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モデル線の建設東海道新幹線の建設に際しては、初めてのケースであり十分な安全性や問題点を洗い出すために、一部区間を早期に完成させる必要がありました。モデル線区とされた区間は、神奈川県綾瀬市~小田原市鴨宮の間であり、昭和35年4月に路盤工事に着手し、鋭意工事が進められたそうで、一部家屋の移転が遅れたという記述もありますが、昭和37年37年3月までに路盤工事が完成、3月15日からは新幹線の軌道及び電気工事の起工式が鴨宮軌道基地で挙行されました。また、4月20日には、新幹線用の試作電車第1号の試験調査及び乗務員の養成を行なう目的で、鴨宮にモデル線管理区が設置されて、5.23 には、モデル線での試験計画...
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長らく、更新が滞ってしまいました。申し訳ございませんでした。本日も、新幹線建設に関するお話を少しだけさせていただこうと思います。古い資料などを参照していますと、面白い記事を発見することが出来ます。複数の停車駅候補があった東京新幹線の始終着駅について、もちろん検討されているのですが、当時の資料を参照しますと、東京側の終点は、停車駅の候補に挙がったのは、新宿・原宿・市ヶ谷・品川・汐留・東京など約10カ所が候補地として挙がったそうです。最終的に旅客の乗り換えの便を考えて東京駅になったとのことですが、八重洲口駅に関しても書かれていて、次のように書かれています。鉄道技術昭和35年8月号を参照しますと、「...
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新幹線の技術開発昭和35年交通技術に資料を参照しますと、新幹線開発に際して色々な技術開発が行われたようです。その中で、個人的には知らなかった試験等がありましたので、少し書きだしてみたいと思います。1)猫耳実験が新幹線開発で行われていた。猫耳新幹線と言えば、E954形電車(愛称・ASTECH 360 S)が有名ですが、東海道新幹線開発に際して、模型実験ですが、風洞実験を行ったそうです。概要としては、車両限界内で車体断面積の25%にあたる 抵抗板を取り付け、空気抵抗の増加や車体に付加される縦揺れモーメント、車体の、周りの流れの状態を調べたと書かれています。ここでの実験結果は今後資料を探してみたいと...
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はじめに連日、踏切事故などの硬い話題ばかり続いていましたので。今回から新幹線開業までのお話をさせていただこうと思います。今回は、新幹線の貨物輸送ということでお話をさせていただこうと思います。現在の新幹線は、0:00から6:00までは原則的に新幹線は走行せず、その時間帯は線路の保守に充てられることになっていますが、計画段階では貨物列車の一部も新幹線で夜間に運んでしまおうと言う計画がありました。最近の資料では、夜間の貨物輸送は世界銀行から借款を得るための口実だったとか、実際には貨物輸送を実施する気が無かったのではないかという記述もありますが、当時の交通技術と言う雑誌を読む限りでは、本気で新幹線によ...
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増える自動車登録台数と踏切事故昭和30年代の経済成長は、旅客並びに貨物輸送の増大に伴う輸送力増強や。投資不足に伴う数々の事故を発生させたほか、経済の発展は自家用車の登録を増加させていきました。踏切事故件数および自動車台数を見ていただくとわかるのですが、昭和31年以降急激に伸びていることがわかります。弊サイトでは、当時の事件事故を年表にしていますが、昭和30年代は無謀運転のトラックや乗用車の他、バスとの接触事故などが後を絶ちません。特に踏切事故では自動車の乗員が死亡する等悲惨な事故になる場合が多く、その対策は急務とされましたが、踏切対策以前に輸送力の増強に追われていたため。その整備は後手に回るの...
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高度経済成長と輸送力増強 第5話 鶴見事故一昨日は、三河島事故のお話をさせていただきました。三河島事故の場合、国鉄の事故報告書では本線への合流前に信号を無視したことで機関車が安全側線に進入、本線を支障した、となっています。当時の部内誌などを見ますと、出発信号並びに場内信号のいずれも無視したと言う記述も見られます。二回の停止現示をいずれも見落としたと言うことになります。おそらく、当時の国鉄線などという雑誌に書かれているように、出発信号機を見落とした上、場内信号機を通過したという可能性は捨てきれないと思います。こうした事故が起こった場合、それまでに潜在的な問題があったと思われます。いわゆる、ハイ...
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昭和36年からの第二次長期計画は、車両の増備を中心に輸送力増強に努めたのであるがそれでも経済の発展に追いつけず、慢性的な輸送力不足を呈しており、複線化が急がれていたのですが、昭和37年5月に、国鉄にとっては悪夢のような事故が起こりました。死者160人、重軽傷者296人を出す大惨事、三河島事故でした。当時の概要は、既に多くの記事等でご覧の方も多いかと思いますので、詳細な解説は省略しますが、貨物列車の乗務員が信号を見落として本線に進入、安全側線に突入したが止まりきれずにそのまま本線を支障、そこに上野発、取手行き電車(2117H)が接触 1.2両目が脱線して、今度は対向線を支障、乗客はドアを開けて線...
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第二次長期計画は、主に車両の増備等がメインであったと昨日は書かせていただきました。特に電車や気動車の投資効率が高かったため、国鉄は積極的にそうした車両を投入していったわけですが、YouTubeを検索してみますと昭和35年の高崎線の列車通勤風景が写った動画がありました。調べてみますと、高崎6:05発上野行きで、上野着は8:25で休日運休の客車列車だったようです。その5分前並びに11分後にも上野行きの列車が走っていますが連日このような混雑だったのでしょうか。少し興味はあります、併せて当時の時刻表を貼らせていただきましたので併せてご覧ください。少なくとも、高崎線に限らず、中央線などでもその問題は大き...
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昭和36年度を初年度とする第2次5カ年計画は、当初の投資総額が9,750億円という巨額であり、その概要は下記の通りとなっていました。第2次5箇年計画の内容は,次のとおりです。 (1) 東海道線に広軌鉄道を増設すること。 (2) 主要幹線区約1100キロを複線化し,150キロの複線化に着手すること。 (3) 主要幹線区を中心に約1700キロの電化を行い,これを電車化すること。 (4) 非電化区間および支線区の輸送改善のために約2600両のディーゼル動車と約500両のディーゼル機関車を投入すること。 (5) 通勤輸送の改善のために,約1100両の電車を投入するとともに,駅その他の施設を改良すること...
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本日から、国有鉄私見として第2次5カ年計画についてお話をさせていただこうともいます。高度経済成長と輸送力増強 第3話 第2次5か年計画と国鉄 http://jp.bloguru.com/jnrerablackcat/311526/5 も併せて参照していただければ幸いです。昭和32年から始まった5カ年計画は、主に老朽資産の取り替えなどを中心に行われましたが、人件費の高騰などで計画予算が枯渇したこともあって、計画自体を変更せざるを得なくなりました。【これに関しては国鉄だけに帰属する問題では無く、国民経済成長に国鉄の輸送力が追いつかなかったという側面もありました。】一般に資料などを見ていますと、資金...