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新幹線建設と国鉄 第1話 十河信二総裁と阿川弘之

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鉄道ファンでもあった阿川弘之が... 鉄道ファンでもあった阿川弘之が書いた童話、「きかんしゃやえもん」
阿川氏は、新幹線建設には批判的であったと言われていますが、新幹線開業後の成功を見て不明を詫びたと言われています。
今回から、何回かに分けて新幹線開業までのお話をさせていただこうと思います。

新幹線に関しては、戦前の弾丸列車計画まで遡ることができます。

実際に、丹那トンネルなど一部の区間は建設に着手していましたし、日本坂トンネルのように戦前には完成し、一時期は在来東海道線で利用された区間もあったと言われています。

昭和30年代の輸送力はひっ迫しており、東海道線の全線複々線化も視野に入れて検討されましたが、鉄道技術研究所が新幹線による東京~大阪3時間運転の可能性を示したことを受け、鉄道が斜陽産業と思われていた中に光明を見出したと言えます。

最終的には、十河信二の決断が大きかったと言えましょう。
世間は鉄道斜陽論が一般的であり、鉄道は時代遅れであり今後は飛行機や高速道路による自動車輸送が増大するものであり、高速鉄道などは妄想の産物でしかないと言われていました。

このように、新幹線建設に関しては並々ならぬ情熱を持っていた十河総裁でしたが、当時の国鉄は運輸省から分離したとはいえ、国鉄自身も、そして政府も国鉄は国の機関という意識が双方にあって、運輸省は国鉄を監督する立場にあるとはいえ、その立ち位置は現在の国交省とJR各社という位置づけとはかなり異なっていました。

また、作家の阿川弘之(元海軍士官で、絵本・「きかんしゃやえもん」の作者)が、世界の三バカと呼ばれた(ピラミッド・万里の長城・戦艦大和)と同じく、新幹線も同じ道を辿るのではないかと、新聞で発表し、国鉄に再検討を促したと言った話もありました。

それでも、十河信二としては高速輸送としての新幹線が国鉄が生き残るべき道であると信じて建設に邁進することになります。
新幹線建設の計画には、桜木町事故で引責辞任していた島秀雄を口説いて副総裁格の技師長として迎え入れ、島技師長とのコンビで新幹線計画は進められました。

改めて、こうして十河信二という人を振り返ってみますと、改めて胆力のある総裁であったことが伺えます。

特に、国鉄は、輸送量の増大もあったとはいえ、十河総裁在任中の国鉄は黒字決算を続けていましたし、動力近代化による運輸の合理化や、支社制度の導入による本社機能のスリム化等、機構改革にも着手して政治力を発揮しています。
また、新幹線建設に関しても政治力を発揮し、当時の大蔵大臣、佐藤栄作の助言により世界銀行からのの借り入れなどを実現させたことも特筆されます。
ただ、当初から新幹線の建設費を過少に見積もっていたこと、さらに新幹線建設のために地方交通線(ローカル線)の建設を渋ったことなどから、新幹線開業前に昭和38年には再任されることは無かったのですが、これは上記のような理由で政治家に嫌われて詰め腹を切らされた形でした。その後は国鉄監査委員を務めていた、石田禮介氏に総裁の任が回ってくることになるのですが本題から外れますので、今日はこの辺で止めておくこととしましょう。

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新性能電車の幕開け第5話 特急電車151系の発展

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交通技術1960年2月号から引... 交通技術1960年2月号から引用
昨日は、151系電車は大人気で、急きょ増備することになったと言うお話をさせていただきましたが、実は昭和33年10月の、「こだま」運転開始前から検討はされていたそうです、そこで問題になったのは、「こだま」は、2・3等車のみの編成でありながら冷暖房完備であるのに対し、「つばめ・はと」は1等展望車並びに食堂車以外は非冷房では差が付き過ぎることから、検討されたのですが、その時は、「こだま」号が運転開始前であり、当時は客車にするか電車にするか決めかねていたのでした。

昭和31年には、EH1015が歯数比を変更して高速試験が行われたのも、当時としては長距離列車は、客車列車というイメージがあったからでした。
結果的には、昭和34年7月に高速試験で151系が163km/h記録するに及んで、「特急つばめ・はと」も電車化して共通運用を図る方針が決めらたと言います。

