あなたの結婚、恋人関係大丈夫ですか?
アメリカに来て、ドメスティックバイオレンス、家庭内暴力の被害を受けている方が多いように感じます。
言葉と文化が違うので、どうしても日本人女性は、こんなものなのかなーなんて思い、だんだんと洗脳されていっているように感じます。
あなたの結婚は大丈夫ですか?
ドメスティックバイオレンスの虐待の種類は五種類あります
肉体的な暴力
金銭のコントロール
言葉の暴力
性的な暴力
宗教を用いての暴力
特徴は、相手があなたを支配し、あなたの上だという絶対的な力をもち、あなたを自分に完全に従わせます。
結婚関係は同等です。物事を決めるにも、一緒に決めるのです、
あなたは、共同の銀行口座を持っていますか。
家の権利は、共同ですか。
充分な生活費がありますか。
急に物入りな時には、自由にお金をおろせますか?
よく聞くのは、アメリカの夫婦の在り方はこうなのかなーって思っていた。分からなかった。
などということです。
また、言葉の問題もですが、F ワードとか、ビッチとか言われているなら、問題です。もっと普段ひどいことを言われているのだと察します。
もしも、手をあげられたのなら、警察に電話してください。
今すぐ誰かに相談してください。
逃げてください。
お金がないから。。。と心配しないでください。
ビザが。。。とか心配しないでください。
大丈夫です。
2019年4月21日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、
VIDEO
ヨハネ20: 19-29
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し込んでみなければ、決して信じません」と言った。26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
★ 復活の喜び Joy of Resurrection
昨日のイベントで見たビデオの通り、イエス様は蘇られ、一番に復活を知らされたのは忠実にイエス様を愛した女たちでした。イエス様は、なぜ泣いているのか、とマリアに語り掛けられました。そして、弟子たちに女たちが知らせました。しかし、なかなか、弟子たちは女たちの言葉で信じることができませんでした。
★ 平安があるように Peace be with you
なかなか、イエス様の復活を信じられない弟子たちのところに、イエス様ご自身が復活のお身体で現れました。
そして、信じられない弟子たちに繰り返し言ったのは、「平安あれ」です。
弟子たちは、恐れのあまり、部屋に閉じこもり隠れていたのです。みなさん、恐れは、信仰の真逆です。といつも話している通りです。また、恐れと信仰は共存することができません。半分信じて、半分信じない、なんてことはできないのです。信じるとは、100パーセント信じてないと信じるということではないのです。
● 平安について…エイレーネ、へブル語のシャロームに近い言葉。
一時的な休みという意味ではなく、苦痛、労苦からの解放の意味があります。また、神の祝福を受け継ぐことです。すなわち、自分を打ちたたいて働いて働いて得られるもので自分に休みを与えるのではなく、み父の子であることで継承される神の祝福によって生きて行けるから、あくせく、または、じたばたすることをやめて安息することができる、という意味です。
こんな、平安があったら、私たちは強く、どんな状況の中でも生きられる、耐えられるのではないでしょうか。イエスは、繰り返し、その平安を宣言しています。
★ 傷を見せた
イエス様は、復活されてから、ご自分を紹介されるときに、ご自分の傷を見せられたとあります。イエス様は、神の子であるアイデンティティの上に、傷を負ったもの、また、罪人の一人として数えられたものとしてのアイデンティティを加えられたのです。
みなさん、不思議だと思いませんか。
私たちに置き換えて考えてみたらどうでしょうか。自分の弱さを誇りにする人はあまりいないのです。
ましては、罪人の一人として数えられた歴史など、本当は黒歴史なのです。また、傷跡何て、隠して生きたいものなんです。私は、いつも腕に傷があります、また指にタコがあります。また、生まれたときらあるあざも、そばかすも、隠したいと思っています。人に見つけられて聞かれたら、恥ずかしく思いますし、説明することが億劫です。
しかし、イエス様は、自分を紹介する時に傷から見せられたのです。
私たちは、自分の弱さの象徴を抹消したいと思いますが、イエス様は違うのです。
★ 聖霊を受けよ
