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  • ハッシュタグ「#救済」の検索結果237件

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現在のキリスト教世界とはどんなものでしょう(2)

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ホサナキリスト教会・聖書広場からの引用です。


「奥義としての王国―その④{2回目}:御国の変遷」
マタイ13章44~51節
~マタイ福音書連続講解説教34~
{メッセージの抜粋}


 13章に記された後半の4つのたとえから、
「奥義としての御国時代」(13:11)の特徴を学びましょう。

それは現在のキリスト教世界を理解する上で役立ちます。
前回に引き続いて、たとえの解説です。


Ⅰ 畑に隠された宝 (44)

「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。
人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、
持ち物を全部売り払ってその畑を買います。 (マタイ 13:44)

「宝」とは、OTでたとえとして使われる場合、
イスラエルを指します(出エジプト19:5、詩篇135:4)。

「畑に隠された宝」とは、信仰のユダヤ人(レムナント=メシアニック・ジュー)

「その宝を発見した人」とは誰か?
たいていの場合、それはキリストのうちに宝を見出した信者で、
それゆえに全てを犠牲にしてまで神の国のためにささげよ、
との適応が教えられているようです。

ところが、「宝」が聖書文脈からイスラエルになるのなら、
その適応は変ります。

「大喜びで、持ち物を全部売り払ってその畑を買う」人とは、
宝のために自発的に全てを犠牲にする人のことで、
それはメシアなるイエスの十字架での犠牲を表します。


Ⅱ 海にある真珠 45~46

「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、
行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。
(マタイ13:45-47)

「海」とはここには現れません。
しかし、真珠が採取される場所として検討されねばならない理由があります。

先述のたとえとの並行性です。

「海」とは、聖書の黙示文学にて異邦人世界の象徴として使われています。
ダニエル7:2~3

「真珠」とは何か
これはOTには出現ませんので、直近のたとえの用法から類推するほかありません。

海(異邦人世界)から捕れる価値高いものとは、異邦人クリスチャンです。

「持ち物を全部売り払ってその畑を買う」
~その犠牲を払った商人とは主イエスであるに他なりません。

主が命をささげられた対象は、メシアニックジューばかりでなく異邦人信者でもあります。


Ⅲ 地引網  47~50

「また、天の御国は、
海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、
良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
この世の終わりにもそのようになります。
御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
火の燃える炉に投げ込みます。
彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。 (マタイ 13:47-50)

1. 世の終わりの様子=奥義の御国時代の終焉を教えるものです。

「あらゆる種類の魚」が網にかかるまで終わりは来ないのです。

「 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、
すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」
(マタイ24:14)と教えられています。

毒麦のたとえと酷似してます。

「良いものは器に入れる」=信者は千年王国へ入る
「悪いものは捨てる」=火の燃える炉に投げ込まれる(50)のが不信者です

2. 羊と山羊の選別のたとえと同じ終末の様子を教えるもの(マタイ25:31~46)。

この箇所は、「弱い者に善行をするのは、神への奉仕」であるとする
「靴屋のマルチン」神学を教えているところではありません。

もしそうなら、聖書は良い行いが救いを得ると教えていることになります。

艱難時代に苦難を通過する神の民、ユダヤ人を助けるかどうかは、
信仰のある・なしで決定されることが前提となっています。

「羊」~信仰ゆえに迫害下にあるユダヤ人に良いことをする信者のことです。

「山羊」~迫害下にあるユダヤ人をさらに苦しめる不信者のことです。


Ⅳ 倉から物を取り出す一家の主人  51~52

 「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」
彼らは「はい」とイエスに言った。
そこで、イエスは言われた。
「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、
自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」
(マタイ13:51-53)

1. 主イエスの問い「これらのことがみな分かりましたか」

奥義の王国時代の特徴を理解したか、と弟子たちに尋ねます。

先の神政政治時代にも、後のメシア的王国にもないものなのです。
「ハイ」と答える弟子たち

2. 奥義の王国時代の学者とは、取り出し自由の倉を持つ一家の主人です。

「新しい物」~その王国時代になってから啓示されたもの。
たとえば、教会とイスラエルの関係、それらが一体となることなどは、
NTになってはじめて啓示された奥義であり、新しい教えです。

「古い物」~御国に入る条件、すなわち神の約束に与る条件はいつの世でも変わりません。

イスラエルと異邦人の区別もありません。
信仰と恵みによる救いを聖書は一貫して啓示していて、それは古い真理です。


#救済

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時間とともに変遷するものと、普遍的な「神の国」がある

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ホサナキリスト教会・聖書広場でのノートです。

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「奥義としての王国―その④:御国の時間的変遷」
マタイ13章44~52節
~マタイ福音書連続講解説教34~

{メッセージの抜粋}


  13章は「奥義としての御国時代」(13:11)、
これはすなわち現在まで通じるキリスト教界時代を扱っています。

主はその時代性を、
特徴をその時代を切り開く弟子たちに8つのたとえを用いて教えておられます。

ここで、再び「神の国」について、時間とともに変遷してきたことを確認しましょう。


「神政政治王国」

それはもモーセの律法が王国の憲法として
その理念が明示された出エジプトの時代から始まります。

神は全世界の中からイスラエルを「宝の民」として選び、
そこでご自身の聖なる御旨を律法(聖書)に啓示して、
神の国を地上に建設されようとしました。

その民はやがて王政に移行して、
ダビデ・ソロモンのときに全盛期を迎え、
アブラハムに約束した契約が今や成就するかに見えたのです。

しかし、その全盛期に崩壊に至る罪を王様自身が内包したままでした。

ソロモンの死後、王国は南北に分裂し、以後衰退の一途をたどります。
アッシリアやバビロンに捕囚とされて連行され、国は滅びます。


「メシアの王国」

その捕囚期に預言者たちが登場し、
「ダビデの子孫」としてのメシアがやがて現れるなら、
イスラエルは復興され、世界の中心となり、
国々もメシアに従い、世界の平和と繁栄とがもたらされ、
アブラハム契約が完成されると説きました。

