今週は、たくさんのホライズンファミリーがシアトルに里帰りしました。不思議です。まるでみどりさんのメモリアルに合わせるかのようにしてみなさんシアトル入り。礼拝では、ちえちゃんと、みわちゃんが証しをしてくれました。神様の愛に感動。感動。とてもパワフルな祈りの時にもなりました。こうしてシアトルの教会に帰ってきてくれること、私たちにとって大きな祝福です!!
2016年8月14日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/5J4-1lZ-V5Q
昨日は、私たちの愛するみどりさんのメモリアルサービスでした。昨日のメッセージを準備している中で思い浮かんだ言葉は、なんと、三年前のみどりさんの快気祝い証し会の時のみ言葉と全く同じでした。神様に、とらえられて、持ち運ばれたみどりさんの人生がみ言葉を指ししめしていたことを改めて覚えました。今日は、そのみ言葉の一つ詩篇23篇をご一緒にメディテイトしていきたいと思います。
詩篇23篇
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。The Lord is my shepherd; I shall not want.
2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。He makes me to lie down in green pastures; He leads me beside the still waters.
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。He restores my soul; He leads me in the paths of righteousness For His name’s sake.
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。Yea, though I walk through the valley of the shadow of death, I will fear no evil; For You are with me;Your rod and Your staff, they comfort me.
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。You prepare a table before me in the presence of my enemies; You anoint my head with oil; My cup runs over.
6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。Surely goodness and mercy shall follow me All the days of my life; And I will dwell in the house of the Lord Forever.
この詩篇は、イエスキリストの十字架を示す詩篇22篇と、再び来られるイエス様を指し示す、詩篇24篇に挟まれています。詩篇23篇は実に、今ある私たちのためのイエス様と私たちの生き方を指示しています。
羊について;
羊はよく聖書の中で人間に例えられています。羊は、人間と同じように野生の羊というのはいません。みな、世話されないと生きてけません。一匹オオカミならぬ、一匹羊というのは、存在せず、群れをなして生活します。羊は、視力が非常に弱く、あまり見えていません。近いくしかみえないのだそうです。だから、導き手が必要なのです。そして、非常に臆病です。また、牙もなく、強いところはないので、簡単に外敵に食べられてしまいます。だから、羊飼いに守られる必要があります。犬などは、よく捨てられても、家に数日したら帰ってきたり、ということがありますが、羊は、そういう方向感覚とか、来た道を帰るなどということが出来ず、迷いやすいものです。
羊飼いというのは、そんな羊を大切にし、羊の気持ちになって導いているのだそうです。羊飼いは、夜寝るときには、自分が門となって眠ります。
V1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
羊の説明からも、羊には、羊飼いがいなければ、えらいことになるということがわかりましたね。詩篇23のはじめに、「主は、私の羊飼い。」とあります。「私の」羊飼いとあるとおりに、羊飼いとの個人的な出会いが私たちには、必要です。私たちは、迷いやすく、また弱いので、守ってくれる羊飼いが必要なのです。でも、誰が私の羊飼いか、知らなければ、さらに迷ってしまいます。
あなたの羊飼いは、誰でしょうか? あなたは、私の羊飼いと言える方にもう出会いましたか?
V2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。He makes me to lie down in green pastures; He leads me beside the still waters.
人にはみな名前があります。そして、私は、個人的にそれらの名前は、神様から来ていると信じています。みどりさんの名前は、いつも、この場所から取られたのだと思っています。神様は、目が見えず、方向音痴で、どこに私たちを生かす食べ物かわからない私たちをちゃーーんと、導いて、そして、豊かなみどりの牧場で十分食べさせてくださるかたなのです。肉体的にも、霊的にも養ってくださいます。
V3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。He restores my soul; He leads me in the paths of righteousness For His name’s sake.
