“温故知新”《襍感・/・点描‘17-23’》

旧宿場町「大内宿」... 旧宿場町「大内宿」

《時節感慨・・ひとりごと・・》
最近知り合った人々にちょっと昔を紹介しようと各地を探訪し始めた。
手始めに訪れたのは、江戸の町並み風情を残す宿場町「大内宿」。
会津若松(福島県)と日光街道の今市(栃木県)を結ぶ途(会津西街道)にある。
江戸時代は、会津西街道の宿場町で会津藩の参勤交代の要所であった。
明治以降、国道や鉄道が、離れた所を通った事で忘れられた場所になってしまった。
茅葺屋根・寄棟造の住居。街道両脇の用水路の流水は、明治期までは生活用水であった。
ひっそりと、江戸期の景観が残っている場所だった。
故宮本常一(民具研究者)は、この茅葺き集落「大内宿」を驚きを以って紹介している。
戦後の1960年代に別冊太陽に武蔵野美術大学教授時代の宮本常一が寄稿した。
後に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている(1981年)。
戦後の高度経済成長期、利便性で茅葺の屋根からの脱却を抑えられた事は、幸いであった。
囲炉裏端等々数百年前の藩政時代の人々の暮らしが残っていたように記憶している。
約40軒余りの古い住居建造物と町並み、映画のセットかと思えた。
昭和30年代半ば、テレビや耕運機が入ってくる。昭和40年代には、簡易水道が引かれた。
昭和40年代初頭からは、研究者の生活調査や建築物調査などで旧宿場の街並み景観評価、
而して住民の生活習慣や互助組織(結・講)も後世に伝えるべく検討された。
しかしながら、街並みの保存等の意義とは裏腹に生活者のあり方自体には、問題も生じた。
マスメディア・研究者・行政者と生活者の対峙は、今も昔も変わらない、と今回思った。
マスメディアの紹介方法次第で保存活動は、大きく偏向・形骸化してしまう。
貴重な生活文化を観光化してしまっている。保存・保全のあり方を再検討すべきと思える。
面的保存(町並み保存)の抜本的再検討が必用と痛感した。
又、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の後遺症が未だにある。
当地は、福島第一原子力発電所事故現場から直線距離で100km以上離れている。
単に福島と言うだけで敬遠されてる“観光”。風評被害の払拭は、マスメディアの役割だ。

今回の旅で嬉しかったことがある。
会津喜多方は、桐下駄の産地。30年以上も前に喜多方在住の友達が送ってくれた下駄。
普段あまり履かない事もあって「くたびれてはいる」が、修繕できるかと持参した。
販売者、店の住所も分かっていたので。
午後のおやつ時間帯、懐かしく喜多方ラーメンを頂き、その後に下駄屋さんを訪ねた。
同道した異国人の一人が喜んで下駄を求める。その場で鼻緒をつけて調整してくれる。
僕も1足、所望した。そして、持参した下駄をお見せしたら驚かれた!!
店の奥から初老の男性が出てきて、「この下駄は私が作った下駄です」と、こちらが驚いた。
修繕できると、引き受けてくれもした。直った姿が楽しみ、どんな履き心地になるだろう!!
はじめに応対してくれた若者は、ご子息に由。職人気質の好青年だった。
和服の生活なんて忘れていたが、タンスの肥やし!?!は、もったいない、と思った旅だった。

伝統・文化、日本独特の衣食住、心のふるさと、って勝手に思ってこれからも旅していきたい。

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