日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。 私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。 卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。 そこで一人で伝道されていらっしゃったのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。 私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。 本の題名は「人生は80歳から始まる」。 確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。 私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。 今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福でした。 まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。 皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。 その第四回目は、ドロシー先生が兄妹喧嘩をされた時のことと、重大なご家庭の決断についてです。 決して天使の子供ではなかったこと 二人の兄弟たちに挟まれたサンドイッチであった私は複雑に混ざり合ったようなもので、おとなしいよりはワイルド、かわいいよりはたちの悪かった方だと思います。 長男のように膨れっ面をしたかと思うと、次男のように感情を爆発させることもできました。 病気の時は、私たちの興味がプールされた時でした。 私たち三人は一緒に何かの病気になったものでして、 家の外にはお医者さんの診断を示すための赤、白、黄色の検疫サインが立てられたものでした。 その標識が立てられなかった時って幾ばくもなかったのではないかしらん。 私の中にある“タイガー”は、薬を服用しないことに表されたと言えます。 ほとんど薬を摂らないものですからその効果だってありはしません。 私たちの好奇心がプールされたそんな時には、母の興奮度も色づいて行きます。 私たちが皆麻疹にかかりベッドで寝込んでいた時もそうでした。 彼女が鶏に餌をやりに行き卵を集めそんな仕事をして戻ってみると、私たちが外で雪の中を走り回っているか、古いオルガンの周りに集まっては音楽祭をしているかを見つけたものです。 弟は水ぼうそうを二回もやり、私も再びおたふく風邪となったのは当然のことです。 母はそんな時でも忍耐ぶかく、また愛と信仰の人でした。 こんな滑稽な私たちの子供時代は後年になってからは笑い話でしょうが。 弟は成長も早く、すぐに私に追いつきました。 しばらくの間、私たちは双子のような時がありました。 ある近所のお年寄りはそんな私たちをとても可愛がって色々とお世話をしてくれたり、 私たちを「俺の双子だ」なんて読んでくれたりしました。 私たちは家庭ごっこをしたり、子馬に乗っかったり喧嘩もしました。 大きな影を作る木の下の庭で遊んでいたときのことです。 その後長い間の記憶に残る日となったのですが、、どんな理由だったのか覚えてません。 だけど突然私は癇癪を爆発させたのでした。 私は金属製のおもちゃを弟に投げつけ、それが彼の額の真ん中あたりに当たってしまったのです。彼は泣き叫ぶとその傷口から血液がほとばしり出てきました。母は走って駆けつけてきます。 私は殺人者となってしまった気分です。 私はスパンクされなかったし、説教もされませんでした。ただ孤独のままに置かれたのです。 タンスの中に閉じ込められはしないし、たった一人でどこにでもふらつくことができたものの、再び「お姉さん」と呼ばれるに値しないものであることを感じました。 母は最近農場で人知れず生まれたばかりの毛もじゃの子猫をこの傷ついた弟に与えたのです。 彼の傷口はやがて癒されて行って、こんなおてんばの姉の私には無知の子猫に関する秘密の情報を持ってることを自慢気としていました。 そんな日が続いたときのことです。 午後になって私たちの日課である郵便箱まで歩く時となりました。 当時は農家一軒づつ配達するような時代ではなかったのです。 見栄え良い郵便箱の一列が、便利な交差点のところに標識のように立っていました。 私たちの家からは800メートルほど離れています。郵便物を回収するのは共同作業でしたから、その傷ついた弟と私は一緒に出掛けました。歩きながら私は自分の腕を彼の首に置き、お詫びすることはせずにその秘密を覗き込む形となったのです。弟はかがみ込んで精一杯の抵抗を示しました。言葉を交わさずともそんなやりとりから自然に遊びが生まれて行きました。 母親のこの賢い分別ある子供たちへの取り扱は今でも私を感動させてくれます。 そんなことを通じて金属を人に投げつけ怪我させてしまったことから私は癒されていったのでした。 父親が健康を失い夢が崩れ去ったこと 農場敷地代金を支払い終えるだけの健康でたわわに実った作物は与えられなかったのです。 まぁ作物の実り具合はまぁまぁといったところなのですが、私たちの父の健康がおかしくなりました。咳き込むことが多くなり痩せて行ったのでした。 それは肺炎と診断されました。その当時癒す方法のなかった時代にあって私はそのことでひどいパンチを食らったように感じました。彼のお姉さんもそれで亡くなっていて、今度は私の父の番と言うわけですか? まだとても若いにもかかわらず、あと数ヶ月しか残されていない苦境に陥ったのです。それでも私の母は諦めませんでした。何か一つの可能性さえあれば彼女はそれを見つけ出すのです。 まるで夜空の星のように彼女の信仰は輝きました。やがて彼女は1つの決意に至るのです。 どんな反対も批判もそして否定的な親戚からの言葉も彼女のその決意を変える事はありませんでした。 私たちの持つ全ての財産を売り出して、あらゆる負債の支払いを終え、その後乾燥した土地であるコロラド州に引っ越そう!というものです。 もし母が何らかの恐れを持っていたとしても(もちろん彼女は恐れていたはずですが)、それを子供たちには決して悟らせませんであした。友人や親族を置いて、そしてすべての財産を売り払って引っ越すと言うことは、多くの点で心引き裂かれるような思いだったはずですでしょうが。 アブラハムはすべての持ち物を持って旅に出かけましたが、私たちは違います。 それでも私たちにとっては冒険であり、また父親もやがて時間をかけて回復していったのです。 私たちは新しい土地で新しい人生を歩み始めました。