「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなた方を遣わす。」
私たちが必要なものは、復活のキリストが全てくださいました。平安とともに、聖霊を受けよ、と。
私たちを変えることができるのに、神の息、聖霊の力があります。聖霊様が私たちにやどり、のぞみ、聖霊様と共に働くなら、力を得るのです。イエス様は、「聖霊を受けて、イエス様の働きのために遣わされよ」というのです。
私たちの傷を隠すような、自分の弱さを誇れない、こんな臆病な私たちにには、聖霊の、神の力が無くてはならないのです。
★ トマス
「信じないものにならないで信じるものになりなさい」と、トマスは言われました。
トマスは、傷を見ないと信じないと豪語していました。トマスは、主の死んだことに、非常に悲しんでいたのです。傷ついたのです。自分の存在を脅かすほどに傷ついたのです。自分の希望全てをかけてついて行った方が、あんな恥ずかしい、呪われた死に方をしたんです。
グリーピングGrieving, 悲しみが癒えるの順序について。この信じられない出来事を否定して受け入れられない、どうして自分におこったのかと怒り、どうにか変えられないかと考え、落ち込み、そしてだんだん事実を受け入れられるようになるものです。
トマスの発言には、トマスのショックと悲しみの度合いが現れている。そんな、トマスにイエス様は歩み酔ってくれました。その歩みよりの仕方がこうでした。
★ イエスの傷とあなたの傷
イエス様は、その傷にトマスの手を差し入れることを促しました。
トマスはその傷に手を差し入れた。
自分の傷、怒り、悲しみと傷を合わせた時、「私の神」と告白できた。
先週、死が無ければ復活が無いと話しました。
復活を信じるには、死の悲しみを知らなければ、信じることができないのです。
あなたの死の悲しみ、暗闇の暗さ、自分の罪への絶望はいかほどのものでしょうか。
キリストのうち傷に相当したあなたの暗黒はどれほどのものだったのでしょうか。
● 私たちの弱さや傷、過去をキリストの傷の中に合わせる時に、私たちの魂に休みが来るのです。また、平安が来るのです。平安が来るならば、信仰に根付くことができるのです。
今日、キリストは、あなたを招いています。
この傷にあなたの手を入れてみなさいと。あなたの、弱さとは何ですか。あなたの黒歴史はなんですか。キリストがあなたのために死ななければならなかった、その罪とは何だったのでしょうか。キリストは招いておられます。
あなたの傷、暗闇とイエスの経験した闇を合わせてみなさい、と。
VIDEO
お時間がある時に観てください。一時間くらいのドキュメンタリーです。
シアトルの現状とともに最近の映像です。
私は、今、女性のホームレスシェルターでセラピストとしてインターンをしています。
私が、毎日目の当たりにしている現状がこれです。
毎日毎日、何人もの人たちがシェルターに入るために電話をかけてきます。
その人たちは、人生をやり直したい人たちです。
皆さん、ホームレス、アルコールまたは薬物依存症です。また、女性の場合はここで、暴力の被害者であるということも含まれてきます。
路上で生活し、薬物をやるということは、いつなんどきレイプされてもおかしくなく、また、人に騙されて身体を売るために売られたりします。
ほとんどの人たちが、暴力や性的虐待、または薬物、アルコール中毒の壊れた家庭から来ています。
世代に渡って繰り返している問題なんです。
このドキュメンタリーは物議をかもし、多くの人が見ました。
私は、セラピスト、牧師の立場から、やっぱり、魂のケア、心のケアが無ければ問題は解決しないと思っています。
ホームレスの問題だ、薬物の問題だと議論が分かれますが、
結局は、家族や心の問題なんです。
愛されること、愛すること。。。
これが根本のニードです。
このシアトルを、神様救ってください。。。と祈りつつ。
今日もインターンに行きます。。。
今日も、愛するあの患者さんを心に想って、出かけます。
誰かに愛されたと分かる時に、人は強くなれるものです。
ああ、あの人が私を大切に思ってくれているから、
もうドラッグをやめよう。今日も、さわらないでおこう。。。
と思えるんです。
誰かに愛されているから、自分に価値があること、
自分は、失敗作、ゴミだと思わなくなるものです。
誰かが、誰かを愛することは、とても力のあることです。
どうぞ、シアトルのために祈ってください。。。。
2019年4月14日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、
VIDEO
ヨハネ19:30-37