病は、気からという言葉がありますが、私たちの心に元気がないと、体まで病気になってしまいます。また、いくら体が元気でも、心が元気でないなら、私たちは、何をしてもうまく行きません。みどりさんは、最後の三か月、大変解放されました。癒しを経験し、解放を経験しました。それも、神様の御名のために、イエス様がそう導かれたのです。義の道というのは、神にあって正しい道。イエス様の道です。神との和解、人との和解、自分自身との和解の道です。その道は、赦しの道であり、赦された喜びの道であり、心の問題の清算の道です。私には、負いきれない心の問題だ。しこりだと思うことがあるかもしれません。しかし、御名のために、それがなされます。あなたにかかっているのではなく、神の上にその責任がかかっているのです。神はまた、あなたをそうして義の道に導き自由にしたいと思っておられるのです。
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。Yea, though I walk through the valley of the shadow of death, I will fear no evil; For You are with me;Your rod and Your staff, they comfort me.
みどりさんは文字通り死の陰の谷を肉体的にも精神的にも通られた方でした。しかし、そんな中で、ともにいて下さるイエス様を見つけられました。がんの治療をしている時から、私はもうすべて神様にお任せしているの。。。とおっしゃっていました。
あなたのむちとあなたの杖。。。。羊は、物覚えも悪いので、あらぬ方向に行ったりしてしまいます。そんなとき、目の見えない羊に、羊飼いは、ピシッとむちをやります。そっちじゃないよ、こっちですよ。と。また、アンルーリーな羊には、ぐいっと杖で首根っこを引っ張り引き寄せます。どうしょうもないおてんば、暴れん坊には、仕方なく、足を折って、肩に担いで旅を続けたりします。崖から落っこちたり、群れから外れてオオカミに食べられるよりは、けがをさせても、羊飼いの肩に担がれて運ばれている方が安全だからです。
近視眼の私たちは、痛みを嫌がったりしますが、ダビデは、主の矯正は、慰めである。とさえ言っています。
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。You prepare a table before me in the presence of my enemies; You anoint my head with oil; My cup runs over.
自分に敵がいる時ほど、心が落ち着くことはありません。食欲だってありません。戦いの時は、いつも腰を落ち着かすこともできません。しかし、この個所は、当時のミドルイーストの客のもてなし方だそうです。私たちの羊飼いイエス様は、戦いの最中にあっても、私たちのために、食事を用意し、仕え、そして、私たちを歓迎いて、客人のもてなしの一つである、頭に油を注いでくださるのです。そして、私たちの人生は、私たち主導の、いつも戦いの中で、切るか切られるかの、striving なものではなく、主にあっては、主がすべてを握っておられて、また祝いのパーティの席の様だというのです。
あなたは、何に対して、がんばって戦っていますか? これは、主の戦いであって、主がすべてをカバーしてくださってることを知りましょう。
6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。Surely goodness and mercy shall follow me All the days of my life; And I will dwell in the house of the Lord Forever.
羊飼いは、先頭をきって普段は羊を導いているようですが、私たちの羊飼いは、後ろからも追いかけてくる羊飼いです。私たちは、神様の声を無視して、神様から離れて忙しくしてしまうことがありますが、神様は、いつもいつくしみと恵みをもって私たちの後ろを追いかけてまでくれる方です。どこまでも、神様主導の祝福の道なのです。
みどりさんも、天の永遠の家に帰りました。永遠にいつまでも、主の家に入られました。私たちもこの恵みの家に住まいましょう。
もう一度いいます。誰があなたの羊飼いでしょうか?