そこで、計画では、電車の編成は12両編成で、モーターは6両までに抑えられることになりました。
これは沼津以西の電力事情があったからと言われています。(昭和35年2月、交通技術2月号)
なお、1等展望車に代わる特別2等車の設計は時間がかかるため、比較的設計のまとまりやすい2等電動車4両(モロ151・150各2両)と3等付随車(サハ150 4両)を使って昭和34年12月から、「特急こだま」は12両編成化されました。
その後、第2次増備車として、サシ151、クロ151が落成して、順次こだまの編成も置き換えられて最終的に、「特急こだま」と「つばめ・はと」は共通運用されることになりました。

特にクロ151は展望車に代わる車両として非常に特徴的で、4人区分室と一人掛座席14脚を備えた開放室からなり、中央部に設けられた出入り口があり、車端にはサービスコーナーが設けられていました。
設計当初は、進行方向に向かって27度斜め外向きが定位として設計され、オットマン(足置き台)が使用できるようになっていました。
改良型では、椅子と一体型になり、任意の位置で使用できるようになっていました。
また、壁は吸音効果を期待して織物貼りになっていたそうで、車両における織物を貼った例は、国鉄では100系新幹線にも見ることが出来ました。
座席の上には厚さ8㎜の強化ガラスによる幅80㎝の荷棚が設けられていたそうです。
なお、区分室は車体幅いっぱいを使ったもので、乗務員通路部分とは床に設置したマガジンラックでかろうじて区分される程度であり、ひかり天井方式、荷棚はハットラック式となっていました。
ちなみに、国鉄で光天井方式を採用したのは、クロ151区分室以外では、クロ157貴賓室も光天井方式を採用していました。
JR東日本が253系で区分室付のグリーン車を連結していた時期がありますが、この区分室では、完全に通路とは仕切られる形となっており、クロ151と比較すると狭苦しく感じられたものでした。

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新性能電車の幕開け第4話 特急電車151系の誕生

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画像 wikipedia 15... 画像 wikipedia 151系特急電車
昨日は、小田急の車両を借り入れて高速試験を行ったと言うお話をさせていただきましたが、実は3000系の設計には国鉄の技術研究所がかなり設計に関しては技術協力をしたそうですが、小田急としてもかなり部内で物議は有ったそうです。
特に、運転台が低くなることが万が一の事故の場合どうするのかとか、見通しが悪くなると言う問題提起がなされたと言います。
また、連接台車に関する保守も保守部門からは不安が有ったそうです。
また、、お役所以上に固い(融通が利かない)と言われた国鉄ですが、この高速試験は結果的には大成功であり、最終的に3000系で培われた軽量化の技術は、国鉄の車両設計にも大いに影響を与えたようです。

なお、高速試験は、101系も試験に供されました、台車を試作の空気ばねに変更し、歯数比を変えた特別仕様で135km/hを記録しました。

最初は物議をかもした、小田急3000系の借り入れですが、結果的には多くの貴重なデータを提供することになりました。
連接台車については、国鉄では591系誕生まで持ち越されることになりましたが、こうしたデータは新幹線建設のための基礎データを提供したと言われています。

また、昭和33年には国鉄としても101系に搭載されたMT46モーターを搭載した日本初の特急電車として151系を誕生させることになりました。
151系は小田急の車両を参考にしたと言うよりも、国鉄独自の軽量設計の集大成と言うべき存在でした。

特に、それまでは食堂車・展望車など1等車の一部にしか設置されていなかった冷房装置を3等車にまで広めた功績は大きく、車両に取り付けるユニットクーラーをサロ85に設置して試験が行われた他、101系には試作空気ばねでの試験などが行われ、10系客車なで採用された軽量車体を含めて、当時の国鉄における技術の延長線上にあった車両でした。

また、高速運転を考慮して運転台を上げた独特のボンネットスタイルはヨーロッパのTEEなどを参考にしたとはいわれていますが、優雅にまとめられており、国鉄の黄金時代を彩る列車として、また戦後の復興のシンボルとしても評価に値する列車と言えましょう。

