ローマ書一章 Romans 1
9月
5日
ローマ1:16-32
今日から新しいシリーズローマ人への手紙を一章一章開いて行きたいと思います。
ローマ書は、パウロによって書かれた手紙です。パウロは、ローマに行って伝道したいと願っていました。そして、すでにローマにいる信者に向けて手紙を書き、コリントにいるときに、ローマに旅立つフィベに託したものと言われています。56年ころのお話しです。
ロマ書一章の1-15 パウロのロ-マ教会へのあいさつがかかれています。パウロのこの手紙の主題が来て、続いて、人の罪に関して書かれています。
この書の特徴は、教理が整理されて書かれているということです。パウロは、この手紙の趣旨をこうまとめて言っています。
★ロマ書の主題…パウロからあなたへの主題提起
ロマ1:16-17
16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
と、力強く語っています。福音とは、神様の良い知らせという意味です。この福音は、哲学でも、思想でも考え方でもありません。あなたが理解したから、どうこうというものではなく、あなたが受け取るものです。パウロは、救いを得させる力である。と書いています。力は、デュナミス(ギ) ダイナマイトの語源です。奇跡を与える爆発的な圧倒的な力というのです。劇的に物事を変えることのできるものであり、暗闇を粉砕する力です。パウロは、この福音の豊かさについて、この書を通して話しています。
V17この良い知らせ、福音の中に、「神の義」が啓示されている。救いを得るには、義を得なければならない。そして、その義は、信仰によるのだと。。。と語っています。
義とは、正しいことですね。神の前に正しくあるならば、救いを得ることができるのですが。私たちの内にはたして、正しい者がいるのでしょうか?
そして、どうして、その正しさに、信仰、信じることが関係してくるのでしょうか? パウロがとてもいい問題提起をしてくれました。ご一緒にみていまきょう。
★人の罪について…異邦人の罪
◎自然界を通して啓示されている神
v18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。19 それゆえ、神について知らされることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
よく七つの賜物セミナーでも言いますが、神様のご性質というのは、神様の造られた全てのものを通して語られています。私の母が、私が献身するというので、教会に行かなくなった時期がありました。そして、教会に戻るきっかけとなったことがありました。一緒に、テレビを見ていた時のことです。その番組では、植物や動物の不思議について細かく解説し、研究するような内容のものでした。「いやーー、すごいなー、すごいなー、不思議だなー、よくできていなー」と見ていましたが、ちらっと、「これは、全部神様が造られたんだよ」とぼそっと私が言ったことで、母の内で何かが変わりました。
科学者たちも言います。ある説を立ててみんな研究している、ある意味、自分の説と神様の法則の戦い。しかし、最終的には、それら全部を造られた神様の知恵に服するしかない。と言っていました。研究すれば研究するほど、神の神秘に引き寄せられるというのです。そんな中でクリスチャンとなった科学者を何人か知っています。
私たちは、生きていて、神を否むことができないのです。私も、クリスチャンになる前、高速道路で事故を起こしそうなときに、とっさに叫んだ言葉が、「神様!」でした。自分でもこの言葉にびっくりしました。信じてもいない神様の名前を、誰かも個人的に知らない神様の名前を叫んだのです。
人は、みな神に造られたのです。ですから、人の霊には、神のフィンガープリントが残されているのです。みな、神の存在を否むことはできないのです。否むことのできない神の存在を、否定しているところに私たちの罪があります。それに対して、天からの神の怒りの啓示があるというのです。
◎神を認めない罪
21 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
人々は、見えない神を無視し、目に見える神々を作りだしました。「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」自分たちで思い思いの神々、動物を自分の神にしたりするようになるのは、まず第一に、神を認めないから。そして、神を神としてあがめないから。そして、栄光を神に返して感謝しないことが、私たちをさらなる暗闇と盲目に導くのです。
私たちも、何か良いことがあったとき、神に第一に栄光を返すことを、神に感謝することをつい忘れてしまい、自分の功績のようにしてしまうことがあります。これは、偶像礼拝の始まりであることを覚えておきたいものです。
偶像礼拝と性的な罪というのは、歴史上見ても、一体化しています。偶像のあるところに性の乱れがあります。人は、神の子である尊厳を捨て、動物や木などの人間以下のものを拝むようになり、自分の身体をも軽んじるようになるのです。
◎神のいない世界の罪
26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
そして、罪の極みとして、動物もしないようなことをするようになってしまうのです。今の世の中、このことに触れるのは、特にシアトルは容易なことではありません。しかし、罪の出どころを順を追ってみるとこうなっているのです。
◎罪の種類
28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。
私たちの良心は、罪を犯すならば刑罰があるということをみな心の中で知っています。死後、天国に行けるという自身のある人に出会ったことがありません。(クリスチャン以外の人で)そして、私たちは、それに同意していると書いてある通りに。死後のことに関して無関心でいることにするか、また地獄で何が悪い、みんな地獄に行くのだからと開きなおってしまうのです。そんな中、真理に対して真剣に取り組む人は少ないのです。
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