【Day426】「競馬」から学ぶアドラー心理学
12月
29日
つい先ほど、2022年の「有馬記念」が終わった。
私も、妻も、子どもたちの予想は、すべて想定外の展開で、イクイノックスが先頭でゴールを駆け抜けた瞬間、興奮で盛り上がっていたテレビの前は、一瞬で静寂に包まれた。
本命の「タイトルホルダー」は、逃げたものの最後は失速して9着。
クリスマス・イヴの夜、家族で明日の有馬記念の予想を家族会議で行った。出走馬の特徴、戦績、さらには馬ごとにどんなストーリーがあるのか? 息子たちからの一通りの質問を回答した後、家族1人ひとりのレースの希望的観測全開の仮説が発表されていく……。我が家としては、競馬を予想する行為は、「共同体感覚」を味わうための大切な時間のひとつなのだ。
今年の競馬もこれで終了。最後は残念だったが、来年こそは、家族全員の笑顔の場面をもっともっと増やしていきたいと心に誓った。
競馬との出会いは、約30年前に遡る。
競馬の魅力にとりつかれた友人から、「競馬場に行かないか?」と突然誘いを受けたことがキッカケだった。その日は、馬券を購入するもカスリもしなかったことを思い出す。ビギナーズラックという概念は、私には無縁だったのか。
その後も友人からは何度も誘われた。当時の競馬場は、今のようなオシャレなプレイスポットからは程遠く、たばこの匂いが充満していて、オヤジ達の「るつぼ」と化していた。汚い。そして臭い。正直言って行きたくなかった。
友人に嫌われたくなかったので、仕方なく付き合った。行く度に、ワクワクして馬券を購入している友人を横目で見ながら、何度も何度も時計に目をやった。
しかし、何日か目で、適当に選んだ馬券が的中したのだ!
確か数千円が1万円以上になり、ギャンブルの魅力をついに知ってしまった瞬間であった。
そんなものである。
その快感を何度も味わいたいと思うようになり、「競馬を知りたい!」という好奇心のスイッチが入り、競馬の勉強を始めることにした。
まずは、レースの特徴を学んでいく。芝とダートのコースがあること。短距離、中距離、長距離と距離にも幅があり、馬のタイプによって、逃げ馬、先行馬、差し馬、追い込み馬がいるということも……。
さらに学んでいくと、競馬は血統のスポーツであることにたどり着いた。調教師や騎手など様々な人間模様があることも理解した。
最初は、馬券を当ててお金を増やしたいという下心だけだったが、競馬の歴史を学び、知識が増えていくことで、競馬はスポーツ観戦の1つとなり、ついには、プロ野球に肩を並べた。
知ることで、今まで見ていた景色が色鮮やかになっていく。
馬券が的中することで、喜びが倍増するのはもちろんだが、馬券に負けたとしても、GⅠなどでドラマティックなレースを見られただけでも満足できた。
競馬を始める以前のオグリキャップやトウカイテイオーの復活劇に立ち会うことはできなかったが、三冠馬ナリタブライアンの復活は体感できた(マヤノトップガンとの阪神大賞典)。
馬が持つストーリーに興味を持つことで、贔屓したくなる馬も増えていく。
推しの馬が出走するレースは、ほとんど競馬場に足を運んで観た。
数年が経ち、推し馬を応援する日々は続いていたが、それだけでは物足りなくなり、雑誌で知った「一口馬主」という制度を利用することになる。
友人と一緒に同じ馬の馬主になったのだった! 500分の1の馬主ではあったが、毎月「餌代」を払うことで、独身のくせに「親心」が育っていった。
地元には、その一口馬主が運営する牧場があり、年に数回は通っていたか。
自分が馬主になっている我が仔を恐る恐る撫でることで、その愛情は深まっていった。さらに、我が愛馬が北海道の牧場に放牧になったときには、気がつけば、北へ向かうフェリーの切符を手にしていた。
最初は、あれほど煙たがっていた競馬だったが、わずか4~5年でここまで「大好き」になるとは自分でも驚いている。
しかし、潮目が変わったのは、自分自身の「結婚」だった。
馬券を購入する機会も減っていき、レースを観るのも、大きなGⅠレースに限定された。自由に使えるお金が激減したことがその理由だ。
結婚して1年後、私にも大切な家族が増えた。双子の息子の誕生である。
息子たちが産まれたことで、一口馬主の世界からも足を洗った。
愛馬の餌代ではなく、今度は、本当の息子達にご飯を食べさせていかなければならないのだ。当然である。
生活は一変した。子どもたちとの関わりはかけがえのない時間だったが、私も妻も、自分達の時間は、ほとんど無くなった。一気に競馬と自分の間に、見えない壁が立ちふさがった感覚だ。
息子の成長に伴走しているときの趣味は、「読書」が中心だった気がする。
息子達が昼寝しているときに、死に物狂いで書を読んだ。世間から取り残されたくなくて、ビジネス書を中心に読み漁った。
そんな中、2014年、1冊の本と出会うことになる。
それが『嫌われる勇気』だった。
アドラー心理学って何だろう? もちろん、初めて聞く言葉である。
当時は、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら』が大人気。ドラッカーが熱かったから、二匹目のドジョウを狙ったのかと疑って読んでみたら、これが目からウロコの話ばかりだった。
『嫌われる勇気』の発売から、さらに5年が経過した。
息子たちも成長し、手が掛からなくなり、少しずつ自分の時間を作れるようになっていった。
数年ぶりに、1人、バイクで競馬場に行ってみた。
久しぶりにやってどうだったか?
