紀元前8世紀に都市国家として生まれたローマが次第に勢力を広げてイタリア半島を支配し、王政から共和制、更には帝政となって北アフリカ、ガリア、イスパニア、エジプト、マケドニア、バルカンなどを治めて地中海を帝国の内海とするほどまでに発展し、ブリタニアまで含む広大な領土を統治してきたが、徐々に帝国にキリスト教が浸透し、4世紀になって皇帝がキリスト教徒となるに至ってローマ帝国にとって重要な統治基盤であった法治主義よりもキリスト教の教義が優先されるようになり、加えて次々にライン河やドナウ河を越えて襲来する蛮族や、官僚や教会など非生産者階級の増大もあって主要産業である農業の生産性が低下し、帝国全体の国家財政が弱体化していった。
395年、テオドシウス帝はローマ帝国を二つに分け、長男アルカディウスに帝国の東半分を、次男ホノリウスに西半分を統治させるようにした後、その生涯を閉じた。父から東西ローマ帝国を引き継いだ時、二人はまだ少年だったため、テオドシウス帝は信頼が厚い軍総司令官のスティリコに後を託した。ローマ皇帝とは本来ローマ軍の最高司令官であり、帝国国防の指導者でなければならないが、そのような皇帝はテオドシウス帝が最後であり、その子らは生涯、馬を駆って全軍を指揮することはなかった。単に父皇帝の子であり、キリスト教の王権神授説に従って帝位に就いているに過ぎなかったのだ。権力継承の空白期を狙ってドナウ河の北にいた蛮族西ゴート族が族長アラリックの指揮によりバルカン地方を襲い、更にギリシャ全土を略奪した。スティリコは駐在していたガリアから反転して西ゴート族を駆逐したが、東ローマ帝国ではアルカディウス帝を取り巻くスティリコ嫌いの宦官が実権を握っていた宮廷がスティリコを遠ざけ、アラリックに東ローマと西ローマの中間に位置するイリリクム地域の軍司令官の地位を与えたのである。これにより東ローマと西ローマは蛮族の支配する土地によって分断され、再び統一されることはなかった。
西ローマ帝国だけの総司令官となったスティリコは398年、西ローマ帝国への小麦の出荷を停止したアフリカ担当軍司令官ジルドを討伐して北アフリカの西ローマ帝国による統治を復活させ、402年には北イタリアを狙うアラリック指揮下の西ゴート族をバルカンに追い返した。しかし財政難により十分な兵士を集められないためガリア全域を防衛することが出来ず、ガリアでのローマ軍の拠点をライン河近くのトリアーから南ガリアのアルルに移す。これに対し元老院階級であるローマの上層階級には、彼らが誇りに思う祖先が苦労してローマ帝国に組み入れたガリアの大半を放棄し、更に彼らが所有する大農園の農奴を兵役に求めるスティリコへの反発が芽生えはじめていた。405年から406年にかけて東ゴート族やゲルマン系蛮族は西ローマ帝国領土に侵入し、加えて407年にブリタニア駐在のローマ軍が反乱を起こすが、スティリコはこれらを少ない手勢で制圧した。しかし西ローマ帝国宮廷でのスティリコに対する反感は増大し、不信感を持ったホノリウス帝は408年に反逆罪でスティリコを処刑する。この処分を不当とするスティリコ配下の軍団兵はアラリックの軍団に加わり、その勢いでアラリックは軍団を率いてローマを包囲し西ローマ帝国から多額の金銀財貨を手に入れたが、410年には再び無防備なローマを襲い劫掠した。この年、ホノリウス帝は属州総督と軍司令官に帝国がもはや属州を経済的にも軍事的にも保護する能力がないため、各属州は自身で防衛するよう指示する皇帝書簡を送った。帝国が安全および経済を保障するから成り立つ帝国と属州の関係はこの時失われたのである。
その後のガリアはフランク、ヴァンダル、ブルグンド、スヴェビ、西ゴートなどの諸属が群雄割拠し、そこにブリタニアからのローマ軍まで加わって戦乱の世となっていた。415年、ホノリウス帝は西ゴート族に対しガリア西部に定住地を与える代わりにローマ側について蛮族と戦うという同盟を結んだ。更に429年、イスパニアに侵入していたゲンセリックに率いられたヴァンダル族がジブラルタル海峡を越え、439年には北アフリカ全域を征服する。北アフリカは西ローマ帝国にとってはシチリアとならんで重要な小麦の供給地であったが、この地が蛮族の支配下になったことで帝国の主要産業である農業が破綻し、国家経済が一層衰退することになる。かつてはローマ帝国が支配していた地中海の制海権は失われ、ヴァンダル族は次々に地中海に面する港湾都市を海賊のように襲撃した。455年には彼らはローマの外港であるオスティアを襲い、更にローマまで侵攻して14日間でローマを丸裸にしたのである。468年、西ローマ帝国は東ローマ帝国と組んでヴァンダル族が支配する北アフリカを襲ったが、老獪なゲンゼリックの策略にはまって敗走し、その結果としてシチリアやサルディーニャもヴァンダル族の手に落ちた。ヴァンダル族との戦いに敗れた西ローマ帝国は宮廷内の勢力争いにより迷走を続けたが、反東ローマ派の有力者だったオレステスは475年、息子のロムルス・アウグストスを帝位に就けた。しかし476年、蛮族出身であるローマ傭兵軍の軍人オドアケルが土地を要求して反乱を起こし、皇帝軍に勝利してロムルス・アウグストス帝を退位させたことにより、西ローマ帝国は名実ともに滅亡した。
西ローマ帝国は複数の原因が関連しあって滅亡したと言える。ローマ帝国は戦った相手に対し寛容であり、彼らの言語、文化、宗教、社会システムなどを温存しつつローマへの同化政策を推進し、有力者にはローマ市民権を与え、元老院議員とすることさえあった。属州民には10%の税を課すがローマは属州防衛の義務を負い、補助軍団に志願した者には属州税を免除してきた。212年、カラカラ帝はアントニヌス勅令を発し、それまで属州では有力者、医師、教師、それに25年の軍役を勤めた者にしか与えなかったローマ市民権をすべての属州民に与え、同時に10%の属州税を廃止した。この勅令によりローマ市民権は取得権ではなく既得権となって属州民のローマ市民になろうとする向上心が失われると共に、慢性的な税収不足となっていったのだ。313年にリキニウス帝とコンスタンティヌス帝により公布されたミラノ勅令により、キリスト教は優遇され、結果的に有能な中間層が公務や納税を免除されるキリスト教聖職者となることを奨励した。388年、テオドシウス帝はキリスト教をローマの国教としたが、これにより法治国家ローマは宗教国家へと変貌し、以後の皇帝の帝位は王権神授説に基づきキリスト教の司教より授けられることとなった。408年のスティリコ失脚後は西ローマ帝国は自国の防衛を自身でまかなえなくなり、傭兵や蛮族に依存することとなって、国力は急速に衰えていったのだ。ローマ帝国の歴史はどのようにすれば近代国家が盛衰するのか、参考になる点が多々あると思う。日本もローマ帝国をひとつの史実として、如何にして国を守るか改めて考える必要があるのではないだろうか。
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