主はわたしの羊飼い。私は乏しいことがありません。 主との個人的な出会いをまず求めましょう。また、日々求めていきましょう。
ぼ
火曜日は、私たちの霊のお父さん、ダッグ・ヘック牧師の60歳の誕生日でした。教会でみんなで集まってパーティをしました。彼の好きな照り焼きチキンとサラダとライスでお祝い。私は、ライス係になり、125人分のライスを作りました。ふーー。ケーキに60本のキャンドル。消すのに一苦労で、孫たちが消すのを手伝いました。ほほえましい一幕でした。。ダッグ先生のおかげで、今の私があります。感謝しています。。
2016年7月3日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/ORRGi1n2Wy8
さて、先週まで、罪からの呪いである男尊女卑、神様の御心について、そして、イエス様がいかに女性を認めてきたかということを学びました。今日は、ではなぜ、教会文化の中にも根強く男尊女卑的な文化があるのかということをみ言葉から見ていきたいと思います。
それは、聖晝の解択聞違って教えられてしたからなのです。 伝統的に間違った教えを教会でしているために、日本でも、世の中よりも教会の中のほうが女性の地位が低いという現象が起きているのです。
男尊女卑と言われている数々議論されるみ言葉を詳しく見ていく前に、その背後にある文化の説明をしなければなりません。聖書の言葉だけを切り取って適用したり解釈することは、間違いに繋がることが多々あります。
歴史を見てみると非常に興味深いものです。へプルの世界では、女性は、宗教的な学びを一切させてもらえず、そして、宮にも入ることができなかった。また、男性と公に会話をしてはいけなかった。ですから、宗教的な教えを受けるのは、もつばら自分の夫に家で教えてもらうという風習があ った。と先週も話しましたね。
それとは、対照的に、異邦の民は、エジプトでも男女同権であったし、マケドニアでは、女性はビジネスにおいて大変活躍していた。というのです。
また、当時ギリシャの次にあげる三つの町は、特に、偶像の問題とそれにまつわる女性への見方が違っていました。コリント、工ペソ、ラオデキアの町々。こららの町々は、しばしばパウロ書簡ででてきます。
これらの町々では、女性の偶像をつくり拝んでいたという背景があるのてず。特にコリントでは、アフロデAphroditeの神を礼拝するときには、不品行もともに行われたのです。女性は、性の対象でしかなかった。売春が横行していた。コリントでは、そういう意味では、性的モラルのなさでは非常に有名でした。
ですから、パウロは、そんな背景の中にいる人たちに向かって、コリントにおける非常な性的な誘惑や罠から避けるために、独身でいられたらそのほうが良いというようなことを言ったのです。性的なモラルを守るために、女性を避けるような考え方が両極端の反対側にあったわけです。パウロは、何も、独身をどの地域にいる人たちにもすべての人たちにもすすめているわけではありません。
と言うような背景で、パウロは、結婚関係において、女性を敬うようにとも教えている。自分の体のように 。また、夫が、妻の欲求を満たすようにとも教えていることは、当時の文化、特にギリシャ的な背景からすると、非常に画期的なことである。
エペソ、アルテミス、女の神、子宝の神、子供を産むときに死から守ってくれると考えられていた。また、女は、すべての起源とし、女が世を支配するというマインドセットがあった。その文化的背景を持った、教会員たちに語っている言葉がある。
では、見ていきましよう。
Ⅰコリント11 : 3-16 ヒ工ラルキーの長は男性?
3しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。4男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。5しかし、女が、祈りや預言をするときに、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは神をそっているのと全く同じことだからです。6女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。7男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現れだからです。女は男の栄光の現れです。8なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、 9また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。川ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためです。Ⅱとはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。12女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。13あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしようか。自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしようか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、15女が長い髪をしていたら、それは女の栄光であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。16たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。
「頭」という言葉を聞くと、私たち罪の呪いのマインドセット、競争の観念では、どちらが偉いか、権威を持っているか、どちらが階層が上か、どちらが治めるのかというようなイメージを持っと思います。
私も、教会に行き初めのころ、、一を読んだときは、そう思いました。そして、少しがっかりしたものでした。 ああ、やつばり、神様にあってもそうなのか。女性というものは、いつも誰かに従えられて生きていくしかないのかな、と思ったものです。
しかし、 ここで使われている「頭」という言葉を聖書に原語ギリシャ語では、Kephaleという言葉が使われています。そして、その意味は、英語では、sourceとなります。源、起源という意味です。
ですから、言わんとしていることは、すべての男の起源はキリストであり、女の起源は男であり、キリストの起源は神です。
ですから、続く言葉のとおりです。女性は、もともと男性とーっであって、神によって男性の中から取り出され、一つであるが、違うものとして男のあばら骨によってつくられましたね。女性のソースは男性なのです。また、私たちは、キリストによってつくられました。私たちのソースはキリストです。キリストのソースは神です。私たちの源がそこにあり、私たちは、そこから成っているのです。
そして、キリストの起源が神であるが、二人は一体であり、一つであり、同等であることを覚えてください。ちょうどそのように、男女も一つであり、同等であるということなのです。
こ こで、男性も女性も考え方のシフトが必要になります。特に男性は、自分がリーダーだから俺に従えというのではなく、自分がソースである自覚をしなければなりません。あなたが、夫婦、また男女間の源であり、養いの要であります。また、女性は、男性をあなたの上に立ってあなたを奴隷のように使うものではなく、あなたを覆いあなたを守り、養うことのできる源であることを理解しなければなりません。
そして、考えてみてください。キリストと神は同等の方です。等しい立場であります。しかし、キリストのソースは神です。それと同じように、女性のソースは男性ですが、二人は同等の存在であります。
◎被り物と栄光について v4-9
髪の毛や被り物について書いていますが、 こをそのまま取って現代でも教会に行くときに女性が被り物をしていく教会も今もあります。しかし、背景を無視してここだけ切り取ってはいけません。被り物の文化は、コリントの文化の背景に重要な要素があります。
当時のコリントというのは、性的なモラルがめちゃくちやでした。売春も多かったのです。そして、アフロデの神殿では神殿娼婦たちがいました。宗教的な儀式で性行がなされました。そして、その娼婦たちは、頭を剃っていたのです。ですから、神が創造されてない、不自然な性行をする人たち、そして、本来美しい女性の髪を剃っているという不自然さ、そういうことがあって、剃った頭を隠すために被り物をしなさい。という風に書かれてたのです。
頭を剃った女性は娼婦であり、すなわち、娼婦というものは、夫の保護下にはいませんでした。当然です。それは、他の人と性的関係を持つのだからです。先週も性交渉の意味について話しましたね。ですから、被り物をするということは、夫との正しいユニオンに戻っている。男女、夫と妻があるべき姿となり一体となっている。一致を示しており、さらには、このユニオンが、神の前にキリストにも栄光を返し、キリストに従いキリストとともに一つになっていることを示しているのです。
ですから、頭にかぶり物をするならば、私は、神の権威の下に従っています。神の赦しの中に生きています。と証ししているものなのです。私は、神様に従って生きていきますという印だったのです。
◎み使いたちのため? V10
「女性は、男性の栄光」とあります。素晴らしい言葉ではありませんか。正しい神様のデザインされた、結婚関係という風に考えて読んでみると分かります。あなたの奥さんこそが、あなたの輝かしい誉であって、名誉です。すべての人の妻は、みんなトロフィーワイフです。あなたを完成することのできる、人間としての片割れなのですから。そして、神のようにあなたを助けることができる存在なのですから。
かぶり物に関してに戻りますが、 「み使いたちのためにもそうしなさい」と書かれていますね。どういうことでしようか。
1 ペテロ1:12 2
To them it was revealed that, not to themselves, but to us they were ministering the things which now have been reported to you through those who have preached the gospel to you by the Holy Spirit sent from heaven—things which angels desire to look into.
