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ローマ四章 Romans Chapter 4

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私の学校の学生ラウンジ。ご飯を... 私の学校の学生ラウンジ。ご飯を食べたり、本を読んだり。。。とてもピースフルです。。。。 何とか、忙しい中、ジムに行きま... 何とか、忙しい中、ジムに行きました。あれ、サウスレイクユニオンに、ゾカコーヒーが来てるーー!!! 嬉しいーー。今まで、グリーンレイクに行ってたんですよねー。しかし、アマゾニアンですごい賑わいです。列が、長いです。。。。。
2016年10月2日日曜日礼拝メッセージ音声は、https://youtu.be/F_QsVKWrqSU

先週は、ローマ三章からユダヤ人の誇り律法と義について話しました。今日は、義をもたらす信仰について話したいと思います。ローマ書四章では、主にアブラハムの人生に重ねてパウロは信仰について説明しています。

★義に導く信仰

○自分の限界を知る

ロマ4:5
5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。5 But to him who does not work but believes on Him who justifies the ungodly, his faith is accounted for righteousness,

 この箇所を読んだときに、これまで三章読んでみて、以前と違うように聞こえました。「自分が、何の良い働きもしていない、不敬けんな者であると認めることができるか? 」ということです。ユダヤ人たちは、自分たちを敬けんな人間だととらえ、律法に従って良い行いをしていると自分たち自身を信じていたのです。信仰への始まりは、自分の限界を知り、自分に絶望することです。

○儀式・形式によらない、信仰は心を変えるものである

ロマ4:10
10 どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。10 How then was it accounted? While he was circumcised, or uncircumcised? Not while circumcised, but while uncircumcised.

アブラハムは、割礼を受けたので義と認められたのではありません。彼は、心で神様を信じたときに、義と認められました。私たちは、心の中のコンディションと外の形式をやったらないを混同してはなりません。心が変わらなければ、義とはならないのです。

私たちの場合で言えば、あなたが、もし宗教行事に定期的に参加していても、心が変わらなかったならば、意味がないのです。それは、人のせいにはできません
神様と自分との関係の中で吟味しなければなりません。よく受身的に、自分は恵まれないとか、もう教えられることはないとかいう方に出会いますが、真の霊の人は、どんな状況からでも学ぶことができる人です。母教会の牧師から教えられたことの一つ。。。高慢は、耳を閉ざすが一番の妨げ。

○信仰は私たちに約束を与える

ロマ4:13-14
13 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。
14 もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。13 For the promise that he would be the heir of the world was not to Abraham or to his seed through the law, but through the righteousness of faith. 14 For if those who are of the law are heirs, faith is made void and the promise made of no effect, 15 because the law brings about wrath; for where there is no law there is no transgression.

「大切なのは信仰・希望・愛だ」とⅠコリント13章にありますが、私たちが信じるとき、必ず受け取るものがあります。それは、希望です。希望とは、自分の将来・まだ見ないことをを信じることです。それは、神に対する信頼、初めて、心で「神様、あなたを心で信じます。私は、不敬けんなものです、律法も守れません。けれども、救いをもたらす神様を信じます。信頼して生きていきます。」というときに、必ず、将来へ約束である希望がもたらされます。アブラハムは、信じたので、世界の相続人となる約束が与えられました。まだ、子供がいない時にです。

○祝福の継承の約束

ロマ4:16
16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持って いる人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおり に、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。16 Therefore it is of faith that it might be according to grace, so that the promise might be sure to all the seed, not only to those who are of the law, but also to those who are of the faith of Abraham, who is the father of us all.

約束は、アブラハムの信仰に習っている人たちに及びます。アブラハムの信仰が彼だけの人生にとどまっていないところに注目しましょう。あなたの信仰は、周りを祝福するためにもあるのです。また、あなたの生き方を見て、信仰の道についてくる人が必ず起きるということです。

○外面的要因・人間の常識に左右されない

ロマ4:18-19
18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」といわれていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。18 who, contrary to hope, in hope believed, so that he became the father of many nations, according to what was spoken, “So shall your descendants be.”19 And not being weak in faith, he did not consider his own body, already dead (since he was about a hundred years old), and the deadness of Sarah’s womb.

アブラハムもサラも年老いていました。常識では、赤ちゃんは生まれません。聖書は、「それでもかられの信仰は弱りませんでした。」とあります。信仰とは、外面的なコンディションによって左右されず、私たちの常識におさまらないことを覚えましょう。今、状況が悪くて、とても信じる気になれない人がいるなら、どうぞアブラハムに励まされてください。彼は、百歳でも子供が与えられると信じたのです。そして、それは、現実になりました!

○”それでも”信じるという信頼

ロマ4:21-24a
21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、24 また私たちのためです。21 and being fully convinced that what He had promised He was also able to perform. 22 And therefore “it was accounted to him for righteousness.” 23 Now it was not written for his sake alone that it was imputed to him, 24 but also for us.

アブラハムは、自分の今の年齢や状況、いつまで待っても開かれないという事実よりも、神様にはそれでも成就する力があると、「堅く」信じました。私たちの信仰のチャレンジは、レイヤーになっています。初めは、自分が何の働きも無い者で不敬けんなものだと気づくところからです。信仰を持ち続けてもいろいろなチャレンジが人生の中にはあります。しかし、大変な状況の中でも、それでも、なお私は神様に信頼する! という強い姿勢が私たちには必要です。それこそ、本当の信仰だといえましょう。

自由意志/愛vs ご利益信仰

○イエス様を通して

ロマ4:24b-25
すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。It shall be imputed to us who believe in Him who raised up Jesus our Lord from the dead, 25 who was delivered up because of our offenses, and was raised because of our justification.

アブラハムは、キリストのいない時代にここまで信仰を貫きました。私たちには、キリストが与えられ、明らかにされています。考えてみると、アブラハムの時代に比べると、大きな恵みです。キリストに根差し、キリストと生き、キリストとともに死ぬ。キリストと共に生きる、そこに必要な助け励ましが聖霊様から来る。こんな、至れりつくせりなことはないでしょう。私たちは、キリストについて行く限り、義とされてるのです。


#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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ローマ書三章 Romans Chapter 3

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土曜日は、グレッグさんの教会で... 土曜日は、グレッグさんの教会で、七つの賜物セミナーを教えてきました。今回は、エリックと一緒に教えました。バークヤードに建てた屋根の下で。。。自然いっぱいの教会で良かったですー。場所は、レスクスティーブンスです。シアトルから車で40分くらい北の町です。 木曜日のロバの子。。子供たちの... 木曜日のロバの子。。子供たちの成長が毎週目まぐるしく。。。楽しいです。今週は、新しいベイビーちゃんが来てくれました。子供たちも、かわいいかわいいと一緒に遊びたがりました。小さい子がいてくれると、みんな思いやりを学べていいですね!
2016年9月25日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/enrWea9ItAM

前回は、ローマ書二章から、ユダヤ人の罪に関してお話ししました。自分たちは、神様の律法を持っている割礼をしているということを誇りにし、周りを裁いているが、律法は、持っている者が正しいのではなく、行うものが正しいこと、割礼も外面的な割礼よりも心の割礼こそが真の割礼であることをパウロは語りました。今週は、その続きの三章です。

★ユダヤ人は神のリトマス試験紙 Litmus – PH indicator

ロマ書3:2 

それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。Much in every way! Chiefly because to them were committed the oracles of God.