当初は、特急「つばめ・はと」を置換える予定はなく、あくまでもビジネス特急としての計画であったことから、3等車のみの編成で計画していたそうですが、途中からやはり2等車は営業上必要であると言われて設計変更がなされその格差に苦慮したと言う記述が星晃氏の回想録などで出てきます。

その時に試作されたものの一つにシートラジオがあったそうですが、当時はイヤホンを一つ一つ消毒していたそうで(持ち帰り式の安いイヤホンではなかった)その手間が邪魔だったことや携帯式のラジオが普及したことで廃止になったと言われています。
当初は、あくまでもビジネス特急としてのスタートであり、当初は8両編成でスタートしますが、完全冷暖房の車内は好評を持って迎えられ、昭和34年には増備が始まり、編成は12両まで拡大、その後本格的に特急「つばめ・はと」も客車ではなく、電車で置き換えようと言う話となり、それまでは優等列車は客車による機関車牽引と言う意見は姿を消し、電車による置換えが検討されることになるのですが、その辺りはまた別の機会にさせていただきます。

80系試作車による冷房試験に関しては、下記も参照ください。旧型国電と冷房
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新性能電車の幕開け第3話 小田急SE車による高速試験

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小田急SE車 3000形初代 小田急SE車 3000形初代
本日は、小田急が開発したSE車が、国鉄線を走った頃のお話をしてみたいと思います。

1)国鉄技術研究所の協力で始まったSE車
小田急のSE車は、ご存じのとおり小田急が最初に開発した特急専用電車であり、現在も1編成が海老名車両基地(神奈川県海老名市)の専用保管庫に保存されています。
当初は、鉄道技術研究所の協力で開発が始まったそうで、完成後は小田急線内で最高速度を出せるところがなかったので、これまた国鉄で試験をさせて欲しいということになったそうです。
 国鉄の部内にも私鉄の車両を借り入れることに対して反対意見も多かったそうで、借入費用が大きくなることや、車両自体が信託(住友信託銀行)されていたこともあり、最高速度は設計最高速度である145km/h以上出さない様に事前に取り決めたり、「高速試験」自体に保険をかけたり、145km/hにおけるブレーキ距離が600mを越えることから運輸省の特認が必要といった手続きもあったと言われています。
また、国鉄として私鉄の車両が走ることは面子が立たないと言った意見もあったそうですが、詳細は省きますが、個々の調整も進み、小田急と国鉄の間で貸借契約が交わされ、下記の日程と場所で試験が行われることになりました。

9月20日~9月26日
  大船~平塚間の旅客下り線
  ロングレールを敷設した、モデル軌道区間を含む当時として最も軌道の良い区間で、架線も高速集電に有利なコンパウンド・カテナリ架線方式

9月27日・28日
  函南~沼津間の下り線
  普通の状態の保線区間で、架線も従来のシンプルカテナリ式架線方式

試験の結果、従来車両に比べて横圧(レールを外に押し出そうとする力)でありこの力が大きいと軌道の狂いが生じるため小さい方が好ましいことになります。
従来の車両では4t程度あったものが2.5tと軽減されていることが確認されたと言う記述がなされています。

集電に若干問題が残ったことや、高速度でのブレーキの利きが悪くて600mを越えたことなどの問題点もあったそうですが、概ね初期の性能は確認できたとのことでした。
また、流線形の効果による空気抵抗軽減も十分確認されたことから、国鉄としても私鉄の車両を走らせることに抵抗は有ったものの結果的には新幹線に繋がる貴重な資料を提供したと言われています。
実際に、高速度試験での離線状況などから新型のヘビーコンパウンド式カテナリ―架線が開発されたりしました。
明日からは、新幹線建設のお話に移りたいと思います。

