『ローマ人の物語』を読んで。その5
1月
19日
324年、リキニウスを滅ぼし唯一の皇帝となったコンスタンティヌス帝はキリスト教会の建設も含む新都コンスタンティノポリスの建設を開始するとともに、これまで帝国西方のキリスト教コミュニティにもたらされていたキリスト教振興政策を帝国東方でも実施していく。ミラノ勅令以来ローマ帝国内にキリスト教徒が増加するにつれ、キリスト教の教義の解釈をめぐる論争が重要性を持つようになり、ローマ帝国の最高神祇官でもあるコンスタンティヌス帝は325年、ニケア公会議を召集し、神とイエスと精霊が一体とする三位一体説をキリスト教の正当な教義として採択した。ところで当時のローマ帝国でのキリスト教徒数は、ある研究によれば5%程度とのことだが、これは帝国東方の都市での数字で、イタリア半島やガリアなどの都市ではこれよりはるかに少なかったと思われる。帝国全体ではわずかな信徒しかいないキリスト教をコンスタンティヌス帝がこれほどまで優遇してきたのは、帝国支配の道具にするためだった、と考えられている。330年、コンスタンティノポリスが完成したが、ローマには神々を祀る神殿があるのに、コンスタンティノポリスにはキリスト教の教会しかなく、これはまさしくキリスト教を中心としてローマ帝国の再生を狙ったコンスタンティヌス帝のキリスト教ローマの首都であった。337年、ペルシャ戦役に向う途中、コンスタンティヌス帝は病で死を迎えるが、死の直前にキリスト教の洗礼を受け、キリスト教徒として死に、ローマ式の火葬ではなくキリスト教式に遺体は埋葬された。コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認しただけでなく優遇したが、その子コンスタンティウス帝は父の政策を継続し、自身も361年死の直前にキリスト教の洗礼を受けた。
コンスタンティウス帝より帝位を引き継いだユリアヌス帝は361年、キリスト教への優遇策を廃止してあらゆる宗教を同列に扱うこととしたが、これは若き日にギリシャ哲学を学んだユリアヌス帝がギリシャ・ローマ文化と宗教の再興を図るためであった。この勅令は313年のコンスタンティヌス帝によるミラノ勅令への回帰であったが、国費を使ってのキリスト教会や教会資産の寄進や寄付は禁止され、教会や聖職者への免税措置も廃止される。しかし363年、ペルシャ戦役でユリアヌス帝が戦死すると皇帝護衛隊長だったヨヴィアヌスが帝位を継承し、キリスト教徒のヨヴィアヌス帝はユリアヌス帝の勅令をすべて無効として、コンスタンティウス帝時代のキリスト教優遇策を復活させた。
374年、ゲルマン民族出身のヴァレンティニアウス帝の統治下で州長官であったキリスト教徒ではないアンブロシウスは、三位一体を唱えるアタナシウス派キリスト教指導者の要請によりミラノ司教に就任する。アンブロシウスは高い教養と優れた頭脳を駆使して司教の中でも頭角を現してくる。
幼少よりキリスト教を学び好意的だった西方皇帝のグラティアヌス帝に加え、379年、東方皇帝にテオドシウスが就任するものの就任後に重病にかかり、それをきっかけにキリスト教徒となった。両皇帝はキリスト教の司祭というだけでなく、有能なアンブロシウスに事あるごとに相談することにより密接な関係となり、徐々にアンブロシウスの影響を受けるようになってゆく。ローマ帝国東方は元来三位一体派ではないアリウス派キリスト教の信者が多かったが、テオドシウス帝はアンブロシウスの影響により異端のキリスト教を勅令によって排斥した。一方帝国西方ではキリスト教の普及が東方ほどではなく、そのため異端のキリスト教徒は多くなかったので、グラティアヌス帝はキリスト教以外の異教を排斥する。ローマ帝国では皇帝が最高神ユピテルを初めとするローマの神々を祭る役職である最高神祇官に就任するのが慣しであったが、グラティアヌス帝は最高神祇官就任を拒否し、かつローマの神々を祭る神殿への国庫負担を廃止した。そのため、数百年も続いたローマの神々への信仰が急速に衰えることになる。383年にグラティアヌス帝はブリタニアでの反乱鎮圧の途中、ガリアで殺害されるが、その後帝国西方は実質的にテオドシウス帝により統治される。388年、キリスト教徒のテオドシウス帝はアンブロシウスの意向に従って三位一体派以外のすべての宗教を邪教とする勅令を発したことにより、ギリシャやローマの神々を信仰する多神教は違法となり、これらの神々を祀る神殿は破壊されるかキリスト教会へと改修された。このようにしてキリスト教がローマの国教となったことにより、歴史的な文化財であり芸術作品であったギリシャやローマの神々の像は破壊され、廃棄された。
アンブロシウスはミラノ司教でありテオドシウス帝はキリスト教徒であったため、テオドシウス帝はキリスト教の教義を示すミラノ司教に従わねばならない。シリアで起きたキリスト教徒によるユダヤ教会堂焼き討ち事件やギリシャでの乱闘事件などでテオドシウス帝がローマ法に基づく行政処置を行ったが、ミラノ司教はキリスト教の立場からテオドシウス帝を非難し、テオドシウス帝は行政処置の撤回や贖罪をせざるを得なかった。これらのことはキリスト教徒でないローマ人は法の下での平等な権利を失うことと共に、キリスト教の司祭はローマ皇帝よりも上位であることを示したことになる。ローマ皇帝は神の思し召しがあるからこそその地位にあるということだ。かくしてローマ帝国は皇帝が支配する法治国家から宗教国家へ変貌してゆく。
テオドシウス帝はローマ帝国を二つに分け、長男に東ローマ帝国を、次男に西ローマ帝国を統治させてから395年、その生涯を閉じた。その後、二つのローマ帝国は以前のように一つの帝国に戻ることなく滅んでいった。
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