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"#社会史"の検索結果
  • 昭和43年、民間からの提言 国民のための輸送公社構想

    久々に更新させていただこうと思います、昭和42年に世界初の寝台電車が誕生するのですが、この頃の日本は、高度経済成長時代と言われる時代であり、特に昭和40年から始まった、 「いざなぎ景気」と重なる時期でした。個人の可処分所得が増大して、自動車やクーラーや電子レンジなど現在の生活必需品とも言えるモノが普及しだした時代でした。この頃は、国鉄は増え続ける旅客輸送、特に通勤通学輸送に翻弄されることとなったのです。当時計画されたものとして、昭和41年度を初年度とする、通勤5方面作戦や、関西圏における複々線区間の延伸、東北本線の青森までの電化など、先行投資が積極的に行われていました。これらの建設経費は全て国...
  • 世界初の寝台電車登場 第3話

    583系電車誕生の頃世界初の寝台電車は、昭和42年12月のダイヤ改正で誕生しますが、この列車が誕生したのは、寝台列車は昼間休み、逆に昼行列車は夜は休むのを避けることがその目的でした。最初に投入された「月光・みどり」の場合は、博多と大分で検査が出来るように時間を取ってありましたが、配置区の向日町には着替えを取りに戻るような感覚で、寝台車と座席を変換したら出発・・・そんな感じでした。寝台の走行中に完全な解体はどうだったのか、回想の旅客車を参照しますと、走行中には原則として寝台の解体は完全に行わず、中段を途中まで跳ね上げられるようにバンドを用意したと記録されています。当時の寝台使用時間は19:00...
  • 世界初の寝台電車登場 第2話

    昭和42年10月、世界初の寝台電車が誕生しました。最初に投入されたのは、大阪~九州間を結ぶ、寝台特急「月光」、昼間は特急「みどり」号として運転されました。時刻表を参照しますと昼間は、下り列車は、特急みどり号として、新大阪を9:30に出発大分に19:35着、上り列車は大分を9:30に出発。新大阪に19:47に到着、その後寝台車の準備を行い、23:30に新大阪を出発、博多の翌朝の9:20着、夜には19:45に博多を出発、5:45に新大阪に到着するダイヤでした。この列車の特徴は、下り特急の「みどり」が新幹線に始発列車を受けて大分に向かうと共に、下り寝台特急の「月光」が新幹線最終の列車を受けて博多に向...
  • 世界初の寝台電車登場 第1話

    寝台電車誕生の背景昭和42年10月の改正で、世界初の寝台電車が誕生した。これは、寝台車が昼間は遊んでしまう状態であった、高速道路も東名・名神以外は高速道路も整備されておらず、陸上輸送の基本は国鉄に委ねられている状況であり、効率的な運用行える夜行列車の存在が検討されていた。また、国鉄側の問題として、高価な車両が夜もしくは昼間は遊んでしまうことは勿体ないので、鉄道車両という高価な財産を有効かつ、合理的に使用し、車両基地の設備も充分に活用することが出来るように計画されたのでした。交通技術 42(1967)年5月号から引用 電化がもっとも進んでいる東京~九州問は、まさにこの例のとおりで、山陽線の昼間の...
  • みどりの窓口と、端末機の話

    みどりの窓口は、昭和40年10月のダイヤ改正で拠点駅152駅及び、交通公社(JTB)拠点83営業所に設置されたそうですが、全ての駅並びに、交通公社に端末機が配置されたそうでは無いそうです。交通公社は81営業所に、108駅に端末が設置されたものの、44駅は窓口はあっても従来通り電話で近隣の端末がある駅に照会をかける方式のようです。なお、当初設置された端末は337台と書かれておりますので、全ての駅に複数台が並んでいた訳ではなさそうです。余談ですが、国鉄の駅に設置する端末機の場合は鉄道電話網を使っているので、問題は無かったそうですが、交通公社に設置した端末に関しては電電公社の回線を使うため、回線の種...
  • みどりの窓口の開設 設置編