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新性能電車の幕開け 第2話

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八王子市人口 八王子市人口 モハ90(101系)と72系の... モハ90(101系)と72系の比較
引続き、101系のお話を少しだけさせていただく前に、中央線に最初に101系が投入されたのかという経緯を知る必要があるかと思います。
中央線沿線は、戦後の人口増加が大きかったと言われています。
いささか乱暴な話ですが、中央線が通過する八王子市の人口を八王子市の統計で見てみますと、上記のグラフに有るように、昭和30(1955)年に大きく増加し、その後昭和40(1965)年までは周囲の町村合併もあったとはいえ人口が爆発的に増加していることが理解していただけると思います。
これは、戦後、東京都民が郊外に引っ越したことも原因としてあったかもしれませんが、この頃から東京一極集中の問題は起こっており、鉄道輸送にあっても、昭和8(1933)年6両編成でスタートした中央線は、昭和30年には9両編成まで対応できるようにホームを延長、その後昭和31(1956)年11月には10両編成まで対応可能となったそうですが、抜本的な改善には至っておらず、連日ダイヤの乱れによる混乱があったと記録には残っています。
昭和32年には、東京駅に中央線ホームの改良に着手しホーム拡幅工事を行ったと記述されています。
改善案として、旧形のモハ72形電車に代えて、新性能電車(101系)を導入することで、時間短縮が図れるとして計画されたのでした。
当初の計画では、オール電動車で製作する代わり、加速度は3.2km/h/sec 減速度 4.0km/h/secで、130cmの両開きドア併用で、運転時分の短縮が図れるとしていましたが、
実際には、オール電動車にすることでピーク電流(ノッチ投入時にかかる過電圧)の増大やこれに伴う架線電圧の降下などもあり変電所を強化する必要があり、その費用だけで役10億円(昭和32年当時)であり、それ以外にも性能に合わせて信号設備なども最適化を図るとなるとその経費も膨大になることや、旧形国電との混用ではさほど高加速があっても使いづらいと言うことから。当面は、出力を下げてMT比を下げる手法が取られました。
当初は8M2Tその後6M4Tとトレーラーの両数を増やす形で性能は最終的には旧形国電とさほど変わらない2.0km/h/secになってしまいました。
それでも、当初は将来的には電動車化するとのことで付随車(サハ)も動力台車を履くこととなり、DT21T(Tはトレーラーの意味)と呼ばれる電動車用台車を履き、また一部のサハにはパンタグラフの設置のための準備工事なども行われていました。
この失敗に懲りたのか、それ以降は国鉄では電車の起動加速度を積極的に公表することはありませんでした。
現在のN700系の加速度2.6km/h/secであり101系よりも速いことになります。

第一話はこちらを参照

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高度経済成長と輸送力増強 第3話 第2次5か年計画と国鉄

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高速鉄道として新幹線の建設が第... 高速鉄道として新幹線の建設が第2次5か年計画の目玉となりました。
昨日は、地方納付金の話にお話がずれたのですが、その辺のお話はまた改めてお話をさせていただくことになるかと思います。
 再び第一次5か年計画のお話に話題を戻したいと思います。

 第一次5か年計画は、老朽資産の取替という目的だけは100%達成し、動力近代化(蒸気機関車を1975年までに全廃し、電気もしくは内燃機関による運転に切替)の端緒も開けましたが、肝心の輸送力増強が追い付かず、昭和35年までで20%程度であったと記録されています。
結果的に輸送が行き詰まり運輸収入が伸びないので、現金が不足することとなり、経済成長に伴うインフレで人件費の向上や物件費の高騰もあいまって、当初予算は昭和35年度で枯渇、昭和36年度を初年度とする新たな5ヵ年計画が立てられることとなりました。

 ここで、注目していただきたいのは、輸送力増強計画は、時の政府の意向に沿って計画されているということです、この点は特に注目しておいてください。
 第1次5ヵ年計画の際は、政府の経済自立計画に即応して立てられた施策であり、第2次5ヵ年計画はこれまた、池田政権による所得倍増計画に呼応したものでした。
 これを見ていると、JR東海の葛西氏が仰っていたとおり、計画のための計画をむしろ政府の尻馬に乗って動いており、誰もそれに対して責任を負わない体制が既にこの頃に出来上がっていたのではないかと思える節があります。
 さて、そんな中で、第二次5ヵ年計画では、以下の方針が確認されました。
1. 主要幹線の線路増設と輸送方式の近代化
2. 経営の合理化