ユダヤ人は、神様の選びの民とも言われています。それは、神様と関係を持ち、周りの民族に神の民とはということを証しし、神を指し示すためともいえます。しかし、ユダヤ人自身は、本末転倒で、神からの律法を持っていることを誇り、神と契約を持っていることを誇りました。

みなさん、いかに、誇りが分裂をもたらすか、と思いませんか。自分を誇るのか、神を誇るのかで、周りへの影響力が変わってきますね。誇るとは、ギリシャ語で、喜ぶとも肯定的なことばとして訳せる言葉ですが、誰を喜ぶのか。。。。で、人との交わりが断たれるか広がるかと変わってきます。

イエス様は、その謙遜さ、私たちへの愛のゆえに、隔たりを越えて、地上に来てくださり、私たちの一人のようになってくださいました。壁を取り壊すイエス様。それこには、プライドはありませんでした。
謙遜は、壁を壊し、隔たりをなくすものです。

「ユダヤ人は、神の言葉を委ねられている。」という立場です。よきにつけ悪しきにつけ、神の言葉をどう扱っているか、どう行っているかが注目されるというのです。
3節からは、だから、ユダヤ人が悪いと神様の栄誉に傷がつくのか? そんなことはない、かえって神の真理が明らかにされる。それでは、ユダヤ人が罪を犯せば犯すほどいいのか? いいえ、そうではない。だからと言って、悪をすすんでやるべきではない。
という風に続きます。

そもそも、ユダヤ人は、神の言葉を委ねられている以外には、異邦人との差はない。みな、罪人なのです。みな、罪を犯し、不義の状態なのです。

ロマ書3:10

それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。As it is written: “There is none righteous, no, not one;
と、

★律法の役割

ロマ書3:20

なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。Therefore by the deeds of the law no flesh will be justified in His sight, for by the law is the knowledge of sin.

律法は、神様の愛による私たちへの教えであり、私たちの正しさを測る尺度です。私たちは、この律法を完全に守れたらいいのですが、守れる人は、地上に一人もいません。誰に、教えられなくても、言葉がまだ話せない時から、うそをつける私たち人間ですから。。。。

ガラテヤ書に律法は、私たちの養育係だ、と書かれています。律法は、私たちの罪意識を呼び覚まします。はっきりさせます。私たちをある意味で、罪に定めます。
私たちが、律法を守ろうとすればするほど、もがき、悩みます。それが当然の人間の良心の姿であります。「律法を行う」こと自体によっては、私たちに救いはないのです。

ダイエットを考えてください。これは食べてはだめだと思えば思うほど、食べたくなってしまいますよね。ダイエットをしている人ほど痩せにくいということをよく聞きます。律法にとらわれると「もがき」があっても、救いがないのです。そこに、義への到達はないのです。

★律法と別の形で示された神の義

では、律法を持っているユダヤ人にも、持ってない異邦人もどうしたらいいのでしょうか。

ロマ書3:23-27

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。25 神は、イエス・キリストを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

 ◎キリストに示された神の義

キリストこそ、「もがき」から私たちを解放し救いを与えてくださるかたです。

  ・価なし…私たちの側に何も支払うべきことがない。行いも、代価も、清さも、敬虔さも
  ・その血による…イエス様は、私たちの罪の代価を支払うために、刑罰を身代わりに受けてくださいました。
  ・信仰による…その恵みにアクセスするのは、信仰です。律法による行いです
  ・なだめの供え物…神様は義ですから、不義に対する怒りがあります。イエス様の罪のない人間としての生活、そして、その全身全霊が神様の怒りをなだめるために捧げられました。罪のある人間の捧げものではこの業は、成し遂げられませんでした。
  ・公に示された…誰の目に明らかです。A.D. という風にキリストの表れによって、世界的な年号さえ変わりました。キリストの十字架の死は、世界中に明らかで、隠されてはいません。

 ◎誇りが行いの原理から信仰の原理に移った

ロマ書3:31

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。Do we then make void the law through faith? Certainly not! On the contrary, we establish the law.

信仰によって、恵みの中に入れられた人たちは、義とされます。義とされた人は、聖書によると、キリストの内に隠されているのです。キリストによって、律法を守りきることができているのです。だから、私たちがどう生きるのかということは、また12章で詳しくでてきます。
ユダヤ人は、神様に選ばれて、神のお言葉が委ねられているとありましたが、律法を委ねられているだけに、リトマス試験紙のように、神を軸にして、こっちに傾き、あっちに傾き、もがいている姿を周りの民に見せ、良い時も、悪い時も、神を指し示しているのです。

そして、その律法を確立する、信仰については、四章で詳しく学んで行きましょう。


#キリスト教 #メッセージ #教会 #日曜礼拝 #聖書

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今週の出来事

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最近のガールズは、おねんねごっ... 最近のガールズは、おねんねごっこが流行っています。で、おもちゃも、寝かせてます。カプセルホテル並みにボディにぴったりの寝床をおもちゃに見つけてあげたかわいいちゃんです。。。。。 いつも、チェリー姉さんと二人で... いつも、チェリー姉さんと二人で、布団を敷き、枕らしきものをおき、電気を消して、お休みなさーい。と遊んでいます。ここ、三週間続いてるなー。いつ飽きるんだろう。木曜日のロバの子クラスにて。。 日曜日は、ボーイズの小さい方、... 日曜日は、ボーイズの小さい方、ボーイズ2号の誕生日を祝いました!! 元気に育ってくれています。 これは、「よっ」て挨拶している... これは、「よっ」て挨拶しているのではなく、四歳を表しています。
「ぼく四歳になったんだよ。」 です。「ぼくは、つよいんだよ」が2号の口癖です。あと、2号の大好物は、20代のお兄さん、お姉さんです。遠くからでも見つけたら、飛びついてきます。
今日は、大学生のRちゃんが、初... 今日は、大学生のRちゃんが、初めて教会の礼拝に来てくれましたーー。私たちを見つけてくれて、ありがとうーー! 人生について、いろいろとよいお話しができました。これからも、よろしくね! 残りの留学生活が祝福されますようにーーーー
今週は、神学生のケニーさんが礼拝メッセージを担当しました。

たまには、ぺつの人がメッセージをするのはいいですね。

人それぞれ、物の見方や文化が違いますし、神様からの語り掛けも違います。

また、違った人を通しての、神様のお話しもとても新鮮で、新しい真理が開かれます。

初めてのメッセージお疲れさま。ケニーさん。

よくやった!!

