カナダバンクーバーでIさんと夕食を共にしました。
居酒屋スタイルのレストラン。
厨房に立つ人もウェイトレスなどのスタッフも日本人であるばかりか
料理の質も味付けも全く日本風。
ここおいしいねーいけるねー、
と言いながら小鉢の料理をじゃんじゃんとオーダー。
ここまでおいしいと感じる居酒屋店は
残念ながらシアトル近辺にはありません。
あらためて振り返ってみると日本料理店ばかりでなく他のエスニック料理、
ベトナムでもタイでも持論中華でも、アジア料理で本場の味を出してくれるところは数多い。
バンクーバーに優るグルメタウンは
米国ではニューヨークだけと言うところでしょうか。
ベリーハムにあるクレープショップ。
ここは長女や妻達の大のお気に入りにお店。
だけど今回は私1人で来ているため、おやつのクレープもやはり独り占め。
それでも情け深い私は彼らのことが気に掛かり、これらの写真をテキストメッセージで送ってあげました。
よだれをたらしながら良いなぁ、と感じ入った事でしょう)^o^(
Bellevue にある教会に長男と行ってきました 。
聖歌隊にあるハンドベルの演奏。
かつて三重県にいたときの教会でも使っていたハンドベルと同じタイプ。
その音色はいつ聞いても美しい。
フロントガラスとワイパーの間に封筒が挟まっていました。
やられた、駐車違反切符だ!と思ったのですがそうではなく
それは車両登録料の違反切符でした。
米国では毎年、
車に登録料がかかります。
支払済を証明する小さなステッカーをナンバープレートに貼るのですが、
私の場合は8月までそれの有効期限がありました。
August とあるそのステッカーを見て何ら疑わなかったのですが
なんとそれは昨年の8月までの有効期限だったのです。
今年の8月まで大丈夫だと思い込んでこの半年間運転を続けていました。
Portlandの路上で違反切符を切られ罰金は145ドル。
翌日シアトルで路上駐車していると同じ理由で違反切符を切られてしまい、
ここでは47ドル。
同じ反則切符なのに街によってこれほどにも反則金が違うのはどうしてでしょう? 3倍も違うだなんて、常識破りです。
確かにうっかりしていた私に落ち度があり文句は言いません。
しかし昨年の8月から今日までの半年以上、私も検査官も気づかなかったのに、
2日連続で反則切符を切られるなんて、
とんでもとんでもー。
本日長女が16歳の誕生日を迎えました。
米国ではsweet 16と言って
特別な誕生日なんだそうです。
そこで私たち家族にも特別なものとなりました。
彼女以外の家族は家を追い出されてしまったのです。
彼女が友人たち6人を招いて食事に行き、帰宅してスリープ・オーバーするために私どもが家にいては邪魔だと言うことで追い出されてしまったと言う次第です。
もちろん夕食もないので長男と家の近所にオープンしたばかりの日本レストランSHIBUYA(渋谷)へ行ってきました。
キッチンものや寿司料理それにラーメンも揃っていてメニューは充実。
かつて東京レストランのシェフが作られるそれは納得する出来栄え。
そのシェフの高校生になる息子さんが私どものサーバーとして活躍してくれました。
高校生で父親の手伝いをここまでするとは。。。
よく言われることですが、長女にも爪の垢を煎じて飲ませてやりたいよ〜、もう〜
Portlandで最大のショッピングセンターと言えば
ロイドセンターになります。
その中のある店舗に行くのも今回で3回目。
毎回最寄りの駐車場を探すのですがモール内に入ってみると
かなりの距離を歩くことになったりします。
地元ベルビュースクエアと比べたら人並みは無いに等しく空いています。
天候の悪い日にウォーキングのコースとしては最適です。
本日夜、長女は家内と一緒にパスポートを持って外出しました。
海外旅行のためではありません。
就職のためです。
近所にあるバスキン・ロビンズ(日本で言うサーティーワンアイスクリーム)
でアルバイトを始めるためです。
数ヶ月前のこと、娘が1人そこへに行きアルバイトの可能性を打診しました。
「16歳になったらおいで」
と言われて引き返したのです。
今週の土曜日彼女は16歳の誕生日を迎えます。
そのために先週応募用紙に申し込みをし
面接を受け
合格通知を行いただいてから
本日の書類作成となりました。
16歳の誕生日に働き始めます。
その同じ日に運転免許の本免許が交付されます。
既に仮免許を持っている彼女は私を助手席に乗せ何度も運転をして見せています。
1段1段と親の元から巣立っていく彼女。