 戦前の老朽化資産(木造客車の鋼体化を含む)の更新はほぼ第1次5か年計画で達成したと言われていますが、蒸気機関車による牽引を電化やディーゼル化による動力近代化などで経営の合理化を図ることを意図していました。
 第2次5ヵ年計画の目玉はなんと言っても、新幹線の建設でありこの点は、章を改めてお話したいと思いますが、新幹線建設は、東京オリンピックの開業に合わせるという、非常にハイスピードな建設が求められることとなり、建設費の急騰もあいまって、国鉄財政を急激に圧迫していくこととなりました。

以下に、昭和39年の運輸白書から、第2次5か年計画の概要が 載っておりましたので書かせていただきます。
 (1) 東海道線に広軌鉄道を増設すること。
 (2) 主要幹線区約1100キロを複線化し,150キロの複線化に着手すること。
 (3) 主要幹線区を中心に約1700キロの電化を行ない,これを電車化すること。
 (4) 非電化区間および支線区の輸送改善のために約2600両のディーゼル動車と約500両のディーゼル機関車を投入すること。
 (5) 通勤輸送の改善のために,約1100両の電車を投入するとともに,駅その他の施設を改良すること。
なお、この第2次5か年計画も昭和39年度には頓挫することとなり、昭和40年度から昭和47年度の7カ年の第3次長期計画が計画されることとなりました。
 なお、昭和39年度の運輸白書によりますと、第2次5箇年計画は,38年度でその第3年目を終了し,39年度計画を含めた進ちよく状況は, 全体で69%東海道新幹線を除く一般改良工事では,58%ということでこちらも計画半ばで見直しを図ることとなりました。
こうした事例に対しても、国鉄自らの借り入れ金(財政投融資や鉄道債券による調達)で行われたことがその後の経営を圧迫していくことになるのでした。

参考 昭和39年運輸白書 第3章 重点的に整備増強を図る輸送力 第1節 幹線輸送力の増強 対策一国鉄第2次5ヵ年計画 参照
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa39/ind040301/002.html
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高度経済成長と輸送力増強 第2話 地方納付金と言う名の税金

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宮前駅に進入するキユニ25先頭... 宮前駅に進入するキユニ25先頭の普通列車
元々国鉄は非課税組織であった。

国鉄は、元々は国の機関である運輸省から派生したもので、その公共性から、国鉄法第六条では左記のように非課税が明記されていました。

第六条 日本国有鉄道には、所得税及び法人税を課さない
2 都道府県、市町村その他これらに準ずるものは、日本国有鉄道に対しては、地方税を課することができない。但し、鉱産税、入場税、酒消費税、電気ガス税、木材引取税及び遊興飲食税、これらの附加税並びに遊興飲食税割については、この限りでない。

昭和二三年制定 日本国有鉄道法

このように、国鉄は地方税が賦課されないとされていましたが、昭和二八年に地方税制が左記のように改正される事となりました。

地方税の改正で、国鉄も課税対象に

地方税法の一部を改正する法律 法律第二百二号(昭二八・八・一三)
 第三百四十八条 第一項中「、財産区、日本専売公社、日本国有鉄道、日本電信電話公社、日本放送協会及び鉱害復旧事業団」を「及び財産区」に改め、同条第二項各号列記以外の部分中「(第十号の固定資産を除く。)」を削り、同条同項第二号を第三号とし、以下第九号まで一号ずつ繰り下げ、第九号の二を第十一号とし、第十号を削り、第十一号を第十二号とし、第十二号を第十三号とし、第一号の次に次の一号を加える。
二 日本専売公社、日本国有鉄道、日本電信電話公社、日本放送協会及び鉱害復旧事業団が直接その本来の事業の用に供する固定資産で政令で定めるもの


固定資産税が賦課されることになりましたが、この対象は下記の通り


  • 宿舎・職員の福利厚生施設(病院・診療所は除く)

  • 遊休状態の土地・建物

  • 発電所・採炭施設

  • 専用側線


等は固定資産税が課税されることとなりました。

(当時国鉄では、信濃川に発電所を持っていたほか、志免炭鉱を海軍から払い下げを受けて保有していました。)
当時国鉄では、信濃川に発電所を持っていたほか、志免炭鉱を海軍から払い下げを受けて保有していました。

