ホサナキリスト教会の新年会でした。
久方ぶりのゲストの方も参加してくださり
とても楽しい有意義な時となりました。
持参した餅つき機が始動しない思わないハプニング
がありました。
それでも各自が持参されたお正月料理を堪能。
雅楽のBGMまで流されて
さらに気分が盛り上がります。
「ニューイヤーズパーティー」なら
洋食に英語での会話で開くことができます。
しかし、「お正月」となると日本食で
日本語を使わないと味わえないように感じるのは年のせいでしょうか?
こんなに寒くなったポートランドは初めてです
オレゴン州ポートランドは今日も寒波が続いています。
強風が地面の粉雪を舞い上がらせ吹き飛ばして行きます。
天気予報によると今日の午後から積雪や強風、大雨や洪水などの警告が出されました。
多くのビジネスでは午後の予約をキャンセルし店じまいをしています。
私も昼過ぎにシアトルの自宅に帰ることにしました。
こんな日は外出する人は少なく高速道路はいつもよりも空いていてかえって運転がはかどります。
天候もそれほどひどくはならず、無事に帰宅でき感謝です。
いったいどうしたことでしょう。
米国に寒波が押し寄せているようです。
摂氏0度を下回る気温が連日続くというのはあまり記憶にありません。
そんな日が先週から続いています。
ホテルで暖房をガンガンかけているのですが、
あまり暖かくならず足はひんやりと冷え切ったまま。
ベッドの中でつま先が氷ように冷たくなっていました。
どっかで読んだのですがそんな時の最善の解決策は
古来からの日本の伝統にあります。
冷えた足だけを暖めて省エネ、しかも手軽にできる暖房システムとは………
ズバリ湯たんぽです。
40年以上も前の子供の時に利用した覚えがありますが、あの時の快適さを思い出します。
次回帰国の時にお土産の必需品とします。
数週間ほど前のクリスマス礼拝では、
マタイ福音書2章が説教のテキストとして使われた教会が多かったと思います。
私もその日、隣の街の栄光キリスト教会でゲストスピーカーとして招かれていて
この箇所からお話しさせていただきました。
古来から議論となっているポイントは、
東方で博士たちが見た星でした。
聖書において「東方」とはメソポタミアのことであり
バビロニアかペルシャを示す地域限定用語です。
その地方の博士達が「ユダヤ人の王が生まれたしるし」としての星を見たとして
エルサレムまでやって来ました。
この星の正体については多くの学者達が推論して来ました。
有名なドイツのケプラーは、
木星と火星の融合したものだと結論づけました。
他の学者はハレー彗星であるとか
超新星、
2000年以上の周期にある彗星であると言う人もいます。
しかし聖書を厳密に解釈していくなら
この星がどの天体にも当てはまるものでないことが明らかとなります。
①この星はエルサレムからベツレヘムまで、北から南へと移動しています。
「すると見よ、東方で見た星が彼らを先導し」(マタイ2:9)
惑星は時に通常の軌道から逆方向へ進む場合があります。
その変則行動が博士たちをして導いたと解説している専門書を見たことがあります。
しかしその変則行動であったとしても惑星は東西の軌道上から外れる事はなく
北から南へ移動する博士たちを導く動きになり得ません。
②ある地点にまで進んでいき、そこにとどまっています。
「ついに幼児のおられるところまで進んで行き、その上にとどまった」(マタイ2:9)
あたかも意志を持っているかのような動きです。
進む方向も、止まる地点も、それが現れるタイミングも、
全てが博士らをして幼児イエスに導くためのものでした。
③長旅が報われた安堵と喜びを博士らに与えています。
「その星を見て彼らはこの上もなく喜んだ」(マタイ2:10)
この段階で博士らはまだ幼児イエスに面会はしていません。
その家の前で無常の喜びを抱いたのです。
そのためには誤りなく幼児の場所を探し当てたとの確信がなければならなかったはずです。
つまり、その星は幼児のいる家の屋根のすぐ上に止まったからです。
もしそれが天体の星であるならばその家も、ベツレヘム中の家家も町全体が破壊されていたことでしょう。
それでは、この星の正体とは何か?
