講和条約と国鉄 第2話 朝鮮戦争の勃発前夜
10月
27日
朝鮮戦争は、アメリカとソ連の代理戦争というか、資本主義VS社会主義(マルクスレーニン主義)の戦いとして、朝鮮半島を舞台に繰り広げられたことは皆さん良くご存知のこととは思います。
先にも記しましたように、この戦争は日本の戦後を大きく軌道修正させるものとなりました。
終戦当初のGHQの方針は、日本には軍備を一切認めないで、また経済復興もそこそこにという程度にしておくという方針でありました。
しかし、朝鮮戦争勃発後は、日本を防共の砦としての役割をを持たせることにその方針を大きく変更せざるを得なくなりました。
(既に中国は革命が成功し、大陸は社会主義国家が成立していました。)、それが警察予備隊の創設であり、共産党の再度非合法組織としての弾圧などという形であらわれたのです。
また、朝鮮戦争は国内において、朝鮮特需を発生させ、国内は活況を呈していきました。
日本国内は、朝鮮戦争のアメリカ軍の前線基地としての役割を持つこととなり、物資の補給と輸送、兵器類の修理などが日本で行われることとなり、空前の朝鮮特需を受けるとともに、共産党の弾圧が実施されました。
そんな中、 昭和26年1月、社会党(現・社民党)は大会を開き、左右両派の大論戦の後「講和三原則」を採択しました。
「講和三原則」・・「全面講和」・「中立堅持」・「軍事基地反対」の方針でした。そして、それを受ける形で総評は同年3月の第2回大会で、「再軍備反対」を合わせた平和4原則を採択、政府が再軍備を進める中で、次第に左傾化していく総評の姿がありました。
朝鮮戦争は、先にも記しましたように日本の世論を二分することとなり、あたかもこのためだけに革命が起こりかねない雰囲気であったことも事実でした。
講和条約自体は、全面講和の声を無視して、昭和26年9月にサンフランシスコで対日講和会議が開催され、部分講和の条件のもと、講和条約と、日米安全保障条約が結ばれました。
このときの会議には、中国は招かれず、ソ連、インドは調印しませんでした。
講和条約は、11月18日、日本の国会で批准され、昭和27年4月28日は批准書も交換されて発効、これにより日本は7年ぶりに自主独立を果たすこととなります。
これに先立ち、悪評高かった民間運輸局(CTS)の廃止、進駐軍特別列車等の特殊列車化(条件付ではあるが日本人の乗車も可能)などがおこなわれましたが、まだまだ日本人が自由に旅行できるといった雰囲気ではありませんでした。
なお、国内に目を向けてみると、経済の復興を最優先に(これは日本の望んだ道でもあり、アメリカも期待していた方向)した講和条約ですが、社会党(現・社民党)の中では、部分講和に賛成するものと、あくまで全面講和にこだわるもの。これにより社会党の中には社会党左派と社会党右派(これは後に分裂し、社会党右派は、旧民社党を結成します。)とに分裂する事態となりました。
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