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イエスの死 The Death of Jesus

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イエスの死 The Death...
2019年4月14日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、


ヨハネ19:30-37
30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。32 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。35 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。37 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである。

今日は、しゅろの日曜日、パームサンディですが、いつもイースターの前にあまり触れられていないことを今日は覚えてお話ししたいと思います。今日、読んだ箇所は、イエス様の死の場面です。
イースターはイエス様の復活、よみがえりを祝う日ですが、復活に至るまでは、死んでいなければなりません。死がなければ、よみがえりがないのです。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。—ヨハネ15:13

★ 死が示すもの

〇「完了した」イエス様は、十字架の上で完了したと言われた。それは、人類の贖いのための代価は払われたということ。すなわち、あなたの罪のための代価は支払われたということです。また、父なる神からの命を全て成し遂げた。ということです。イエス様の地上の、また人間の身体をとった人生の完成を意味しました。あなたの救いのためにすることは全て終わったというのです。

〇「どうしてわたしをお見捨てになるのですか」マルコ Mark15 イエス様は呪われたものとなった。木にかけられたものは呪われる。と旧約聖書にあります。イエス様は、神であるにも関わらず、神に呪われたものとなられたのです。完全に、父なる神から見放されたのです。

〇「霊を渡された」gave up His spirit – イエス様は、死にご自分をゆだねられました。イエス様は殺されたのでもなく、自殺したのでもない、その命を自分から私たちにプレゼントされたのです。自分の全てを私たちのために、捧げてくれた。神に委ねてくれたのです。

★ イエス様の死の体験とはどんなものだったのだろうと思います。私たちは、イースターを強調するあまりに、イエス様の払ってくださった死の代価の意味を忘れがちではないでしょうか。イエス様は死んですぐに復活したのではなく、葬られ墓に入れられ、三日の後によられました。復活まで沈黙の二日間があったのです。その二日間、イエス様はどうされてたのでしょうか。人々は悲しみ、そして父なる神も悲しんでおられましたことでしょう。

〇究極の孤独-- イエス様は、今まで父なる神、聖霊なる神との交わりとサポートの中、またみ使いたちが仕えている、そんな中で生きておられました。その交わりが断たれるとは、どんな孤独でしょうか。私たちも試練にある時に、誰も私の気持ちを分からない、と孤独を感じるものですが、イエス様は、それ以上の孤独を体験しました。私たちは、例え、クリスチャンでなくても、神様と叫べば、神の助けがあるのです。クリスチャンならなおさらです。

〇低いところまで下った— イエス様は、ハデスにまで下られたというのです。

使徒2:31
それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。Seeing what was to come, he spoke of the resurrection of the Messiah, that he was not abandoned to the realm of the dead, nor did his body see decay.

神であるお方であるのに、神を知らず、神に背き敵対した者たちと一緒に、地獄の門まで行ったのです。生前の輝かしい勝利の数々、サタンの誘惑に勝ち、様々な病をいやし、奇跡を行い、そして悪霊を追い出しました。しかし、全く逆の、ご自分が今まで戦っていた力の中に入っていかなければならなかったのです。どんなにか、気持ちの悪い、居心地の悪い経験だったことでしょうか。私には、想像もできないことです。死に従うということは、肉体の死、だけではなく、黄泉の体験、すなわち霊の苦痛も体験するということでした。

〇究極の愛の現れ--- それは究極の謙遜によって

ヨハネ15:13
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。Greater love has no one than this: to lay down one’s life for one’s friends.

イエス様は、これほどにあなたを愛しておられるのです。
死の力と戦って、死ななかったのではなく、死なれたのです。あなたのために、いのちを捧げてくれたのです。あなたが、新しく生きるようになるために。
神であるお方が死んだ。神が死とを経験された。
しかも、罪の刑罰として死なれた。私たちの、神であるイエス様のなんという謙りの愛でしょうか。

〇イエスの死の美しさ

私たちは、生きようともがきます。痛みを感じたら、即座に痛みを取り去ろうとします。死ぬ事を避けるためです。これは、肉体的なことを言っているのではありません。精神的なことをも超えています。「自分を生かす」か、「父に従う」か。
イエス様は、私たちを愛する愛ゆえに。。。自分のいのちを譲られた。。「父よ。彼らをおゆるし下さい」と十字架上で祈られた通り、私たちがまだ罪人出会った時でも、私たちのことを一番大切に思われたいそ

三位一体の神の譲り合い、謙遜と愛の関係を思い出します。イエス様は、その関係の中に私たちを入れるために、ご自分の存在ゆさえもゆずられたのです。

★ 私たちへのメッセージ

これは、深淵な出来事です。
私たちにも、試練が来ます。いつ開かれるのか分からない暗闇が来ます。神がいるのになぜ? と思う。また、神がいるのにどうして苦しまなければならないのか、と思うこともある。

しかし、今日二つのことを覚えたい。

①イエスの死の孤独により、私たちは、自由に神に近づけるようになった。いつでも、神と交わることができる。

②イエスについて行くものもまた、死を経験するものだ。もし、神に従い、試練に合っているなら、死ぬこと/自我に死ぬこと、にも甘んじる覚悟が必要だ。死とは、静であり、一切の動から離れていることであり、完全な神への降伏であり信頼であると言える。

ヨハネ12:24
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。Very truly I tell you, unless a kernel of wheat falls to the ground and dies, it remains only a single seed. But if it dies, it produces many seeds.

ルカ 9:23, 24
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。Then he said to them all: “Whoever wants to be my disciple must deny themselves and take up their cross daily and follow me. 24 For whoever wants to save their life will lose it, but whoever loses their life for me will save it.
#イエス様の死 #イースター #礼拝

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