30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。32 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。35 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。37 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである。
今日は、しゅろの日曜日、パームサンディですが、いつもイースターの前にあまり触れられていないことを今日は覚えてお話ししたいと思います。今日、読んだ箇所は、イエス様の死の場面です。
イースターはイエス様の復活、よみがえりを祝う日ですが、復活に至るまでは、死んでいなければなりません。死がなければ、よみがえりがないのです。
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。—ヨハネ15:13
★ 死が示すもの
〇「完了した」イエス様は、十字架の上で完了したと言われた。それは、人類の贖いのための代価は払われたということ。すなわち、あなたの罪のための代価は支払われたということです。また、父なる神からの命を全て成し遂げた。ということです。イエス様の地上の、また人間の身体をとった人生の完成を意味しました。あなたの救いのためにすることは全て終わったというのです。
〇「どうしてわたしをお見捨てになるのですか」マルコ Mark15 イエス様は呪われたものとなった。木にかけられたものは呪われる。と旧約聖書にあります。イエス様は、神であるにも関わらず、神に呪われたものとなられたのです。完全に、父なる神から見放されたのです。
〇「霊を渡された」gave up His spirit – イエス様は、死にご自分をゆだねられました。イエス様は殺されたのでもなく、自殺したのでもない、その命を自分から私たちにプレゼントされたのです。自分の全てを私たちのために、捧げてくれた。神に委ねてくれたのです。
★ イエス様の死の体験とはどんなものだったのだろうと思います。私たちは、イースターを強調するあまりに、イエス様の払ってくださった死の代価の意味を忘れがちではないでしょうか。イエス様は死んですぐに復活したのではなく、葬られ墓に入れられ、三日の後によられました。復活まで沈黙の二日間があったのです。その二日間、イエス様はどうされてたのでしょうか。人々は悲しみ、そして父なる神も悲しんでおられましたことでしょう。
〇究極の孤独-- イエス様は、今まで父なる神、聖霊なる神との交わりとサポートの中、またみ使いたちが仕えている、そんな中で生きておられました。その交わりが断たれるとは、どんな孤独でしょうか。私たちも試練にある時に、誰も私の気持ちを分からない、と孤独を感じるものですが、イエス様は、それ以上の孤独を体験しました。私たちは、例え、クリスチャンでなくても、神様と叫べば、神の助けがあるのです。クリスチャンならなおさらです。
〇低いところまで下った— イエス様は、ハデスにまで下られたというのです。
使徒2:31
それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。Seeing what was to come, he spoke of the resurrection of the Messiah, that he was not abandoned to the realm of the dead, nor did his body see decay.
神であるお方であるのに、神を知らず、神に背き敵対した者たちと一緒に、地獄の門まで行ったのです。生前の輝かしい勝利の数々、サタンの誘惑に勝ち、様々な病をいやし、奇跡を行い、そして悪霊を追い出しました。しかし、全く逆の、ご自分が今まで戦っていた力の中に入っていかなければならなかったのです。どんなにか、気持ちの悪い、居心地の悪い経験だったことでしょうか。私には、想像もできないことです。死に従うということは、肉体の死、だけではなく、黄泉の体験、すなわち霊の苦痛も体験するということでした。
〇究極の愛の現れ--- それは究極の謙遜によって
ヨハネ15:13
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。Greater love has no one than this: to lay down one’s life for one’s friends.
