マタイ福音書連続講解説教29
マタイ12章38~50節
「メシアとの論争―その③:しるし論争」
{メッセージの抜粋}
先回のパリサイ人らとの決定的な対立の後、
主は彼らから距離を置き、
弟子訓練に集中するようになります。
すると、パリサイ人らは寂しく感じたのでしょうか?
さらに「しるし」を求めてきました。
それに対して主は、
もうしるしは「ヨナのしるし」以外に与えられないと宣告。
これはご自身の、死と埋葬、復活が
貴方が信じるためのしるしであり、
それ以外のしるし(証拠としてのもの)は与えられない
との教えです。
1) 律法主義(口伝律法)との対立
これまでに何度も見てきたように、
主はパリサイ人や律法学者たちの律法主義と対立されました。
それは口伝律法とも言われているもので、
聖書(律法)には書かれていない、
先祖たちからの伝承が口で伝えられた教えです。
例えば安息日の律法一つに対して、
何と1500もの細則をぶら下げて
「何をしたら仕事になり、禁忌事項となるか」
を規定しています。
そのような彼らの律法解釈に対して、
メシアとしての解釈、
本来聖書が教えいるもの
を説明したのがマタイ5章でした。
主イエスはこうして律法主義は排斥されましたが、
律法自体(つまり旧約聖書)は神聖であると認め、
尊重されました。
律法に書かれていることの一つだに主は破られたことはありません。
主イエスが新しい宗教を創始したのではなく、
アブラハム、ヤコブ、イサク、
そしてモーセやダビデ、
イザヤやエレミヤなどの預言者たちの系譜を
継承したレムナント(残りのもの・真の信仰者)の一人です。
2) 主は律法を成就するために来られた
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。
廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。 」(マタイ 5:17 )
主は、律法と預言者(旧約聖書)を「廃棄」でなく、
「成就」するためにお出でになられました。
人が守りきれなかった律法を、
はじめて新約(十字架の購い)を通じて
完成できるようになったからです。
これはOTにおいても預言されています。
31 見よ。その日が来る。--主の御告げ--その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。--主の御告げ--
33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。--主の御告げ--わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。--主の御告げ--わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」
(エレミヤ31章31~34節)
3) 主は律法を破棄された
「一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、
--律法は何事も全うしなかったのです--
他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。
私たちはこれによって神に近づくのです。 (ヘブル7:18-19)」
マタイ5章では旧約聖書が「廃棄されない」と言われていましたが、
一方ヘブル書では「廃止された」と過去完了で教えられています。
一見矛盾するようですが、
文脈を考慮すれば紐解かれます。
マタイ5章は山上の垂訓の教えで、
メシアとして律法を再解釈したところです。
当時の人々は、主が律法を破るように教えたとして誤解しました。
しかし口伝律法こそ律法の精神を見失い、
人間の教えに汲々とした形式主義です。
主はこの文脈を踏まえて律法を「廃棄でなく、成就」と言われました。
つまり律法が書かれた精神、動機、目的を
成就するのが新しい神の国運動であり、
それは十字架と復活による新しい契約により達成されたのです。
ヘブル書の論理は、
メルキゼデク系のメシアが新しい祭司となったので、
古い律法(アロン系の祭司制度)が廃止されたのだ、
というものです。
また、ここでの「廃止」は律法の精神ではなく、
祭司職や礼拝の方法、規 定などの外側の諸々の規則
であることが文脈から明らかです。
もし祭司が変わるなら、
これに付随して法律も変わらなくてはなりません。
「 さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、
--民はそれを基礎として律法を与えられたのです--
それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、
メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。
祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません。」
(へブル7:11~12)
ここで「廃止された」:(アセテーシス){ヘブル7:18}は、
聖書で2回だけ使われているギリシア語です。
他にはヘブル9:26のみに見出されます。
「もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。
しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、
ご自身をいけにえとして罪を取り除く(アセテーシス)ために、
来られたのです。」 (ヘブル 9:26)
メシアの死が罪の咎や責めを無効としたのと同様に、
律法を無効としたのです!
さらにヘブル7:18には、
律法を無効とした二つの理由があると教えます。
① 律法は人に戒めを守らせる力を与えられない「弱い」ものである。
また、神の義を与えられない「弱い」ものである
② 律法は人に命を与えない「無益なもの」である。
4)「 安息日」も、「聖日」も過ぎ去ったものである
今やメシアの律法が
新約時代に生きるクリスチャンに適用される法体系になりました。
新しい契約により、
安息日規定をはじめとしたモーセ律法は
ことごとく廃止されています。ガラテヤ3:25、4:9
イエスは死と復活、天に上げられ父なる神の右の座に着いて
大祭司の職務に着任されました。
メシアが新しい祭司職に就任するためには
古いモーセ律法が廃棄されてなくてはなりません。
もしその律法が今も有効だとすると、
メシアは祭司の働きができないことになります。
旧約時代の祭司制度が廃れてないところでは、
新しい契約は機能しないのです。
この視点は、
「現在でも安息日の土曜日に礼拝を持つのが聖書の教えだ」
「いや新約時代の安息日は日曜なのだから、その日が聖なる日なのだ」
という考えが聖書の教えと合致していないことを明らかとしてしまいます。
つまり安息日に変わる日曜日を
礼拝のために守るようにとは教えられていません。
また場所(旧約時代はエルサレムの神殿だが今はありません)も、
その方法も(旧約は血を流しましたがいまや無用)、
日時ばかりでなくどうこうせよとの外側を規定する教えは
無効(廃棄)されたのです。
繰り返しますが、
新しい契約により律法の精神が成就されたので、
形式はことごとく廃棄されたのです。
今や無用のものとなりました。
ただ、「一緒に集まることをやめたりしないで」(ヘブル10:25)
と教えられていますので、
新しいキリストの律法は、
集会を守り続けることであるのが分かります。
つまり最低週一回の会合が、
新約時代に生きるわれわれ信者の律法です。
が、それを何曜日にせよと命じる指定は聖書にありません。
教会がそれを教えたら、本来の聖書にない「口伝律法」となります。
ただし、主が日曜朝に復活され、
以後も日曜毎に弟子たちの前に顕現されたことから
初代教会の信者たちは日曜礼拝を守り続けてきました。
それが数千年間のキリスト教会の伝統となったのです。
良い伝統であるなら、これを尊重するのは良いことです。
私たちのホサナキリスト教会も日曜礼拝を行っています。
が、それを「聖日」とは呼んでいません。
律法にあった特別な「聖なる日」、「聖なる器」、、、
すべては新約にあって無効となったからです。
ただ、長くそのような伝統の中にあった方達には、
日曜日が礼拝のための特別な日であるという感覚は
すぐに抜け切らないものです。
聖書はそれを「弱い信仰」とした上で、
強い信仰を持っている人が、批判することを禁じています。ローマ14:1~7.
日本のクリスチャンは少数ですので、
がんばって信仰生活に励もうとのあまり
子供たちの日曜部活の課題、
農作業や会社での日曜出勤に無理してしまい
「聖日厳守」との「現代の口伝律法」に縛られたきた傾向が認められます。
どうしてもこれが厳守できないとき
そこで罪責感を抱いてしまい、
健康な信仰生活が損なわれているとしたら、
「聖日」律法主義から脱却されなくてはならない
と私は考えています。
主は、
その束縛からも解放を与えてくださる方であるのを知るのも
新約時代に生きるわれわれの特権です。
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