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母の賢さと父の病

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「人生は80歳から始まる」 「人生は80歳から始まる」 1988年夏の礼拝後 1988年夏の礼拝後 これも礼拝後 これも礼拝後

日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃったのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福でした。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第四回目は、ドロシー先生が兄妹喧嘩をされた時のことと、重大なご家庭の決断についてです。







決して天使の子供ではなかったこと




二人の兄弟たちに挟まれたサンドイッチであった私は複雑に混ざり合ったようなもので、おとなしいよりはワイルド、かわいいよりはたちの悪かった方だと思います。

長男のように膨れっ面をしたかと思うと、次男のように感情を爆発させることもできました。

病気の時は、私たちの興味がプールされた時でした。

私たち三人は一緒に何かの病気になったものでして、
家の外にはお医者さんの診断を示すための赤、白、黄色の検疫サインが立てられたものでした。

その標識が立てられなかった時って幾ばくもなかったのではないかしらん。

私の中にある“タイガー”は、薬を服用しないことに表されたと言えます。
ほとんど薬を摂らないものですからその効果だってありはしません。

私たちの好奇心がプールされたそんな時には、母の興奮度も色づいて行きます。

私たちが皆麻疹にかかりベッドで寝込んでいた時もそうでした。

彼女が鶏に餌をやりに行き卵を集めそんな仕事をして戻ってみると、私たちが外で雪の中を走り回っているか、古いオルガンの周りに集まっては音楽祭をしているかを見つけたものです。

弟は水ぼうそうを二回もやり、私も再びおたふく風邪となったのは当然のことです。
母はそんな時でも忍耐ぶかく、また愛と信仰の人でした。

こんな滑稽な私たちの子供時代は後年になってからは笑い話でしょうが。

弟は成長も早く、すぐに私に追いつきました。

しばらくの間、私たちは双子のような時がありました。
ある近所のお年寄りはそんな私たちをとても可愛がって色々とお世話をしてくれたり、
私たちを「俺の双子だ」なんて読んでくれたりしました。

私たちは家庭ごっこをしたり、子馬に乗っかったり喧嘩もしました。

大きな影を作る木の下の庭で遊んでいたときのことです。

その後長い間の記憶に残る日となったのですが、、どんな理由だったのか覚えてません。
だけど突然私は癇癪を爆発させたのでした。

私は金属製のおもちゃを弟に投げつけ、それが彼の額の真ん中あたりに当たってしまったのです。彼は泣き叫ぶとその傷口から血液がほとばしり出てきました。母は走って駆けつけてきます。

私は殺人者となってしまった気分です。
私はスパンクされなかったし、説教もされませんでした。ただ孤独のままに置かれたのです。

タンスの中に閉じ込められはしないし、たった一人でどこにでもふらつくことができたものの、再び「お姉さん」と呼ばれるに値しないものであることを感じました。

母は最近農場で人知れず生まれたばかりの毛もじゃの子猫をこの傷ついた弟に与えたのです。
彼の傷口はやがて癒されて行って、こんなおてんばの姉の私には無知の子猫に関する秘密の情報を持ってることを自慢気としていました。

そんな日が続いたときのことです。

午後になって私たちの日課である郵便箱まで歩く時となりました。
当時は農家一軒づつ配達するような時代ではなかったのです。
見栄え良い郵便箱の一列が、便利な交差点のところに標識のように立っていました。

私たちの家からは800メートルほど離れています。郵便物を回収するのは共同作業でしたから、その傷ついた弟と私は一緒に出掛けました。歩きながら私は自分の腕を彼の首に置き、お詫びすることはせずにその秘密を覗き込む形となったのです。弟はかがみ込んで精一杯の抵抗を示しました。言葉を交わさずともそんなやりとりから自然に遊びが生まれて行きました。

母親のこの賢い分別ある子供たちへの取り扱は今でも私を感動させてくれます。
そんなことを通じて金属を人に投げつけ怪我させてしまったことから私は癒されていったのでした。




父親が健康を失い夢が崩れ去ったこと




農場敷地代金を支払い終えるだけの健康でたわわに実った作物は与えられなかったのです。

まぁ作物の実り具合はまぁまぁといったところなのですが、私たちの父の健康がおかしくなりました。咳き込むことが多くなり痩せて行ったのでした。

それは肺炎と診断されました。その当時癒す方法のなかった時代にあって私はそのことでひどいパンチを食らったように感じました。彼のお姉さんもそれで亡くなっていて、今度は私の父の番と言うわけですか?

