ローマ書三章 Romans Chapter 3
9月
26日
前回は、ローマ書二章から、ユダヤ人の罪に関してお話ししました。自分たちは、神様の律法を持っている割礼をしているということを誇りにし、周りを裁いているが、律法は、持っている者が正しいのではなく、行うものが正しいこと、割礼も外面的な割礼よりも心の割礼こそが真の割礼であることをパウロは語りました。今週は、その続きの三章です。
★ユダヤ人は神のリトマス試験紙 Litmus – PH indicator
ロマ書3:2
それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。Much in every way! Chiefly because to them were committed the oracles of God.
ユダヤ人は、神様の選びの民とも言われています。それは、神様と関係を持ち、周りの民族に神の民とはということを証しし、神を指し示すためともいえます。しかし、ユダヤ人自身は、本末転倒で、神からの律法を持っていることを誇り、神と契約を持っていることを誇りました。
みなさん、いかに、誇りが分裂をもたらすか、と思いませんか。自分を誇るのか、神を誇るのかで、周りへの影響力が変わってきますね。誇るとは、ギリシャ語で、喜ぶとも肯定的なことばとして訳せる言葉ですが、誰を喜ぶのか。。。。で、人との交わりが断たれるか広がるかと変わってきます。
イエス様は、その謙遜さ、私たちへの愛のゆえに、隔たりを越えて、地上に来てくださり、私たちの一人のようになってくださいました。壁を取り壊すイエス様。それこには、プライドはありませんでした。
謙遜は、壁を壊し、隔たりをなくすものです。
「ユダヤ人は、神の言葉を委ねられている。」という立場です。よきにつけ悪しきにつけ、神の言葉をどう扱っているか、どう行っているかが注目されるというのです。
3節からは、だから、ユダヤ人が悪いと神様の栄誉に傷がつくのか? そんなことはない、かえって神の真理が明らかにされる。それでは、ユダヤ人が罪を犯せば犯すほどいいのか? いいえ、そうではない。だからと言って、悪をすすんでやるべきではない。
という風に続きます。
そもそも、ユダヤ人は、神の言葉を委ねられている以外には、異邦人との差はない。みな、罪人なのです。みな、罪を犯し、不義の状態なのです。
ロマ書3:10
それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。As it is written: “There is none righteous, no, not one;
と、
★律法の役割
ロマ書3:20
なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。Therefore by the deeds of the law no flesh will be justified in His sight, for by the law is the knowledge of sin.
律法は、神様の愛による私たちへの教えであり、私たちの正しさを測る尺度です。私たちは、この律法を完全に守れたらいいのですが、守れる人は、地上に一人もいません。誰に、教えられなくても、言葉がまだ話せない時から、うそをつける私たち人間ですから。。。。
ガラテヤ書に律法は、私たちの養育係だ、と書かれています。律法は、私たちの罪意識を呼び覚まします。はっきりさせます。私たちをある意味で、罪に定めます。
私たちが、律法を守ろうとすればするほど、もがき、悩みます。それが当然の人間の良心の姿であります。「律法を行う」こと自体によっては、私たちに救いはないのです。
ダイエットを考えてください。これは食べてはだめだと思えば思うほど、食べたくなってしまいますよね。ダイエットをしている人ほど痩せにくいということをよく聞きます。律法にとらわれると「もがき」があっても、救いがないのです。そこに、義への到達はないのです。
★律法と別の形で示された神の義
では、律法を持っているユダヤ人にも、持ってない異邦人もどうしたらいいのでしょうか。
ロマ書3:23-27
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。25 神は、イエス・キリストを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
◎キリストに示された神の義
キリストこそ、「もがき」から私たちを解放し救いを与えてくださるかたです。
・価なし…私たちの側に何も支払うべきことがない。行いも、代価も、清さも、敬虔さも
・その血による…イエス様は、私たちの罪の代価を支払うために、刑罰を身代わりに受けてくださいました。
・信仰による…その恵みにアクセスするのは、信仰です。律法による行いです
・なだめの供え物…神様は義ですから、不義に対する怒りがあります。イエス様の罪のない人間としての生活、そして、その全身全霊が神様の怒りをなだめるために捧げられました。罪のある人間の捧げものではこの業は、成し遂げられませんでした。
・公に示された…誰の目に明らかです。A.D. という風にキリストの表れによって、世界的な年号さえ変わりました。キリストの十字架の死は、世界中に明らかで、隠されてはいません。
◎誇りが行いの原理から信仰の原理に移った
ロマ書3:31
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。Do we then make void the law through faith? Certainly not! On the contrary, we establish the law.
信仰によって、恵みの中に入れられた人たちは、義とされます。義とされた人は、聖書によると、キリストの内に隠されているのです。キリストによって、律法を守りきることができているのです。だから、私たちがどう生きるのかということは、また12章で詳しくでてきます。
ユダヤ人は、神様に選ばれて、神のお言葉が委ねられているとありましたが、律法を委ねられているだけに、リトマス試験紙のように、神を軸にして、こっちに傾き、あっちに傾き、もがいている姿を周りの民に見せ、良い時も、悪い時も、神を指し示しているのです。
そして、その律法を確立する、信仰については、四章で詳しく学んで行きましょう。
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