パウロは、この章を通して、神の教会において、礼拝中どのようにして、男女がともに等しく神の前に立つべきだと教えています。そして、男女一つとなって神に奉仕するべきであることを伝えているのです。決して、男がヒエラルキーの長であるという主張ではないのです。むしろ、当時地位の低かった、女性たちを男性と同等の地位までに引き上げたのです。
ぼ
元気なボーイズ! 二週間も病欠で教会に来られなく、私たちも寂しかったですが、今週は元気に来ました! 良かったーーー。教会を楽しく満喫していました。
ワシントン大学留学中のSくん。。。エリックと趣味があうので、楽しく会話しています。。。今週は、帰国後のゼミの活動のために質問をしに来てくれました。。。
あと少しの滞在だけど、いろいろとがんばってねー。あちこちでのボランティアの機会を紹介しました。
エリックは、今日は、子どもに受けるために、マッハゴーゴーのTシャツを着ています。
2016年5月15日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/Fz-WvU8lrP4
1コリント12:6-14
働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、10 ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。11 しかし同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
ハレルヤ、みなさんこんにちは。今日はペンテコステの日です。今年は、神様から大切なメッセージをこの時期にいただいています。特に、ペンテコステの意味について教会に語っていらっしゃいます。
毎週言いますが、ペンテコステは、イエス様の夢の実現でした。御父とイエス様がひとつであるように、イエス様と私たちが一つであり、私たち同志も一つとなること。それは、同じ御霊、聖霊の浸しを経験することによって実現しました。そして、キリストの体と呼ばれる教会が出来ました。
聖霊のバプテスマによって、開かれる超自然的な世界があります。聖霊様の与える賜物、超自然的な力にはどんなものがあるか、ということを先ほど読みました。
★ 聖霊の賜物の目的とは
V6-7 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。And there are diversities of activities, but it is the same God who works all in all. 7 But the manifestation of the Spirit is given to each one for the profit of all:
聖霊のバプテスマは、私たちが一つとなるためでしたね。聖霊の賜物は、私たちキリストの教会、体に属するものたちの益となるために与えられています。
人それぞれに、働き方や与えられている賜物の傾向が違っていても、それは、教会のため、他の人のために与えられているのです。
「自分のため」ではありません。自分を含めた体のためなのです。私とあなたは、もはや別々の個体ではなく、共同体であり、互いに属しあっているのだということをここで覚えたいと思います。あなたの、益は、私の益。だから、私は、あなたの益のために捧げたいのです。
★ 互いに愛し合うために
賜物の言うものは、自分のためにあるのではなく、相手のために、誰かのために与えられています。考えてみてください。教会の中で、賜物が自由に与えられているとして、自分が、癒しが必要だ、または、知恵が必要だという時に、自分が自分に与えられている賜物を使って癒されり、立ち直ったりしたらいいのではないでしょうか。しかし、それが、神様の道ではないのです。先ほど読んだ1コリント12章の次の章13章では、愛について切々と書かれています。「賜物があっても愛がなければ意味がない」というのです。というのは、互いに仕えあい、愛し合うことが神のみこころであり、そのために賜物というものは、与えられているからです。
★ 真のコミュニティ、共同体とは
