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- 復活を信じる Believing Resurrection
2019年4月21日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、
ヨハネ20: 19-29
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し込んでみなければ、決して信じません」と言った。26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
★ 復活の喜び Joy of Resurrection
昨日のイベントで見たビデオの通り、イエス様は蘇られ、一番に復活を知らされたのは忠実にイエス様を愛した女たちでした。イエス様は、なぜ泣いているのか、とマリアに語り掛けられました。そして、弟子たちに女たちが知らせました。しかし、なかなか、弟子たちは女たちの言葉で信じることができませんでした。
★ 平安があるように Peace be with you
なかなか、イエス様の復活を信じられない弟子たちのところに、イエス様ご自身が復活のお身体で現れました。
そして、信じられない弟子たちに繰り返し言ったのは、「平安あれ」です。
弟子たちは、恐れのあまり、部屋に閉じこもり隠れていたのです。みなさん、恐れは、信仰の真逆です。といつも話している通りです。また、恐れと信仰は共存することができません。半分信じて、半分信じない、なんてことはできないのです。信じるとは、100パーセント信じてないと信じるということではないのです。
● 平安について…エイレーネ、へブル語のシャロームに近い言葉。
一時的な休みという意味ではなく、苦痛、労苦からの解放の意味があります。また、神の祝福を受け継ぐことです。すなわち、自分を打ちたたいて働いて働いて得られるもので自分に休みを与えるのではなく、み父の子であることで継承される神の祝福によって生きて行けるから、あくせく、または、じたばたすることをやめて安息することができる、という意味です。
こんな、平安があったら、私たちは強く、どんな状況の中でも生きられる、耐えられるのではないでしょうか。イエスは、繰り返し、その平安を宣言しています。
★ 傷を見せた
イエス様は、復活されてから、ご自分を紹介されるときに、ご自分の傷を見せられたとあります。イエス様は、神の子であるアイデンティティの上に、傷を負ったもの、また、罪人の一人として数えられたものとしてのアイデンティティを加えられたのです。
みなさん、不思議だと思いませんか。
私たちに置き換えて考えてみたらどうでしょうか。自分の弱さを誇りにする人はあまりいないのです。
ましては、罪人の一人として数えられた歴史など、本当は黒歴史なのです。また、傷跡何て、隠して生きたいものなんです。私は、いつも腕に傷があります、また指にタコがあります。また、生まれたときらあるあざも、そばかすも、隠したいと思っています。人に見つけられて聞かれたら、恥ずかしく思いますし、説明することが億劫です。
しかし、イエス様は、自分を紹介する時に傷から見せられたのです。
私たちは、自分の弱さの象徴を抹消したいと思いますが、イエス様は違うのです。
★ 聖霊を受けよ
「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなた方を遣わす。」
私たちが必要なものは、復活のキリストが全てくださいました。平安とともに、聖霊を受けよ、と。
私たちを変えることができるのに、神の息、聖霊の力があります。聖霊様が私たちにやどり、のぞみ、聖霊様と共に働くなら、力を得るのです。イエス様は、「聖霊を受けて、イエス様の働きのために遣わされよ」というのです。
私たちの傷を隠すような、自分の弱さを誇れない、こんな臆病な私たちにには、聖霊の、神の力が無くてはならないのです。
★ トマス
「信じないものにならないで信じるものになりなさい」と、トマスは言われました。
トマスは、傷を見ないと信じないと豪語していました。トマスは、主の死んだことに、非常に悲しんでいたのです。傷ついたのです。自分の存在を脅かすほどに傷ついたのです。自分の希望全てをかけてついて行った方が、あんな恥ずかしい、呪われた死に方をしたんです。
グリーピングGrieving, 悲しみが癒えるの順序について。この信じられない出来事を否定して受け入れられない、どうして自分におこったのかと怒り、どうにか変えられないかと考え、落ち込み、そしてだんだん事実を受け入れられるようになるものです。
トマスの発言には、トマスのショックと悲しみの度合いが現れている。そんな、トマスにイエス様は歩み酔ってくれました。その歩みよりの仕方がこうでした。
★ イエスの傷とあなたの傷
イエス様は、その傷にトマスの手を差し入れることを促しました。
トマスはその傷に手を差し入れた。
自分の傷、怒り、悲しみと傷を合わせた時、「私の神」と告白できた。
先週、死が無ければ復活が無いと話しました。
復活を信じるには、死の悲しみを知らなければ、信じることができないのです。
あなたの死の悲しみ、暗闇の暗さ、自分の罪への絶望はいかほどのものでしょうか。
キリストのうち傷に相当したあなたの暗黒はどれほどのものだったのでしょうか。
● 私たちの弱さや傷、過去をキリストの傷の中に合わせる時に、私たちの魂に休みが来るのです。また、平安が来るのです。平安が来るならば、信仰に根付くことができるのです。
今日、キリストは、あなたを招いています。
この傷にあなたの手を入れてみなさいと。あなたの、弱さとは何ですか。あなたの黒歴史はなんですか。キリストがあなたのために死ななければならなかった、その罪とは何だったのでしょうか。キリストは招いておられます。
あなたの傷、暗闇とイエスの経験した闇を合わせてみなさい、と。
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