#キリスト教 #ブログ #子供たち #教会

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ローマ書二章

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日曜日の教会学校のボードです。... 日曜日の教会学校のボードです。子供たちが、聖書の言葉を覚えたり、お祈りしていることが、家庭にも反映しているようで、とても嬉しく思っています。教会学校に来たら、シールをご褒美で集めます。そして、教会学校の子供のお店で、お買い物ができます! 頑張れ、子供たち! 木曜日のロバの子スラスの一幕。... 木曜日のロバの子スラスの一幕。。。J ちゃん。これでも、怒ったときの意思表示。口をとんがらがせます。。。しかし、怒っていること、あまり伝わらない。。。可愛すぎて。笑
2016年9月11日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/EZu1QSyXCNg

シリーズロマ書ですが。先週、一章では、ロマ書のメインテーマと、福音、義、そして、異邦人の罪について話しました。今日は、その続きです。続いて、人を裁く罪、ユダヤ人の罪と罪のお話しが続きます。義=正しさについて話すには、罪について話さないわけにはいられないからです。私たちは、みな正しくありたいという願望を心に持ちながら生きています。そして、それゆえに罪悪感に苦しんだりするわけです。人間の大きくの問題は、義に関することと言っても過言ではありません。

★ 人を裁く罪 ユダヤ人の罪The sins that judge others --- sins of Jew

ローマ2:1

ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。

一章の終わりで、様々な罪のリストがありました。そして、続いて、人を裁く人よ。あなたに弁明の余地はありません。。。。と続きます。人を裁く人は、誰でも、自分を罪に定めているというのです。

  ◎ 裁きについて

私たちは、裁きについて甘く考えていることが多い。良いか悪いかを決める。審判する。また、人を罪に定めることであるが。聖書は、誰をも裁いてはいけませんと書いてあります。裁かれないためだ。。。とルカ七章。人にレッテルを貼ることも裁きです。『あの人は、ああいう人だから。。。』というのも裁きです。あなたが、人を審判することが裁きです。

二つの側面。

① The plank from your own eye, and you will see clearly the speck from your brother’s eye. Matt. 7:5 自分の目の梁、他人の目のちり マタイ7:5
人は、人のしている悪には気が付くけど、自分の悪には気が付かない鈍さをもっている。それは、高慢さから出ているとも言える。

② Sawing and reaping Gal. 6:7 種まきと刈り取りの法則ガラテヤ6:7
人は、種まきと刈り取りの法則ガラテヤ6:7の通りに、人を裁く通りに、自分も裁かれるようになる。(自分が裁きを下した人と同じことをして裁かれるようになる)

この法則も、神の知恵です。それは、裁かれることによって、自分を知り、悔い改めに導かれるからです。

ローマ2: 4, 5

4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

◎ Self-righteousness (自己義)

人の罪の中で、いくつか大きいもの、取り除きにくいもの。悪魔が大好きなものがあります。それは、赦さない罪と、自己義。です。分かりやすい、悪人のする罪、盗みや暴力と比べて、目に見えにくいものです。かえって上品に見えている人の方が、大きな罪を持っているのかもしれません。

自己義、という言葉があります。これは、自分がいろいろと神様の御用をやっているし、罪を犯していないから自分は正しい、義だと思っていることです。これは、大きな間違いです。義は、一章でちらりと話しましたが、信仰によります。自分からは出てこないのです。自分で自分を正しく保てるのなら、神様はいらないのです。

パウロは、言っています。「神の慈愛が私たちを悔い改めに導くことをあなたがたは知らないのですか」

私の証し;

神学校行きたてのころ、私は、自己義満載の人でした。献身者たるもの、こうあるべきだ、みたいな考えでいました。そして、クラスメイトを裁いていました。「この人は召されていない。自分の力でここにいる。召しでなく、自分で何かになろうとしている。事実、あれもしない、これもしないじゃないか。」といつも裁いていた。一学期中自分がしんどかった。その人を見ると辛いし、自分がイライラする。あるとき、朝、聖書を読んでいる時、1ヨハネ4:8 「愛のないものに神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。」という言葉に出会いました。とても、ショックを受けました。自分の持っていると思っているもの、自己義について強く示されました。私たちは、自分の測りで他人を測り裁いていますが、神の測りは、どこまでも愛であり、その愛の測りのないものは、神を知ってはいないのだ。。。と語られたのです。私は、泣き崩れ、悔い改めました。私の、愛のなさ。愛のアプローチの無さに気が付いて、自分がされたらどんなに傷つくかということも思い知らされました。そして、悔い改めました。私は、自分の自己義の大きさにはっきり直面することとなりました。

◎裁く人たちへの解放の鍵

神様の慈愛に気付くこと。愛の測りを知ること。そして、悔い改めること。この二つは、私たちの盲目な霊の目を開かせます。開かせて、まず自分自身が見えるようになるのです。

★律法を知っているひとたちへPeople who know the law of God.

律法というのは、聖書のことでもあります。アブラハムが信仰を持ち、そして、神の人となり、その子孫たちがユダヤ人となりました。ユダヤ人にモーセを通して十戒が与えられ。また、モーセが神の書物を書きました。ユダヤ人たちは、律法を持つている=神の民 ということで、自分たちのことをとても誇りに思っていたのです。そして、自分たちは、その律法という「測り」を持って、周りを測り続けていました。

しかし、パウロは、そこをついて、

ローマ2:13
13 それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。13 (for not the hearers of the law are just in the sight of God, but the doers of the law will be justified;

ローマ2:16
16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。16 in the day when God will judge the secrets of men by Jesus Christ, according to my gospel.

「律法を聞いている人が正しいのではなくて、行っている人が正しいんですよ。」と主張します。そして、「自己義も、裁きの日に、人の目には隠れていたとしても、神様に裁かれるのですよ。」と。

★心の割礼circumcision is that of the heart

ローマ2:26-29

26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

ユダヤ人と異邦人との大きな違いは、律法を持つか持たないかもそうですが、割礼もまた一つの違いです。割礼とは、神様との契約関係にあることを示し、男性の性器の一部を切り取るという儀式です。

しかし、割礼を受けていても、律法を行っていないなら、自分を裁くことになっていないか? というのです。ユダヤ人は、そもそも、人種でなく、アブラハムから始まった信仰を引き継ぎ、神様と関係のある人がユダヤ人なのですから、外見上のユダヤ人、人目に隠れたユダヤ人という言い方をしています。

文字ではなく、御霊による心の割礼こそ、割礼である。すなわち、神様に示され、心から悔い改めること、そこに聖霊様が働く、それこそ、本当の割礼であり、それは、人の業ではなく、神の業であり、神の栄光である。というのです。
二章、いかがでしたか? 今日は、自己義を取るか、神の愛の測りを取るか? ということだけ覚えていただけたらと思います。今週も神の愛にとどまりましょう。


#キリスト教 #クリスチャン #教会 #礼拝 #神の愛 #聖書

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ローマ書一章 Romans 1

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初めてCheese Cake ... 初めてCheese Cake Factory に行きました。お友達にもらったギフトカードがあったのと、この前、Youtuber のちかさんが紹介していたので。。。量が多いのは、聞いていましたが、ここまでとは。。。私は、サンドイッチをたのみましたが、三つも来て、しかも、フライも。。。サンドイッチは一つしか食べられませんでした。汗 こんな感じです。あと、食事前に... こんな感じです。あと、食事前に、二種類のパンを持ってきてくれました。そちらも美味しかったです。。。
エリックは、Kobe バーガー。こちらも美味しかったそうです。
アメリカに来たら、Cheese Cake Factory お試しください。カロリー、量ともアメリカ感まちがいなし!! 笑
2016年9月4日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/Luca7JjzBcg

ローマ1:16-32

今日から新しいシリーズローマ人への手紙を一章一章開いて行きたいと思います。

ローマ書は、パウロによって書かれた手紙です。パウロは、ローマに行って伝道したいと願っていました。そして、すでにローマにいる信者に向けて手紙を書き、コリントにいるときに、ローマに旅立つフィベに託したものと言われています。56年ころのお話しです。