過去の経験を活かして、レースを予想してみた。
購入した競馬新聞を隅々まで睨みつけた。
人気にはなっていないが、何か理由があって、直近は結果を出せていない馬はいないか? 本来は実力があるはずなのに、自分の強みを活かせない条件下のレースだったことで、軽んじている馬はいないか?
今まで繰り返しやってきたこと、これは、もしかしてアドラー心理学で学んだ「ヨイ出し」では無いのか!
メディアやSNSを見ていると、いつの間にか、人の「ダメ出し」ばかりが目につく世の中になってしまった。しかし、競馬では、自分の投資先となる馬の良い所に着目し、その点に期待する。過去の自分が無意識の中で「良い出し」を行っていたとは、新しい発見だった。
さらに、予想を続けていくと、注目する馬の前走の敗因分析を行うことになる。ダート馬なのに、本来は芝が得意なのでは無いのか? 短距離適正が無かっただけなのでは? そもそも右回りが合わない? 不良馬場が堪えたのかも? 騎手の仕掛けが速かったのかもしれない。
まさに、その敗因の「課題の分離」が必要になる。アドラー的には、「人称」の視点で分離するのだが、競馬では、先の通り、様々なファクターが存在するため、的確に「課題」を捉えて、切り分ける必要がある。この「課題の分離」を何頭の馬に対して、行っていく必要があったのだ。
さらに、競馬会はGⅠレースを中心に各レースが組み込まれている。
ステップレースという言葉があるように、そのレースでは「メイチの仕上げ」であるはずもなく、60%や70%の状態で出走して、惨敗する場合も多い。
その馬の本当の目的は何かを把握することが大切なのだ。まさに「目的論」の話で、そこを理解する必要がある。その馬の理想の姿を決めているのは、馬主や調教師であるため、彼らのコメント情報に注視する必要がある。しかしながら、レース前とレース後のコメントが180度変わることがあるから注意が必要だ。人の気持ちにもフォーカスしなければならない。本心と嘘を見極める力も問われる。
その日の競馬は、少額投資だったが、プラスマイナス0。
楽しんで予想ができて、さらに損することなく遊べたことで、全レース終了後は、スッキリした気持ちになれた。
さらに10月には、毎年のように日本の馬がフランスの「凱旋門賞」という世界最高峰のレースに挑戦する。普段は、馬券に縁の無い馬であっても、競馬ファンは、全力で「日本」を応援するのだ。
2022年のサッカーワールドカップで「日本」を応援したのと同じように、日本競馬界がひとつになる瞬間である。まさに、それが「共同体感覚」であり、そこには馬主、調教師、助手、騎手、獣医、ファンのつながりや絆がある。
あのディープインパクトでさえ、凱旋門では3着(その後失格となる)であった。日本を代表する馬が、いつの日か凱旋門賞馬となる日を夢見ている。
知ることで、今まで見ていた景色が違った景色に見える。
同じ競馬を楽しんでいるだけなのに、競馬の中に隠れていた「アドラー心理学」を感じることができた。
まだまだ、アドラー心理学の本質にたどり着いているとは言えないが、アドラー心理学が活かせる場面に気づいて、実際に行動することで、その威力を実感することができている。先の例は、ほんの一例に過ぎないと思う。
日常生活に実際に活かせてこそ、本当に意味のある本物の学問だ。
行動がすべて。トライすることでエラーに気づき、さらに改善して、リトライしていく。競馬の世界でも同様だったのだ。
これからも大好きな競馬を楽しんでいきたい。
朝までとことん予想を楽しむのもいいだろうし、競馬が好きな友だちと、ビールなどを飲みながら、単純にレース観戦するのもいいだろう。
一度、好きになったものは、死ぬまで「好き」であり続ける自信がある。噛めば噛むほど味が出る。知れば知るほど、視点が変わり、また違った世界を見せてくれるようになるから不思議だ。
一度読んだ本をもう一度読んでみたとき、たくさん経験をした自分だからこそ、以前とは違った新しい「気付き」が生まれることがある。
あの感覚と同じなのかもしれない。
最後に、競馬を楽しんでいく中で「絶対にやってはいけないこと」を宣言しておきたい。それは、競馬に負けて、お金を失ったとしても、決して自分を見失わないことだ。
そんなときは、アドラー心理学の真骨頂でもある「勇気付け」を自分自身に対して行っていこう。その負けは、きっと明日の糧になる。
ここでも、アドラー心理学が役立ちそうじゃないか!