既に列車を降りて線路を歩いていた乗客と接触し49人が死亡、20人が負傷した事件であった。 八高線 小宮~拝島間八高線で正面衝突 8/24 買出し...
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少し時代を戻して、終戦直後のお話をしたいと思います。この章は概ね昭和20年から昭和25年頃までのお話です。 戦争で交通機関等も破壊された日本において、最低限必要な旅客・貨物輸送を確保するのは喫緊の課題でした、大量輸送という点では内航海運は有利でしたが、戦争中に徴発されたこと、港の破壊などで早急な復興は無理であり、自動車輸送にあっても早急な改善は無理なことから、必然的に鉄道輸送を早急に復旧させる必要がありました。 このため、政府は終戦と同時に鉄道復興5ヵ年計画を立て、国鉄の復旧に全力を注ぐこととなりました。 その内容としては車両の新製(1,259両)、被災車両の復旧、被災軌道の復旧、電化工事の...
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朝鮮特需は、日本の経済を急速に復活させる効果をもたらせました。 特需によって輸出は大幅に増加し、外貨保有高も昭和24年末の2億ドルから、昭和26年には9億4200万ドルへと大幅に急増し、荒廃した日本経済は急速に立ち直りを見せました。 生産水準は、昭和25年には既に戦前のそれを上回りました、これに伴い交通機関も相当の輸送力が要求されました。 旅客輸送についても、在日アメリカ人軍の朝鮮半島への出動開始とともに大量の兵力を短期間に輸送する任務が国鉄に課せられることとなり、国鉄は全力を傾注してこれにあたりますが、これは国鉄始って以来の規模となり、太平洋戦争中の日本軍兵士の輸送量をはるかに上回るもので...
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講和条約発効に向けて、政府は労働法規の改定や新しい治安体制を確立すべく行動に出ました。 特に破壊活動防止法等は、その際たるものでありました。→ 公安審査委員会設置法 公安調査庁設置法 などの制定でした。 総評では、これら政府の動きに対抗すべく労働法規改悪反対闘争委員会(労闘、以下略す)が組織され、昭和27年には活発な活動が行われ、4月12日には、第一波の労闘が組織されました。 これは最初の政治ストであり、従来の本来の労働運動としてのストとはその意味合いを異ならせるものでありました。 その後公務員等のストには、こういったストライキが増えていきますので注目しておいてください。 4月18日にも同...
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朝鮮戦争と講和条約 朝鮮戦争は、アメリカとソ連の代理戦争というか、資本主義VS社会主義(マルクスレーニン主義)の戦いとして、朝鮮半島を舞台に繰り広げられたことは皆さん良くご存知のこととは思います。先にも記しましたように、この戦争は日本の戦後を大きく軌道修正させるものとなりました。終戦当初のGHQの方針は、日本には軍備を一切認めないで、また経済復興もそこそこにという程度にしておくという方針でありました。しかし、朝鮮戦争勃発後は、日本を防共の砦としての役割をを持たせることにその方針を大きく変更せざるを得なくなりました。(既に中国は革命が成功し、大陸は社会主義国家が成立していました。)、それが警察予...
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占領軍の日本に対する政策は、経済の復元を限度としており、積極的に復興を支援するというものではありませんでした。 あくまでも、昭和の初め頃程度まで復興することを念頭においたものであり、過度の経済力が一点に集中しないようにすることが主たる目的とされたため、財閥解体や農地解放(これは戦前からも運動としてはあった)等が行われたことは周知のとおりです。 GHQは、インフレーションを抑制し経済を安定化させるため、ドッジ公使を迎え、収支均衡を保つ超縮小均衡予算を打ち出し、インフレは収束に向かっていきましたが、消費の抑制と産業資金供給の縮小は、体力の弱い中小企業を直撃し、安定恐慌から失業者の増加による社...
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国労の分裂 かっては、鬼の動労と恐れられ、国鉄末期に労使協調路線に翻意した動労という組合のついて記述していきたいと思います。 動労は、元々は国労の中にあった機関車乗務の組合員が中心になって昭和25年に分裂した組織であり、当初は「機関車労組」と名乗っていました。その後電車列車や気動車列車などが増えてきたことから、名称をより実態にそった「動力車労組」と変更しました。 何ゆえ、国労から、動労は分離したのでしょうか? それは、戦前にまで遡らなくてはなりません。元々、機関車乗務員は開業当時に外国人機関士を雇い入れた経緯からと思われますが、駅長と同じ判任官待遇(官吏としては最下級、軍隊では下士...
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2・1ストは、GHQの圧力で中止されたが、その結果は労働運動の再編という形で実現されました。 3月10日には、総同盟・産別会議・国鉄総連合など28組織、446万人が参加した、全国労働連絡協議会(全労連)が結成された、これは当時の組織労働者の84%を包含するものでした。 ただし、全労連の運動は、運営において、全員一致制などの制約から運動体としての役割は十分ではりませんでしたが、二つのナショナルセンター(「総同盟」、「産別会議」)を含む、組織労働者が単一組織に統一できたことの意義はきわめて大きかったといえます。 ただし、総同盟は昭和23年6月には全労連を脱退しています。 また、2・1ストは賃...
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戦前は、認められていなかった労働者の権利が労働組合法や、労働基本権を確立する労働基準法などが整備されるなかで労働組合運動は急速に発展しました。21年8月には、日本社会党系が中心となった、都道府県単位で結集した日本労働組合総同盟と、共産党が指導する21の産業別労働組合会議が発足したことは前述のとおりですが、その中で目立った行動をとっていたのは、共産党が運動の中心にあった産別会議です。産別会議は民間労組の賃上げや団体協約の締結等の要求を中心とする10月闘争を行いました。この戦いでは東芝を中心として行った電産労協が、電産型賃金と呼ばれる生活給を確保することに成功しています。 この成功を受けて官公...