私たちは、アメリカに住んでいますから、ここの文化にとても感化されます。アメリカは、個別、個人主義です。共同体理解は、共同体にいくらお金をだしているからとか、自分たちのやりたいこととマッチしているからという、自分中心で共同体を作ります。
しかし、聖書の言う共同体とは、一つの体のようだというのです。手で、足、皮膚、肝臓、つめ、全てが互いにいたわりあってこそ、存在していけるというものなのです。あなたが痛みを持っていたら、体全体が痛むというものです。このキリストの共同体では、世の中とちがって「あなたが何ができるか」と言うことは、関係ないのです。あなたが体の一部であるからこそ、互いにいたわりあうのです。
鍵は、愛です。あなたが、体の一部である方の痛みを知るとき、共感し、愛によって、助けたいと思う、その時、神様は必ず、それに必要な賜物を与えてくださるものなのです。後でもう少し詳しく話します。
★ 聖霊の賜物の機能とは
ではどのようにして、こられの賜物が働くのかということを話したいと思います。
私が初めて聖霊のバプテスマを受けた時、劇的な違いがありました。霊、見えない世界の感覚が一気に開かれました。神様から、ビジョンや預言の言葉を次々に受け取りました。ある時には、教会のなになにさんのために祈りなさい、彼らにはこんな危険が迫っていると。。。そして、その通りのことが起きたりしました。
さて、聖書で読んだとおり、九つの賜物には、知恵のことば、知識のことば、信仰、いやし、奇蹟を行なう力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力があります。その一つひとつの意味は、次のとおりです。
① 知恵のことば… 神様からの啓示。How を教えてくれる言葉。私たちが、いろいろな状況の中でどうしたらいいか分からない時に与えられる言葉。私の場合、もちろん、人をカウンセリングしている時に、こういう風に問題にアプローチしてはどうかとか、こういう風にアドバイスしてはどうか、という言葉がくる。一人ひとり、状況が同じ場合であっても、有効なアプローチは違う。クッキーカッターの様には物事は解決できない。神様が教えてくれる。また、知識の言葉が与えられるとき、それをどのように、相手に伝えたらいいか分からないとき、そのつど、神様に聞く。すると知恵の言葉が与えられる。
② 知識のことば… 神様からの啓示。What を教えてくれる言葉。知識の言葉とは、自分の知らないことを明らかにされる言葉。例えば、祈っている相手と神様しか知らないような言葉が与えられる。この言葉は、相手に伝える時に、時々注意が必要。時には、ストレートすぎて相手の気分を害することもある。しかし、神様が教えてくださるには、相手の益になるためですから、神様に知恵の言葉を求めます。
知識と知恵の言葉は、同じ祈りのセッションの中で与えられることが多い。また一緒に祈っている人に与えられることも、もちろんある。
③ 信仰… 救いにいたる信仰、神様を今私たちが信じている信仰と質の違う、はるかに大きい信仰。1993年に甲子園を貸しきってリバイバルミッションが開かれて多くの人が救われましたが、その言いだしっぺは、下条まきこ先生でした。先生が話し始めた時は、誰もが、どうやって。。まさかと思った話しでしたが、信仰の通り実現し多くの実を結びました。自分の現状や能力、信仰をはるかに超えた大きな信仰のことを指します。
④ いやし… 癒しの力、祈る時、語るとき、癒しが起きる。心の癒し。
⑤ 奇蹟を行なう力… 創造的な力が働き、無から有が生まれる力。食べ物を配っていると、その食べ物が無くならなかった。無かった目玉が出来た。虫歯が、癒しの祈りで、治療されて、金歯になった。死んだ人が蘇った。雨がやむ。降る。私の友達も集まって祈っていた時、宝石が降ってきたそうです。
時間がなくなってきたので、⑥から⑨は、次回に話します。ただ、大切なこと、一つだけお話しして終わります。
★ 必要に応じて与えられる
賜物は、違う人に違った形で与えられていますが、それは、誰かに仕えるためです。聖書のなかに次のような言葉があります。
エペソ4:7
しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。 But to each one of us grace was given according to the measure of Christ’s gift.
