すっかり春です。火曜日に近くのフェイスバイブル教会で、イースターアフタヌーンティの女性のイベントで奉仕させていただきました。教会からも三名の姉妹たちが参加しました。私は、まるで応援団がいるようで、心強く感じました。ゆっくりすわってお茶を楽しめるなんて。。。毎日忙しいママたち、女性たちには贅沢な時間でした。
2018年3月18日日曜日バイリンガル礼拝音声は、
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安息日シリーズ、今日で最終回です。今日は新約の安息日について考えてみたい思います。
★新約聖書New Testament
マルコの福音書では、イエス様がガリラヤに来られたこと。時が満ち、神の御国が来た、悔い改めて福音を信じるように、とマルコ1: 14 ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
Mark; Jesus came to Galilee, the time fulfilled, Kingdom of God is at hand. Repent and believe Gospel. Time is filled.
ラビや預言者は時が満ちることを話していた。
ギリシャ語で時は二つ、一つはカイロス、正しい時、時別な瞬間、ともう一つは、クロノス、時系列上の時間、順次通常の時間。Greek, Kiros- right time, moment special, Kronos – sequential time, ordinary time. Children is ruled by Kiros.
人々は、今がどんな時か知らなかった。大人というものは、クロノスの時間に縛られている。が子供たちは、違う。だから子供のようにならなければ天の御国に入れないとイエスは言われるのだろう。今がその時であるというメッセージをバプテスマのヨハネやイエスは語っていたのです。
そして、その時、その日というのは、預言者よりも神の家よりも大切なものであります。イエス様は、安息日にやってこられました。マルコの福音書では、四つの安息日の出来事について言及しています。ここに福音があらわされているのです。
① 聖なるスペース Holy Space
マルコMark 1:21-26
21 それから、一行はカペナウムに入った。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂に入って教えられた。22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようではなく、権威ある者のように教えられたからである。23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。24 「ナザレ人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしにきたのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
イエス様はすぐにカベナウムの神殿に行かれました。先週のお話しを覚えていますか。イエス様は、聖なる日に、聖なる場所である神殿に来ました。そして、汚れた霊につかれた人から悪霊を追い出しました。イエス様は、聖なるスペースを守られた。また、この後、人を癒されます。イエス様が来られると、人々は悪霊や病の束縛から自由になりました。聖さの中に、それは含まれている。Sozo --- イエス様こそが聖をわたしたちのために造ることができる方。
② 喜び楽しむ時 Time of delight and joy
マルコMark 2: 18-19
ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」19 イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。
イエス様が安息に入ってきてくださって、その場所は聖められ、病気が追い出されました。それだけではないのです。人々は不思議に思った。どうしてあなたの弟子たちは、ヨハネの弟子やパリサイ人たちみたいに断食しないのかと。イエス様は、花婿、すなわち婚礼の席で、花婿がいるのに周りの人が楽しんで祝って一緒に食事をしないということはあろうか。と問うている。
イエス様こそ、後に私たち教会の花婿です。イエス様、そして私たちの真の罪からの解放者がともにいるのに、罪深さを覚えるために身を慎んで断食する必要があろうか。。ということ。現に、もう何人もの人たちが癒されたり、悪霊から解放されたりしている。安息は、イエスにある自由を祝って楽しむ日なのです。
③ 安息日は人間のため Sabbath is for man
マルコMark 2:23-24, 27-28
