Sabbath ➄ 経済 Economy
2月
27日
★御国の経済観念とは
経済とは、人間の生活に必要な財貨・サービスを生産・分配・消費する活動。また、それらを通じて形成される社会関係。
安息日シリーズで今まで共通している観念は、安息とは、神様からのギフトであるということ。また、先週は、共に食事を共にすることを話しましたが、神様の豊かさ、受肉のイエス様の豊かさに入るということを習いました。
みなさん、一つ初めに覚えておいていただきたいことがあります。それは、神が豊かであるということです。経済を話す時に、一番私たちが覚えておかなくていけないことです。神は豊かである。これが、神の人の常識なのです。足りない、足りないかもしれないという恐れは、神の人の非常識なのです。
また、この世の経済は売り買いで成り立っていますが、よく教会でも話しますが、神様の経済は、与えることと受けることで成り立っています。
皆さん、私たちが何かを造り出したというのでしょうか。先週話した通りに、創造のすべてのものは神様からの贈り物。神が造られたのであり、私たちではない。現在の私たちも神に出会った、イエス様の救いを頂いた。これも、私たちの何の力にも努力にも寄与せず、ただ、恵みによって救われたのです。神様からのギフトです。新約聖書にも、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とかいありますね。それは、神の愛ゆえのことです。
今日は、イザヤ58章を開いて、神の愛とそのトランザクション/経済活動について、御国的な経済観念のレンズを通してみていきたいと思います。
イザヤ58章5-14
5 わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。6 わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。7 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これを着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。8 そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。9 そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、10 飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。11 主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。12 あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者」と呼ばれよう。13 もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、14 そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う」と主の御口が語られたからである。
★断食と安息
当時の人々は身を戒めるために断食を定期的にしていました。また贖罪の日、Yom Kippur のころには必ず断食していました。断食は、宗教的な儀式になっていました。人々は、前の節でどうして断食しているのに、神様は顧みてくれないのか、と文句を言っています。
断食とは、宗教的行為であり、肉体に苦行を与えることで、自分が罪深い存在でることを知り、悔い改めに導かれるためのものであります。私は、心のある断食は大賛成です。肉体が弱り、霊が研ぎ澄まされるから、よく祈れます。しかし、この章の民のようでは、心がありません。彼らの頭の中は、世の経済観念です。売り買いです。こんだけ、断食したのだから、神様からこれこれを期待できるはずだ、と言っているのです。
そして、主は、あなたたちの断食は、わたしは喜んでいない。わたしを喜ばせるなら、次のことだと、語られ、そして、最終的には、安息日を喜びとすることを教えられました。
★真の断食とは
神様は、御国の経済について教えられています。神の喜ぶ断食とは、これではないか。と。
1) 人々を解放、救いに導く v.6
2) 貧しい者たち、また肉親の世話をする v.7
3) 人に精神的なかせをかけず、陰口を言わない v. 9
4) 悩める者たちの力になるv.10
これを読んで何を神様から聞きましたか。神様は、私たちの霊、魂、体が安息に入れるように願っていらっしゃるということですね。もう一つは、この世は、我先に、自分さえ儲かったらという個人主義による売り買いの世界です。しかし、神の好む断食は、人々を解放し、助け合うこと、精神的な重荷も担いあうことですね。与え、受けるという、トランザクションが働いています。
御国の法則は、超自然的な恵みが伴うようですね。これをこれだけしたから、これをあの人にあげたから、同等のお返しを期待する。。なんてことではないのです。私たちに光がもたらされ、神の声がよく聞こえるようになり、どんな厳しい状況でも私たちは強くされる、渇くことがない、また、壊れたものを修復するものとなるとおっしゃっているのです。それは、誰もが願っていることではないでしょうか。それは、苦行からは来ず、互いに対する心からの愛のあらわれから来るのです。自動販売機のようにではなく、いつのまにかそれがやってきているのです。
★安息は喜びとお祝いの日
先週に続いてもう一度いいます、安息は、コミュニティーのものです。そして、コミュニティの文化はその経済が形作るものです。神の豊かさを理解し、与える受けるのトランザクションのあるコミュニティは、みんなで、安息に入ることができるのです。
そして、リミットのない、神の豊かさに入り、神と過ごすことを神は私たちに求められておられ、あなた一人ではなく、あなたの周りの人たちコミュニティ全体が入り、そして、これを喜びの日とし、祝い楽しむことを神は望んでいらっしゃるのです。
★すべの人が安息に入れるように協力する
具体的に教会でも皆が神の喜びに入れるようにするには、どうしたらいいか、一緒にかんがえましょう。聖書の中には、必要のある人のため、外人のために収穫をわざと残しておくようにという教えがあります。私たちも、計画的に、誰かが誰かの重荷を担って、互いに安息に入れるようにしたいと思います。英語の教会がしているように、べネボランスミニストリーを立ち上げられたらと思います。ただ、金銭的な必要だけではなく、食事の用意や、託児なんてことも担い合えたらいいですね。神様に導かれて、この人の必要のためにこうしたいという方があれば、私まで申し出てくださいね。一緒に考えましょう。
レビ19:9-10
あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。10またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。‘