<志賀直哉>京都時代の旧居解体・売却@京都市北区
8月
14日
旧居は北野白梅町交差点から南西約200メートルにあり、1910年代に衣笠村(当時)に郊外型住宅として開発され、文化人が多く住んだ「衣笠園」の一角にあります。<志賀>は新婚間もない1915(大正4)年1月に移り住んでいます。実父との確執が激しい時期で妻も神経衰弱になり、わずか4カ月余りで退居し京都を離れました。
この時期の日記は全集未収録で、詳しい暮らしぶりは分かっていません。ただ『暗夜行路』では、自らを投影させた主人公の作家「時任謙作」と妻「直子」が新婚生活をスタートさせた家として登場。「二人は衣笠村にいい新建(しんだ)ちの二階家を見つけ、其所(そこ)へ引移った」との描写に始まり、幼い長男の死や「直子」を襲った悲劇の舞台として、たびたび描かれています。
2階の書斎は「机を据(す)えた北窓から眺(なが)められる景色が彼(謙作)を喜ばした。正面に丸く松の茂った衣笠山がある。その前に金閣寺の森、奥には鷹ヶ峰の一部が見えた」と綴られ、志賀自身も創作の場として使っていたことをうかがわせます。
<志賀>が退居後はしばらく賃貸住宅として活用。1930年代半ばに入居した男性(故人)が戦後に土地と建物を購入しました。その後長く暮らした男性の長男も昨夏に亡くなり、空き家になっていました。
京都では明治末期ごろから近代的な郊外型住宅が登場し、北白川や岡崎、下鴨などに先立ち、「衣笠園」が宅地として造成されました。とりわけ知識人階級を意識して貸し出され、<志賀>をはじめ、日本画家の<土田麦僊>や<宇田荻邨>、後には映画関係者も住み、戦前には「芸術村」と目されていました。
<志賀>の旧居はインテリ層向けの近代和風住宅の原型である上、北山杉を用いた数寄屋風の意匠や土間といった農家風の空間を備えるなど多様な住宅的な要素を併存させています。建築から100年以上がたって往時の建物が消えゆく中、文学史上の価値はもとより、近代の建築史や京都の都市史を考える上でも貴重な建物といえます。