バプテスマのヨハネや主イエスが「神の国は近づいた」
と説かれたのが宣教の第一声でしたが、
その国は旧約で預言されていたメシア王国です。

ところがユダヤ人たちはイエスのメシア性を否定したため、
彼らからは完成間近までやってきていた千年王国が取り去られました。

もはや彼らの拒絶は悔い改めが不可能な段階まで進んでしまったのです。

それが「赦されない罪」です。

この文脈を踏まえるなら、
その罪は当時のユダヤ人たちに対する民族的なもので、
それ以降のユダヤ人世代には適応されないし(適応するのがアンチセミミニズムの立場)、
まして個人に適応されるものではありません。


「奥義としての王国」

千年王国(またはメシア王国)が取り去られ、遠い将来へと延期されました。

その瞬間、旧約には啓示されていなかった別の「神の国」が出現しました。

それが今日のキリスト教界時代にある、「奥義としての御国」なのです。

ですから、そこには過去の神政政治王国にも、
将来のメシア王国にも存在しないものが現れてきます。

毒麦(偽信者)や、異端の存在、
神の国の進展を阻害する悪魔の暗躍や肉(信者の内にある古い性質)、世(迫害勢力)の力などです。

モーセから将来の千年王国に至るまでは、
3つの「神の国」が形態を変えながら変遷するのを時系列的に並べました。

そしてこれら全ての時代に普遍的に存在しているものとして、
宇宙的な意味での「神の国」がありました。
そしてまた、信者の心に霊的に存在している「神の国」があるという側面もあります。
(先回の本稿を参照)
#救済

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なぜキリスト教に異端が出てきてしまったのでしょうか?

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ホサナキリスト教会・聖書広場でのノートです。

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「奥義としての王国―その③:御国の特徴」
マタイ13章24~43節
~マタイ福音書連続講解説教33~
{メッセージの抜粋}


マタイ福音書13章では、「奥義としての王国」時代について解説していると解きました。

それは「キリスト教界」であり、今現在の様相を預言したものとなっています。

現在とはどういう時代か、これを解くカギが本章にあるのです。

本章(聖書のどの場所もそうなのですが)を正しく解釈しない限りは
羅針盤を失った大航海時代の帆船のようです。

己の立ち軸を知らないまま、どこを目標に進めば良いかも分からないままに、
時代の荒波に翻弄されるより他ありません。


この時代の特徴を教えるために、主は8つのたとえ話を話されました。

たとえ話を用いられた理由は、
①一般群衆から真理を隠すため
②弟子たちに奥義を平易に理解させるため
③イザヤ書預言の成就のため
でした。

今回は、最初の4つのたとえ話から今日の宗教界の特徴を学んで見ましょう。

Ⅰ 種の成長 マルコ4:26~29

26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。
どのようにしてか、人は知りません。
28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、
次に穂の中に実が入ります。
29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
(マルコ 4:26-29)

 ここで教えられることは、種(福音の言葉)自体に命が内蔵されていて、
人の行為や努力が、発芽させ、穂や実をつけるものではないということです。

種によって始まったキリスト教界は、やがて「収穫」のときを迎えます。

これが千年王国であり、御使いによって信者は「かまを入れる」ように集められて、
用意された御国(千年王国)を相続するのです。

Ⅱ 毒麦のたとえ マタイ13:24~30

24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。 「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
26 麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。
27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。 『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」 (マタイ 13:24-30)

 このたとえは、主ご自身が解説をされています。 36~42節

弟子たちにだけ解き明しがゆるされる
群集からは真理が隠される
「赦されない罪」の結果であり
預言の成就である


 さらに、「毒麦」をまく悪魔の暗躍があると教えます。

毒麦と麦は見かけ上は良く似ていて、識別困難なのです。

弟子たちはそれを「抜き集める」ことを申し出ますが、
主は「収穫」(世の終わり)までそのままにするように命じます。

教会の中で偽信者かどうかを見分けるもの、
その人を排除するのも貴方や私の仕事ではありません。

裁きは神様がされます。世の終わりには万人の目に明らかとなります。

それまでは正義感で奮い立たなくともよいのです。

人は過ちを犯しやすいものであるのを自覚しましょう。

Ⅲ からし種 マタイ13:31~32

31 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、
32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」 (マタイ13:31-32)

からし種は「どんな種よりも小さい」とありますが、
それは福音のはじめの段階を描写しています。

12弟子たちを見てください。

彼らのほとんどは、無学なガリラヤの漁師上がりです。

しかしそれが生長すると「どの野菜よりも大きくなる」とあるのは、
福音の爆発的な世界への拡大を預言しているものです。

やがてローマ帝国での公認を受け、そして国教とされます。
キリスト教が西洋社会を覆うようになるのです。

しかし、そこには「鳥が枝に巣を作る」状態が現れます。

「鳥」とは、直近のたとえで引用されてあるところから悪魔でことがわかります(13:19)。

これは、広大なキリスト教世界に、異端的な要素が居座ることが示唆されたのです。

モルモン、エホバの証人、幕屋などの異端は、純粋なキリスト教徒は異なる、悪魔の影響の下にあるものです。


Ⅳ パン種 マタイ13:33

33 イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。
女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」 (マタイ13:33)

パン種は常に聖書では偽りの教えや罪、ネガティブな意味で使われます。
すなわち、キリスト教世界に異端的な教えが内在するとの預言で、
そのわずかのパン種が全体を膨らませる(大きな影響力をもつ)のです。