23 ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」---27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。28 人の子は安息日の主です。
安息日に麦をとって食べることが、罪かどうか。。。が問題に。
イエス様は、安息日は人のためだ。お腹がすいたら食べたらいい。食べ物は神様からのギフトだと習いましたよね。ギフトを受け取って感謝して喜んでいただいたらいいのです。宗教家たちは、宗教の枠にとらわれていました。また、自分たちが何になるかということ。そして、罪を犯すということを重箱のすみをつつくように探していました。自由とはなんでしょうか。
律法とはなんでしょうか。律法は、私たちに仕えるものであって、私たちが律法に仕えるためにあるのではありません。イエス様は、その律法を全うするためにこられたのです。イエス様の霊に従うなら、私たちに自由が与えられます。イエス様に隠されて、私たちは責められることもなく隠れる必要もないのです。イエス様こそが、安全な場所なのです。
④ 安息日は、全ての人のため Sabbath is Inclusive
マルコMark 3:1-6
イエスはまた会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうかじっと見ていた。イエスを訴えるためであった。3 イエスは手のなえたその人に「立って真ん中に出なさい」と言われた。4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。
イエス様はまた、聖なる時に、聖なる場所で、わざをなさった。イエス様は、安息日に人を癒すかどうか責めるために見てやろうという人たちの心を嘆きながら、いのちを選び、癒しをされた。イエス様は、曲がった世の中に安息をもたらしました。この、一人の手の萎えた人も、喜びの安息に入るべきだったからです。安息日は、すべての人にとってギフトであり、全ての人が招かれているものです。
このようにイエス様は、この地上に来られた時、真の安息を示して下さいました。罪、汚れ、悪霊、病からの解放、食事を楽しみ、みなを安息日に招き入れる。イエス様は、身をもって示されました。イエス様は、全てを可能にしてくださいました。私たちが安息に入るためにです。今が、カイロスなのです。私たちがイエス様にいつでも、今がその時、となりました。それを信じますか。
今、一緒に祈りましょう。
今がその時です。イエス様の力を受け取りましょう。
礼拝後、子供たちがごみ集めをしています。。。ちゃんと、ごみ袋も入れ替えて、替えの袋も中に入れてっと。。。そういえば、日本の学校では、みんなやってますもんね。幼稚園児が草むしりしているし。。。なんか、できるんだーと新鮮に感じてしまいました。アメリカナイズされたなー。。。
今日は、初めて、けっぴーとしずかちゃんで、ワーシップをリードしてくれました。
不安だったみたいですが、とっても良かったです! 神様は、神によりたのむものを用いられますね。
2018年2月18日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、こちらから。。。
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主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。詩編34:8
Taste and see that the Lord is good. Oh, the joys of those who take refuge in Him! Ps.34:8
ダビデがアビメレクの前で気が狂っているふりをして、難を逃れた、その時のダビデの歌です。私たちは、どんな試練の中にあっても、安息に入ることができる。神の豊かさを味わうことができるのです。主に身を避けるなら。。。
ユダヤ人の安息日は、前もって料理をしておいて、安息日の日には料理はしません。けれども、皆が食卓について食べ物を分かち合い、楽しみます。
★安息は,肉体的感覚で喜びを味わう日です
創世記2:1-3 Genesis2:1-3
1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。.
他の宗教や、キリスト教でも肉体は悪、霊は良いとされる傾向があり、肉体的な欲を取り除くことが、徳を積むようなそんな認識が広くあります。キリスト教の場合は、プラトン、アウグスティヌスに代表される二元論によって、肉体は悪。肉の欲は悪とされてしまいました。私たちの神様は、本当は逆だったのです。私たちの肉体を喜ばせることは、私たちの人間であることを祝うことです。安息とは、タッチ、におい、聞く、見る、そして何より味わうことを祝い楽しむ日です。
★食べ物
食べ物というのは、もっとも私たちを満たす楽しみ。Eating with fullest pleasure.
