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約1ヶ月ぶりの更新となります。国鉄改革の方策として期待された、生産性運動は、確実に国鉄の職場を変えていきつつある雰囲気でした。それは、組合員の数にも顕著に現れていきました。生産性運動は、国労・動労組合員の脱退を加速させた国労・動労を脱退して、鉄労に移籍する組合員が増えていったのです。ストライキを容認する、総評系の国労・動労総評を上部団体とし、ストライキを容認する、国労・動労動労は機関車乗務員ならびに関連する職場の職員のみを組合員とする単一組合であり、国労が非現業から、駅、乗務員などをすべて網羅する職場であったことが大きく異なります労使協調路線を標榜する、鉄労昭和32年の新潟闘争を経て非現業系の...
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圧倒的な成果を上げていった生産性運動マル生運動は一定の成果を上げる事に成功し、職員の中にはマル生運動後積極的に改善活動に参加したり、職場環境改善のための整備を始めるなどの一定の成果が見られました。この辺は、動労の松崎委員長も、「国鉄動力車」松崎明・谷恭介共著で下記のように書かれています。国鉄労働者の中・高年層は、その殆どが高等小学校(現在の中学校程度)を卒業して国鉄に就職している、実際、国鉄の場合は本社採用のごく一部のキャリアと呼ばれる人以外は管理局採用で有り、試験によらず臨時雇用員等で採用され、そのまま本採用になる人も多く、これは現業機関で有る郵便局でも同じようなものでした。特に小さな郵便局...
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話は、前後しますが。やはりマル生運動に関して、概要を書いておかないと延滞が見えなくなると思いますので、簡単に時系列を書かせていただきます。生産性運動【マル生運動】とは昭和45年4月から始まった運動で、昭和46年10月には中止に追い込まれた運動簡単に時系列を示します。昭和44年11月 運転指導者研修【試行的な生産性運動の導入】昭和45年4月 生産性運動開始この後、国鉄でも生産性本部だけでなく、生産性本部のカリキュラムに沿った形で生産性運動を開始昭和46年 9月頃~国労がマスコミを使った反マル生キャンペーンを開始、昭和46年10月 磯崎総裁、国会で陳謝、マル生運動は中止に追い込まれることになるマス...
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2か月ほど放置状態になってしまいました、こうして改めて記述をしようと色々と調べていきますと、私の無知を改めて知らされることとなります。まぁ、その都度blog等は修正していくことになりますが。色々と面白いことが見えてきました。国鉄では、新幹線整備計画が昭和46年1月に決定しますが、国鉄の赤字は引き続き継続しており、国鉄再建問題は待ったなしとなってきていました。国鉄としては、抜本的な再建を目指すため、部内的には生産性運動が行われ、外部的には、国鉄再建法案を国会に提出することになり、昭和46年3月12日に提出を試みますが、提出は見送りとなりましたその内容は以下のとおりでした。弊サイト国鉄があった時代...
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全国に新幹線を敷設しようとする膨大な計画全国新幹線鉄道整備法は、日本全国に高速鉄道(新幹線を建設しようという構想で、現在の整備新幹線構想の基礎となっているものです。決定までの流れ当時の政府が掲げていた、「経済社会発展計画」に呼応して国鉄が太平洋岸縦断新幹線(盛岡~博多間〉を提案したのが始まりで、その後以下の時系列に示すように、計画が修正、肥大化して行きました。昭和41年9月 経済社会発展計画(目標年次昭和47年)に対応して、経済審議会社会資本分科会に国鉄は「太平洋縦断新幹線(盛岡~博多間〉」ならびに「首都圏高速鉄道網」の構想を提案し、その計画に織り込まれた昭和42年9月 国鉄は、自民党都市政策...
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前回は、宿泊でお寺に泊まることが出来ると書かせていただきました。改めて、もう少し詳しく書かせていただこうと思います。2年目のキャンペーンと言うことで、かなり新しゅう取組が行われていることが窺えます。丁度、国鉄ではマル生運動も始まった頃であり、若手の国鉄職員を中心に国鉄を変えようという意識があった飲も...
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万博輸送その後の計画されたキャンペーン国鉄は1970年10月に万博終了後の旅客確保対策として、個人旅行拡大キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」が開始されましたこのキャンペーンの目的は、経済成長により可処分所得が増えたことや、万国博覧会を経て、個人旅行の機会が増えたこと等から更なる旅行者の誘発を目的...
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首都圏から蒸気機関車引退新鶴見操車場から横浜港を結んでいた、高島貨物線が電化されるのに伴い、それまで使用されていた蒸気機関車が廃止になることに伴い、昭和45年10月10日、11日、18日に東京駅~横浜港間をD51形蒸気機関車が牽引する旅客列車が走りました。東京駅に、蒸気機関車が入線するのは、13年ぶりだそうで、客車6両を牽引してD51791号機が走ったのでした。夏期の当日の記録を残した貴重な写真が上がっておりましたので、リンクを貼らせていただきます。東京でサヨナラ蒸気機関車上記動画:引用 NHKアーカイブスこの運転を最後に首都圏では一足早く蒸気機関車が姿を消すことになりますが、むしろ昭和45(...
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万博輸送後のダイヤ改正大阪府吹田市千里丘丘陵で開催された、日本万国博覧会(Japan World Exposition, Osaka 1970)は、1970年3月15日から9月13日までの183日間開催され、アジア初かつ日本で最初の国際博覧会として開催されました。期間中の入場者数は、6,421万8,770人(うち外国人 約170万人)であり、当初目標が3000万人であったので大成功を収めました。国鉄も、輸送力増強で応えた他、茨木駅を万博東口として、バス輸送を行ったほか、新幹線の16両化、12系客車に見られる、波動用客車の増備などが行われました。12系客車の話はまた別の機会に詳しくさせていただき...
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ユニークな臨時列車万国博覧会向けに、ユニークな列車が運転されました、大鉄管内だけで見ますと、「万博号」の運転と言うのがあります。国鉄線という部内雑誌に出ていたのですが、大阪鉄道管理局管内の小・中学校生徒を中心に計画輸送を行なうため、河瀬・姫路間に毎日三往復の臨時モデル電車(快速型)を運転となっています当時の時刻表を参照しますと、愛称は、「万博号」となっています。時刻表を参照してみますと、河瀬始発の快速電車が万博1号として、河瀬7:39に出発、新大阪9:16着という列車が運転されています。同じく、姫路方面からの列車としては、姫路発7:50 茨木9:42着の万博2号が運転されています。これ以外にも...