「女」とは、偽りの宗教を意味します。

聖書ではそのように用いられています。イゼベルしかり(黙示2:20)、大淫婦(黙示17:1~8)もそうです。

「3サトン」とあるのは、3つの主なキリスト教世界の勢力であると考えられます。

すなわち、カトリック、ギリシア正教、プロテスタントとしてキリスト教世界は3区分できます。

そのそれぞれに異端的な要素(パン種)が内在していると言う、驚くべき預言です。

具体的にいえば

カトリックでは、聖人へのいのりや煉獄の教え。

ギリシア正教では、聖画や聖像への崇拝。

プロテスタントでは、ユダヤ人を排斥する置換神学。

これらは、本来の聖書メッセージから逸脱したものです。

主は、当時から数千年後の今日の様相を預言し、キリスト教界の特徴を教えられました。

それにより、私たちは今日がどういう特徴を持った時代であるのかを理解できます。


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「神の国」の5つの側面

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ホサナキリスト教会・聖書広場でのノートです。

http://wdx.hosannamin.org/

「奥義としての王国―その②:御国の5つの側面」
マタイ13章18~23節
~マタイ福音書連続講解説教32~
{メッセージの抜粋}


聖書では「神の国」が5つの様相をなしています。
どれを指しているのかは、その文脈で判断をせなばなりません。

正しい判断ができないと正しい解釈ができずに、聖書が何を伝えんとしているのか分からなくなります。

マタイ福音書では「天の御国」用語が使われていますが、
これは「神の国」と全く同じものです。

マタイはユダヤ人に向けて福音書を書きましたので、「神」という語を意図的に避けたかったのです。

ユダヤ人は、畏怖の念から「神」を筆記も口述もしないのです。

聖書の言う「神の国」は、
我々一般の日本人が抱いてる「神の国」とは根本的に異なるものです。

「死んだら天国に行ける」意味でのそれではありません。

それは現世において体験できるものであり、
かつ力を持って実現しつつあるものであり、
将来に圧倒的な実存的威力で完成されるものです。


それでは、聖書の教える「神の国」の5つの側面とは、


1. 宇宙的・永遠の御国

神が森羅万物の創造者にして、供給者あり、支配者である側面

全宇宙が、そしてあらゆる時代がすでに神の国であるといえます。
なぜなら神が究極的には全てを統べ治めておられるからです。

「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。」 (使徒 17:24)

「主は世々限りなく王である。 国々は、主の地から滅びうせた。」 (詩篇10:16)


2. 霊的な御国

聖霊によって新しく生まれた者たちの心に存在するもので、
アダムから現在まで、信仰によって義とされたものたちがその住人である。

「 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」 (マタイ 6:33 )

ここでの神の国は、信者の心に実現する神の統治を指しているもので、
それは信仰により新生することにより、現在可能のことである。

この御国はアダムから永遠の先までの信者をメンバーとする


3. 神政政治による御国

神政政治国家(イスラエル)を通じての神の間接統治

神様は、イスラエルをご自身が特別に統治する民族・国家として選ばれた。
ゆえにそこに「王国」があった。それは限定期間であり、
大きく二つの時代に分けることができる

モーセによって始めて樹立された王国(神の国)~ 律法が与えられて神政国家の土台が敷かれる
     
モーセからサムエルまでは、神の召命による仲介者による統治(士師時代)

君主制による世襲統治~サウルからダビデ、デゼキア王による統治
 出エジプト19章~Ⅱ歴代36章までがこの御国時代である

神政時代後半は衰退期。
    南北分裂とバビロン捕囚によって終焉した王国である
    終焉後、現在まで「異邦人の時代」が続いている
    預言者による新しい御国形体の預言が衰退期に活発となる
    それが、将来に実現されるメシアの御国(千年王国)である


4. メシアの御国(千年王国)

統治者か、統治年数に注目するかで呼び名が変わる

OTのほとんどの御国預言はこの側面である。特に捕囚期以降の預言。

メシアによる直接統治の王国。

エルサレムでダビデの座についての文字通りの地上統治

これはダビデ契約の成就
    とこしえの家、王国、王座、子孫を与えるとの約束
     Ⅰ歴代17:11~15

B.ヨハネと主イエスが「近づいた」と伝えた御国

当時のユダヤ世代からは取り去られたが、
将来のユダヤ世代(艱難期)に再び提供されるもの

   「神の国の実を結ぶ国民」(マタイ21:43)とはユダヤ人のことである。多くの学者が「教会」と解釈しているのは誤り。この国民(単数形)が教会(あらゆる民族から形成されるもの)に取って代わったとする立場が置換神学である。

   「異邦人」(口語訳)と訳しているのは置換神学の史観であり、誤訳と言わざるを得ない

人間的な視点からは、千年王国は延期された

神の視点からは想定内のことであった。異邦人に伝道が進むことによる成就が既に旧約聖書に預言されている(イザヤ49:1~3)。


5. 奥義としての御国

12章でのメシア拒絶があって、神の国プログラムは変更された。
突如歴史に介入された神の国である。

イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。 (マタイ 13:11 ) 

この奥義を解説しているのが13章である。

それは奥義である
   「旧約聖書では啓示されてず、新約時代になって初めて明らかにされた真理」を意味する専門用語である。

OTではこの側面は全く言及されていない

この御国の期間は、メシアの初臨から再臨までの間である

さらに厳密には、ユダヤ人のメシア拒絶(12章)から、将来の艱難期のメシア受容までの間である

「キリスト教界」"Christendom” が最もふさわしい用語であろう

王(メシア)は天におられて、地上には不在状態の御国である

13章のたとえ話は、現在進行中の地上の御国の様子を描写したものである

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渋滞から学んだこと

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本日はワシントン州の州都、オリンピアまで行ってきました。

ベルビューの我が家から運転して丁度
1時間ほどの距離となります。

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■ 行きより帰りが怖い
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「行はスイスイ 帰はこわい
こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ〜」



そんな歌遊びをを子供時代、何百回となくした記憶があります。

その歌通りの展開となりました。

行は渋滞にも合わずにスイスイ。

夕刻から雨が降り出して、暗い帳も降りて、視界もよくありません。

ここでは、これだけでも立派に渋滞となる条件です。



帰は見事にハイウエイが不動の車で満たされてしまいました。

途中、ある御宅で夕食にお招きいただいていたのですが、、、

大遅刻(≧∇≦)

普通なら20分ほどで行ける所が、1時間10分もかかってしまったんです!!