イエス様は、これほどにあなたを愛しておられるのです。
死の力と戦って、死ななかったのではなく、死なれたのです。あなたのために、いのちを捧げてくれたのです。あなたが、新しく生きるようになるために。
神であるお方が死んだ。神が死とを経験された。
しかも、罪の刑罰として死なれた。私たちの、神であるイエス様のなんという謙りの愛でしょうか。
〇イエスの死の美しさ
私たちは、生きようともがきます。痛みを感じたら、即座に痛みを取り去ろうとします。死ぬ事を避けるためです。これは、肉体的なことを言っているのではありません。精神的なことをも超えています。「自分を生かす」か、「父に従う」か。
イエス様は、私たちを愛する愛ゆえに。。。自分のいのちを譲られた。。「父よ。彼らをおゆるし下さい」と十字架上で祈られた通り、私たちがまだ罪人出会った時でも、私たちのことを一番大切に思われたいそ
三位一体の神の譲り合い、謙遜と愛の関係を思い出します。イエス様は、その関係の中に私たちを入れるために、ご自分の存在ゆさえもゆずられたのです。
★ 私たちへのメッセージ
これは、深淵な出来事です。
私たちにも、試練が来ます。いつ開かれるのか分からない暗闇が来ます。神がいるのになぜ? と思う。また、神がいるのにどうして苦しまなければならないのか、と思うこともある。
しかし、今日二つのことを覚えたい。
①イエスの死の孤独により、私たちは、自由に神に近づけるようになった。いつでも、神と交わることができる。
②イエスについて行くものもまた、死を経験するものだ。もし、神に従い、試練に合っているなら、死ぬこと/自我に死ぬこと、にも甘んじる覚悟が必要だ。死とは、静であり、一切の動から離れていることであり、完全な神への降伏であり信頼であると言える。
ヨハネ12:24
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。Very truly I tell you, unless a kernel of wheat falls to the ground and dies, it remains only a single seed. But if it dies, it produces many seeds.
ルカ 9:23, 24
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。Then he said to them all: “Whoever wants to be my disciple must deny themselves and take up their cross daily and follow me. 24 For whoever wants to save their life will lose it, but whoever loses their life for me will save it.
2019年4月7日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、
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ヨハネ19:1-16
そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です」と言った。6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたにこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人の罪を認めません。」7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。9 そして、また官邸に入って、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権利があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した後に、もっと大きな罪があるのです。」12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。14 その日は過越の日で、時は第六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるために彼らに引き渡した。
★ 十字架の道ぞなえ
バプテスマのヨハネは、悔い改めを解きました。メシアの到来に向けて心を備えよと。イエス様の公生涯の教え。神の御国が来ました。罪を赦し、悪霊を追い出し、病気を癒し、人々に愛することを教え神の国の解放を見せられました。しかし、三年のうちにイエス様は十字架にかけられることになりました。
どうしても、罪を認められない、どうしても宗教行事ではなく愛を選びたくない、自分が赦され互いに赦しあうことをしたくない人たちというのが、イエス様を十字架に向かわせました。
★ 恥が私たちの行動を決める 創世記Gen 3
初めの人、エバが蛇に騙されるシーン。「確かにそう言ったのか?」「あなたは死なない」「神のように賢くなることを知らなかったのか」三段階で、エバは、恥の思いを深くさせられた。私たちが行動する時に、強い動機になるのは、愛か恥です。塩狩峠の話しでも、愛によって突き動かされた青年が身を投げて電車を止めました。恥もまた強く私たちを動かし私たちに行動させます。
エバが結局神様の教えに背いたのは、恥を蛇につつかれたらです。確かにそういわれたか、と言われると、自信がなくなる、そこに、死なないよと嘘をいれられ、そして、神様はあなたにだけ教えなかったのではないかと、神様に対する疑いを入れました。エバは、恥の思いでいっばいになり、実をとって食べるようになるのです。
