予想通り、南西の風が北西へと回った。先日の旅のクライマックス=「嵐の激走」写真が、チームを組ませていただいたエヌケイエス株式会社の松尾社長から送られてきた。厳しい状況の中で撮影された写真の臨場感は、最高の思い出だ。次の旅でも暴れましょう!
写真上は、嵐の前の出発の朝。この後、強風と雨の中でさまざまな風位を操り、波を切り裂きながら40km以上を進むことになる。写真下は、最終日明け切らぬ朝。本島の明かりが見える島から。困難を乗り越えた勇者たちは、まだ眠っている。カヤックリグの性能がどれほどかは、後日どこかに記録することにする。
カヤックの特長を生かしたまま、圧倒的な距離を稼ぐ。今までとは、違う景色を見ることはできるが、いつもの旅のスタイルはほとんど変わらない。カヤックの経験があれば、1日のレクチャーで、ほとんどの人が操作できるようになる。ダグと忠さんは、本当に楽しいものを作ってくれたものだ。より風の力を得る為に、リーフを越えて進む。外の波への恐怖感も少なくなった。
カヤックに装着されたセーリングキット。海図、アクエリアス、黒ウーロン、カメラケース、そして航海中のトイレはアップルジュースのパックだ。カヤックのダブルパドルは使えないので、シングルパドルを使う。僕らは、サバニのエークを使うことにしている。カヤックでありながら、風を操る。今回の旅の魅力はそこにあるのだ。
フェザークラフトにサバニ型のセールを装着して風を操る。いよいよ、日本で初めてのセーリング・カヤックによるツアーが沖縄カヤックセンターの主催で、今日始まる。僕も多くのテストに参加してきただけに、感慨深い。2003年7月。僕等は、沖縄本島から奄美大島までをカヤックを漕いで渡ろうとしていた。伝説のスーパー・ロング・ディスタンス・ツアーだ。旅の途中、あまりの過酷さに、沖永良部島で1日の休息を必要とした。徳之島の南では予想より潮の引きが激しく、リーフからの脱出に失敗!多くの艇が修理を必要とした。そのため、翌日は2日分を漕ぎ進む必要に迫られた。その距離約60km。そのとき、ホーボージュンと伊東画伯が何やら作り始めた。タープとグリーンランドパドルで作った、スピンネーカーだ。「60km進むぞ!おー!」結局この作品が使われることはなかったが、僕らが風を操ろうと考えた原点はここにあるのかもしれない。
ニヌハチームの練習風景。今日は、参加4人のみ。先日忠さんが船体中央部分を片側1.5cmほど広げた。その挙動の確認と、漕ぎの練習が今日の目標だ。乗員の条件などの不確定要素を考慮しても、船体のバランスは良いようだ。まずは、浜比嘉島を一周。午後は無人島である浮原島までの距離を往復した。途中、この艇になって初めて、レーススピードの漕ぎを入れてみた。なんとか、バランスは保てるようになってきたようだ。しかし、この状態で帆を上げると。。。課題は残るが、今回の練習会は無事終了した。そうそう、片側エークで左右の舵を取る練習もバッチリできているのだ。これで、レース完漕が見えてきたかもしれない。
諦めかけていた、マーラン船のドラマが始まるかもしれない。マーラン船の定義や歴史に関しては、いずれ忠さんに語ってもらうことにしよう。ここ数年、サバニを追いかけ続けた僕らのドラマは、下門氏という船大工に出会い、究極とも言えるニヌハ3を建造していただいた。チームは今、それを乗りこなす技を習得中なのは、過去に記載したとおりだ。しかし、もっと大がかりなマーラン船となると、いっこうにその実現方法が見えてきていなかった。もちろん、多くの人が究極だと信じるいくつかのキーワードやキーマンにはたどり着いた。