渋滞のハイウエイを途中で降りて抜け道にチャレンジしましたが、
途中まで行ってその道は工事中で通行止め。

元来たハイウエイまで引き返す不運も。

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■ すべては主の御手の中にある
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私がそのお宅に到着した時は
すでに夕食は終わっており、来客のお二人も帰られた後でした。

そんな中でしたが、ホストのMさんから貴重なお話を伺いました。



現在同居を始められた娘さんは
大学に通いながらも生活は独立。

大学費用、生活費を捻出するために求職中とのことです。



数日前、近所の病院事務の試験を受けて同格通知が届きました(^O^)

数日後、第一希望のベルビュー市職員の合否の連絡が届くそうです。

Mさんは娘さんにこのようにアドバイスをされています。



「主が最善の道を開いてくださる。

もし合格しなくたって、ガッカリすることないのよ。

そこよりもっと相応しいところがあるので、主がそこへの道は閉ざされたの。

主がちゃんと貴方に一番良いところを備えていらっしゃるのだから

何も心配しないでいいのよ。

主にすべてをゆだねて行きましょう」



クリスチャンとは、実に、どんなことがあったって楽観できる人種です。

「すべてのことを委ねて、心配することはない」

正にその通り。



私に勝る、私の知らない計画を主は持っておられる。

ジタバタせずに、主と共に歩んで、その備えられた道に導かれて行こう。



主を知らなかったかつての私なら、

渋滞に巻き込まれて

予定の時間に間に合わないなら

相手を待たせてしまうことにやきもきし

居ても立ってもいられないストレスに

さい悩んだことでしょう。



私にはどうしてもコントロールできない事柄がある。

主はそこをもコントロールしていてくださる。

ゆえに、見える現象に一喜一憂することもなく

主に委ねることが出来る。



"すべての重荷を 主に委ねて
重荷去りぬ カルバリ カルバリ カルバリ
重荷去りぬ カルバリ 主イエスませば"


今朝、出立前のディボーションの時に

天から降ってきた賛美歌でした。





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日本と米国で二日分生きました

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■ 運転中も可能なFace Time
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午後5時、カリフォルニア州サンマテオの駅前を運転中のことでした。


突然、電話がけたましく鳴り響きました。

正確にはFace Timeの音で、川崎教会からのものです。

ビデオ交信のacceptボタンを押すと、
同教会のM先生のお顔が現れました。


川崎教会ではCOG年会の第3日で、朝9時からの礼拝が始まるところだったのです。


運転しながら川崎での会議が生中継され、
そこに発言を含めての参加が許されるとは、すごい時代に生きているものです。

もちろん運転中はビデオ画面には注目しません。

声だけを聞きながら、
川崎の人たちは私の運転する横顔を見ていたことになります。

サンマテオのMさん宅でのその日の夕食&フェローシップは延期にして、
年会参加を決めました。


昨夜のホテルからではコネクションが悪いためか繋がらなかったのですが、
Wifi環境のないドライブ中でも十分な交信が可能となった、そのわけは知りません。

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■ フルタイムの後のフルタイム仕事
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とにかく、弁当を買ってホテルに戻り、夕食。

その間、ズットビデオ会議参加。

ズット、ズット、ズット、、、、

会議は白熱したものとなり、やがて寸秒も目が離せないものとなりました。

息を飲むような展開に…

そしてついに私も発言…

さらに火に油が添えられたたように白熱化……

何がそんなに、白熱したかって?

もちろん守秘義務がありまして、
それにはお答えできません。

会議はその後も午前1時頃まで続きました。


そして午前3時(日本時間午後7時)からの任命式・宣教大会にも参加 ^o^

T先生の牧師・正教師の按手礼式がまず行われます。

厳かな中での一瞬、一瞬が張り詰めた緊張の中で刻まれていきました。


I phoneの小さな画面を通じて伝わってくる異次元の世界。


続いて、
新年度の各教会の牧師任命式です。


東北教区から始まり、関東教区、中部教区、そして国外教区へと進んで行きます。

任命する高橋富三理事長と
任命を拝命する各牧師との緊迫したやり取りの続く中で
ついに私の出番も回ってきました。


理事長:「シアトル・ホサナキリスト教会へ宣教師として高橋京太を」

私:「ハイ!!」

理事長:「任命します」

私:「感謝します」


会場は100名ほどの会衆だったようですが、
私の声も良く聞こえたそうです。

初めてオンラインで
太平洋の距離を超えて
任命を拝命しました。

感激と興奮で、その後も1時間ほど眠れませんでした。


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神の国」プログラムが変更されました

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ホサナキリスト教会・聖書広場からの引用です
http://wdx.hosannamin.org/

「奥義としての王国―その①:御国とはなにか」
マタイ13章1~17節
~マタイ福音書連続講解説教31~
{メッセージの抜粋}

マタイ13章は、新しい歴史段階が開かれたと教えています。
12章で、ユダヤ人の正式なイエス拒否がありました。
12:24は、歴史の分水嶺であると先週学びました.

これを聞いたパリサイ人は言った。
「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、
悪霊どもを追い出しているだけだ。」 (マタイ12:24 )

これを境として、

ユダヤ人の運命を決した~1900年に及ぶ世界離散
人間歴史を決した~現在の中東紛争の原因
神の国のプログラムが変更された~千年王国が将来へ延期
人間視点からは想定されていなかった新しい時代の開幕~奥義としての王国

① メシア「拒絶」ゆえに、次の「奥義」の段階が出現
そのような流れでマタイは本福音書を編集しています.