私たちも、恥によって物事を押し出し式に決めたり、自分の行動を左右させてはいないでしょうか。
結局、アダムは、神様と対面したときに、エバのせいにし、エバは蛇のせいにしました。自分の恥を自分のものとして認め、悔い改めることをしない時に、それを誰かに投影するのです。
新約のイエス様の十字架の前にも、たくさんの人の恥がかかわっていました。人々は、みな恥の思いをイエス様に転嫁したのです。
★ 十字架の周りの人々の恥
〇宗教人たち…祭司や律法学者は、イエス様の新しい愛の教えが赦せなかった。人々がみんなイエス様について行ったのが赦せなかった。今まで、伝統的に律法を守ろうとしてきたが、それがうわべだけの行動であるとイエス様に見抜かれて、腹を立てた。恥は、自分の本当の姿に耐えられないのです。
〇ピラト…ピラト、イエス様に罪がなく、十字架にかけるような罪を認められなかったし、イエス様を十字架にかけたくなくて、なんとか助け舟をだした。が、人々が、あなたはローマ、シーザーにに逆らうのか、と言われたその一言で、恐れた。恥は私たちに恐れを持たせます。裁かれることが怖いからです。ピラトは、その一言で、自分の恥に向き合わずに瞬時に、イエス様を十字架にかけることに決めたのです。
〇群衆…群衆は、今までイエス様にいい影響を受けた人たちもたくさんいたでしょうし、過去三年間、イエス様のうわさをいろいろと聞いてたはずです。群衆心理といいますが、これは、恥の集まりの心理とも言えるのではないでしょうか。現代の世の中では、SNS, メディア、ポリティカル、芸能ゴシップ、などもこれの現れだと思います。みな、自分の身近なことでもないこと、あるいは、本当か嘘かも自分で調べていない、ひいてはそんなに実は気にしてないことをどうしてあそこまでひつこく追いかけるのでしょうか。みんな、誰がが、罰を受けるところを見たいのです。社会的制裁social sanctionを受けるところが見たいのです。そうすれば、すっきりすると思うのです。
〇弟子たち、ペテロ…ペテロは、イエス様を追いかけて行きますが、結局、イエス様を知らないとのろってまで嘘をつきました。それも、恥がさせた行動です。自分がイエス様といつも行動をしていたものだと知れたら、明るみに出たら、人に裁かれるからです。制裁を恐れて嘘をつき、イエス様を裏切りました。
〇私たちは、みな恥の思いを持っています。そして、その恥を隠すために、とっさに行動を選んでしまうのです。自分の身体の外で、恥が罰せられのをみたいと思うのです。
★ 恥が恐れること
明らかにされること。
人に見られること。
裁かれること。
★ 私たちの恥がイエス様を十字架にかけたのです。
イエス様は、全てを体験してくださった。
イエス様は、私たちの罪を背負って、罪のないお方なのに、私たちの罰を代わりに受けてくださいました。私たちが一番恐れていることを体験してくださいました。
★ 恥が力を失うとき
恥は、Vulnerability とEmpathy で力を失う。
イエスは、素っ裸でうたれた傷を隠すことなく、自分の弱さを隠すことなく十字架に罪人として掛けられて、本来完全無欠、全知全能の神であるのに、死にゆく姿を人々に見せるという究極のVulnerability を示された。
このイエス様は、私たちの罪を赦し天国へ導いてくれる、ご自身を神への全焼のいけにえとして捧げられた大祭司であります。
そして、
へブル書4:15では、
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。For we do not have a high priest who is unable to empathize with our weaknesses, but we have one who has been tempted in every way, just as we are—yet he did not sin.
私たちもイエス様のように、自分の弱さに正直になる時に、自分を隠さない時に、恥は力を失います。恥によって物事を決断することはなくなります。
また、私たちを理解してくださる、イエス様に慰めをいただくときに、また信仰の友に一緒に祈ってもらい、共感してもらう時に、恥は力を失います。
★ 招き
私の中に、恥はないだろうか。恥によって行動してはないか。
人に知られたくない部分。
それを人に投影してはいないか。
ゴシップをしてしまわないか。
誰かが裁かれるのを見て喜んでいないか。
その、恥のために十字架につけられたイエス様を信じましょう。イエス様は、あなたの恥を理解できる方であり、あなたを慰めてくださいます。
2019年3月31日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は
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ヨハネ17章20--26
わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
21 それは、父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
25 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
26 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」
イエス様の祈り、この章では、イエス様の十字架にかかられる前の祈りが書かれていますが、まず初めに自分のための祈り、続いて、弟子たちのための祈り、そして、これから弟子たちを通して信者となる人たちのための祈りと続きます。今日は、最後のこれから信じる者たちのための祈り、すなわち、今日の私たちの祈りから学んでいきたいと思います。
★ 父と私が一つであるように