ロマ書一章の1-15 パウロのロ-マ教会へのあいさつがかかれています。パウロのこの手紙の主題が来て、続いて、人の罪に関して書かれています。
この書の特徴は、教理が整理されて書かれているということです。パウロは、この手紙の趣旨をこうまとめて言っています。

★ロマ書の主題…パウロからあなたへの主題提起

ロマ1:16-17

16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

と、力強く語っています。福音とは、神様の良い知らせという意味です。この福音は、哲学でも、思想でも考え方でもありません。あなたが理解したから、どうこうというものではなく、あなたが受け取るものです。パウロは、救いを得させる力である。と書いています。力は、デュナミス(ギ) ダイナマイトの語源です。奇跡を与える爆発的な圧倒的な力というのです。劇的に物事を変えることのできるものであり、暗闇を粉砕する力です。パウロは、この福音の豊かさについて、この書を通して話しています。

V17この良い知らせ、福音の中に、「神の義」が啓示されている。救いを得るには、義を得なければならない。そして、その義は、信仰によるのだと。。。と語っています。
義とは、正しいことですね。神の前に正しくあるならば、救いを得ることができるのですが。私たちの内にはたして、正しい者がいるのでしょうか?

そして、どうして、その正しさに、信仰、信じることが関係してくるのでしょうか? パウロがとてもいい問題提起をしてくれました。ご一緒にみていまきょう。

★人の罪について…異邦人の罪

◎自然界を通して啓示されている神

v18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。19 それゆえ、神について知らされることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

よく七つの賜物セミナーでも言いますが、神様のご性質というのは、神様の造られた全てのものを通して語られています。私の母が、私が献身するというので、教会に行かなくなった時期がありました。そして、教会に戻るきっかけとなったことがありました。一緒に、テレビを見ていた時のことです。その番組では、植物や動物の不思議について細かく解説し、研究するような内容のものでした。「いやーー、すごいなー、すごいなー、不思議だなー、よくできていなー」と見ていましたが、ちらっと、「これは、全部神様が造られたんだよ」とぼそっと私が言ったことで、母の内で何かが変わりました。

科学者たちも言います。ある説を立ててみんな研究している、ある意味、自分の説と神様の法則の戦い。しかし、最終的には、それら全部を造られた神様の知恵に服するしかない。と言っていました。研究すれば研究するほど、神の神秘に引き寄せられるというのです。そんな中でクリスチャンとなった科学者を何人か知っています。

私たちは、生きていて、神を否むことができないのです。私も、クリスチャンになる前、高速道路で事故を起こしそうなときに、とっさに叫んだ言葉が、「神様!」でした。自分でもこの言葉にびっくりしました。信じてもいない神様の名前を、誰かも個人的に知らない神様の名前を叫んだのです。

人は、みな神に造られたのです。ですから、人の霊には、神のフィンガープリントが残されているのです。みな、神の存在を否むことはできないのです。否むことのできない神の存在を、否定しているところに私たちの罪があります。それに対して、天からの神の怒りの啓示があるというのです。

◎神を認めない罪

21 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

人々は、見えない神を無視し、目に見える神々を作りだしました。「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」自分たちで思い思いの神々、動物を自分の神にしたりするようになるのは、まず第一に、神を認めないから。そして、神を神としてあがめないから。そして、栄光を神に返して感謝しないことが、私たちをさらなる暗闇と盲目に導くのです。

私たちも、何か良いことがあったとき、神に第一に栄光を返すことを、神に感謝することをつい忘れてしまい、自分の功績のようにしてしまうことがあります。これは、偶像礼拝の始まりであることを覚えておきたいものです。

偶像礼拝と性的な罪というのは、歴史上見ても、一体化しています。偶像のあるところに性の乱れがあります。人は、神の子である尊厳を捨て、動物や木などの人間以下のものを拝むようになり、自分の身体をも軽んじるようになるのです。

◎神のいない世界の罪

26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
そして、罪の極みとして、動物もしないようなことをするようになってしまうのです。今の世の中、このことに触れるのは、特にシアトルは容易なことではありません。しかし、罪の出どころを順を追ってみるとこうなっているのです。

◎罪の種類

28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。

私たちの良心は、罪を犯すならば刑罰があるということをみな心の中で知っています。死後、天国に行けるという自身のある人に出会ったことがありません。(クリスチャン以外の人で)そして、私たちは、それに同意していると書いてある通りに。死後のことに関して無関心でいることにするか、また地獄で何が悪い、みんな地獄に行くのだからと開きなおってしまうのです。そんな中、真理に対して真剣に取り組む人は少ないのです。


#キリスト教 #ローマ書 #教会 #日曜礼拝 #聖書 #説教

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One Heart シリーズSonship③子としての資質・成熟

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小さい人たちは、どうしてバスケ... 小さい人たちは、どうしてバスケットを見るとかぶりたくなるのだろうか。。。。お約束です。笑  私も、よく、バケツを頭にかぶって歩き回って、そんなことしてたら背が伸びないよ! なんて叱られました。背は、順調に伸びましたけど。。。笑 いつも子供たちと遊んでくれた優... いつも子供たちと遊んでくれた優しいゆうこちゃんが、日本に帰国となりました。最後に一緒にランチをしました。。。本当に、ありがとう。そして、日本でも大いに神様に祝福されますように。。。。お祈りしています。 日曜日は、しょうたくんが、お別... 日曜日は、しょうたくんが、お別れのあいさつに教会に来てくれました。しょうたくんは、水曜日に帰国です。。。寂しいなー。。。ボーイズたちは、悲しくて、悲しくて。。。特に、小さいほうのボーイは、泣いて帰らないでとせがんでいました。かわいいな。。。しょうたくん、今まで、いいお兄ちゃんでいてくれてありがとう!!!!
2016年8月28日日曜日礼拝音声は, https://youtu.be/2F8A6s0C4ZI

一つ心、一つmindのコミュニティの中で、欠かせないsonship 神の子であることですが、先週は、子であるアイデンティティについて学びました。天の父なる神様の懐で充足していること、神の子である自分の素晴らしさを知っていて、満足していることが大切でしたね。今日は、子としての成熟の道について話して行きましょう。

★ 父母を敬うこと Honor Your Parents

出エジ20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

聖書の祝福の流れは、先日の賜物セミナーの治める者のところでも話しましたが、父から子に流れるものです。それは、霊的なことであり、肉的な血縁関係においてもしかり、霊的な親子関係でもしかりです。また、神の子としてもそうです。イエス様が、父である前に子であったことを思い出しましょう。イエス様は、子として模範の歩みを地上でされました。(先週の記事参照) 聖書の中には様々な例があります。

〇 聖書に見る霊的父と子の例
   エリヤとエリシャ  
   モーセとヨシュア
   ナオミとルツ   など

今の時代は、インターネットやテレビなどで、メッセージを聞くことができ便利です。そして、メディアを通してメッセージを聞き、そして献金をして、教会に行かず、人に繋がらず、それで信仰を守っている人もいます。が、これでは、成長も霊的な祝福も得ることができないのです。

今日は、エリヤとエリシャの例から見ていきたいと思います。

★ 子である資質 Qualities as a son

Ⅰ列王19:19-21

エリヤはそこを立って行って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎて自分の外套を彼に掛けたので、20 エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」21 エリシャは引き返して来て、一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそれを食べさせた。それから、彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた。

Ⅱ列王2:1-6 

主がエリヤをたつまきに乗せて天に上げられるとき、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。2 エリヤはエリシャに、「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから」と言ったが、エリシャは言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。3 すると、ベテルの預言者のともがらがエリシャのところに出て来て、彼に言った。「きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っているが、黙っていてください」と答えた。4 それからエリヤは彼に、「エリシャ。ここにとどまっていなさい。主が私をエリコに遣わされたから」と言った。しかし、彼は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはエリコに来た。5 エリコの預言者のともがらがエリシャに近づいて来て、彼に言った。「きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っているが、黙っていてください」と答えた。6 エリヤは彼に、「ここにとどまっていなさい。主がヨルダンへ遣わされたから」と言った。しかし、彼は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、ふたりは進んで行った。.

