《“「線状降水帯」被災された各地の皆さん、お見舞い申し上げます”》
九州から日本海に面した各地、豪雨が度々、言葉をもてません。
夏も愈々終わり。。。!!そして早くも秋雨前線が現れたり。。。
気候がずれたり、植物の開花が変動したり。時は流れていると感じる。
頭痛事が、内外で。。。「日本」ってそんなに酷いか!?!と絶句。
終戦後を知る団塊世代。同年代の異国の友は、日本を悪く云わないが!!
「謙譲の美徳」等と云っておれない。世知辛く想うは、僕だけか??
《時節・_・襍感⇔“今夏の自分を想う”》
今年の夏、僕にとって「駿河国」を想う・・・良い機会の旅を持てた。
強印象だったのは、三島市内で出会った托鉢・修行僧の人々。
托鉢僧、子供の頃より慣れ親しんだ事象(鎌倉、建長・円覚寺の托鉢僧)。
「施財の偈(せざいのげ)」という非常に短いお経を唱えて礼する。
こんな光景は、珍しいことではなく、当たり前の事であった。
施財、お布施を頂くということもあるだろうが、修行僧の行であろう。
時折、拙宅の門前で立ち止まり経を唱えて頂く、読経の響きは心地よい。
ある時、家の老犬が天星した時に偶然だが托鉢に寄って頂けた。
その折の托鉢僧、丁寧にお経をあげて下さり弔っても下さった。
鎌倉では、珍しいことではなく、今でも見かける光景である。
旅先で托鉢僧を拝す。それも白隠慧鶴ゆかりの龍澤寺の僧!!ご縁である。
白隠禅師といえば、「求美則不得美、不求美則美矣」を思い起こす。
《美を求むればすなわち美を得ず、美を求めざるすなわち美なり》
若い頃より古い英国の椅子に関心を持ち、ちょっと勉強もしてきた。
松本の家具研究家でもあった故池田三四郎先生より教えて頂いた言葉である。
民芸の創始者、柳宗悦師著作の「美の法門」に詳しく述べられている。
「美しいものは、美しいものをつくろうと思っては、出来ないものだ。
そう思わなければ出来る」、奥深い哲理である、白隠禅師のことば。
朝鮮の「陶」「木工家具」に、あるがままの究極の美品がある。
が現在の朝鮮ではこうした美品を探すのは中々、むずかしい。
「無の境地」「自由奔放な美」「他力の恩恵」「職人芸!?!」
偶然であった托鉢僧に、初心を思い起こさせて頂けた。
新たなる私考を始めようと考えている。そんな時に出会った「托鉢僧」。
思考の基を固めねば、と強く感じる。
ワオ!と言っているユーザー
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