すると、弟子たちが近寄って来て、
イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
イエスは答えて言われた。
「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、
彼らには許されていません。 (マタイ13:10-11)

「奥義」とは、聖書で用いられた場合は専門用語であり、
「旧約聖書では啓示されていなかったのが、
新約時代になって初めて明らかにされた真理」のことです。

「この奥義は、今は、御霊によって、
キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、
前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。」
(コロサイ3:5)

マタイ13章までの文脈を「御国」=「天の御国」=「神の国」を視点に確認してみます。

1~4章:御国の準備期間
5~7章:御国の憲法
8~9章:御国の御業
10章 :御国の弟子たち
11~12章:御国の拒絶
13章:奥義としての御国

ここで、12章までの「御国」と13章の「御国」とは別物です。
12章までの御国は、千年王国です。
主がガリラヤ宣教の第一声で
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:18)
と言われた時、
それはOTで預言されていた千年王国が
今や実現真近であるとの宣言でした。

ユダヤ人がイエスをメシアとして受け入れていれば、
2000年前にその神の国(千年王国)は成就していたのです。

ところが、拒絶したために「神の国プログラム」に変更が生じ、
実現は将来の艱難時代後まで待たねばならなくなりました。
そこで代わりに実現したのが「奥義としての神の国」というわけです。

② 「奥義としての神の国」
今や新しく出現したと言っていい「御国」の
性格や特徴、最終段階の様子などを
主は13章から
8つのたとえ話を使って解説しています。

何れのたとえ話も
「天の御国は、~のようなものです」と始まります。

その期間について言えば、
マタイ13章から主の空中再臨(教会の携挙)までです。
以後は、7年間の艱難時代をはさんで、
千年王国へと移行します。

つまり、ほとんどは「教界時代」"Christendom”と重なります。
これは、「教会」とは区別しています。
正当なキリスト教会以外にも、
聖書の教えを振りかざす異端も含まれてしまうからです。

王なるメシアが天におられる間、
地上にある王国にはそれらの異物が混在していて、
一般の人には見分けがつかなくなる時代となるのです。

ここで「神の国」について確認します。
それは、「神による権力、支配の及ぶ領域」のことです。
注目されるべき概念として3点があります。

権力を持っている王は誰か
権力を受ける国民とは誰か
行使される権力そのものとは何か

神の国について論じるときはこれら3点が重要な留意点となるでしょう。

③ 「神の国」の対立概念
聖書ではしばしば「神の国」が異なる意味・内容を持つことがあります。
すでに「千年王国」と「奥義としての王国」の二つのあらましを見ました。

あと、三つの「神の国」が聖書にでてきます。
それらについても来週学びます。

これらのうちのどの神の国について言及しているのを
文脈から正しく捉えないと混乱してしまい、
正しい聖書解釈は不可能となります。

5つある「神の国」を識別するための要素としては、次の3点に気を付けます。

時間の識別~すでに実現されている ORいまだ実現されていないか
領域の識別~全宇宙である OR地上だけに実現されるものか
統治者の識別~限定領域か宇宙を直接統治する神 OR仲介者による間接統治か

④種まきのたとえ
このたとえは、以後のたとえ話の基礎となります。
ゆえに主イエス自らがたとえの意味を解説しています。

このたとえの意味や御国のプログラムを理解できる弟子は
少数であることにも触れています。
「耳のある者は聞きなさい。」 (マタイ13:9)
たとえでお話をされる理由も語っておられます。
それは、御国の奥義を知ることが許されているのは、
少数の弟子たちだけに限定されるからです。

当時のユダヤ人には奥義は隠されました。
メシアを拒絶したので千年王国は遠のき、
さらに別の形態の、奥義としての王国からも
引き離されたのです。

「持っているものはさらに豊かに、
持たないものはさらに取り上げられてしまう」
(12)段階となりました。

イエスへの信仰を持つ弟子となった者たちは、
やがて千年王国というさらに良いものを受け継ぎます。
しかし、パリサイ人たちは律法主義により
見かけはあたかも神に最も近いようですが、
やがて千年王国から締め出されてしまうのです。

それはまた、OT預言の成就でもありました。
「見ても見えず、聞いても聞けず、悟らない民 」(イザヤ6:9)
がイザヤの時代にいましたが、
主がたとえ話を多用されるにあたり、
当時のユダヤ人たちにその預言が
いよいよ成就することとなったのでした。

奥義を学ぶ弟子の幸いについて知らねばなりません。
OT時代の聖書記者や御使いも憧れたほどの恵みを体験できるのが
「奥義の御国」時代の弟子となったものたちです

「彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、
あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。
そして今や、それらのことは、
天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、
あなたがたに告げ知らされたのです。
それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。」
(1ペテロ 1:12-13 )
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マタイ福音書連続講解説教29
マタイ12章38~50節
「メシアとの論争―その③:しるし論争」
{メッセージの抜粋}

先回のパリサイ人らとの決定的な対立の後、
主は彼らから距離を置き、
弟子訓練に集中するようになります。

すると、パリサイ人らは寂しく感じたのでしょうか?
さらに「しるし」を求めてきました。

それに対して主は、
もうしるしは「ヨナのしるし」以外に与えられないと宣告。

これはご自身の、死と埋葬、復活が
貴方が信じるためのしるしであり、
それ以外のしるし(証拠としてのもの)は与えられない
との教えです。

1) 律法主義(口伝律法)との対立

これまでに何度も見てきたように、
主はパリサイ人や律法学者たちの律法主義と対立されました。

それは口伝律法とも言われているもので、
聖書(律法)には書かれていない、
先祖たちからの伝承が口で伝えられた教えです。

例えば安息日の律法一つに対して、
何と1500もの細則をぶら下げて
「何をしたら仕事になり、禁忌事項となるか」
を規定しています。

そのような彼らの律法解釈に対して、
メシアとしての解釈、
本来聖書が教えいるもの
を説明したのがマタイ5章でした。

主イエスはこうして律法主義は排斥されましたが、
律法自体(つまり旧約聖書)は神聖であると認め、
尊重されました。

律法に書かれていることの一つだに主は破られたことはありません。

主イエスが新しい宗教を創始したのではなく、
アブラハム、ヤコブ、イサク、
そしてモーセやダビデ、
イザヤやエレミヤなどの預言者たちの系譜を
継承したレムナント(残りのもの・真の信仰者)の一人です。