まだとても若いにもかかわらず、あと数ヶ月しか残されていない苦境に陥ったのです。それでも私の母は諦めませんでした。何か一つの可能性さえあれば彼女はそれを見つけ出すのです。

まるで夜空の星のように彼女の信仰は輝きました。やがて彼女は1つの決意に至るのです。
どんな反対も批判もそして否定的な親戚からの言葉も彼女のその決意を変える事はありませんでした。

私たちの持つ全ての財産を売り出して、あらゆる負債の支払いを終え、その後乾燥した土地であるコロラド州に引っ越そう!というものです。

もし母が何らかの恐れを持っていたとしても(もちろん彼女は恐れていたはずですが)、それを子供たちには決して悟らせませんであした。友人や親族を置いて、そしてすべての財産を売り払って引っ越すと言うことは、多くの点で心引き裂かれるような思いだったはずですでしょうが。

アブラハムはすべての持ち物を持って旅に出かけましたが、私たちは違います。
それでも私たちにとっては冒険であり、また父親もやがて時間をかけて回復していったのです。

私たちは新しい土地で新しい人生を歩み始めました。
#ドロシー師

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米国人宣教師の回想録③

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ドロシー師回顧録 「人生は80... ドロシー師回顧録 「人生は80歳から始まる」 錦教会赴任最初の年の夏季学校キ... 錦教会赴任最初の年の夏季学校キャンプ 旧教会堂を前にして 旧教会堂を前にして


日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃったのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福でした。

まるで宝物を探し当てたような感覚を持ちながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第三回目では、ドロシー先生のご両親を回顧しています。




母親と父親の思い出



「愚か者はそれが口にする多くの愚かな言葉によって知られる」

「多くの無駄話は罪を逃れることは出来ない」

「ムチを控えるなら子供を甘やかすことになる」



これらと他の幾つかの箴言は、二人の兄弟に挟まれたサンドウイッチであったおしゃべり好きな少女に記憶されました。賢く優れものの長男と可愛くてお利口さんの次男に挟まれた私には子供時代の初期から決して忘れない教訓として学んだのでした。

母親も父親も正邪を判断する事柄の境界線において、当時の時代特有のクリスチャン改心者でした。

人生とは極論すれば「地獄かきよめか」のどちらかだったんです。

このテキスト・メッセージはまた私が初めて参加した天幕集会で横断幕に書かれていたものでもありました。

父親が農場の動物を外に出すときは、よく通るまた短気な声のために遠くからでもよく聞こえました。何て大きな違いでしょうか! 農場と教会での声。そのよく通る声で溢れるように賛美したものです。

母親からは喜びの泉が常に溢れています。彼女の妹とその家族もまた、間も無くその喜びを見出すようになりました。



初期の訓練



突然私たちの生活に目的と希望が満ちるようになりました。

いつも日曜学校と礼拝とに出席するだけではなく、毎週の小屋での祈祷会にも参加するようになってからのことです。そこは大人も子供も一緒に賛美する集会で、今日の今までその歌声が私の心の中に残っています。

それは馬と馬車の日々であったとも言えます。人生の早い段階で私は主の日を守ること、そして時間を守る事の大切さを学びました。

私たちの日常の過ごし方は変わりました。

混雑した町へ夕食のために出かけていくことに変わり、家族でのオルガンコンサートや交わり、また他のアクティビティーを楽しむようになったのです。

主にある新しい家族を発見することの他にも、こんなに楽しいことがいろいろとありました。

日曜日は主のための日です。
聖なる日として保たれるべきものです。週には他に6日もあるのですから、その時に楽しんだり遊んだりできるはず。この一日だけは主のためのものです。その日が退屈だったことを一度も思い出すことはできません。