賜物は、英語では、Gift、すなわち、プレゼント、贈り物です。そして、それは、給料ではないのですから、私たちが稼ぐものでも代償でもありません。与え手の好意によります。
聖書、詩篇の中には、神様の私たちへの好意は、一生涯ものだとあります。私たちが神の子どもたちである限り、神様の好意は私たちの上に、キリストにあってあるのです。
また、エペソ4:7の通り、キリストの賜物の量りにしたがって恵みが与えられます。キリストの賜物の量りは、無限です。心配しなくてもいいのです。
プレゼントをもらうことは、そんなに難しいことではないのです。
神様に求めるなら与えられるのです。
神様に求めて、大いに互いに愛し合い、仕えあおうではありませんか。
ぼ
三年前に、シアトルで留学していたEちゃん。フライトアテンダントになって、シアトルに遊びに来てくれました。感謝です。とっても成長して、大人な話しが出来ました。
いつまでも、元気で、神様が守ってくれるようにと、お祈りしています。。。。。
日曜日は、忙しいので、土曜日に母の日を祝いました。義母の大のお気に入りの日本食レストランです。隣には、雑貨屋さんがあり、ショッピングも楽しみました。もう八十代半ばの義母。最近は、立て続けに二回も手術。。。。とにかく健康でいられますようにとお祈りしました。。。。最近、とみにやせちゃったなぁ。。日本の母には、カードとお菓子を送って祝いました。母も、喜んでくれていました。日本の母にもあいたいなーー。。。
2016年5月8日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/K2i5iXsnA10
使途2:4
ここ何週間か大切なお話しをしています。いかに、キリストの昇天が大切であるか、ペンテコステの出来事が教会にとって大切かと話して来ました。今日は、聖霊のバプテスマがもたらす事柄についてお話ししたいと思います。
まず、先に話した事がらの関連性についておさらいしたいと思います。
イエス様の昇天によって、イエス様は、天の王座に着座され、王の王となられた。それを信じる私たちは、そのイエス様の王国の国民の身分となった。そして、信仰によってイエス様の死と葬りと復活と昇天に合わされた私たちには、御名の権威が与えられている。
ペンテコステの日に、イエス様が話されていた「父の約束」すなわち、聖霊が降臨し、一人ひとりの上に臨み、あふれ、みな一つ霊とされ、教会が発足した。イエス様のかねてからの願い、御父とイエス様が一つであるように、教会とイエス様も一つ、信者の一人ひとりも一つとなることが実現した。
聖霊様は、単なるエネルギーではなく、パーソン。イエスの霊、御子の霊とされる一神格。さて、その方が臨む、その方にバプタイズ、浸される時、どのようなことが起きるのでしょうか。。。御国の一員として機能していくことが出来るようになるのです。
★ 異言の力
V4 みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。4 And they were all filled with the Holy Spirit and began to speak with other tongues, as the Spirit gave them utterance.
さて、五旬節の出来事では、みなが外国の言葉で話しはじめ、人々は、酔っ払っているのかと思ったというのです。異言については、いろいろな、議論があります。異言がでなくても、聖霊に満たされているとする人もいれば、異言を話さなければ満たされてないという派の人たちもいます。
私は、人それぞれの神様との関係が大切なのであるから、異言を話さないとダメだとは言いたくありません。
でも、パウロも言っているように、話せるなら、話した方が、いいと私も思います。
異言は、スーパーナチュラルの扉を開く窓口です。 数年前に、テレビ番組で、医者が異言を話す人の脳を調べました。そして、フランシスの修道士の祈っているときの脳と、チベットの仏教の僧侶が瞑想しているときの脳と比べました。異言を語る人たちの脳は、全く違っていたそうです。クリスチャンが言葉を使って祈っているときと、カトリックの祈りと、僧侶の瞑想は同じだったそう。前頭葉に力が集中していたそうです。自分の考えで、言葉をコントロールしています。しかし、異言を語る人の脳は、脳全体が活発に動いていたそうです。全体です!まさに、人間のコントロールから全く外れたところで、脳が機能しているそうで、サイエンスが、聖書の言っていることを証明した。異言を語るとき、この世の力、束縛から解放され、全くこの地上の影響の無い、天的な世界が開かれるというのだ。
聖霊のバプテスマは、天と人を一つにし、また地上の人たちを一つにする。といえるでしょう。
聖書に次のように書かれている通りです。
Ⅰコリント14:14
もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。For if I pray in a tongue, my spirit prays, but my understanding is unfruitful.