2) 主は律法を成就するために来られた

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。
廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。 」(マタイ 5:17 )

 主は、律法と預言者(旧約聖書)を「廃棄」でなく、
「成就」するためにお出でになられました。

人が守りきれなかった律法を、
はじめて新約(十字架の購い)を通じて
完成できるようになったからです。

これはOTにおいても預言されています。

31 見よ。その日が来る。--主の御告げ--その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。--主の御告げ--
33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。--主の御告げ--わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。--主の御告げ--わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」
(エレミヤ31章31~34節)

3) 主は律法を破棄された

「一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、
--律法は何事も全うしなかったのです--
他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。
私たちはこれによって神に近づくのです。 (ヘブル7:18-19)」

マタイ5章では旧約聖書が「廃棄されない」と言われていましたが、
一方ヘブル書では「廃止された」と過去完了で教えられています。

一見矛盾するようですが、
文脈を考慮すれば紐解かれます。

マタイ5章は山上の垂訓の教えで、
メシアとして律法を再解釈したところです。

当時の人々は、主が律法を破るように教えたとして誤解しました。

しかし口伝律法こそ律法の精神を見失い、
人間の教えに汲々とした形式主義です。

主はこの文脈を踏まえて律法を「廃棄でなく、成就」と言われました。

つまり律法が書かれた精神、動機、目的を
成就するのが新しい神の国運動であり、
それは十字架と復活による新しい契約により達成されたのです。

ヘブル書の論理は、
メルキゼデク系のメシアが新しい祭司となったので、
古い律法(アロン系の祭司制度)が廃止されたのだ、
というものです。

また、ここでの「廃止」は律法の精神ではなく、
祭司職や礼拝の方法、規 定などの外側の諸々の規則
であることが文脈から明らかです。

もし祭司が変わるなら、
これに付随して法律も変わらなくてはなりません。

「 さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、
--民はそれを基礎として律法を与えられたのです--
それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、
メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。
祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません。」
(へブル7:11~12)

ここで「廃止された」:(アセテーシス){ヘブル7:18}は、
聖書で2回だけ使われているギリシア語です。

他にはヘブル9:26のみに見出されます。

「もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。
しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、
ご自身をいけにえとして罪を取り除く(アセテーシス)ために、
来られたのです。」 (ヘブル 9:26)

メシアの死が罪の咎や責めを無効としたのと同様に、
律法を無効としたのです!

さらにヘブル7:18には、
律法を無効とした二つの理由があると教えます。

① 律法は人に戒めを守らせる力を与えられない「弱い」ものである。
また、神の義を与えられない「弱い」ものである
② 律法は人に命を与えない「無益なもの」である。

4)「 安息日」も、「聖日」も過ぎ去ったものである

 今やメシアの律法が
新約時代に生きるクリスチャンに適用される法体系になりました。

新しい契約により、
安息日規定をはじめとしたモーセ律法は
ことごとく廃止されています。ガラテヤ3:25、4:9

イエスは死と復活、天に上げられ父なる神の右の座に着いて
大祭司の職務に着任されました。

メシアが新しい祭司職に就任するためには
古いモーセ律法が廃棄されてなくてはなりません。

もしその律法が今も有効だとすると、
メシアは祭司の働きができないことになります。

旧約時代の祭司制度が廃れてないところでは、
新しい契約は機能しないのです。

この視点は、
「現在でも安息日の土曜日に礼拝を持つのが聖書の教えだ」
「いや新約時代の安息日は日曜なのだから、その日が聖なる日なのだ」
という考えが聖書の教えと合致していないことを明らかとしてしまいます。

つまり安息日に変わる日曜日を
礼拝のために守るようにとは教えられていません。

また場所(旧約時代はエルサレムの神殿だが今はありません)も、
その方法も(旧約は血を流しましたがいまや無用)、
日時ばかりでなくどうこうせよとの外側を規定する教えは
無効(廃棄)されたのです。

繰り返しますが、
新しい契約により律法の精神が成就されたので、
形式はことごとく廃棄されたのです。
今や無用のものとなりました。

ただ、「一緒に集まることをやめたりしないで」(ヘブル10:25)
と教えられていますので、
新しいキリストの律法は、
集会を守り続けることであるのが分かります。

つまり最低週一回の会合が、
新約時代に生きるわれわれ信者の律法です。

が、それを何曜日にせよと命じる指定は聖書にありません。
教会がそれを教えたら、本来の聖書にない「口伝律法」となります。

ただし、主が日曜朝に復活され、
以後も日曜毎に弟子たちの前に顕現されたことから
初代教会の信者たちは日曜礼拝を守り続けてきました。

それが数千年間のキリスト教会の伝統となったのです。
良い伝統であるなら、これを尊重するのは良いことです。

私たちのホサナキリスト教会も日曜礼拝を行っています。
が、それを「聖日」とは呼んでいません。

律法にあった特別な「聖なる日」、「聖なる器」、、、
すべては新約にあって無効となったからです。

ただ、長くそのような伝統の中にあった方達には、
日曜日が礼拝のための特別な日であるという感覚は
すぐに抜け切らないものです。

聖書はそれを「弱い信仰」とした上で、
強い信仰を持っている人が、批判することを禁じています。ローマ14:1~7.