次回私が理解しているところをおつたえします。
8年前のクリスマスにもカリフォルニアからいとこの3娘がやって来た
あの年は雪も多かったようです
今週から子供達の冬休みが終わり学校が始まりました。
登校日初日、息子はいまだ風邪が癒されず休校しです。
息子と同じ時期、家内も同様の風邪でダウン。
先週まで遊びに来ていたいとこの3娘も風邪でダウンとの知らせが
カリフォニアから先ほど届いています。
彼らは皆、長女の風邪を引き継いだのです。
その長女自身はは現在回復期にあります。
お陰で彼女は毎晩10時まで、7時間のリハーサル練習に通っています。
今週の土曜日がその本番の初日。
ここで私だけが風邪をもらっていないのですが、
その秘訣をここでをお伝えしようと思います。
これは決して秘訣だと言う大それたものではなく、
すでに古くから多くの人らによって言い古されて来たものです。
一言にするならば休養と栄養です。
①睡眠を充分に取ることです。
睡眠不足は免疫力を弱めます。
私は最低7時間、出来れば8時間睡眠を心がけています。
②多品目の食材を摂り入れることです。
1日に目安として30品目以上の食材を食べるようにしています。
ビタミンなどに留意しながらフルーツを毎日食べます。
③予防を心がける。
事ある毎に手洗いを励行しています。
寒気がしたり鼻水が出たり、風邪のちょっとした兆候を感じただけですりおろし生姜をさ湯に混ぜて飲んでいます。
すると喉から殺菌作用が全身に広がっているのを感じ、また体中がポカポカと温まります。
長男には②
長女には①
そして家族全員に③のポイントが欠落しています。
私だけが満点。
風邪予防の方法……
これは何ら特別なことではなく、
ごく自然法則に沿ったことにすぎません。
元旦から一夜明けて正月2日目、我が家での新年会です。
振替休日としてほとんどの会社も学校も本日はお休みです。
長女だけはすでに始動しています。
今週土曜日が初日となるステージのリハーサルに、昼過ぎから夜の10時までその練習に行きました。
長男と家内が先週からの風邪がまだ癒されず、ほとんど寝正月の状態。
私が正月だけに関わるあるプロジェクトにゾッコンしてました。
毎年正月になるとなぜか無性に血が騒ぎ出し、
なぜかこれに没頭してしまうのです。
それは、将棋❗️
今やオンラインで即時に対戦相手を見つけることができて
1人であっても、いつでもどこでも本格的な将棋バトルを始められるのです。
まさに将棋や囲碁は知性同士がぶつかり合う激しい格闘。
血を見る事はなくても全能力を傾けて格闘していると時の経つのを忘れてしまいます。
私の将棋の力なんて決して大したことなく
10中8、9は負けてしまうものです。
でも惜しいところで負けてしまうともう一番!、とばかりに次の対戦相手を探してしまいます。
すると、ほんの数秒で対戦相手が見つかり再び開始。
たまーに勝利するとその感動が忘れられず、
もう1番、と言っては再び対戦開始。
そんなことをしていたら気付くと朝の5時を迎えてしまった日もありました。
このまま将棋を続けていたら時間なんていくらあっても足りません。
仕事もできずにきっと廃人のように成り下がる事でしょう。
1年の特別期間としてほんの数日だけ将棋に関わることを自らに許し、
今日以降は手をつけないことに決めました。
きっとギャンブルや麻薬で中毒になる方々の心理も
これと似たものがあるのかな、と考えました。
3時間以上も真剣勝負をしていると
すでに考えるエネルギーはなくなり疲れ果ててしまいます。
早くベットに入り休みたい気持ちもある一方で
それが止められなくなってしまうのです。
それでもあと1番だけ、後1番だけ
と言いながら止められないのです。
この中毒の恐ろしさ。。。
はまってしまったら自力で抜け出すことがほとんど不可能なことを体験しました。
今回の非日常的な正月の過ごし方は、
中毒にかかり依存症となっている方々の気持ちを理解する上で多少とも良い経験となったように思います。