★ 何が必要か。子である資質。5 Qualities as a son

・父に選ばれる。(召し)

 v19 エリシャはエリヤに見つけられる。

ヨハネ15:16
16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

最近のキリスト教界では、自分の師を探す人が多いです。Youtube でもいろいろなメッセージが聞けますし。チャーチショッピングという言葉すらあります。自分上位で、教会や自分の従う人を決め、気にいらなければ替えるという考え方が浸透して少なくともアメリカでは長いのではないでしょうか。日本では少し違いますが。。。
エリシャは、エリヤに見いだされました。その上に神様の大きな摂理と召しが関わっていました。
イエス様も、弟子たちを選びました。弟子がイエス様を選んだのではありません。
私たちは、自分がこの神様を選んで、自分から神の子となったと思い違いをしてはいけないのです。いろいろな不思議な導きがあり、神様が私を引き寄せてくださったからこそ、信じることができたのです。
 
・共に歩むことを自分が選ぶこと。(義務感や強いられてではない)

 v20 エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」21 エリシャは引き返して来て、一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそれを食べさせた。それから、彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた。

エリシャは、エリヤの召しに応答しました。決断しました。エリヤについて行く。そして、エリヤの神にお仕えすると。子であることの資質の二番目は、ついて行く決断です。大前提に神に。そして、自分の師について行く決断です。

・父を愛し、敬う。

 エリシャは、エリヤについて生活し、共に神の奉仕をし、エリシャの働きをまじかでみます。エリシャはエリヤを尊敬していました。みなさん、神を敬い愛することはどういうことでしょうか。それは、「神の愛することを愛し、そして、神の憎むことを憎むこと」です。それこそ、神の心を受け継いでいるものの資質です。エリシャは、エリヤに従い、エリヤにつくことで、神の心を学んでいきました。

私も、かけがえのない学びを母教会でさせていただきました。それは、その時には気が付かないのですが、母教会の外に出るとよく分かります。私と、牧師先生が似ているのです!

・どんなことがあっても躓くことを拒否する。NO offence

 いよいよ別れの時が近づいてきました。エリヤが天に召されることがもう知られていました。先ほど読んだⅡ列王記2 章の通り。エリシャはどうしても先生、エリヤから離れたくなかった。帰りなさいと三度言われても、「いいえ、私はあなたから離れません」と言った。ここに深い真理があると思いました。ルツもナオミに里に帰るように言われても決して帰りませんでした。「あなたの神は私の神です。」と言って、ナオミについて行ったのです。
エリシャは、エリヤだけについて行っているのではなく、エリヤにならい、エリヤが従っている神から絶対に離れないという心でついて行っていたのです。

今、思えば、私にこの資質があれば、ずいぶん成熟が早かっただろうに。。。と思う出来事が数々あります。。。リーダーの言葉や態度に躓いて、それ以上、ついて行けないと思うのです。神様に従っていくときに、必ず、躓きそうな時があります。そんな時、その向こうにいらっしゃる神にどこまでもついて行く、そのような心が試されます。

・“子”である父を見続ける。父の従ってる神を見続ける。

エリシャは、お仕えしたエリヤのような働き、いや、バトンを受け取り、次の世代ではさらに偉大な働きがしたいと願いました。
エリシャは、エリヤが天に昇るのを見たら、二つの分の霊がもらえると言われた。彼は目を離さずに見続けた。そして、エリシャは、エリヤよりも大きな業をするようなものになった。
これが、私たちの弟子訓練の姿です。キリストをオナーしている師の姿を見続ける。追いかける。その先の、オナーを受けているイエス様を見続けるのです。イエス様ご自身も、もうこれ以上理不尽なことはない、十字架を耐え抜かれました。

へブル12:2

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

そして、それをしている私たちの後ろにもついてくる弟子ができるのです。これ以上の弟子の道、子の道はありません。これ以上、効率的であるとか、一気に大勢の弟子を育てるとか、ありえません。これが聖書の道、やり方なのです。


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One Heart シリーズSonship②アイデンティティ

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アマゾンの例のバナナ配りですが... アマゾンの例のバナナ配りですが。最近ユニフォームを着ておられます。どうやら、バナナを渡す人たちのことを、バリスタならぬ、「バニスタ」というようです。。。。しかも、12 の背番号です。これは、シーホークスのサポーターというこてでしょうか。。。。いろんな意味で、パロってます。 日曜日は、エリックの誕生日祝い... 日曜日は、エリックの誕生日祝いを教会で。好物のバナナケーキをグルテンフリーで作って持っていきました。。。図らずも、メンズテーブルになってます。。。
2016年8月21日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/JYXPsXiKdKc

一つ心、一つmindのコミュニティの中で、欠かせないことがあります。それは、英語では、Sonship と言いますが、日本語では、「子であること」です。子であることがなぜ、一つになることにおいて重要なのでしょうか。二週間前は、「孤児の心」のことを話しました。子であることが分からないと、私たちは、交わりを避けるようになり、真の人間関係よりも、自分が何かを達成することによって、人に認められたい、また人に受け入れられようとします、あるいは、人の優位に立って、グループの中で自分のアイデンティティを保とうとします。。このような、力が働いていては、真のコミュニティを築くことができないのです。

今日は、「子であること」パート2ということで、父と子の関係、父なる神の子であるあなたの独自性について話してみたいと思います。

★誰が神の子であるのか

父なる神の子、イエス・キリストを信じるだけで、私たちは、神の子となる特権が与えられる。それは、罪の生き方をやめる決意であり、キリストが自分の罪の刑罰として身代わりに十字架にかかってくださったことを信じることです。

ヨハネ1:12 

12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 But as many as received Him, to them He gave the right to become children of God, to those who believe in His name:

と、ある通り、キリストによって私たちは、神の子とされるのです。

○神の家族の交わりに入れられる

神の子となり、神の家族の一員となった私たちには、天のお父さんを「アバ、父」(おとうちゃん)と呼ぶ霊が心に宿ります。そして、三位一体の神が互いに交わっているように、家族の交わりの中に入ります。

Ⅰヨハネ1: 3

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。3 that which we have seen and heard we declare to you, that you also may have fellowship with us; and truly our fellowship is with the Father and with His Son Jesus Christ.

Ⅰヨハネ1: 7

7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。7 But if we walk in the light as He is in the light, we have fellowship with one another, and the blood of Jesus Christ His Son cleanses us from all sin.