日本のクリスチャンは少数ですので、
がんばって信仰生活に励もうとのあまり
子供たちの日曜部活の課題、
農作業や会社での日曜出勤に無理してしまい
「聖日厳守」との「現代の口伝律法」に縛られたきた傾向が認められます。

どうしてもこれが厳守できないとき
そこで罪責感を抱いてしまい、
健康な信仰生活が損なわれているとしたら、
「聖日」律法主義から脱却されなくてはならない
と私は考えています。

主は、
その束縛からも解放を与えてくださる方であるのを知るのも
新約時代に生きるわれわれの特権です。

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日本が米国の風下に立つ理由

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ホサナキリスト教会
「聖書広場」からの引用です
http://wdx.hosannamin.org/

「メシアとの論争―その②:ベルゼブル論争」
マタイ12章22~ 37節

~マタイ福音書連続講解説教29~

⑴歴史の分水嶺

マタイ12章は歴史の分水嶺となった出来事が記されてあります。

これを聞いたパリサイ人は言った。
「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、
悪霊どもを追い出しているだけだ。」 (マタイ 12:24)

ここで、正式にユダヤ人がイエスを拒絶したために、

❶神の国の到来プログラムが変更しました。
メシア的な王国は将来実現…主の再臨にまで延期となりました。
「教会」が誕生することになった~「奥義」(OTでは明らかでなかった啓示)
❷ユダヤの歴史が二分された
AD70年のエルサレム崩壊の裁きを受けて、世界離散の運命
約2000年間の流浪の生活が始まりました。
やがてユダヤ人は将来の艱難時代にイエスをメシアと仰ぐようになります。
    すなわち、神の選民計画はユダヤ人の失敗によって終わっていません。
❸主イエスの働きが激変した
説教は直接話法からたとえ話を多用するようになり、一般群衆には理解できないものとなりました。
奇跡は公に行われず、個人対して、しかも信仰を抱く者たちに限定されるようになりました。
群集からは身を引かれるようになり、時間のほとんどを弟子たちの訓練に使うようになりました。

⑵ルールを作る人とルールを守る人

ここで話は飛躍するようですが、
日本と欧米のポジショニングを比較して見ましょう。

昨日、日米首脳会談を終えた安部総理が帰国しました。

日本の最大課題は次の2点です。

①尖閣諸島問題でのアメリカの協力を引き出す。
②TPPで例外品目の余地を残すのを認めてもらう。

大きな成果を残せたと、日本中はお祭りムード。
一方、米国内ではニュースの片隅に小さく取り上げられたに過ぎません。

なぜいつも日本は、米国に対して下手に出るしか無いのでしょうか?

①太平洋戦争に負けたから
②東京裁判で断罪され戦争加害者の烙印をおされた
③以後、日本人が自虐史観の歴史観を植えつけられている
④米国の核の傘に守られている
⑤安保条約なくして日本の独立は守れないのだから
衛星国のような立場にいる他ない…など。

何れもその通りなのですが、
最近さらに問題の根源に踏み込んだある論文に遭遇しました。

それによると、日米では
「戦略の階層」
が異なるからだ、というもの。

日本の得意なことは物作りであり、技術です。
さらに均一された価値観のもとで和合、協力し、
創意工夫によって集約的な成果をあげることです。

これらは狭い国土での稲作農業によって
培われてきた特質と言えます。

ところが、欧米の生産形態は長い間、狩猟や放牧でした。
そこから身につけた技能とは
「管理」
することです。

家畜を管理し、天候や土壌を管理してきました。
植民地主義の中で現地民を家畜のように使役するのにも長けて、
自国民が最大の収益を生み出すシステムを構築させたのです。

それに対して、欧米の作り上げたシステムを
常に日本は後追いしてきました。

産業革命と植民地経営がセットとなった帝国主義に江戸日本が遭遇した時、
慌てて明治維新を起こしてその後を追いかけた。

植民地主義で欧米の利害と対立して
止む無く大戦に引きずりこまれた時
(あえて日本から先制攻撃をし掛けたとは記しません^o^)、
すでに彼らは民族自決や平等、人権という価値観に軸足を移し変えようとしていた。

卑近な例では、日本の得意芸の家電製品。
ソニーのウオークマンは、
大きなラジカセを携帯サイズにしたことが画期的で世界に広がりました。
コンパクトにまとめ上げる技術力!

が、今やアップル社を始めとした端末機に
その役割が取って替えられています。
アップル社は端末機を作り上げただけでなく、
iTunesという音楽配信システムまで作り上げてしまったのです。
この世界制覇システムによって、市場独占はゆるぎないものとなりました。

ルールを作る人がいる。
また、そのルールを守りその範囲内で活躍を目指す人がいる。
どちらが先行するかは明らかです。

戦勝国が押し付けた憲法を今もありがたがって貴び、
無理な解釈を重ねて辻褄を合わせるが、
改正はタブーであると自らを呪縛する
これまでの平均的な日本人がその良い例でないでしょうか。

「戦略の階層」では、7つのヒエラルキーが紹介されてあります。

①Vision. 世界観
②policy. 政策
③Grand Strategy. 大戦略
④Military Strategy. 軍事戦略
⑤Operation. 作戦
⑥Tactics. 戦術
⑦Technology. 技術

ここで日本人が得意とする「技術」が最も下にある。
米国人が価値を認める「世界観」が最上階にあります。

(3)聖書の世界観

多くの日本人が一般的に宗教に期待しているものは
即物的で現世的なご利益です。
商売繁盛、家内安全、受験祈願、、、今年も8割以上の日本人が 初詣で祈願したようです。

ところが、聖書には是等のご利益は約束されていません。
健康や繁栄が欲しくてクリスチャンになるものでもないのです。

それら大切なものを失って始めて
永遠に変わらない
普遍的な価値に目覚めて
信仰に導かれた方は多くいます。

聖書の教えは、貴方に世界観の逆転を求めるものです。
 貴方は偶然の繰り返しでサルから生まれ出たものでなく、神によって造られた存在である。
 その神の存在と人への関わりを啓示するため、神はアブラハムを先祖にもつユダヤ民族を選ばれた。
 「神の国」はユダヤ人から生まれ出る一人の子孫、メシアによって成就する。
 メシアが2000年前に来られた時、ユダヤ人はこの方を排斥した。
 よって当時のユダヤ人から神の国(メシア的王国)は取り去れて、教会時代が始まり、神の国の福音は全世界に広まって行った。
 神がアブラハムと交わした契約は片務契約である。それゆえその契約はユダヤ人の失敗にもかかわらずに成就される。
 現段階でその成就の片鱗を見ることができる。
   ①土地所有に関する契約条項ーユダヤ人の約束の土地への帰還
   ②子孫に関する契約条項ーユダヤ民族を始めアラブ民族など多くの国々が誕生した、メシアであるイエスが生まれ出た
   ③祝福に関する契約条項ーユダヤ人を迫害するものはより大きな裁きを受けてきた。
    メシアを通じて全ての異邦人が救いの祝福を受けるようになった。

