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これは、占領に伴いスタートした公共企業体を、日本人の目で見直そうということが目的であり、 この答申は、昭和29年11月に行われました。 「本来の企業性を十二分に発揮するため、また同時に公益事業の本質も顧みて、改善すべきものは改善した上公共企業体としての形態を存続すること」に決定しました。 具体的には、合理化をすすめなさい、経営委員会がもっとしっかりしなさい、政府が資金の手当てをしてあげなさい。ということで、どちらかといえば、国営に戻すべきか公共企業体のままが良いのかということがおもな争点となっていましたが、 この時点では、民営化ということは全く考えられなかったというか、むしろ国営に戻したいとい...
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国鉄の誕生というと、皆さんよくご存知とおもいますが、昭和23年7月22日に発表された、マッカーサー書簡が、その発端であるということを理解しておられると思います。 この書簡によると、鉄道・塩・アルコール・たばこ等の専売業務は政府事業から公共企業体に組織変更すべしと明記されていました。 当時は、GHQの命令は絶対であり、それにより当時運輸省の現業機関であった国鉄は、昭和24年6月1日、たばこ・塩・アルコール専売と供に公社化されました。 ただ、当時日本には、公社という概念(public corporation)が理解されず、国鉄を昔ながらの鉄道省のような組織として残したい政府との間で綱引きが行わ...
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昭和32年度を初年度とした第1次5ヶ年計画は、資金不足により頓挫したことから、新たに昭和36年度を初年度とする第2次5ヶ年計画が策定されました、これは、第1次5ヶ年計画が政府策定の経済自立政策に則ったものであったのに対し、今回は池田政権の所得倍増計画に対応したものでした。 計画の骨子としては、主要幹線の線路増設と輸送方式の近代化、経営の合理化です。 計画の目玉は、当時、世界の三大馬鹿と言われた新幹線でした。(ちなみに、当時の世相では、万里の長城、戦艦大和、新幹線を世界の三大馬鹿と揶揄されていました。) このときの総投資額は、9,750億円(うち東海道新幹線は1,735億円)でした、さらに、昭...
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国鉄では、昭和30年代が最も輝いていた黄金時代と言われており、昭和30年度の輸送量は戦前昭和11年と比較してみると、旅客で3.74倍、貨物はトン数で1.65倍へと著しい増加を示していたが、戦時中に酷使した設備の復興は、戦後のハイパーインフレで、収入から経費を賄うことは難しく、かつ、その後の朝鮮戦争後の物価及び賃金上昇はそれに追い討ちをかけることとなりました。 更に、追い討ちをかけるように桜木町事故などの大事故で、世論は国鉄の老朽施設や改善不十分な車両などに対して厳しい目を向けるようになりましたた。このため国鉄としても抜本的に改善を図るため第1次5ヶ年計画を策定し、運輸省に提出しました。 昭...
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この章では、戦後は終わったと言われる昭和30年代を中心に、国鉄最後の黄金期と言われた時代を描いていきたいと思います。 少し長くなりますが適当に短い章立てをして、読みやすくしたいと思います。 なお、労働問題については、別章で詳しく述べる予定ですので本編では概略を述べるに留めたいと思います。当時の世相概略 単独講和か全面講和かでもめた講和条約は、アメリカと日本の利害と思惑が一致し、中国(中華人民共和国)及び旧ソ連(現・ロシア)とは講和条約を結ばないまま、昭和27年に講和条約は発効、日本は一応独立国としての体裁を保つこととなりました。(アメリカとしては、早々と昭和24年頃には撤収したかったのが、朝...
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戦前からディーゼル機関車並びにディーゼル動車の研究は進められていましたが、太平洋戦争(大東亜戦争)により石油が流通しなくなったことから研究は頓挫していました。 戦後はローカル線経営における輸送改善の見地から山間部を走るローカル線などを中心にそういった無煙化に関する要請が強くなったこともあり、再び研究が開始されました。気動車に関しては、戦前にDMF31系エンジン【鉄道省が、新潟鐵工所・池貝製作所(現・株式会社池貝、株式会社 池貝ディーゼル)・三菱重工業の3社が同一仕様で競作した3種の試作エンジンに便宜上同一の省形式を与えたもの】を試用して、キハ43000と呼ばれる気動車が開発されましたが、...
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戦時中に製作された、EF13、D52などは、通勤形電車の63形同様、戦時設計と言われる構造であったため代用部品や、設計の簡略化などが行なわれており、実際にD52形蒸気機関車では走行中にボイラが爆発して、機関士が死亡するといった事故が発生しています。 そこで、これら機関車の標準化改造行なうとともに、一部は増えつつあった旅客輸送に転用するため、昭和22年頃から貨物機関車を旅客用機関車に改造する工事が行なわれることとなりました。 現在、日本最大の機関車として、今も人気の高いC62形蒸気機関車は、D52形のボイラを流用した蒸気機関車です。 また、それとは別に、戦前は国防上の理由で、電化が制限さ...
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昭和25年3月、東京~沼津間に80形電車による運転が始まりました。これまでは電車といえば近距離での輸送が常識を覆すものでした。 現在も使われている、オレンジと緑の塗り分けは、茶色若しくは黒しか見たことが無かった人々には驚きの目を持って迎えられました。最も当初は赤味の強いオレンジ色であったため後に修正したと言われています。 また、湘南地方の蜜柑の色を表現したと言うのは、後からつけた理由であり、本来はとにかく明るい色を・・・と言う理由から選ばれたそうです。 この電車、当初の計画では15両編成+荷物車の最高16両編成が東京~沼津間を60分間隔、小田原までは30分間隔(ラッシュ時は15分間隔)で運...
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昭和25年からは、貨物輸送についてもサービス改善が図られ、小口貨物輸送専用のワキ列車が、汐留~梅田間および吹田~門司間に設定され、汐留~門司間で65時間から43時間に大幅に改善されました。 改善の動機はドッジ・ラインによる縮小経済で貨物輸送が減少したことと、トラック輸送や船舶輸送の復旧が進みサービス改善に迫られたことも原因としてありました。 その後、朝鮮特需で需要は伸びたが、ピークを過ぎると貨車の遊休が目立つようになったので国鉄では、サービスアップと貨車の有効活用を図るために、昭和27年9月から小口貨物の速達輸送を図るべく。「急行小口扱」を新設、貨車にも「急行便」の文字が書かれた専用貨車...
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講和を獲得後日本は、国際的には独立国となりましたが、まだまだ10年戦争による疲弊は続き未だ国民の生活は豊かなものではありませんでした。 しかし、昭和30年代に入ると、次第に戦後復興と言われた時代は終わり、昭和29年(1954)からの神武景気、途中で鍋底不況と呼ばれる時期を経て、再び昭和33年(1958)からは、岩戸景気と呼ばれる好景気が押し寄せ、昭和35年、安保条約改正の責任を負う形で辞任した、岸内閣に代わって、池田内閣が組織され、所得倍増計画に見られるように、国民全体が、より豊かな生活を目指して行くことを目指し、経済が活発化していきました。 こうした好景気のおかげで、鉄道輸送も輸送量は右肩...