頼もしさとともに寂しさも感じているオヤジでした。
健康には、好-不調がある。
身体的にも精神的にもリズムがあるし、
リズムの浮き沈みの波は誰もが経験する事でしょう。
今朝起きて窓の外を見たら辺り一面は白銀の世界。
ます気になったのがスクールバスが運行しているかどうか。
ないなら学校が休みになるはず。
学校からは連絡がないので
いつも通りバス乗り場まで息子を連れて行く。
バス通りに出てみるとすでに長蛇の行列となっていて車が動いていない。
なんとか間に合って、再びそのバス通りで帰宅。
すぐに娘を高校に連れて行かなくてはならない。
週末、友人の家をはしごし寝不足が続いていたためだろうか
彼女は寝起きも悪く出発準備が整っいない。
ここで「早く早く」と急かすほど逆効果となる事は
これまでの経験から学んできた。
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天候も家族も自分自身の健康も
全ては思い通りにいかないものである。
うまくいったから機嫌よく
そうでないから不機嫌になると言うのでは
人生やっていけない。
私どもの魂は直接創造者なるお方ににつながる事が出来る。
そうしたならば私の環境にはかかわらず
変わらない絶対の安心を天から届けてくださるのです。
「わが魂よ。
なぜお前は絶望しているのか。
御前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。
私は『なおも』神をほめたたえる。
私の救い、私の神を」
(詩篇43篇5節)
この詩篇が書かれた背景はバビロン捕囚であるとされています。
故国を追われ異国人に
「お前の神はどこにいるのか」と嘲笑されているイスラエル人。
そのような絶望の淵にあって
『なおも』神をほめたたえている信仰の姿勢。
この同じ絶望の中からの一筋の光とも言うべきひらめきが
同じ言葉で42篇5節と11節に繰り返されています。
苦難のただ中にあって
『なおも』
神を神として崇める姿勢は美しいものです。
シアトルのクイーンアンに可愛らしい靴屋さんがある。
3歳ほどの小さな女の子が楽しそうに靴を選び、履いては踊っていた。
その隣の美容室では美容学校出たばかりの20歳そこそこの新進気鋭の若い女性が張り切って仕事に励んでいる。
一方、昨日訪問にいかせていただいたナーシングホームに暮らす女性。
食事や排泄といった身の回りのことは自分では出来ず
寝たきりのまま他者の助けになる他にない。
仏教では人が苦しみを負わねばならない4つの分野が人生にはあると教える。
「四苦」〜その1つは生きることそのものだという。
確かに将来に希望の持てる若さと、
将来というものの望めない老いや障害の厳しさと。
両者を比較するとそのことが納得できるようにも思えてくる。
誰にも老いの現実と言うものはやってくるものだから。
ところが、初対面にお会いしたそのナーシングホームに暮らす女性は
私に会うなり驚くべき発言をされた。
「退屈していません」
記憶や言語機能の多くを失い、ただ上を向くことしか許されてないベッドの上で
日本語放送のテレビを1日中つけながらも、
それでも、
「退屈していません」
その言葉は私の老人・障害施設に暮らす人への先入観を見事に裏切るものとなった。
サンフランシスコにある日本語キリスト教会のある一時期を支えた彼女。
たとい外なる活動は出来なくなったとしても
生涯彼女を支え続けた信仰は、現在の彼女の境遇をも支え続けているものらしい。
主が私たちに与えて下さっている希望は、病が癒される、苦痛がなくなる、問題が解決する、豊かになる、、、といった現世のご利益ばかりではない。
それらをはるかにしのぐご利益を経験した、死を越えたところのゆるぎない希望につながるものである。
「ですから、私たちは勇気を失いません。
たとい私たちの外なる人は衰えても内なる人は日々新たにされています。
今のときの軽い艱難は私たちの時に働いて、
測り知れない重い永遠の栄光をもたらすからです。」
Ⅱコリント4章16-17節
「あなた方が歳をとってもわたしはが同じようにする。
あなた方が白髪になってもわたしが背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なおわたしは運ぼう。
わたしは背負って救い出そう」
イザヤ46章3節4節
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