「一つ」となることについて話してますが、真の交わりのためには、一人一人の罪が解決し、光の中を一人一人が歩んでいなければならないことが分かります。これは、何も努力して修行をして罪を絶対に犯さない完ぺきな人間になってから、というのではありません。恥を明るみにだして、ありのままの自分で、罪を取り去るキリストに信頼して光の中を歩むことです。その時に、私たちの間に隠れる恥が無くなり、私たちは、ますます一つになるのです。
―――バンデージブレーキングとアカウンタビリティーグループの例

○キリストと共同相続人となる。

ロマ8:14-17  14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光とをともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。14 For as many as are led by the Spirit of God, these are sons of God. 15 For you did not receive the spirit of bondage again to fear, but you received the Spirit of adoption by whom we cry out, “Abba, Father.” 16 The Spirit Himself bears witness with our spirit that we are children of God, 17 and if children, then heirs—heirs of God and joint heirs with Christ, if indeed we suffer with Him, that we may also be glorified together.

天の霊的財産はキリストによって私のものとなった  

私たちの身分は、一気に変わります。キリストと天の共同相続人となるのです。私たちが稼がなかったものを私たちは受けるのです。天では、すでに「キリスト=あなた」とみなされているのです。しかし、私たちがいつまでも生まれたての赤ちゃんでは、この相続財産を有効活用することができません。赤ちゃんは相続が決まっているけれでも、親は、現金を全部赤ちゃんに任せたりはしませんね。私たちは、どのように子として、成熟していったらいいのでしょうか。そこが問題となっています。

まず第一に

★子であることに充足していること

そこに、充足しているか。Doing < Being これが分からなければ、主の働きをするのが難しい。

私の経験; 孤児の心を持っていた私は、何もできなくなるくらいに疲れ果てたことがあった。そして、ただただ毎日神様の癒し、父なる神様の懐で休むことだけを目標にするしかない時期があった。そんなとき、一人の傷ついている人が私の目の前に来て、目があった瞬間に、その人が泣き出した。一緒に泣いた。そして、何と、不思議なことにその人の心がそれ以来癒されたのだ。。。

父なる神の懐にとどまるパワフルさを初めて経験した一瞬だった。

★イエス様の子としてのモデル(模範)

Everything that Jesus did, He did as a son to a father – this is the life and the lifestyle to which we are to be conformed. (John Alley)

私たちの人生の目的は、キリストを信じたときから、キリストの追従者となりましたね。そして、一番のゴールは、キリストのように生きることとなりました。イエス様はどんな風に地上を生きてくださったのでしょうか。

イエス様は、彼の神の子としてのアイデンティティを生涯全うされた。わたしはこれを喜ぶといわれ、また、荒野での試みでは、アイデンティティをことごとく試された。十字架にかかる時にも、最後まで独自性を失うことがなかった。
何かを成し遂げる以上に、何者であるかを自分が知り、つかみ、離さないところに強さがある。

私たちは、自分の神の子である独自性の中に安息を見出し、そして、充足してこそ、自分のミニストリーを全うすることができる。

その上で、父なる神に従ったイエス様

キリストは、自分のエゴをいかす生き方はしなかった。すべて、父なる神の心とともにあり、父なる神の時に従った。父のしていることをし、父のいるところにいると言った。

ヨハネ5: 19

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。19 Then Jesus answered and said to them, “Most assuredly, I say to you, the Son can do nothing of Himself, but what He sees the Father do; for whatever He does, the Son also does in like manner.

マルコ14: 36

またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」36 And He said, “Abba, Father, all things are possible for You. Take this cup away from Me; nevertheless, not what I will, but what You will.”

イエス様は、わたしを見たものは父をも見たのです。。。と言われるほどに、父と心を一つにしていた。父の心を知り、父について行くイエス様、そのイエス様について行くというのが私たちの生き方なのです。父の心と一つになることが鍵となります。。。また、これが、子の成熟の鍵でもあります。

子である資質については、次の週でお話しします。

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主は私の羊飼い。The Lord is my shephard

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今週は、たくさんのホライズンフ... 今週は、たくさんのホライズンファミリーがシアトルに里帰りしました。不思議です。まるでみどりさんのメモリアルに合わせるかのようにしてみなさんシアトル入り。礼拝では、ちえちゃんと、みわちゃんが証しをしてくれました。神様の愛に感動。感動。とてもパワフルな祈りの時にもなりました。こうしてシアトルの教会に帰ってきてくれること、私たちにとって大きな祝福です!!
2016年8月14日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/5J4-1lZ-V5Q

昨日は、私たちの愛するみどりさんのメモリアルサービスでした。昨日のメッセージを準備している中で思い浮かんだ言葉は、なんと、三年前のみどりさんの快気祝い証し会の時のみ言葉と全く同じでした。神様に、とらえられて、持ち運ばれたみどりさんの人生がみ言葉を指ししめしていたことを改めて覚えました。今日は、そのみ言葉の一つ詩篇23篇をご一緒にメディテイトしていきたいと思います。

詩篇23篇

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。The Lord is my shepherd; I shall not want.
2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。He makes me to lie down in green pastures; He leads me beside the still waters. 
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。He restores my soul; He leads me in the paths of righteousness For His name’s sake. 
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。Yea, though I walk through the valley of the shadow of death, I will fear no evil; For You are with me;Your rod and Your staff, they comfort me.
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。You prepare a table before me in the presence of my enemies; You anoint my head with oil; My cup runs over.
6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。Surely goodness and mercy shall follow me All the days of my life; And I will dwell in the house of the Lord Forever.

この詩篇は、イエスキリストの十字架を示す詩篇22篇と、再び来られるイエス様を指し示す、詩篇24篇に挟まれています。詩篇23篇は実に、今ある私たちのためのイエス様と私たちの生き方を指示しています。

羊について;

羊はよく聖書の中で人間に例えられています。羊は、人間と同じように野生の羊というのはいません。みな、世話されないと生きてけません。一匹オオカミならぬ、一匹羊というのは、存在せず、群れをなして生活します。羊は、視力が非常に弱く、あまり見えていません。近いくしかみえないのだそうです。だから、導き手が必要なのです。そして、非常に臆病です。また、牙もなく、強いところはないので、簡単に外敵に食べられてしまいます。だから、羊飼いに守られる必要があります。犬などは、よく捨てられても、家に数日したら帰ってきたり、ということがありますが、羊は、そういう方向感覚とか、来た道を帰るなどということが出来ず、迷いやすいものです。
羊飼いというのは、そんな羊を大切にし、羊の気持ちになって導いているのだそうです。羊飼いは、夜寝るときには、自分が門となって眠ります。

V1  主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。

羊の説明からも、羊には、羊飼いがいなければ、えらいことになるということがわかりましたね。詩篇23のはじめに、「主は、私の羊飼い。」とあります。「私の」羊飼いとあるとおりに、羊飼いとの個人的な出会いが私たちには、必要です。私たちは、迷いやすく、また弱いので、守ってくれる羊飼いが必要なのです。でも、誰が私の羊飼いか、知らなければ、さらに迷ってしまいます。
あなたの羊飼いは、誰でしょうか? あなたは、私の羊飼いと言える方にもう出会いましたか?