この契約の完全成就は将来、
主イエスが再び地上にお帰りになられる時(地上再臨)であり、
世界の歴史はそこに収斂されつつある。

聖書は明日、明後日の貴方のご都合を約束しない。
数千年単位で俯瞰する世界歴史が
聖書預言の通りに推移していることを教えており、
そこに神の視点で歴史を理解する世界観がある。

そこには神の約束に立ち続ける忍耐と
今日の課題に立ち向かう力とがある。
#救済

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ユダヤ人にとって安息日は最重要です

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ホサナキリスト教会「聖書広場」からの引用です。
http://wdx.hosannamin.org/

「メシアとの論争―その1:安息日論争」マタイ 12 章 1~ 21 節
~マタイ福音書連続講解説教 28~

マタイ 12 章には3種類のイエスに対する論争・挑戦があります。

1. 安息日に関する論争         :1~21 節
2. 悪霊を追い出す権威に関する論争 :22~37 節
3. メシア的しるしに関する論争     :38~50 節

安息日は、ユダヤ人・ユダヤ教を最も特徴付けている、
最重要の戒律です。

私達は神により造られ、
神の栄光を現すために今を生きています。

これが聖書が教える生きる目的であると言えます。

ところが、ユダヤ人は違うようです。
「ユダヤ人は安息日を守るために造られた」
という格言があるほど
安息日は絶対的な位置を占めていたのです。

現在でも正統派は
そのような理解を保ち続けています。

マカベア戦争で、
安息日に進入してきたアンティオコス軍勢に応戦せず、
彼らはみすみす敗北しています。

ローマ・ポンペイウスにも、安息日だからと言って反撃せず、
エルサレム入城を許してしまっています。

安息日の神聖を汚すよりも、
命を落とした方が潔いと考えたのです。

そんなに大切な「安息日」とは、そもそも何でしょうか?

❶律法と口伝律法

安息日についての教えは、
旧約聖書にあります。

 「8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。--あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も--
11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」
出エジプト 20:8~11

ここに「どんな仕事もしてはならない」とありますが、
これだけなら、何をもって「仕事」と定義するのか定かではありません。

そこで彼らが定義したものが口伝えで先祖代々から伝えられてきました。
これを「口伝律法」(ミシュナ)といいます。

モーセがシナイ山で神から授かった律法は、
成文法として旧約聖書に収められていますが、
その際、文書にならなかったものがあって、
それらが口伝律法になったと彼らは考えたのです(事実ではありません)。

この論理から、律法と口伝律法とは同等の権威をもとものと考えられていました。

安息日にしてはならない口伝律法が、
驚くべきことに、1500 ほどあるのです!

それらすべては、たった一つの「安息日」に関しての細則です。

そしてメシアが出現したら、
メシアは当然ミシュナを尊重し、
遵守すると信じられていました。

イエス様は口伝律法を否定されました。

当然、体制側のパリサイ派、律法学者たちから激しい反感を買うことになります。

❷パリサイ派の糾弾

 「1そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
3 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
4 神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
8 人の子は安息日の主です。」
(マタイ 12:1-8)

麦畑にて
イエス様は弟子たちが穂を摘まんで食べたと言って
パリサイ派から訴えられました。

ここで、誰でも麦畑で穂をつんで食べることは許されていたのです。

「隣人の麦畑の中に入ったとき、
あなたは穂を手で摘んでもよい。
しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」 (申命記 23:25)

パリサイ人たちにすれば、
安息日にこれらを行ったことが問題となったのです。

以下が彼らの告発理由です。

①手で穂を摘まんだ ~収穫の労働を行った!
②手の中で、穂ともみ殻のふるい分けをした~ 脱穀の労働を行った!
③そのもみ殻を息で吹き飛ばした ~食事の準備(ふるいわけ) の労働を行った!
④実を食べた(胃の中に納めた)~貯蔵の労働を行った!

❸主イエスの回答

①歴史的事例
かつてダビデとその部下たちは律法を破った。
祭司しか食べてはならないはずの捧げられたパンを
空腹だからと言って食べたのが律法違反である。

それでも神は咎めておられない。
生命の維持は律法に優先されるものだから。

ここに「ダビデの子」=メシアとしての
イエスとその弟子たちが同様のことをして、
何の問題があろうか。

②神学的事例(礼拝は律法に優先されるもの)
祭司たちは礼拝を維持するため、
安息日でも神殿で多くの仕事をしている。
つまり、礼拝と安息日遵守とをユダヤ教で比較すると
どちらが優先されるのだろうか?

答えは、礼拝であると明白に旧約聖書が認めている。

メシアはその礼拝対象のお方であられる。

ゆえにメシアは、神殿自体よりも偉大な方である 。

③聖書的事例
「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」(ホセア 6:6 )

外面的な儀式の遵守よりも、
神が内面的な愛、哀れみを重視されることを
聖書から学んでいないのか?との問い。

弟子たちが生命維持する上で必要だった「食べる」行為を糾弾して、
不必要な禁止事項を設ける姿勢は
聖書が明白に咎めているではないか。

これらの主イエスの反論に彼らは完敗します。

答えることすらできません。

そこで「だめなものはだめ」「ならぬものはならぬものです」
となり、論理なしで主を拒絶していきます。

これが次回のベルゼブル論争へと繋がります。
#救済

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