    現在でも駅で指定券を購入する場合「みどりの窓口」というカウンターがあります。(JR東海は、「きっぷうりば」としており、みどりの窓口自体がJR東日本の登録商標であることが関係していると言われています。それ以外のJR各社及び、JRから第3セクター鉄道に変更された鉄道等で「みどりの窓口」という名称が使われています。「みどりの窓口」の発祥は、門司鉄道管理局と言われており、全国に先駆けてはじめた国鉄セールスマンによる団体旅行勧誘に始まるとされています。当時、小倉駅、博多、佐賀、佐世保、後藤寺の各駅に1人ずつ配属されたが、小倉駅の助役が第一号で、現在の「みどりの窓口」の発案者の1人でもあるとwikiped...
  • 東海道新幹線開業 開業1ヶ月後の状況

    本日は、東海道新幹線開業の様子ということで、部内誌、国鉄線という雑誌の記事の中から参照していこうと思います。開業1ヶ月の通信簿は下記の通りでした。ただし、東京オリンピックの開催もあったので、この数字が全てでは無いということで、割り引いて考える必要があるとしています。1)新幹線の予約は低調だった?新幹線開業前は予約が比較的低調で、開業後が心配されたそうですが、開業と共に人気が高まり、10月中旬には、「つばめ」「こだま」当時と劣らない乗車効率を示したと記述されています。2)初月の収入は予想を下回った。輸送人員は、予測通りであったが平均乗車キロは計画の9.7%減、それにつれて輸送人キロも11.4%の...
  • 東海道新幹線開業前、世論はどうだったのか?

    気がつけば2ヶ月も更新しないままになっていました、さて今回も引き続き新幹線開業前後のお話から始めさせていただこうと思います。少し当時雑誌などから拾った記事と言うことで、新幹線開業前の世論はどのようなものだったのでしょうか。これによりますと、新幹線開業前に、京都で新幹線を撮影しようとしたのか否かは判りませんが、桂川橋梁で7月17日に高校生が上り電車と接触して死亡したと言う記事が出ていますし、それ以外にも開業前に滋賀県内で、ガスボンベが線路上におかれてこれを跳ね飛ばした事件【年月は不明で今後調査の必要あり】や置き石事件などが報告されており、開業までの線路への立ち入りを禁止するための措置として防護柵...
  • 東海道新幹線開業前、東海道新幹線支局誕生

    東海道新幹線は、東海道線の別線として計画され、また国鉄部内でもあくまでも東海道本線の線増部分であるという認識をなされていたようで、新幹線開業前の昭和39年4月までは新幹線局という一部局に過ぎなかったようですが、4月に入って、東海道新幹線支局が誕生しています、その理由について、昭和39年6月の交通技術を参照しますと、新幹線支社は、従来の支社と同様の権限を持つ組織として誕生させる事としたとされています。少し長いですが、引用させていただきます。東海道本線(新幹線〉を管理運営する支社東海道本線(新幹線〉を管理運営するための組織として、東海道線新幹線支社が、本年4月1日をもって設置された。新幹線は、10...
  • 新幹線開業前 試作車1000形のお話

    新幹線1000系は2種類が試作されました。これは、すれ違い試験の確認を行うためのものであり、最小編成として2+4両で計画されました。本日は、この2両が製造され前に検討された仕様書について当時の資料を参照しながら説明を加えていこうと思います。新幹線車両の概要なお、車両の製作には下記のような条件が定められました。当時の1961-08_交通技術を参照しますと概ね下記のようになっています。抜粋しますと。1)車体幅 約3,350mm2)高さ  レール面上3、950mm3)車体長さ 自連間長さ25m 「車体長さについては特に規定はないが定員乗車時の車両重量を60tにおさえることになっているため、おのずから...
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