一つとなるという祈りは、神のデザインが私たち信ずる者たちに分与されるようにということ。
“わたしを見た者は父を見たのです” ヨハネ14:9
★ 三位一体に見られるワンネス…個別の人格、個別の存在である三者が一つである状態です。これが、私たちの神であり、私たちのリーダーシップなのです。個別の存在が一つであるには、相当の譲りあいが必要ですね。二人よりも三人の方が難しいのは、みなさん、特に女子はよくわかると思います。
① 謙遜において…互いに相手を尊敬して(ピリピ2)、栄光を互いに譲り合っている姿
② 愛において…愛が無ければ、私たちは互いに興味を持ちません。相手を知りたいと思うから、歩みよりがあるのです。知ろうとすることが愛の始まりです。
③ 喜びにおいて…あなたがわたしにいるように。。。ヨハネ六章に祈りがきかれたとき、あなたがたの喜びが満ち溢れるためだ、と書いている箇所がありますね。一人で喜ぶより、誰かと喜んだ方が、喜びが倍増しますね。「ねーねー聞いて聞いて-」と誰かに言いたくなるのも、喜びがあふれるためです。また互いの繋がりが深くなる。
④ 苦しみにおいて…イエス様は、この点において、身をもって体現してくださいました。苦しみを分かち合う時に、私たちは慰められます。イエス様は、ご自分が私たちの苦しみを体験してくださることで私たちに完全に共感できるお方であり、私たちの重荷を軽くしてくださるのです。また、旧約聖書でも、神は民の苦しみ、嘆きを聞いてモーセを遣わしましたし、私たちの罪によって悲しまれたりしました。私たちと、一つになられたいからこそ、です。
★ 父が私を愛されたように、彼らをも愛されたこと v23
ヨハネ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life.
神は、ご自身のイエス様への愛を私たちにも広げてくださった。三位一体の三者、そして弟子たち、そして弟子たちを通して信じる者たち、そして、その愛が知られるようにと愛を広げ、全ての人を招いてくださる愛。
Inclusion
★ 愛が知られるように
〇この世が知るため
その父が子を愛した愛で、私たちをも愛してくれているということが、この世に知られるために、一つにしてください。とイエス様は祈っている。
真の伝道は、私たちが神を愛し、神に愛され、互いに愛しあい、そして、周りの人を招き入れ、周りの人たちをその愛の交わりの中に含んでいくことです。
知識を伝えることではありません。
★互いにおること…
◎信仰によって…信仰によって、私たちは天の国籍を持つ。すなわち、信仰によってイエスのうちに隠される、信仰によってキリストとともに天の位につく、信仰によって私たちはキリストの義と一つにされ、キリストの業ゆえに、義とみなされる。これは、不思議なことです。
◎愛によって…誰かを好きになったら。。。いつもその人が心の中にいますよね。デートし始めのころ、その人のことがいつも気になって、電話したりテキストしたり。結婚したら、もっと一つになりますね。よく、自分の伴侶に危険が降りかかる時、分かるというものですし、離れていても不慮の事故で命がなくなるようなことがあれば、相手は何かわかると言います。私も、エリックに驚かれるのは、なんで僕がスパゲティ食べたいってわかったのー? なんて、いう夕食に驚かれることが多々あります。愛によって、私たちは互いにおることができるのです。
★ 先週の最後の晩餐のお話し、聖餐式を思い出しますね。今日も聖餐に預かりましょう
2019年3月24日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は
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ルカ22:7-22
さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。8 イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」9 彼らはイエスに言った。「どこに準備しましょうか。」10 イエスは言われた。「町に入ると、水がめを運んでいる男に会うから、その人が入る家までついて行きなさい。11 そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる』と言いなさい。12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」13 彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。21 しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。22 人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。」
★大切な最後の晩餐の場所
イエス様は命を狙われている身ですから、安全で、落ち着いて最後の食事ができるところが必要でした。
V7-13 イエス様は、預言的に、ロバの子を見つけた話しがまた出てきますが、そのように、あそこにこんな人がいるから、こう言いなさいと。。。言われた通りに落ち着いて最後に祭の食事ができるところが見つかった。
この箇所からも、私たちに励ましを与えてくださいますね。私たちが神を信頼して、神の仕事をするならば、必ず、必要なことは備えられる。たとえ、イエス様のように命を狙われていても、いろんな苦労があったとしても、神は、ご自身がされようとしていること、神の愛による御心のために、私たちに導きを持っておられる。
★最後の晩餐?
旧約の過ぎ越しの祭の食事は、今後必要なくなるということで、イエス様が十字架にかかられて復活される前に持った過ぎ越しの食事が文字通り最後になるということ。
◎過ぎ越しの祭とは?