V2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。He makes me to lie down in green pastures; He leads me beside the still waters.

人にはみな名前があります。そして、私は、個人的にそれらの名前は、神様から来ていると信じています。みどりさんの名前は、いつも、この場所から取られたのだと思っています。神様は、目が見えず、方向音痴で、どこに私たちを生かす食べ物かわからない私たちをちゃーーんと、導いて、そして、豊かなみどりの牧場で十分食べさせてくださるかたなのです。肉体的にも、霊的にも養ってくださいます。

V3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。He restores my soul; He leads me in the paths of righteousness For His name’s sake. 

病は、気からという言葉がありますが、私たちの心に元気がないと、体まで病気になってしまいます。また、いくら体が元気でも、心が元気でないなら、私たちは、何をしてもうまく行きません。みどりさんは、最後の三か月、大変解放されました。癒しを経験し、解放を経験しました。それも、神様の御名のために、イエス様がそう導かれたのです。義の道というのは、神にあって正しい道。イエス様の道です。神との和解、人との和解、自分自身との和解の道です。その道は、赦しの道であり、赦された喜びの道であり、心の問題の清算の道です。私には、負いきれない心の問題だ。しこりだと思うことがあるかもしれません。しかし、御名のために、それがなされます。あなたにかかっているのではなく、神の上にその責任がかかっているのです。神はまた、あなたをそうして義の道に導き自由にしたいと思っておられるのです。

4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。Yea, though I walk through the valley of the shadow of death, I will fear no evil; For You are with me;Your rod and Your staff, they comfort me.

みどりさんは文字通り死の陰の谷を肉体的にも精神的にも通られた方でした。しかし、そんな中で、ともにいて下さるイエス様を見つけられました。がんの治療をしている時から、私はもうすべて神様にお任せしているの。。。とおっしゃっていました。

あなたのむちとあなたの杖。。。。羊は、物覚えも悪いので、あらぬ方向に行ったりしてしまいます。そんなとき、目の見えない羊に、羊飼いは、ピシッとむちをやります。そっちじゃないよ、こっちですよ。と。また、アンルーリーな羊には、ぐいっと杖で首根っこを引っ張り引き寄せます。どうしょうもないおてんば、暴れん坊には、仕方なく、足を折って、肩に担いで旅を続けたりします。崖から落っこちたり、群れから外れてオオカミに食べられるよりは、けがをさせても、羊飼いの肩に担がれて運ばれている方が安全だからです。

近視眼の私たちは、痛みを嫌がったりしますが、ダビデは、主の矯正は、慰めである。とさえ言っています。

5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。You prepare a table before me in the presence of my enemies; You anoint my head with oil; My cup runs over.

自分に敵がいる時ほど、心が落ち着くことはありません。食欲だってありません。戦いの時は、いつも腰を落ち着かすこともできません。しかし、この個所は、当時のミドルイーストの客のもてなし方だそうです。私たちの羊飼いイエス様は、戦いの最中にあっても、私たちのために、食事を用意し、仕え、そして、私たちを歓迎いて、客人のもてなしの一つである、頭に油を注いでくださるのです。そして、私たちの人生は、私たち主導の、いつも戦いの中で、切るか切られるかの、striving なものではなく、主にあっては、主がすべてを握っておられて、また祝いのパーティの席の様だというのです。

あなたは、何に対して、がんばって戦っていますか? これは、主の戦いであって、主がすべてをカバーしてくださってることを知りましょう。

6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。Surely goodness and mercy shall follow me All the days of my life; And I will dwell in the house of the Lord Forever.

羊飼いは、先頭をきって普段は羊を導いているようですが、私たちの羊飼いは、後ろからも追いかけてくる羊飼いです。私たちは、神様の声を無視して、神様から離れて忙しくしてしまうことがありますが、神様は、いつもいつくしみと恵みをもって私たちの後ろを追いかけてまでくれる方です。どこまでも、神様主導の祝福の道なのです。

みどりさんも、天の永遠の家に帰りました。永遠にいつまでも、主の家に入られました。私たちもこの恵みの家に住まいましょう。

もう一度いいます。誰があなたの羊飼いでしょうか?

主はわたしの羊飼い。私は乏しいことがありません。 主との個人的な出会いをまず求めましょう。また、日々求めていきましょう。


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愛する故みどりさんメモリアルサービス

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スピーチされた皆さんの共通の言... スピーチされた皆さんの共通の言葉は、笑顔の素敵なひまわりのような方だと。。。その通りのお写真です。このときは、まだがんで余命宣告された時からそんなにたってないころの写真です。
バイブルスタディ後のお顔。。。
彼女の一番つらいとき、一人娘を... 彼女の一番つらいとき、一人娘を天に送った時、一緒に寄り添っていてくれた、お友達のスピーチ。 お花もカラフルでとっても素敵で... お花もカラフルでとっても素敵です ゲストは、40名ほどいらっしゃ... ゲストは、40名ほどいらっしゃいました。都合がつかない方々もたくさんおられました。 前からの写真 前からの写真 聖歌 驚くばかりの Amazi... 聖歌 驚くばかりの Amazing Grace を味わって、歌いました。彼女の人生を表している賛美歌です。 随分みなさん帰られた後ですが、... 随分みなさん帰られた後ですが、教会員を中心に、集合写真。天国でまた会いましょうね。みどりさん。 エリックの聖書朗読。 詩篇23... エリックの聖書朗読。
詩篇23篇を読みました。
がんが見つかったとき、ホライズ... がんが見つかったとき、ホライズン教会に連れてきてくれたご友人のスピーチ。 ハワイから、シアトルに訪問中の... ハワイから、シアトルに訪問中のもとホライズンファミリー。パリスポ夫妻。 He will carry you という素晴らしい特別賛美とダンスをしてくださいました。力強かったです。 お花が美しいです。命があふれて... お花が美しいです。命があふれていて、永遠のいのちに入られたみどりさんを思います。 ご主人のスピーチ。本当に本当に... ご主人のスピーチ。本当に本当にみどりさんを愛しておられた、今も永遠に愛するとおっしゃった彼。。。感動しました。本当は、寂しくて、前に立てる状態ではなかったのに。。。 ささやかなスナックとともに、サ... ささやかなスナックとともに、サービス後みなさんでお交わりの時を持ちました。 愛する故みどりさんメモリアルサ... みどりさんは、コミュニティカレ... みどりさんは、コミュニティカレッジで日本語を教えておられました。若い方々も数名いらっしゃいました。 彼女の思い出のブース。後ろのか... 彼女の思い出のブース。後ろのかばんは、彼女の愛する息子からの母の日のプレゼント。とっても大切にしておられました。 たくさんの思い出、そして、みど... たくさんの思い出、そして、みどりさんの尊い人生を通しての神様からのたくさんのメッセージをありがとう。。。
天国で、また会いましょうね。私たちが行った時には、いろいろと案内してくださいね。みどりさん。
みどり松岡コアさんは
1948年12月2日 東京で生まれ
1991年2月2日に マイケル・コアさんとご結婚されました
1992年にシアトルに引っ越してこられました。
先ほど、みなさんのスピーチでもあったように、
ご自分でビジネスをされたり、日本語教師を長年されたり、新聞社で働いたり、日本語のブリスクールで教師をしたりと本当にタレントのある方で、多くの人に関わりのあった方です。
2016年8月2日に 天のイエス様のところに召されました。