更に、昭和二九年には不動産取得税が地方税の一つとして創設され、国鉄でも土地を取得した場合などでは、納付することとなり、地方税の非課税部分が減っていくこととなりました。

昭和三一年、地方納付金制度誕生

当時、地方財政の補助的存在として、公営競技と呼ばれるものがありましたが、全国的なギャンブルへの反対などの世論もあり、地方財政健全化の一環で、地方納付金制度が創設されることとなりました。
正式名称は、
「国有資産等所在市町村交付金及び納付金に関する法律」法律第八十二号(昭三一・四・二四)

この法律により、非課税として残されていた、事業用固定資産(操車場・機関区・電車区など)についても、課税の対象となりました。
さらに、車両についても課税対象となるわけで、所属する車両基地に対して納付金が支払われることとなりました。
この制度では、電化などで設備が増えればその分だけ納付金も増えるため、国鉄の税負担は更に大きくなり財政的にも厳しさがますことになりました。

もっともこの制度は、国鉄だけではなく、公社であった、電電公社・専売公社も対象になりましたが、国鉄の場合、前述の通り線路や車両も対象となるためその負担はかなり大きなものとなりました。
これ以外に、都市計画税・軽油取引税が制定され、国鉄はこうした地方税に対しても対応することとなったため、非課税で残ったのは、国鉄所有の固定資産のわずか3%だけでした。

鉄道建設公団が建設した路線は誰が所有?

昭和三九年から鉄道建設公団が発足し、地方開発線(AB線・基本無償譲渡路線)と主要幹線及び大都市路線(CD線・有償譲渡路線)が有りましたが、昭和40年度には、鉄道建設公団が建設した鉄道施設は課税対象でしたが、地方税法の一部を改正する法律 法律第四十号(昭四一・三・三一)で改正され、鉄道建設公団の施設は全て非課税となり、有償貸付路線に関しては、国鉄が地方納付金を支払うこととなりました。


 余談ですが、公営ギャンブルの解禁も同じような理由からでした。(国に財源が無く、さりとて国債の発行で賄わないとする考え方が根底にあり、安易に国鉄などの公社に頼ったり公営ギャンブルという形で賭博を温存させたと言えましょう。)
 
参考 地方納付金とローカル線
http://blackcat-kat.at.webry.info/201701/article_3.html

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高度経済成長と輸送力増強 第1話 輸送力増強

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第1次長期計画では主に、複線化... 第1次長期計画では主に、複線化等に主眼が置かれたが、準急気動車の投入なども行われた。
 今日からは、戦後の老朽資産取替と電化・複線化等による輸送力増強のお話を中心に進めて行きたいと思います。

昭和30年代とはどんな時代だったのか?
さて、ここで技術的な話から少し外れて、昭和30年代のお話をしてみたいと思います。
昭和25年の朝鮮戦争を契機として、日本は本格的に復興の道を歩み始め、昭和30年前後には、国民所得が戦前の水準を上回る水準にまで達し。「もはや戦後ではない」という言葉が言われたのもこの頃です。
重厚長大産業(鉄鋼など)の発展は著しいものがありました。
国鉄ではこれら産業基盤の整備の一環として、動力の近代化と幹線の電化などで対応しようとして、積極的に電化工事等が行われました。
昭和32年には、「第一次五ヵ年計画」が策定されて実施に移されましたが、そのときの基本方針は次のようなものでした。

1. 老朽施設・車両を更新して資産の健全化を図り、輸送の安全を確保する。
2. 現在の輸送の行き詰まりの打開と無理な輸送の緩和を緩和を図り増大する輸送需要に応じるよう輸送力を強化する。
3. サービス改善と経費節減のため、輸送方式、動力、設備近代化の推進