この楽しみの中に、私たちの感謝が込められています。私たちが作り出したものでない、食べ物は神様からの贈り物です。
エデンの園で、アダムはなんでも取って食べることができた。それは、実践的なレベルでの神様からの命令であり、またアダムの従順のあらわれでもあった。
食べ物というのは、ユダヤの文化の中心的なものとなった。食べ物は、信頼を表します。主の祈りでも、我らの日用の糧を今日も与えたまえ、といいますね。先週のメッセージのマナも、信頼が試されました。荒野を旅しているユダヤ人たちは、岩から自ら出る経験もしました。食べ物がない時に、信仰がなくてはならないのです。食べ物は、もう一度、神を信頼するかどうかをいつも問われるものであります。マナを荒野で自分のためにため込むことは、不信仰の現れでしたね。
何を食べるか、いつ、だれと食べるかということはまたとても重要です。
イエス様がこの地上に来られてからは、それが特に強調されました。イエス様は、また天からのパンであり、生ける水であられました。イエス様の存在は、食べ物に例えられました。そして、奇跡を通しても、神の与えるパンは、いつも十分であり、いつも余りあるほどである豊かさがあることが示されました。イエス様は、人々とともに食べました。ある時は、いつも罪人と食事をしていると責められました。
食べ物は、交わりを示しています。神の豊かさの中で、ともに食することに素晴らしい意味があるのです。
★美しさ
レビ23:3 Leviticus23:3 聖なる会合 Holy Convocation
六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。
食べ物は、交わりのためでもあるといいましたが、レビ記でも、安息日は聖なる会合の日であるとあります。人々が集う日であると。私たちは、聖なる会合に招かれています。
〇三位一体の関係に招待されている
安息とは、神の創造の神殿の中に入ることだと、先週話しましたが、そこには、ホストしてくれている方々がいるのです。それは、父、御子、御霊の三位が交わりながら存在体いる。その三位一体の神が私たちを、安息の神殿に招いていらっしゃるのです。
カール・バルトが次のように書いています。「三位の神は輝かしい、その輝きは喜びである。この喜びは人々を引き寄せ、また打ちのめすほどだ。ですから、この神の美しさ、すなわち、三位であられる神は、一つであるがそれぞれに異なっており、互いに関係をもち、完全な一致がある。その存在が美であり、また経済であり、その愛にあふれる三位の交わりは、まるでダンスのようだ。そのダンスが、美しさを放っている。」
神の美しさは、肉体的な感覚からも私たちに伝わるのです。ともに神の臨在の中で交わり、食事を共にするとき、私たちも神のダンスに参加し、神の美しさを体験するのです。
私たちの教会が毎週食事を共にする意図は、ここにあります。毎週、ケビンさんが心を込めて用意してくれていること、とても感謝しています。
私たちは、神の交わりの美しさから喜びを頂き、神の美しさは、私たちにさらなる願いを引き起こし、その願いは、神に対する畏敬の念に導いていきます。
★受肉のイエス様を受け取る
この私たちを安息に招く神は、私たちのように肉体をまとって、この地に来てくださいました。これは、大きな意味があります。神は、私たちの肉体を祝福されているのです。イエス様の美しさ、それは、受肉、誕生、奉仕、十字架、死、復活、復活、その命に触れる時、私たちはその美しさ故に、もっと知りたいという願い、それが欲しいという願いがおき、そして、主への畏敬の念にかれるのです。
このイエス様は、私を覚えてこれをしなさいと、パンを裂きました。イエス様を覚えてパンを食しぶどう酒を飲むときに、このイエス様と一つとなるのです。救いを得、そして、まことの魂の安息に入ることができます。
ヨハネ6:55-58
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。
共同体の食事とは、イエス様を食することであり、神の美に招かれているということです。
礼拝後。大好きなお兄ちゃんと遊ぶ子供たち。。。六時前まで教会で遊んでました。。。
2018年1月21日日曜日礼拝音声は、
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今日から新しいシリーズを始めていきたいと思います。それは、安息日、英語ではSabbath といいます。安息日について調べれば調べるほど、もし、神を信じているクリスチャンたちが、本当の意味で安息日を守るならば、この世の中は変わるだろうな。。。と思わされました。今日は、シリーズのイントロダクションとして基本的なことを話したいと思います。
★安息日のはじまり
安息日のはじまりは、この世のはじめ、天地創造の時からありました。私たちのイメージの安息日とは、きっと日曜日の感覚かもしれません。歴史の中で、人が休まずに働くと効率が悪くなると、宗教的な意味以外でも、日曜日が休みになったという背景があります。EX) Soviet Union; 1929 restructure the calendar, communal resting. ちなみに、ユダヤの世界では、金曜日日没から土曜日の日没まで。ろうそくをともして始まります。
創世記2:1-3 Genesis2:1-3
1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
★神は祝福され、休まれ、その日を聖であるとされた。
神は、創造の業をなさるときに、神に似せられた人間と7日目の安息日を祝福されました。人と安息には神の好意と守りがある。それが栄えるように神は祝したです。
神は、疲れたから休まれたのでしょうか? よく人間的な考えで、神は疲れたのだとか、いや神は疲れないから、人間に見本を示したのだとか言われますが、神は疲れたので休んだのではないのです。
全て、素晴らしく整えられた世の中をみて、ご自分に似せられた造られた素晴らしい人間たちを見て、それを楽しんでいたのです。何かをすることから手を留めて、過去六日日間、いや神様にとっては計画のはじめからの思いかもしれません、振り返り、ああ、よかった、と思いを巡らせていたのです。創造の御業を楽しんでいたのです。
神は、その日を聖とされました。神が創造されたもので聖とされたのは、安息だけです。聖とする、聖別するとは、どういう意味でしょうか?