私は、このホライズン日本人教会の牧師、貴子モルガードです。みどりさんと知り合ったのは、みどりさんに肝臓がんが見つかり三か月と余命宣告されたころでした。2011年のことでした。教会に癒しの祈りを受けに来られたのがきっかけで、教会に集われるようになりました。

日本でも、幼いころからおばあさまに連れられて教会に通っておられ、中高生のころには教会のピアニストもされていたそうで、讃美歌がお好きな方でした。
年齢、文化、関係なく幅広く人間関係を持たれる方で、誰にでも愛される笑顔の素敵な女性でした。

今回、突然の脳梗塞、突然のお別れのように私たち人間の側では感じてしまい、別れの準備ができていなかっただけに、寂しくつらい気持ちがします。
みどりさんが召天された時、主人と座って祈り、みどりさんと過ごした6年間の教会生活を思い起こしていました。

そして、いくつかの神様からのメッセージを受け取りました。まず第一には、

① 神様の恵みは私たちの思いと願いを超えてはるかに強く、大きいということでした。

聖書の中に、
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」』“I will never leave you nor forsake you.” ヘブル13:5

と、あります。その、神様の力強い御手を感じるできごとがありました。

余命宣告をされ、教会に来られ、がん治療が始まりました。それから、もう肝臓は移植の道しかないということで、移植のリストに登録しました。二年半、とうとう体力もなく、数回、昏睡状態に陥る状態になりました。何か月も入院していて、食べ物も水分も受け付けず、がりがりに痩せてしまいました。ホスピスの手配も終わりました。
病室もいつ行っても暗く、見舞いに行ってもみどりさんの意識のないことの方が多かったです。私も、もうこれは持たないかとあきらめていました。

しかし、神様の奇跡が起き、病院を変えたところ、みどりさんの命を救いたいというお医者さんに出会い、そして、奇跡が重なり、なんと肝臓と、腎臓を移植するという大手術になりました。そして、長い手術とその後の病院生活、リハビリも乗り越え、元気に生活できるようになりました。

通常の生活に戻って、一年、みどりさんは、証の会を開きたくさんの方を教会に招いて、祈りサポートの感謝をされました。そして、彼女は、「これからは、神様の素晴らしさを証ししながら生きていきたいです。」と言っておられました。

神様の大勝利をみんなで見ました。本当に、移植前のことが信じられないほどの元気な姿に感動しました。

「祈りの力は、すごいわよ。祈りはきかれるよ。」というのは、彼女の口癖になりました。

一か月ほど前に、礼拝前のランチに、みどりさんが何やら大きな箱をもってやってこられました。

“Thank you, God”

と文字の入った大きなケーキです。

「今日で私は、あの手術から三年なんです。もう、病院にも一年先まで行かなくてもいいの。みんなでお祝いしょうと思って。。。」
と。

私は、感動しました。もう三年たつのか。今まで、ぐんぐん元気になられて、私たちでさえ、あんな大きな手術をされたことを忘れかけていたのに。。。

② わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。Bless the LORD, O my soul, And forget not all His benefits: 詩篇103:2  
の聖書の言葉の通り、みどりさんは、「私たちに絶えず神様に感謝を忘れるべきでないこと」を教えてくれました。

この出来事から一か月ほどたった7/31の朝、みどりさんは脳梗塞で倒れられました。
礼拝前にマイケルさんからお聞きし、礼拝後すぐに数名で駆けつけ、病室で祈りました。とっても平安で、神様の臨在にあふれていました。次の日も、そうでした。三日目に、みどりさんは天国に召されて行きました。

みどりさんの癒しを祈っていましたが、そのニュースを聞いた時、神様の時について畏敬の念をもって理解しました。

思い返せば、この三か月、みどりさんは、たくさんのブレイクスルーを経験されました。

三年前には、肉体的なブレイクスルーを体験し、神様にあって守られて生活しました。けれども、心にかかるいくつかの心の重荷がありました。

それらは、長年彼女を苦しめていたものでした。そういえば、礼拝のあと、夜七時まで、みどりさんのお話しを聞いたこともありました。牧師ですから、いろいろな人生のできごとについて聞かせていただきました。

ある日曜日に、ゲストスピーカが来て、みどりさんに個人預言を与えられました。そして、その神様からの預言の言葉によって、彼女は完全に解放されました。彼女の魂が癒されたのです。彼女は、うれしさのあまり、お友達に電話をして解放の喜びを伝えたほどでした。

彼女は、教会学校で喜んで子供たちを教え、また、特別集会では、グリーターをし、喜びをもって神様に仕えることが出来ました。

彼女が召されたことを知ったとき、思いました。

「ああ、私たちの神様は、私たちの全人格の神様なんだなー。」と。みどりさんは、体が救われ魂が救われる経験をしました。

神様の側では、人の目から、外からではわからない、私たちの心の奥深くに触れて解放されたい神様である。それが、その人の道の完成形なんだ。。。ということに目が開かれました。


ルカ4:18-19 貧しいものに福音を伝え、心の傷ついたものを癒すためにイエス様は遣わされた
“The Spirit of the LORD is upon Me, Because He has anointed Me To preach the gospel to the poor;
He has sent Me to heal the brokenhearted, To proclaim liberty to the captives

みどりさんは、何も思い残すことなく、なんの心の傷や重荷もなく、喜んで、平安に天国に旅立つことが出来ました。

大きなメッセージを残してくださいました。

④  永遠への思い

そして、また、みどりさんに天国で会えるという希望を残してくれました。天国へのあこがれも私たちにくれました。天国を目指そうという気持ちを与えてくれました。

みなさん、心の中の問題は解決していますか?  イエス・キリストこそが私たちの体も心も全人的に癒しと解放をもたらしてくださる方です。

みどりさんは、彼女の人生をもってそれを証ししています。そして、それを神様からのメッセージとして私たちに残してくださました。

さぁ、イエス様のところに帰りましょう。これが、みどりさんのみなさんへの思いです。


#キリスト教 #命 #愛する人 #教会 #死 #聖書 #葬儀式

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ロバの子クラスピクニック

スレッド
子供たちは、岩に上ったり、噴水... 子供たちは、岩に上ったり、噴水をお尻で止めたり、することがいっぱい。。。。 わーーい。たのしーーーい。チー... わーーい。たのしーーーい。チーズ!
久しぶり、みんなのお気に入りのお友達、ウルトラマン君が二か月の日本訪問の後、来てくれました。久しぶりに遊べて嬉しいなーーー
この日は、もうすぐ帰国するさっ... この日は、もうすぐ帰国するさっちゃんが、みんなにお別れに来てくださいました。
さみしくなります。子供たちを愛していつも面倒を見てくれました。
また会おうね、さっちゃん。きっと今度会うときは、子供たちもうんと背が伸びていると思います。。。。
昨日は、ロバの子クラスでピクニックにいきました。

近くのシアトルセンターにあるプールに行きました。

冬は、プールではないんですが、夏は、みーーーんなここで水遊びしています。

浅いので、小さい子供たちも安心して遊べます。

お勧めのスポットです!

正確な場所は、キーアリーナの北となりにあります。
#キリスト教 #ピクニック #子育て #教会

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