このための投資は5,020億円と言われましたが、この整備に必要な資金は、独立採算の建前上、国鉄が自前で調達しなくてはなりませんでした。
 さらに、国鉄にはこれ以外に新線建設(ローカル線を含む)も担っていました。
このとき、政府が少しでも援助していたならば国鉄のその後も変わっていったかもしれませせんが、
 政府から国鉄にこうした援助を行うということはされませんでした。
 また、国鉄も「政府の現業機関」であると言った意識も強かったように感じます。
 国鉄と運輸省の関係では、国鉄の方が実質的な権限を握っていました。
 JRのATSが私鉄のATSと比較して、簡易なもので整備されたのは、国鉄が自ら規格を作ってそのまま実行すると言ったことが行われたからになります。
整備新幹線などがその典型的な例と言えるでしょうね。
新幹線の規格自体は、国鉄が決めていったわけですから。
そうした点は、かっての「電電公社vs郵政省」の構図と同じものがありました。
特に、国鉄発足時に運輸省の高級官僚の多くが国鉄に移ったこともあり、国鉄>運輸省の意識が運輸省内にも国鉄部内にもあったと言われています。

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交流電化の夜明け 第4話 交流電化の功罪

スレッド
写真は485系の電気機器を外し... 写真は485系の電気機器を外した183系仕様ですが、485系は全国の国鉄電化区間(中央東線等一部を除く)に入線できる電車として重宝されました。
〇交流電化のメリット
交流電化のメリットは、地上設備(変電所)の削減、直流では数キロ置きに設置される変電所が数十キロと長くなるほか、高い電圧を流せるので電流量が減少するため饋電線を細くすることが可能となり、その結果電柱などの構造物も軽くなると言うメリットがあると言われました。
〇デメリット
実際には狭小トンネルなどの場合路盤の掘り下げもしくは新規のトンネル開削などを行う必要が生じたこと、更に当時の国鉄の方針として動力分散化が進められていて機関車列車よりも加減速などでも有利な電車が優先されたことから、メリットよりもデメリットが目立つようになってきました。

 結果的に、在来線における交流電化は、東北本線の黒磯以遠、九州・北海道の一部区間のみとなり。
その後実施された電化区間は既に直流で電化されている区間と区間を繋ぐ部分が多いことから交流電化とはなりませんでした。
例外としては、丸森線を引継いだ第3セクターの阿武隈急行電鉄が交流20000Vで電化して開業したほか、つくばエクスプレス線が茨城県石岡市柿岡にある、地磁気観測所の関係で、交流電化として開業したと言う例を除けば直流電化が選択されています。
福岡市営地下鉄空港線に乗入している筑肥線が九州では例外的に直流電化になっているのは、ご存じのとおりです。
 ただ、新幹線の場合は高速運転で集電容量も大きいことから、直流ではなく交流、在来線よりも更に5000V高い25,000Vで電化されているのはご存じのとおりです。


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交流電化の夜明け 第3話 米原田村間を結んだED30

スレッド
ED30 交流技術から引用... ED30 交流技術から引用
昭和35年10月交通技術、北陸... 昭和35年10月交通技術、北陸本線の交直設備案、検討記事から引用
北陸本線は、昭和32年10月1日、田村駅~近江塩津駅~敦賀駅間が交流電化されましたが、米原~田村間は、その区間を非電化として蒸気機関車(E10)で連絡したことは前述しましたが、昭和昭和38(1963)年12月28日、米原駅~田村駅間が直流電化され、田村駅の米原寄りにデッドセクションが設置されることとなりました。
米原~田村間は小運転の専用機関車で接続すると言うことで、EF55-3の部品を流用して(実際はモーターなど一部のみ)(記事によればEF10という記述もあり)の直流機器と475系の交流機器を使って昭和37(1962)年10月初旬に浜松工場でED30形電気機関車が誕生したそうです。
 この機関車の特徴は低い屋根と、そこに交流機器を無理矢理載せたので、かなり屋根がひしゃげた印象を受けるEF13の近代化版とでも言える車両でした。
 結果的には、試作車は1両のみに留まり、柳ケ瀬線廃止に伴い余剰となったDD50にその任を譲って、鉄道技術研究所で保管されることとなり、昭和51(1976)年に廃車されています。
151系電車の成功以降、高加減速が期待できる動力分散列車(いわゆる電車や気動車)が増えてくると、交流電化のデメリットが目立つようになってきました。
そうです、車両価格が、直流車両に比べると割高になることです。
 特に交直流電車の場合、直流電車に変電所を搭載してるようなものですから、車体は重くなるし車両価格も高くなるのは当然で、その後交流電化が下火になる原因を作ったと言えるかもしれません。


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