当時の我々村人たちは買い物するのではなくて物々交換でした。

町の方々は私たちのミルク、バター、クリーム、卵等を必要としていましたし、私たちは農場では生産できないものを必要としていました。

通常のお店では土曜日の夜が物々交換の会場となり、私たちは隣人とおしゃべりを楽しみながらまたときにはいくつかの贅沢品を許されたりしながら交換しました。

ある春の土曜日の夜のことでした。

私たちの贅沢品とは欲しかった凧を買うことでした。母はそれを月曜までしまっておいたのです。

日曜の午後となり、父も母も昼寝をしてる時でした。

私たち三人は凧のところまで行き、心の痛みを感じながらも静かに家を抜け出すと、その宝物を取り出して木々が密集しているところの池の近くまで降って行きました。

そこは家からいくらか距離のあるところで視界の外にあった場所でして、私たちはうまく凧を風に乗せ空高く上げたのです。

凧は高い梢の中へと入っていき、それがあまりにも高かったので枝に引っかかった凧を回収できなくなってしまいました。

これは私たちの不従順に対する神からの突然の裁きと感じて辛い経験となりました。

私たちはスパンクされることも叱られることも罰を与えられることも必要なかったのです。

ただ安息日を守るべき学科となりました。

このような“凧”経験は私の人生に他にもあったはずですが、思い出せるのはこのことだけです。

#ドロシー師

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米国人宣教師の回顧録

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ドロシー師回顧録 人生は80歳... ドロシー師回顧録 人生は80歳から始まる 1988年、神学院卒業直後の2... 1988年、神学院卒業直後の23歳の私と73歳のドロシー先生
錦キリスト教会旧会堂での英会話クラスにて。
「人生は80歳から始まる」

日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで1人で伝道されていらっしゃったのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名によると、「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力に満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出した背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福でした。

まるで宝物を探し当てたような感覚を持ちながらページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


まず最初の第一回目は、ドロシー先生の誕生ストーリーからです。








第1章


宣教師の養成遺産


それは実に膨大な時間、問題、訓練を要するプロセスです。
私の場合、43年間かかりました。

私には実に素晴らしい遺産があったことも覚えねばならないでしょう。私の先祖はフランスのユグノーまで遡ります。

それは信仰ゆえに迫害を受けた人々で、農場、財産、富を背後に棄てて国から逃れてきた人たちでした。自由を求めて定かでない旅を始めたのです。

ある人たちはオランダを経由し、他の人たちはイギリスを経由してアメリカまで渡ったのでした。


農場での誕生と幼少時代

私は1915年11月11日にアイオワ州にて誕生しました。
二人の兄弟に挟まれるサンドウイッチの具のように真ん中でした。

家族全体から「お姉ちゃん」というように呼ばれたものですから、自分の名前の持つ高貴な意味については長く無知のままでした。

ずっと後になって次のような意味があることを知りました。

「ドロシー」

それは、人気ある名前の意味で「神の賜物」

起源ーギリシア語

強調点ー「この女性は決してあなたを引き下げない」
「彼女の行く手には挑戦が待っている」
「彼女には想像力がある」
「彼女は成熟した配慮ある行動をする」

これら上記の意味には私の実際からして手が届きそうになく、単純に「お姉ちゃん」が最もふさわしいものだったでしょう。

私の二人の兄弟と私は農場で誕生したのです。私たちにはご自慢の動物園や木の枝に結ばれたブランコ、それに忍耐深い子馬がいました。

その子馬は人嫌いなのですが私たちは別格で、三人一緒に乗っては滑り台のようにして遊んだものです。それに乗って尻尾へ滑り落ちるのですが、何ら抵抗しませんでした。

ある時、私はそれに乗ったまま眠り落ちてしまったこともあります。子馬はそれに気づくと、上手に完璧でゆっくりとした早さでしか動こうとはしません。お陰で私はそのまま午後の昼寝を楽しめました。

また私たちには専用の特別牛乳配送装置がありました。直接ミルクの供給源を「モミモミ」して自分たちのカップに注ぐのです。

電話は地方新聞の役割を果たしていました。

1本の電話線に多数の人がつないでいるものですからご近所さんの愚痴などこぼさないように気をつけねばなりません。緊急時には皆が協力して電話を切りその人に優先権を与えたものです。

私の子供の頃はテレビはまだ無く、漫画本さえ見たことありません。従兄弟で集まる時にはそれはそれは楽しかったですよ。自分たちで即興の笑い話や劇を作ってしまうですから。


(つづく)
#ドロシー師

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