と言いながら、節制のない正月の過ごし方をしてしまった罪悪感に対する自らへの言い訳としています。
栄光キリスト教会の元旦礼拝。
正面に立つのは熊井牧師。
新年あけましておめでとうございます。
主の年、2014年が明けました。
今年の元旦は日曜日と重なっていることもあり元旦礼拝となりました。
午前中にカークランドにある栄光キリスト教会に行って来ました。
主にある家族なとなった方々と共に新年をお祝いできるのは大きな喜びであり特権でもあります。
旧年中いろんなことがありましたが
そのすべてを益と変えてくださることができる創造主なる方に感謝を捧げ
新しい年も手を携えるようにして導いて下さる牧者なるお方に賛美をお捧げしました。
礼拝後が餅つき会の新年会です。
3つのマシンをフル稼働させて合計30号の餅が用意されました。
仕事のために長い間お会いできなかった方や
初めてお会いする教会員のご家族の方々とも親交を深めて楽しい時となりました。
新約聖書が「奥義」と言う言葉を使うときに
これは聖書独特の概念を示す専門用語です。
一般的には通常、人には隠されているもの、長年秘められてきたものと言う意味です。
ところが聖書においてはそのベクトルは逆であり
「長年秘められていたことが明らかとされ、時至って開陳されたこと」
を指す言葉となっています。
新約聖書のコロサイ書には、
3つの奥義が出て来ます。
①教会の奥義(コロサイ1:24〜26)
「キリストの体とは教会のことです。……私は神から委ねられた務めに従って、教会に使えるものとなりました。これは多くの世代にわたって隠されていて、今や神の聖徒たちに現された奥義なのです。」
②内住のキリストの奥義(同1:27)
「この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」
③神の奥義なるキリスト(同2:1)
「豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。」
……………………………………………
これら3つのものは旧約時代には私たち人間に知らされておらず、
従ってその時代の誰も体験できないことでした。
主イエスが地上に来られた事で神の経綸(英語でエコノミー、またはディスペンセイション)
大きく動き、
私たち人間がこれら豊かな神のギフトを手に出来る道が開かれたのです。
忘年会のシーズンとなりました。
ところでこの「忘年会」の字を見るたびにある種の疑問が湧き上がってきました。
なぜ過ぎ行く年を忘れるための会合なのか?
忘れる必要があるのか?
おそらくその「忘」には我が身に起こったネガティヴなことが想定されているのでしょう。
だからそれをネガティブな感情とともに忘れ去り、水に流してしまおうとのベクトルが働いているのではないでしょうか?
実は人生に起こる全ての事はネガティブもポジティブないのです。
そこにあるのはネガティブであると解釈する自分がいるだけで、出来事自体は是非のない中立のものです。
そうであるならばたとえどんなにネガティブと思える事であったとしても忘れる必要はないどころか忘れてはならない貴重な経験となり得るものです。
心ない人の言葉や冷たい仕打ち、仕事上のトラブルや家族との不和、事故や災害などの不慮のトラブル、、、
これらトラウマとなるような悲劇であっても私たちを成長させる起爆剤へと変換させることも出来ます。
自分自身の過去振り返ってみて自分が成長したと思える瞬間は、
うまくいったことよりも辛い思いをしたなかから生まれ出たものではなかったでしょうか。
忘れなくてはならない辛い思い出なんてものは一切なく、そこにあるのは今までの己を築きあげた貴重な経験です。
そこで私はこの時期の会合を忘年会ではなく謝恩会と呼ることにしています。
そんな謝恩会の第1回目はFactoriaの東京レストランにて。
長年、親しくしている友人と語り合いました。
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