ベネチア広場方面に歩いていくと、 真っ白な大理石のこれまた巨大な建物に遭遇。 ほんとに白くてしばし茫然・・・。 ローマといえばここですね。 トレビの泉。 観光客が多く。 なかなかきれいに撮影できなかった。 物がでかいのでカメラに収まり切れず、 頭の部分が切れたのは残念。 >クリックで大きくなります<
会津戦争の時に砲撃を受けた鶴ヶ城の古写真。 派手に壊されてますね。 薩長軍の砲撃のすさましさを今に伝えてます。 再建した現在の鶴ヶ城。 この角度のもう少し正面を向いた感じが古写真だと思います。 鶴ヶ城は戦争の後取り壊されて、 石垣だけが残っていたんですね。 その荒れた状態の時に土井晩翠が訪れて、 「荒城の月」の詩の着想を得たようです。 仙台の青葉城も訪れて完成させたということですね。 >クリックで大きくなります<
会津旅日記も飯盛山を降りたところで最終回となりました。 飯盛山を下ったところにこの飯盛山全図があります。 巡ってきたコースを改めて眺めるのもいいですね。 今日から9月。 心機一転、214年の残りの4か月を走りたいですね。 先週は天気は悪かったですが涼しい毎日でした。 今週はどんな一週間になりますか・・・。 このまま秋とはならないと思いますが・・・。 >クリックで大きくなります<
飯盛山を登りとは別の下り道を下って、 最初におっ!と驚くのがこの「サザエ堂」 なんだかパッと見、 奇怪な形をしてるので、あ然・・・。 見たこともないような形をしてるので、 一瞬、思考がとまるような驚き・・・。 お堂なのですが、 このような形のお堂というのは見たことがない。 ビックリですよね。 特徴は、階段ではない通路。 登りと下りが一緒にならない通路。 登っててっぺんまでいって下りの道に入ると、 登りとは別の道。 最終的な出口は一緒になるんですが、 なんだかあれっ・・・て感じでした。 >クリックで大きくなります<
白虎隊士以外にも犠牲になった、 14~17歳の少年たちがいたんですね。 白虎隊士の墓所の隣に並んでましたよ。 こんな子供たちまでも巻き込んだ戦争というのはなんなんですかね。 特攻隊にも16~7歳の少年兵がいたのですが、 大人の身勝手さというのは底知れぬ恐怖がありますね。 会津戦争というのは、 薩摩と長州が会津藩を戦争に引きずり込んだ戦いだったんですね。 最近まで両県が仲が悪かったのは当然なのかも・・・。 白虎隊を美化したような話もありますが、 とんでもないことですね・・・。 >クリックで大きくなります<
自刃した白虎隊士の墓所の正面。 綺麗に整備されてますが、 若干古さもありますね・・・。 時間の流れを感じさせます・・・。 19人分の墓石が並んでます。 かなり古くなっていて、 文字も若干読み取りにくくなってます。 城主だった松平容保の白虎隊士を詠んだ和歌の歌碑がありました。 >幾人の涙は石にそそぐともその名は世々に朽じと思う< >クリックで大きくなります<
この場にあまりそぐわないようなローマ式の円柱があった。 なんだろうと近づいて紹介文を読むと、 昭和三年に白虎隊の精神に感動したローマ市民の名において、 送られたということだ。 円柱の後ろに「武士道精神に捧ぐ」という文字が入っていたが、 戦後進駐軍の手によって削られたそうだ。 かなり高さがある円柱だった・・・。 >クリックで大きくなります<
白虎隊士の自刃した場所に降りて、 鶴ヶ城が見えるのかなと思ってキョロキョロするが、 どこに見えるのか分からない・・・。 この石像の見ている方角にあると書いてあって、 ようやく見えた。 ほんとに小さくしか見えない。 建物も多いから余計にわかりにくい・・・。 これでは火の手が上がれば、 お城が燃えていると錯覚するのは当然。 実際は燃えてはいなかっただけに悲劇ですね。 15歳の飯沼貞吉だけが奇跡的に蘇生して、 白虎隊の悲劇が分かったんですね。 15歳から17歳までの少年たちですからねぇ・・・。 >クリックで大きくなります<
動く坂道の終点から少し階段を上がると、 「白虎隊」のお墓が立っている広いスペースに出ます。 地面が雨あがりのためか歩きにくい・・・。 そこから「白虎隊」の自刃の場所へ歩いていきます。 狭いちょっと鬱蒼とした道を歩いていくと、 階段の下に自刃した狭いスペースが現れます。 回りは墓所になってるんですね。 どういう人のお墓かはわからないですが・・・。 自刃した当時は山の中だったんだろうなという想像はつきます。 >クリックで大きくなります<