高度経済成長と第2次5カ年計画 第3話 慢性的な輸送力不足
1月
5日
特に電車や気動車の投資効率が高かったため、国鉄は積極的にそうした車両を投入していったわけですが、YouTubeを検索してみますと昭和35年の高崎線の列車通勤風景が写った動画がありました。
調べてみますと、高崎6:05発上野行きで、上野着は8:25で休日運休の客車列車だったようです。
その5分前並びに11分後にも上野行きの列車が走っていますが連日このような混雑だったのでしょうか。
少し興味はあります、併せて当時の時刻表を貼らせていただきましたので併せてご覧ください。
少なくとも、高崎線に限らず、中央線などでもその問題は大きくクローズアップされ、101系電車などが優先的に投入されたことからもその混雑が大きかったことがうかがえるのですが、当時の昭和35年の国鉄監査報告書を参照しますと、昭和36年度も35年度の引き続き毎年旅客で6%の伸張、貨物輸送にあっても昭和35年度8%、昭和36年度7%と毎年増加し続け、貨物輸送も活発化していた時期でもありました。
特に吹田操車場などでは、ヤードに到着する貨車を捌いても捌いても次から次へ貨車が到着して向こうが見えなかったと言われるほど貨車の到着が多かったと言われています。
また、旅客の嗜好にも変化が見られ、より速い列車を選択する傾向が高くなったことから積極的な優等列車の増発がはかられる反面、投資のための費用を自ら生み出すことを目的として運賃値上げが昭和32年と36年6月運賃が改定されていますが、多少の運賃値上げによる旅客収入の伸びに鈍化が見られましたが、概ね右肩上がりの順調さを示していましたが、それでも高崎線の上記列車に見られるような痛勤も有ったようですし、程度の差こそあれ多くの列車が満員で、年末などの繁忙期では、列車に乗るために前日から駅の待合で過ごし、ダフ屋【今で言う転売屋】が跋扈する、そんな時代でした。
年末やお盆の時期には上野駅や大阪駅ではテント村なる待合施設が出現し、季節の風物詩として話題になったものです。
しかし、国鉄の輸送力増強施策は、国の経済成長にはなかなか追いつけず、特に自動車の発達による踏切事故の多発は、鉄道事業者にとっても頭の痛い問題でした。
当時の運輸省の考え方は、鉄道は地域独占の事業であり踏切の整備等はすべて鉄道事業者の責任とされており、そうした対策への費用も振り向けざるを得なかったのですが、さらに昭和37年には、三河島事件という大きな事故を国鉄は起こすことになるのですがこの辺は、明日またお話しさせていただきます。
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