異言を話している時は、自分の知性を飛び越して霊で直接祈っているということです。頭では、分からないが、霊では分かっているというようなことがおきます。そして、霊のことがよく分かるようになると、霊でおきていることを、頭が上手に解釈して通訳することができるようになります。
★ 伝道の力 恐れがなくなる=確信をもって
使途1:8
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」But you shall receive power when the Holy Spirit has come upon you; and you shall be witnesses to Me in Jerusalem, and in all Judea and Samaria, and to the end of the earth.”
弟子たちは、聖霊を受けるまでは、恐れに縛られていました。聖霊が臨んで一番顕著な出来事は、恐れから解放されることです。違ういい方で言うならば、確信に満ち溢れ、恐れなどもろともしなくなる、ということです。
ペテロは、聖霊のバプテスマを受けた後、立ち上がり、大胆に今起きていることはどういうことか、説明し始め、そして、大伝道メッセージへと移り、3000人以上の人が救われるということが起きました。
それは、聖霊を受けると、今まで頭で理解しようとしてたことが、すとんと胸に落ち、確信がゆるがなくなる、確信がズドーンと腹の真ん中に来る経験をするのです。揺るがない確信を持って生きている人は強いです。
★ 御名の権威の行使
復活のイエス様が大宣教命令を弟子たちにわたしますが、その時に言われた言葉が次のことばです。
マルコ16:17-18
信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、18 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」And these signs will follow those who believe: In My name they will cast out demons; they will speak with new tongues; 18 they will take up serpents; and if they drink anything deadly, it will by no means hurt them; they will lay hands on the sick, and they will recover.”
大宣教命令のあと、父の約束を待ちなさい。と言われました。父の約束、すなわち、聖霊が望むとき、これらすべてのことが可能になるということです。聖霊とは、三位の神の一神格、聖霊様が臨むことによってイエス様の権威と一つになる。確信を持って御名の権威の行使ができるようになるのです。
信じる者には、それを受ける資格があるというのです。私たちは、どれほど、自分に与えられた身分を理解しているでしょうか。どれほど、自分に委ねられている権威を使って生きているでしょうか。
★ 天とのコミュニケーション能力が与えられる
先ほど、異言のところで話しましたが、天と直接一つとなれるものだといいました。自分の知性を飛び越え、人間的な常識を飛び越え、そして、地上のあらゆる束縛を超えて、天と霊においてつながれること、その一つの表れが異言ですね。
聖書には、聖霊の九つの賜物があるというのです。
それは、イエス様の御国に国籍を持つ天国民としてのしるしです。聖霊において、天と一つになっているならば、与えられる賜物として聖書にしるされています。
1コリント12:6-11 聖霊の九つの賜物
働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、10 ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。11 しかし同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
九つの賜物は、
知恵のことば、知識のことば、信仰、いやし、奇蹟を行なう力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力
今日は、一つ一つについて、時間が足りないので説明はできませんが。。また、次回に。
いづれも、超自然的なことです。そして、御国のために働くために必要なツールであります。私たちは、すでに天国民とされていますから、この賜物にあずかる資格を持っているのです。
エペソ4:7
しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。 But to each one of us grace was given according to the measure of Christ’s gift.
信じる者には、求めるならば与えられるものです。
★ アクティベーション!
ペンテコステの体験は、五旬節が来たからといって、自動的に全ての人が聖霊に満たされたのではない。イエスの言葉を聞いて、信じ、おことばどおりに祈り待ち望んだ人たちに注がれた。
私たちが、聖書の言葉を黙想するときに、力が注がれる。御言葉を信じるときに、聖霊の注ぎがあるのです。
天に昇られたイエス様を信じている私たちには、天的に生きる使命があります。そして、資格があります。聖霊のバプテスマを求めましょう。そして、受け取りましょう。イエス様に与えられた権威と能力をアクティベイトさせる必要があります。
一緒に祈りましょう。
ぼ
- ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
ログイン
- まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
新規ユーザー登録へ