旧約聖書あっての新約聖書
イスラエルの祭、宗教儀式は全てやがてこられるメシア、イエス様を指している。
過ぎ越しの意味
イスラエルの民は、エジプトで奴隷でした。有名なモーセが出てくるお話しですね。エジプトからの脱出、解放の前に、かたくななパロと奇跡合戦のようになっていましたが、最後のしるしである全ての初子が殺されるということになりました。これには、パロも困ってしまったわけですが、神はイスラエル人のためには、かもいに子羊の血を塗ったものは免れる、という方法を与えました。かもいに子羊の血をぬったものの家は、免れて、みな救われたのです。その後、神は紅海を割ってイスラエルの民を救ったのです。
それから、イスラエルの民は、これを覚えて、自分たちがどのようにして奴隷から解放され、神の奇跡によって脱出できたのかを子々孫々に過ぎ越しの祭を通して、語り継げたのです。
過ぎ越しの祭では、子羊の肉や、種無しパンや苦菜という、その時の出来事、つらさなどをあらわす食べ物を食べて忘れないようにしました。
◎イエスを指す
ユダヤの祭は全てイエス・キリストを指し示しますが、これも、私たちを罪の奴隷の生活から救い出してくれるイエス様という意味が込められています。すべての祭は、やがて来られる救い主を期待しながら持つものです。
◎イエス様は、文字通り、最後の過ぎ越しの食事を一番愛する弟子たちとしたのです。
v15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」And he said to them, “I have eagerly desired to eat this Passover with you before I suffer. 16 For I tell you, I will not eat it again until it finds fulfillment in the kingdom of God.”
イエス様が十字架にかかる前ですから、もう十字架にかかられてからは二度と誰も過ぎ越しの食事をする必要がなくなります。
本物の過越しが来たのですから。出エジプトで起きたことの本物が来るのです。もう、誰も地獄に行くことがないように、その道から救われるようにイエス様が死なれたのです。
★パンとぶどう酒
V19-20 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。And he took bread, gave thanks and broke it, and gave it to them, saying, “This is my body given for you; do this in remembrance of me.”20 In the same way, after the supper he took the cup, saying, “This cup is the new covenant in my blood, which is poured out for you.
イエス様は、過越しの祭で、新しいことを言われます。これからは、私を覚えて、これをしなさい。と。エジプトではなくて、またメシアを待ち望むんではなくて、わたしを覚えて、これをしなさいと。
このパンは、わたしの身体です。罪のために、割かれたからだです。そして、この体は、それを食べる一人ひとりのためのものです。
この血は、あなたがたのために流された契約の血です。約束
皆さん、覚えていますか、エジプトで初子が救われたのは、動物の死によりました。動物が死んで、その血でかもいを覆ったものが救われたのです。その血の内側にいるものは救われたのです。
★過越しの食事・イエス様は共同体のもの
The feast was not only for the individual but communal.
この食事というのは、食べ物を口に入れ、自分の体の一部になることです。ちょうど、私たちが信じることもそうです。信じていることは、私の身体、私自身の一部となります。そして、それは、行動や言動にも現れるほどに自分と一つになります。
イエス様を食べる、血を飲むということは、そういうことです。
また、これは、共同体のものでもあります。共同体が一つになるためです。
同じ釜の飯を食う、とか日本でもいいますが、時間を共に過ごし、また辛苦を共にすることで一体感はまし加わり、強いきずなができるものです。
いわば、同じイエス様を食べたものとして、一つになることができるのです。
●イエス様は、愛する者たちに、よく覚えておくように。これが最後の祭だよ。これからは、律法ではなく、私を受け入れるんだよ。と、強いメッセージを弟子たちに、食べて飲むという実体験をもって教えました。
★私たちにとっては、どんな意味があるでしょうか。
食べること、イエス様を受け入れる。み言葉を受け入れる。
飲むこと、契約、約束だという。。。約束を信じる。
自分の力でもがくことからの解放
パフォーマンスからの解放
宗教や儀式で神につながるのでなく、個人的にイエス様と親しく繋がる
★イエス様をいただきましょう。聖餐式
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