マンションの5回の廊下の柱が・・・
それでもよくもってくれました。
はやいもので今日で関西淡路大震災から21が過ぎました。当時は私の会社ができて8年、日本お客様から関西が大変なことになっているという電話で日本の両親(芦屋)に連絡をしました。最初は電話がつながったのですが、それから3日間電話が繋がらなくなりました。
1週間後に降り立った日本、電車でなんとか芦屋まで到着しました。「終点芦屋」というアナウンスが妙に耳に残っています。そこから瓦礫だらけでアオリプラスチックシートがかけられた家々の間を抜けて、壊れなかったおばあちゃんの家まで歩いて行きました。まだまだ、震度3以上の余震が続いていました。
最初は電気、ガス、水もなかったそうです。両親が住んでいた高台のマンション(サニーヒル)は全壊ということでなかに入ることもできなくなっていました。マンションの近くの芦屋大学と警察学校の体育館には沢山の棺桶が運び込まれていたそうです。私の行った岩園小学校のグランドには自衛隊が設置したお風呂ができていました。また、芦屋で「神奈川県警」と書かれたパトカーが走っていたのも覚えています。
20年、ふた昔です。私のおばあちゃんも地震の時に頭を打ったことが原因なのか、脳梗塞で数カ月後に逝ってしまいました。当時はインターネットもなくて、大変でした。会社も小さくて私は何もしてあげられなかった。悔しかった。それが一生懸命仕事をしている理由なのかもしれません。
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