しかし、模型ではなく本物を復元するとなると、知れば知るほどにマイナス要素が浮かび上がり、現実的に不可能と判断せざるを得ない状況だった。沖縄サバニが消えかけた文化であるならば、沖縄のマーラン船は1世紀前に消えた文化のように思えてきたのだ。4/5古式サバニ「ニヌハ3」の練習会。二転三転したスケジュールではあったが、少々遅めに出発して浜比嘉島を目指していた。沖縄カヤックセンターのワンボックスには、独特のオーラを放つニヌハ3のトレーラーを牽引している。途中、選手交替に使用するゴムボートを探しに、マリン屋を訪問している時の事だった。車に戻ると、一人の中年男性がニヌハ3の船底を食い入るように覗き込んでいる。聞けば、トレーラーに積まれたサバニを見て追いかけてきたのだという。その彼に、しばらく話を聞くことにした。彼は、「この船は、まだ軽くできる」とアドバイスをくれるなど、サバニに関して専門的な知識があるようだ。聞くと、「ヨットの設計」をしているのだと言う。話題がサバニからマーラン船の内容になり、彼の目が輝いた。彼が印刷して持っていた資料の中に、伊東画伯によって描かれたマーラン船のイラストがあった。彼は伊東画伯のブログに情報を寄せてきてくれた、カマデー氏その人であることがわかった。カマデー氏は、伊東画伯の書き込みの中にある「沖縄・浜比嘉島にて、古式サバニを乗りこなすトレーニング」という情報を頼りに、ここで僕たちを探し続けてくれたのだろう。今日の練習には参加できなかった伊東画伯に電話をかけて、カマデー氏と会話をしてもらう。カマデー氏によると、この世に正統なマーラン船を造ることのできる男が3人居るのだという。その中に新たなキーワードがあった。僕らが知り得なかった驚愕の内容だ。僕は大阪に戻り、ネットを駆使してあまりにも断片的な情報を繋げた。2003年に他界した3代目、沖縄の伝説の船大工「越来文治」氏には、技術を継承した息子がいたのだ。長男「越来治」氏、カリフォルニアに在住。Sam Goekuと名乗り、父である文治氏のマーラン船を「Bunji Yachts」の屋号を持つファクトリーで作り続けている。ファクトリーでは、何艇ものマーラン船が同時に建造されているのが判る。僕たちは、カリフォルニアへ向かうことになるのだろうか?このドラマが終わらないことを、心から願いたい。
ニヌハ3でのトレーニング。漕ぎ手も練習ならば、舵取りも練習だ。忠さんは、舵取りと帆持ちを一人でこなすつもりらしい。漕ぎ手を左右均等に配置する為には、乗船人数は5名となる。バランスは徐々に良くなってきた。やっと、エイクに力が入れれるようになってきた。僕の筋肉も、やるべき仕事を理解し始めたようだ。忠さんに作成してもらった「パワー・エイク」は、強靭な筋力を要求する厳しい道具だが、このまま練習を続ければ使いこなせそうな気がしてきた。ともかく、にいぶい村から浮原島まで漕ぎ進むことができた。下門おじいが作った「遠くへ行くためのサバニ」は、平坦な海では神経質にふらつくが、波の中では安定感が増す。波の中を進むニヌハ3は「水を得た魚」なのである。今回は、その片鱗を見た。おじいが詰め込んだ隠された力は、まだまだあるに違いない。それを引き出すために、今日も練習だ。
ニヌハ3用に忠さんが新しく作成した座板で、ポジションの確認をする。漕ぎのポジションについて、お互いの持論を展開した。とうとう艇をキャリア積んだまま、忠さんと漕ぎのシミュレーションが始まった。結果的に、表現方法は違うもののかなり近い意見のようだ。「自己は主張せよ、主張せぬは卑怯と心得るべし。」「論は尽くせ、決定は遵守せよ。」今年の艇長は忠さん。意見はするが、もちろん決定に異論はない。ニヌハチームは今年も熱いぜ!