それは、神のために取り分けるということです。お取り置きすることです。すなわち、他のものと分けること。分離することであります。ですから、他の六日間とは別にするということです。神が、聖なる日と定めたのはこの日だけです。
★時間Time is the heart of existence.
神は、七日には何も造られなかったのですから、何を聖いとしたかというと、一日、すなわち時間ですね。少し、時間について考えてみましょう。
人間の存在に意味を与える時間とはなんでしょうか。今の世の中は、エコノミーと時間が密接に関係している。タイムイズマニーでしょ?どれだけお金を稼ぐ能力があるかわかる、労働時間が、一番の価値をもつでしょうか?
エコノミーとくっついている時間の概念には、いつも時間は前へ前へ進んでいる。前に進むことしか概念にありません。しかし、立ち止まって、過去を振り返らなければ、感謝や教訓はうまれないのではないでしょうか。
時間は、人をコントロールしています。一日のスジュール、一か月、三カ月、半年、一年。。。人は、時間のコントロールから離れなければ、遊び、楽しみを得ることはできないのです。時間の感覚から解放されてはじめて、遊びの感覚が生まれるのです。
時間は生活にリズムを与える。習慣をもつ。人は、時間でリズムを作ります。中毒のリズムもあれば、宗教的なリズムもあります。。。時間の概念から離れなけれは、私たちに見えないものがある。
★ 安息は神の特徴 Sabbath is God’s Signature
安息は、神様からの贈り物です。私たちが稼いでもらったものではない。けれども、私たちは、休むために働くという感覚がある。旅行に行くまでに、これだけのことを済ませておかないと。。。などなど。。。最もなことです。この私も、時間を作らないと休めないという現状があります。このへんもどうしたらいいのか、一緒に考えていましょう。
安息は、週日のためにあるのではなく、人のためにあります。イエス様も言いましたね。安息日は、人のためにあると。。。。
安息は、神の祝福が宿る時間。すなわち、神がともにいらっしゃる神の臨在なのです。
安息は、聖なるもの。世の中の雑踏から切り離すものです。
安息は、楽しむことです。安息の特徴は、楽しみです。神の創造を見て、素晴らしい、神様と一緒に楽しむことです。
安息は、振り返ることです。リフレクション。今までの歩みを振り返り感謝することです。また、時には、涙するかも知れません。
他の旧約聖書の箇所では、
★旧約聖書の記述 In the Old Testament
出エジプト20:8-11 ザカー 覚えておく
8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息日である。あなたはどんな仕事もしてはならない。—あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も—11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
出エジプトでは、覚えておくことが強調されています。神が世界を創造された創世記に思いをはせて、創造のすばらしさ、神が楽しまれたように。。。また、人という人は皆、安息に招かれています。奴隷も外国人たちさえも。ですから、安息は、何も神を信じている者たちだけのものではないのです。みな招かれているのです。安息は、信じている人たちと信じていない人たちを線引きする日でないのです。
レビ23:3 Leviticus23:3
六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。
安息は、交わりとコミュニティーのための日であります。また、みなでともに楽しむ日です。
申命記5:1 Deuteronomy5:1 シャマー オブザーブ
1 さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行いなさい。
モーセの出エジプトから、四十年たって、シナイ山で与えられた十戒を強調し、生活のリズムとして守り行うように。。。神が、奴隷の状態から解放してくれたのだから、なおさら安息を大切にするべきだという意味が込められている。
〇安息日は、神の民の特徴であり、神の特徴であります。神への感謝であり、神とともにあり、神と過ごす日です。
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